一章 園遊会 (3)
「ぜぇ……はぁ……うぅ、何やってんだオレ……」
情けない。頭を抱えてしゃがみ込み、自己嫌悪にはまることしばし。
吹き付ける風にうなじを撫でられ、ぶるっと身震いして立ち上がると、なにやら妙な臭いが漂っていた。リーファは顔をしかめて周囲を見回し、自分に呆れてしまった。
なんと、いつの間にか城館の前を素通りし、厩舎や菜園の辺りまで来ていたのだ。城の敷地をほぼ横断したことになる。さすがにここまではロトも追って来ないだろうが、それにしても逃げすぎだ。
ショールの前をかき合わせ、だからドレスは嫌いなんだ、などと衣装のせいにする。誰も見てやしないだろうな、ときょろきょろしたところで、
「あれ?」
うずくまる人影に気付いて目をしばたいた。地味な外套ですっぽり身を包んだ何者かが、菜園の片隅で、若木の前にしゃがみ込んでいる。最前までの動揺が嘘のように消え、リーファは反射的に気配を殺して警戒した。
しばらく慎重に様子を窺ってみたが、人影は地面に向かってごそごそするだけで、それ以上の動きを見せない。庭園を横切ってきたリーファの足音さえ、聞こえていなかったかのようだ。
(何やってんだ? 庭師の誰かって感じでもないし……)
遠目にも、外套の生地がまだ新しくなめらかで、上等の品らしいと分かる。華奢な背中に沿うように身を包んでいるのも、仕立ての良さゆえだろう。背格好からして、少年か女性か。
(まさか園遊会の客がこんな所にいるわけないんだけどな)
オレじゃあるまいし、などと自虐的に考えつつ、足音を忍ばせて近寄る。だがしかし、その“まさか”らしい。外套には目立たない色で、紋章らしき模様が刺繍されていたのだ。
リーファは困惑を深めながら間合いを詰め、相手を逃がさず、しかし攻撃を受けるには遠い、適当な距離で足を止めた。そして、おもむろに咳払いをひとつ。
「どうしました、ご気分でも?」
穏やかに声をかけたつもりだったが、相手は「きゃっ」と叫んで小さく飛び上がった。そのせいで体勢を崩し、すてんと尻餅をついてしまう。
(あれれ、本当に招待客だよ)
こんな事ってありなのか、とリーファは首を傾げて瞬きした。びっくり顔でこちらを見上げているのは、あろうことか貴婦人だった。
見開かれた紅茶色の目は少しあどけない印象だが、全体の雰囲気からして二十代半ばは過ぎているだろう。脱げたフードの下から現れた金茶色の髪は、両頬を縁取る一房を残して、きちんと結われている。髪飾りは控えめで上品だ。
「失礼、驚かせましたね」
立てますか、とリーファは屈んで手を差し出す。貴婦人は目をぱちくりさせたものの、怒りもせず、素直にリーファの手を取る。途端、二人ともが動きを止めた。貴婦人の指は土で真っ黒だったのだ。
慌てて貴婦人が手を引っ込めようとしたが、リーファはそれをぎゅっと握って引っ張った。どうせ手を重ねた時点で汚れているのだし、彼女の素朴な態度には好感が持てたのだ。
「園遊会のお客様かと拝察しますが、なぜこんな所にいらっしゃるんです?」
問いながら、外套やスカートについた砂を、きれいな方の手で払ってやる。だが返事がない。リーファが訝って顔を上げると、貴婦人とまともに目が合った。汚れた両手を服につかないよう胸の前で組み、小首を傾げて、つくづくとこちらを見つめている。
思わずリーファがたじろぐと、貴婦人は、春風のような笑みをふわっと広げた。
「違っていたらごめんなさい、あなたはもしかして、リーファ=イーラ?」
「え、あ、はい……って、あれ、会場にはいらしてなかったんですか」
シンハが紹介したのを見ていれば、もしかして、などとは言うまい。ということは、会に招かれていながら、参加しないでずっとここにいたわけか?
