三章 王家と侯爵家と伯爵家 (2)
食堂のテーブルに湯気の立つ食事が並ぶ頃、同じくほやほやと全身温まったザフィールが、ロトに案内されてやってきた。
早くも席で待ち構えているリーファを見て、彼は笑みをこぼし、それからふと怪訝な表情になって視線をずらした。その先には、リネンのエプロン姿で銘々の器に給仕をしている男が一人。
「おお」
小さく感嘆の声を漏らしたきり、ザフィールはその場に立ち尽くした。その反応に、リーファは目をぱちくりさせた。久方ぶりのまともな食事に感動した、というわけではないようだ。同じく、食卓の用意を終えたシンハも、小首を傾げつつエプロンを外す。
二人が顔を見合わせたと同時に、
『まさかこれほどの栄誉にあずかれようとは』
司祭は嘆息して、深々と頭を下げた。
「お目にかかれて光栄でス、国王陛下」
「よく分かったな」
思わずシンハが感心する。本当にな、とリーファが突っ込みを入れ、まったくね、とロトも相槌を打つ。ザフィールは顔を上げると、外野の茶々などなかったかのように、恭しく答えた。
「噂のとおり、偉大な力を授かっていらシゃる。分からないはずがありまセン。カリーアにいる間は、教皇猊下ただお一人を除いて、このような力に満ちた人に出会えなかったデスが、遠く離れた地で主のわざを目にするとは……」
そこで彼は言葉を探し、じき諦めて『まことに主の御心は深く遠く、はかりがたきかな』とサジク語で締めくくった。
感じ入った風情のザフィールとは対照的に、シンハはすっかり苦い顔である。
「やめてくれ。カリーアの司祭にまで畏れ入られたんじゃ、大陸のどこにも逃げ場がなくなる。大体、この力は太陽神リージアの加護だぞ。預言者カリーアの崇める唯一神とは違う。それを『主の御業』にするのは、まずいんじゃないのか」
聖典の語句を使ったシンハに、ザフィールは目をしばたき、尊敬のまなざしになった。
「国王陛下は、カリーアの聖典をご存じでスか」
「子供の頃に読まされたんだ。このぐらい常識として知っておけ、と言われてな。常識どころかきわめて希少な非常識だと知った時には、頭に叩き込まれた後だった。まあ、とにかく座ってくれ。冷める前に食事にしよう」
「はい。ありがとうございマス」
ザフィールは丁寧に一礼して、麦粥の置かれた席に着く。病人食にしては美味しそうな香りが、湯気に乗って鼻をくすぐった。一緒に置かれた小さな器は、どうやら蒸し物らしい。他の面々も基本は同じ献立だが、具がたっぷり入っていた。
それぞれの流儀で食前の短い祈りを済ませ、和やかな雰囲気で食事が始まる。じきに、ロトが知的好奇心の疼きを抑えかねて質問した。
「さきほどのお話ですが、司祭様はリージアのご加護についても、カリーアの神のわざだとおっしゃいましたね。ご自身はどのように捉えておいでなのですか? 聖十神というのが誤りで、真実はすべて唯一の神のなせるところだ、と?」
「難しい質問ですね。言葉が足りなかったら、申し訳ないデスが」
ザフィールはそう前置きし、少し考えてから慎重に答えた。
「あくまでこれは、私ひとり……個人の、考えとして聞いて下さい。教会の見解ではありません。ロトさんの言ったこと、カリーアを出る前、私もそう思っていまシた。司祭は皆、そう教わりますネ。異教徒が神と呼ぶのは、間違いで、本当は、預言者カリーアを導いた主だけが唯一の神。それが、教会で信じられていることデス。でも国を出て世界を見ると、ちょと違うかなと思うようになりまシタ」
「いいのか、そんな事を言って」
シンハが揶揄するように口を挟む。むろんここはカリーアを遠く離れた異国であるから、何を言おうと教会の手は届かない。だが司祭としての己自身が危うくなりはすまいか。
ザフィールは微笑み、うなずいた。
