二章 西方より来る (2)
リーファを我に返らせたのは、ヘレナだった。
「どうします? お清めしますか」
静かに問われた内容に、リーファは仰天して行き倒れの男を放り出しそうになる。
「わー!! 早まるな! 死んでない、生きてるから!!」
切羽詰った叫び声に、男も再び目を開ける。二人の西方人に凝視されて、ヘレナはぺこりと頭を下げた。
「失礼しました。本部に運びますか? それとも、神殿へ?」
「あー……とりあえず、本部の仮眠室に寝かせよう」
リーファは少し考えてから、そう決断した。普通なら貧窮者の保護は神殿に任せるものだが、なにしろこの行き倒れはカリーア教の司祭である。邪教の神殿で怪しげな介抱をされるぐらいなら、殉教する方を選ぶ、という反応も充分に考えられる。
(司祭がみんな“あの人”みたいなわけ、ないからな)
脳裏をよぎった面影を、腕の中の見知らぬ男に投げかけそうになって、リーファはそれを振り払った。同じく司祭服を着ていても、彼は別人だ。これだけ弱っていれば暴れたりはすまいが、回復した後で面倒を起こされたら、今後リーファが神殿に行きづらくなってしまう。
と、司祭は二人の意図を察したらしく、リーファの肩にすがって自力でよろよろ立ち上がった。少しは言葉が分かるのかも知れない。
『こちらへ』
リーファはささやき、ゆっくり歩き出す。ヘレナが反対側から支えたが、実際のところ一人でも充分なほど、痩せた体は軽かった。
どうにか司祭を本部に担ぎ込むと、リーファはヘレナを外へ行かせ、適当な店で飲みやすそうなスープを調達するよう頼んだ。それから自分は、かいがいしく司祭の介抱を始める。汚れて擦り切れた外套や、今にも穴の開きそうな靴を脱がせ、湯で絞った温かいタオルで顔や首を拭き、足をきれいにして。
『じきに、何かスープを用意します。食べられますか?』
リーファは桶でタオルをすすぎながら問うたが、返事がなかった。眠ってしまったかと振り返ると、さにあらず、司祭はベッドの上で壁にすがって、体を起こしていた。慌ててリーファは支えようと手を伸ばす。司祭はその指先を取り、軽く口付けしてから離した。
『し、司祭様?』
リーファがどぎまぎして赤面すると、司祭は黒い瞳でつくづくと彼女を見つめ、穏やかに微笑んで言った。
『本当に、カリーアの方なのですね。まさかこの地で、懐かしい言葉を耳にしようとは』
ささやくような声は、優しく、リーファの一番大切な思い出と同じ色をしていた。笑うと目尻や口元に深い皺が刻まれるが、そこに重ねた年齢や苦労ゆえの厳しさはなく、ただ温かな心の表出だけが感じられる。
つかのま茫然としたリーファの前で、司祭は自分の両肩に指先で軽く触れる。カリーアの神に祈る仕草だ。リーファは床に膝をついて頭を垂れ、司祭の指がそっと髪に触れるのを待ってから、顔を上げた。
『はい、私は西方で生まれ育ちました。今はこの王都の、警備隊員ですが。名前は……リーファ、です』
『リーファ』
繰り返されて、リーファは思わず涙ぐみそうになった。顔を少し伏せて表情をごまかしたが、司祭は気付いたようだった。
『どうしました、何か苦しいのですか?』
むしろ今、苦しいのは自分の方であろうに、そんな問いかけをする。
(あの人と同じだ)
リーファはあふれそうな想いを強いて抑え、首を振った。
『大丈夫です。それより、司祭様はどうしてここに? お一人なんですか』
『一人です。竜の背骨を越えて東へ……異教の地へ赴こうという変わり者は、ほかにいなくて。国を出たのは、もう大分前……七年、ですか。あちこち寄り道しながら、ここまで……ごほっ、こほ!』
慎重な答えは、乾いた咳で遮られた。慌ててリーファは水差しを取りに行き、コップに注いで渡した。骨ばった指がそれを受け取り、貴重な恵みを感謝するように、ゆっくりと口元へ運ぶ。数口飲んでから、司祭はにっこりした。
『こんなに丁寧なもてなしを受けるのは、随分と久しぶりです。あなたは、……あなたも、色々な事情があって今、ここにいるのでしょうが、きっと昔から親切でまっすぐな心根をお持ちなのでしょうね』
『まさか』
思わずリーファは苦笑し、反射的に否定していた。司祭が目をしばたく。リーファは言うんじゃなかったと後悔しながら、それでも嘘をつけず、告白した。