困惑したリーファに、貴婦人も目をぱちくりさせる。それから徐々に理解が浸透したらしく、ややあってぱかんと口を開けた。
「――!! いけない、もう始まっているのね? ああ、私ったら」
おろおろして、頭を抱えかけてまた汚れに気付き、慌てて動きを止める。情けない顔で指先を見つめてから、諦めたように、ぱたんとスカートの上に手を落とした。
「はぁ、今から行っても遅いわね。やっぱり後にすれば良かった……。まさか皆で私を探しているわけではないわよね?」
「いえ、そういうわけでは。私がここに来たのは偶然です」
「それなら良いのだけど。いえ、良くないけど。ああごめんなさい、一人で納得している場合ではなかったわね。私はマリーシェラ=ヴェーゼ、モルフィス侯爵夫人です」
よろしく、と優雅に一礼する姿は、確かに貴族の優雅さをそなえている。とはいえ、場所が場所で、格好が格好なもので、リーファは信じられない気分になった。
「侯爵夫人が何やってんですか」
思わず正直に呆れ声を出す。この国のお偉いさんはどうなってるんだ、国王が脱走するぐらいだから侯爵夫人が畑で土いじりしててもおかしくないのか、いやおかしいだろう、断じておかしい。
と、そんなリーファの口調と表情が面白かったらしく、夫人は楽しげに笑った。
「本当にね。我ながら呆れるわ。すぐに戻りなさい、って三回も念を押されたのに。思いがけず素敵な菜園だったものだから、つい夢中になってしまって。ちょっとした発見もあったのよ。そうだわ、あなたなら分かるかしら、これ……あら、さっきどこかに行ったみたい」
言いながら、夫人はしゃがんで何かを探す。はて、とリーファも腰を屈めたところで、
「リー!!」
よく通る声で呼ばれ、飛び上がるようにして体ごと振り返った。つられたのか、夫人までぴょんと立ち上がる。だがリーファはそれを見ていなかった。あんぐり口を開け、信じられない光景に絶句する。
国王陛下その人が、こちらへ走ってくるではないか。
「探したぞ。こんな所まで逃げるなんて、ちょっと酷すぎないか」
「酷いのはおまえだ! 客ほったらかして会場抜け出す国王がどこにいるよ!?」
あまりのことにリーファは夫人の存在を忘れ、怒声と拳をお見舞いする。シンハは軽くそれを受け流し、おどけて肩を竦めた。
「客の相手はショウカと親父に押し付けてきた。息抜きに出る口実を作ってくれたのはありがたいが、しかし、どうしてよりによって畑なんだ? 会場の料理よりも生の野菜をかじりたくなった、と言うんじゃないだろうな」
「オレは兎か! 来ようと思って来たんじゃねーよ、つい……、あっ!」
そこでやっと思い出し、リーファは慌てて夫人の様子を確かめた。
すると予想外にも、夫人は笑顔だった。しかも単に面白がっているのではなく、温かくて優しい、夢見るかのような笑み。リーファが後ずさると、夫人は我に返ったのか照れ笑いになった。
「本当に、仲が良くていらっしゃるのね。父の話を聞いた時には、信じられませんでしたけれど」
言って彼女はシンハに向き直り、膝を折って一礼した。
「お初にお目もじ致します、陛下。東方辺境伯ドゥカイアス=リュードが娘、現モルフィス侯爵夫人、マリーシェラでございます」
「…………ああ、あなたが」
シンハが返事をするまでに、数拍の間があった。夫人は背を伸ばすと、「はい、私が」とおどけて応じる。シンハは苦笑し、軽く礼を返した。
「伯爵から聞いています。今日はレウス殿とご一緒では?」
「馬車を降りるまでは一緒だったのですけど」
夫人は悪戯っぽく答えて、視線で背後の菜園を示した。
「少し早く着いたものですから、先にお城の菜園がどういうものか、見るだけでも見ておきたいと、駄々をこねたんです。すぐに戻るつもりだったのですが、つい夢中になって」
夫人の説明に、シンハが物問いたげな目をリーファに寄越す。オレに訊くな、とばかり、リーファは肩を竦めた。二人の無言のやり取りに、夫人はまた少し笑って説明した。
「私は昔から土いじりが好きで、どこに行ってもつい、庭が気になってしまうのですわ。実家はご存じのように田舎ですから、私たち家族も時々畑や牧場で働くのは普通のことでしたけれど、それとは別に、庭で色々な野菜や花を育てていました。こちらには、霞の賢者様が世話をしていらした菜園が残っていると伺ったものですから、どうしても見てみたかったのです」