「最初は悩みまシタね。でも、今は私なりに、結論づけまシた。主を信じる心は、変わりまセン。ただ、ほかの土地で信じられている神々も、否定しないでイイと思うのでス。……これは、国の仲間にも聞かせられナイ考えですが。本当に本物の神は、やはりひとつだけ。でも、それはあまりにも大きくて、私たち人には理解できない。その唯一絶対の“主”の下に、聖十神も、ほかの国々の様々な神も、存在してるのだと、私は思います。中継ぎ、ですネ。私たち人が、本物の神様のことを少しでも理解できるように、そうした……“小さな神々”が、いるのじゃないかと。一度、こちらの神殿の人とも、そういう話が出来るなら、してみたいデス」
「言わんとするところは、分からんでもないが」
複雑な顔になった三人を代表して、シンハが曖昧な口調で言った。
「しかしそうすると、カリーアの人間だけがその至高の存在を崇めていて、他国の者は皆、それより下位の……劣った神を崇めている、ということにならないか?」
つまり結局、カリーア教会にとって都合の良い解釈ではないのか。言外にそんな疑いを投げかけたシンハに対し、ザフィールはまるで気分を害した様子はなく、それどころか逆に面白そうな顔になった。
「もし私の仮説が正しければ、教会の“神”も、その“劣った神”でしょうネ。だから、仲間にも言えないデスよ。さすがに彼らも、怒るでしょう。すっかり私は、異端者というわけデス」
そこで彼は、リーファの心配顔に気付き、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、外では黙ってますよ」
リーファは答えられず、曖昧な笑みを作ってうなずく。短いやりとりで生じた空気をごまかすように、ロトが小さく咳払いした。
「そういうお考えなら、確かにカリーアよりこちらの神殿の方が受け容れられるかも知れませんね。我々の神々は元から複数いる上に、最も力が強く大きな存在であるとされる生命神でさえ、絶対者という位置付けではありませんから。神々の、より高みにある存在を仮定しても不敬不遜とはみなされませんよ。ただそうなると、その存在はいかなる性質のものか、神々はその存在を認知しているのかといった疑問が生じますが」
つい議論に熱を入れてしまったロトは、そこまで言って、ザフィールが困ったような苦笑を浮かべていることに気付き、はたと口をつぐむ。ザフィールは目顔で詫びつつ、相変わらず穏やかに言った。
「そう、とても興味深い問題でス。でも、もうスコシ私が言葉を勉強しないと、こういう話は難しそうですネ」
「失礼しました、つい好奇心が先走って」
謝罪したロトの横から、シンハが興味をそそられたように訊いた。
「エファーン語はどこで習ったんだ? ウェスレ語は使えるのか?」
カリーアで直接エファーン語を学べるとは思えない。中部の公用語であるウェスレ語を介したと考えるのが妥当だろう。案の定、ザフィールは「はい」とうなずいた。
「カリーアの司祭は、ほとんどがサジク語とウェスレ語を使えます。なので、中部で交易の隊商に通訳として同行しながら、エファーン語を教えてもらいました。なかなか良い教師に出会えなくて、六年以上勉強しても、まだこんなぐらいです」
そこで彼は苦笑し、リーファを見やった。
「あなたは、とても上手ですネ」
「えっ、い、いやあのそれは、それほどでもっ」
途端にリーファは赤くなってあたふたする。シンハが意地悪くにやにやした。
「確かにおまえの語学力はかなりのものだな。中部にいたのは短い期間だろうに、俺が出会った時にはまったく不自由なくウェスレ語で会話が出来た。今はエファーン語も自由自在だ。三つの言語を使いこなせて、しかもどれを使ってもブレがない」
「……?」
何が言いたい、とリーファは眉を寄せて睨む。シンハはもったいぶって間を置き、一言。
「何語を使っても、おまえは見事に統一された柄の悪さだからな」
「んなっ!? 失礼な、仕事中はちゃんと敬語使ってるじゃねーか! 園遊会だって無事に乗り切っただろ!? おまえの方こそ、王様のくせによっぽど口が悪いってんだよ!」
ドン、とテーブルを叩いて反論する。直後に、しまった、と司祭を振り返ると、黒い目がまん丸になっていた。シンハとロトが笑い出し、リーファは再び赤くなる。