『私は元は盗人です。カリーアにいた頃は、教会に入れてもらえませんでした。もちろん、礼拝に出た事もないし、聖典をまともに読んだこともありません』
『盗人? ですが、さっき……』
『ええ、笑い話みたいですが、今は警備隊員なんですよ。捕まえる側です。まぁ、同業者のやり口に詳しいので適任と言えなくもないですが。せっかく祝福してもらったのに、がっかりさせてすみません』
自虐的に詫びた彼女に、司祭はじっと考え深げなまなざしを注ぎ、しばしの沈黙の後に口を開いた。
『どうやら、複雑な生い立ちのようですね。ただひとつ私に分かるのは、今、あなたが間違いなく明るい光の中にいる、ということです』
柔らかな、しかし確固として力強い口調で言い切る。その声にも瞳にも、卑しい盗人を蔑む気配など、一切ない。それから彼はふと目元を和らげ、わずかにおどけて付け足した。
『でなければ若い娘さんが、行き倒れ寸前の男の足を拭いたりは出来ませんよ。司祭の位に何の意味もない異国で、しかもボロ雑巾のような有様なのではなおさら』
驚きに見開かれたリーファの目から、涙がこぼれた。まさか自分がこんなに簡単に泣いてしまうとは思わず、リーファは取り繕うことも忘れて、次々に落ちる涙を拭いもせず呆然とする。
司祭はそんな彼女の頭に手を伸ばし、軽く撫でる。リーファは堪えきれなくなって、絞り出すように言った。
『司祭様、本当は……出来るなら、もっと昔に、したかったんです。司祭様に、もっと、……オレに出来ること何でも、……お礼を、したかった』
司祭の膝にすがりつきたい衝動と戦いながら、リーファは無意識に小さく首を振っていた。
違う、この司祭はあの人ではない。今、ここで何を言っても、あの人には決して届かない。
そう分かっているのに、言葉を止められなかった。
『オレちゃんとやってます、もう盗みもしてないし、読み書きだって出来るようになりました。司祭様との約束、ちゃんと守ってます、って……』
聞かされる方にしてみれば全く意味が分からないだろうに、司祭は黙って耳を傾けていた。そして、彼女が嗚咽を堪えるのに精一杯で言葉を続けられなくなると、ゆっくり深くうなずいて言った。
『あなたの言葉は、主が確かにお聞き届けくださるでしょう。伝わりますよ、ちゃんと』
『…………』
『まあ、もしかしたら神の御国は心地よすぎて、かの司祭も眠り込んでらっしゃるか知れませんが。私が毎日の祈りと共にあなたの言伝を捧げていれば、嫌でも耳に入るでしょう』
司祭は悪戯っぽく微笑んでから、そっと、小さな声でささやいた。
『カフィラ司祭ですね。あなたに、光の射す道を示したのは』
『……名前は知らないんです』
『そうでしたか』
司祭はそれ以上は言わず、ぽんぽんと優しくリーファの肩を叩いた。リーファは涙を拭い、なんとか気を落ち着かせて顔を上げる。
『すみません、いきなりこんな話をして。休まなければいけないのに』
『大丈夫ですよ。あなたのおかげで、楽になりましたから。それに、主のもとへ召される寸前というのも、これが初めてではありませんしね。そうそう、私の名前はザフィール=アデンといいます。あなたの“司祭様”と区別したければ、ザフィールと呼んで下さって構いませんよ』
『えっ……い、いえ、流石にそれは』
個人名を意識するといきなり恥ずかしくなって、リーファはうろたえた。彼女にとって、司祭という存在は特別なのだ。親しく名を呼び、普通の友人知人と同列に扱うなど、とても考えられない。
『おやおや』
ザフィールが苦笑したところで、ノックの音が響いた。リーファは慌てて両手で顔をこすり、泣いた跡をごまかそうと虚しい努力をしてからドアを開ける。予想通り、そこには店屋のマグカップを持ったヘレナが立っていた。
「買ってきました。これで……」
良いでしょうか、と、最後まで言わず、ヘレナは絶句してまじまじとリーファを見つめた。反射的にリーファは目をそらし、曖昧な顔でごまかした。
「ありがとさん。えーっと、代金、後でもいいかな」
カップだけ受け取ってまたドアを閉めようと思ったのだが、残念なことに、ヘレナは渡してくれなかった。
「お手伝いします」
「え、いや、いいよ、大丈夫」
「お手伝いします」
「…………」
リーファが天を仰ぐと、部屋の奥でザフィールがくすくす笑って、ちょっと咳き込んだ。そして、