「リーファさん。国王陛下に、そんな乱暴を言う、良くないデスよ」
「う……」
諭されてぐうの音も出ず、リーファは席で縮こまる。シンハが元凶のくせに親切ぶって助け舟を出した。
「いや、構わん。俺もこいつに言われた通り、あまり柄は良くないからな。一人ぐらい、遠慮なく接することの出来る相手がいるとありがたいんだ。罵声どころか蹴りが入る時もあるが、いつものことだから咎めないでやってくれ。それはともかく、同行していた隊商はこの王都までは来なかったのか?」
「ああ……はい。中部で親しくなった隊商は、ラウロまででシた。取引先の店でしばらくお世話になりましたが、ラウロでは通訳は必要なかったでス。私も、ここまで来たなら大神殿を見たいと思いまシタから、行き方を聞いて、町を出まシた」
「領主を頼れば、もっと安全快適に旅が出来ただろうに」
シンハがさらりと問いを挟む。
国内の主要街道には国王軍所属の警備兵が常駐しているが、その抑止力がしっかりと及ぶのは直轄領内だけで、ほかは各領主の裁量に任されている。王の執政官が監視しているものの、財政事情や領主の私的な理由で警備がおろそかになる地域もあるし、そうでなくとも、すべての街道を昼夜の別なく守る事は不可能だ。
結局、旅の安全を求めるなら護衛を同行させるのが一番であり、私費で雇えないなら隊商に便乗するか、領主に願い出て兵士を貸してもらうのが通例である。よほど怪しい旅人であるとか、吝嗇ないし貧窮領主であるとかいう場合でなければ、断られることはない。
だがザフィールは微苦笑して応じた。
「素性の怪しい旅人が助けを求めて、応えてくれまスか? そうだとしても、私は知りまセンでしたし、あまり、偉い人に頼りたくなかったですね。色々疑われるのは疲れましたし、それに、……都合良いこと、だけを教えられるは嫌でシタ」
「ふむ」
シンハは小さくうなずき、改めてしげしげと異国の司祭を観察する。ザフィールは気にしないふりを装って、粥を平らげた。
ややあって、おもむろにシンハが再び問うた。
「馬車賃はあったのに、行き倒れかけたのはなぜなんだ? モラーファを出た後で何があった」
「……ラウロから乗った馬車に、片手だけの人が、いました」
ザフィールは、ふうっとひとつ息をつくと、空になった椀を見つめたまま答えた。
「私よりも、身なりが悪かったです。モラーファへ、親類を頼って行くのだと言いました。モラーファで降りた時、その人は、お金を払わなかったと言われて、馬車の人に捕まりまシタ。牢に入れると言われて……彼が泣きだしたので、代わりに私が払ったです。とても喜んでいました」
ゆっくりと語る口元が微かにほころぶ。善意や自己満足ではない、まったく別の感情ゆえに。
リーファはその意味を憶測しながら、遠慮がちに口を開いた。
「司祭様、それって……」
「ええ、まァ」案の定、ザフィールはくすっと笑った。「でも、気の毒な人を助けたは、同じですネ。その日はモラーファを見て回りまシたが、小さい町で、片手の人の仲間がずっと見てるの分かりまシタから、すぐに王都へ向かったでス。町で泊まったら、王都への馬車賃がなくなりそうでしたし」
「馬車賃どころか、命がなかったかも知れませんよ」
顔をしかめて唸ったのは、ロトである。彼は険しい表情でシンハと視線を交わし、小さく首を振った。どうやらモラーファには、性質の良からぬ輩がはびこっているようだ。侯爵と話さねばならない事がひとつ増えた。
かつて“良からぬ輩”の一員であったリーファは、椅子の中で身じろぎし、おずおずと提案した。
「あ、あのさ、司祭様も疲れてるみたいだし、今日はこのぐらいで話を切り上げた方が良いんじゃないかな」
「ああ、そうだな」
言われて思い出したように、シンハがすんなり受け入れる。リーファは我知らずホッと息をつき、ごまかすように残りの食事を片付けた。いたたまれなく感じる理由をあまり深く考えたくなくて、記憶までもすべて飲み下そうとするかのように、勢い良く。