「すみまセん。お世話になりまス」
少しばかり発音の怪しいエファーン語で言い、ベッドの上でぺこりと頭を下げる。リーファは目を丸くして振り返った。
「エファーン語、話せるんですか!?」
「話せナかたら、この街まで来られナイですね」
「…………」
にこやかなザフィールを前に、リーファはえもいわれぬ気分で凝固した。
なんでだ。なんでこうも突然、人柄まで違ったような印象になってしまうんだ。ちょっとばかり言葉遣いが怪しげだというだけで、司祭様ご本人に何の変わりもないはずなのに。
複雑な気分になりながら、リーファはヘレナを促して中へ入らせた。カップの中身は、芋を裏ごししたポタージュだ。
「どうぞ」
ヘレナが匙を添えて渡すと、ザフィールは重ねて礼を言ってから、短い感謝の祈りを捧げ、自力でゆっくりと食べ始めた。しばらく沈黙が続き、リーファは次第にいたたまれなくなって、そそくさと桶を手に立ち上がった。
『司祭様、オ……私、これを片付けてきますので、ゆっくり休んで下さい。また後で事情をお聞きします』
『ありがとう。ですが、お言葉に甘えて休ませて頂く前に、荷物を盗まれたことを届けても構いませんか。大切な聖典が入っていますので』
『……! はい、もちろん。すぐに伺います、ちょっと待ってて下さい』
盗まれた、と聞いてリーファは即座に意識を切り替え、ぴしりと姿勢を正した。大急ぎで裏口を出ると、桶を片付けるついでに顔も洗い、気合を入れ直す。仕事は仕事、しっかりせねば。
盗難届けを作成すべく用紙を取りに行ったところで、ディナルと鉢合わせした。
「行き倒れを拾ったんだと?」
険しい顔で唸られ、リーファは早口の小声で一気にまくし立てた。
「はい、カリーアの司祭服を着ていたので神殿に連れて行くのはまずいと判断し、こちらに運びました。荷物を盗られて行き倒れかけたようで、これから事情を聞くところです」
もたもたして、またぞろ怒鳴られては堪らない。仮眠室まで響いて司祭に気を遣わせてしまう。
「カリーアの『シサイ』? なんだそれは」
「あ……っと、こっちの神官に当たる人です。あっちの教えでは、唯一の神以外は認めていませんから。異教徒の手当てを拒むことも考えられるかと」
「…………」
ディナルは眉間の皺を常よりも増産し、何とも胡散臭げな顔つきで黙り込む。リーファは怒鳴られなくてホッとしたが、沈黙の間にディナルが何を考えているのかを推測し、頭と心がすうっと冷たくなっていくのを感じた。
――なぜ、ここに。
穿った推測をすれば、ザフィールの存在はあまりにもいかがわしかった。カリーア教国は閉鎖的で、異教徒の国とはほとんど交流がない。レズリアの民にとっては、天界よりもまだ遠い国だ。
もし仮に、カリーアが東方の異教徒の国とまともに向き合うつもりになったのなら、正式な大使を立てて、万全の警護のもと、送り込んでくるはず。司祭もあの国では支配階級の一員ではあるが、より高位の、外交権限を与えられた聖職者がその任にあたるだろう。
だがザフィールは違う。ということは、司祭服を着てはいるが、国を逃げ出さざるを得なくなった罪人であるか、さもなくば。
(密偵……? まさか、でも)
浮かび上がった可能性を、リーファは否定しようとした。だが、“司祭様”への想いがいかに強かろうと、今この王都に暮らす民の一人としての意識が、それを許さなかった。
聖職者は昔から、各国の情勢を探るのに格好の隠れ蓑だった。今は落ち着いている東方も、かつては大小の戦があり、その合間には大勢の商人や神官が、交易や巡礼の名目で各地を行き来して、互いに探り合いを繰り広げてきたのだ。
「荷物を盗られて行き倒れるような間抜けが、大層なことをたくらんでいるとは思えんが」
不意にディナルが唸ったので、リーファは我に返って眼前の隊長を見つめた。
「しかし、すぐに放り出して自由にさせる、というのも危険だな。城へ使いをやっておくから、おまえは勤務が終わったら、そいつを連れて帰って陛下のご判断を仰げ。それまで目を離すなよ」
「はい」
リーファは余計な事を言わず、短く答えて敬礼した。素直な反応は予想外だったらしく、ディナルは不審げに眉を上げる。だが彼女の表情にごまかしの気配がないのを見て取ると、彼もまた無言で、鼻を鳴らして隊長室に戻っていった。