「カスミの……ああ、そう言えば」
一瞬驚きに声を詰まらせ、シンハはゆっくりと懐かしい表情になって菜園を見やった。その目が映しているのは、過去の記憶であるに違いない。愛しくも哀しげな色が、彼の面をよぎった。
が、彼はすぐに感傷を振り払い、平静を保ったまま言った。
「確かにここは霞の賢者が手入れしていた菜園です。彼が亡くなった後は庭師が管理していますが、植物の種類や数はだいたい同じ状態でしょう……私も昔はよく手伝わされました」
「陛下が? でしたら、これのこと、ご存じでしょうか」
夫人は面白そうに言ってから、すっと手を差し出して開いた。握られていたのは、土がこびりついた、小さな陶器の人形。
「これは?」
シンハは怪訝な顔でそれを取り上げ、ためつすがめつ眺める。リーファも横からどれどれと覗き込んだ。汚れて見えにくいが、ゲームに使う駒のようだ。これを取られたら終わり、一番大事な“王”。
「……もしかして」
シンハがつぶやき、再び菜園を見やった。それから、
「どこにありましたか」
問うた声は珍しく、かすれそうになっていた。侯爵夫人は目をしばたいたものの、詮索はせず、菜園の囲いの外側を回って「ここです」と教えた。腰の辺りまでの小さな木が一本、秋の涼風にもかまわず緑の葉を茂らせている。
「珍しい樹ですから、じっくり拝見していたのですけれど。そうしたら、根元にこれが埋まっていたので……何かのしるしでしたか?」
首を傾げた夫人に、シンハは茫然としたまま、しばし答えなかった。ややあって彼も樹のそばに寄り、つくづくと観察する。
「おまえの“王”を隠しておいた、と……言われたのです。もし見付けられたなら、きっと助けになるものを授けてくれるだろう、と。珍しく、悪戯めかして」
独り言のように彼は言って、緑の葉に触れる。リーファは回想を邪魔しないように、後ろでこそっと夫人に尋ねた。
「この樹って、貴重なものなんですか?」
「ええ、とても」夫人がうなずく。「サラシャといって、生命神がこの世のはじめに地上に授けて下さった樹とされていますわ。種から芽吹かせるのはとても難しくて、育つのにもかなり年数がかかりますから、栽培はされず、ごくまれに古い森に自生しているのが見付かるぐらいなんです。でも、育った樹は日照りにも寒さにも強く、滋味豊かな実をつけるので、飢饉の年もこの樹がある村だけ全員が生き延びられた、という言い伝えもあります」
「へぇー……なるほど」
リーファはふむふむと感心してうなずいた。種と一緒に駒を埋めておけば、芽吹かない限り地上に押し出されることはない。だからこそ、もし見付けられたら、という話になるのだろう。
シンハは二人の会話を背中で聞いていたが、ぎゅっと駒を握り締めて苦笑した。
「あの人らしい贈り物だ」
つぶやいて、小さく頭を振る。それから、昔話をしたのが照れくさいのか、ごまかすような表情で向き直った。
「菜園に興味がおありなら、庭師に話を通しておくので、いつでも見に来られると良い。今はひとまず、会場へ戻りましょう。レウス殿が心配される」
「かたじけのうございます」
夫人は一礼してから、小さく首を竦めた。
「遅刻した挙句に陛下のお手を煩わせたとなったら、叱られますわね」
「おかげで懐かしいものを見つけられたと、先に礼を言って牽制しましょう」
シンハは真面目くさって言い、二人を促して歩き出す。リーファは遠慮して少し後ろを歩きながら、小声でからかった。
「珍しく丁寧な態度を見ると、変な気分だね」
「俺がおまえの敬語を茶化したことが、一度でもあったか」
途端にじろりと睨まれて、リーファは「すみません」と大袈裟に縮こまる。夫人がくすくす笑った。
途中で井戸に寄って手を洗い、会場に戻ると、いくらか砕けた雰囲気になっていた。国王陛下が一時抜けたことで、緊張が解けたらしい。
と、端のほうに設えられた座席のひとつから、白髪の老人が杖をついて立ち上がった。息子らしき男が手を貸そうとしたが、それを拒み、ゆっくりながらも危なげない足取りで三人の方へ歩いてくる。
「戻るのを待ってたのかな」
悪いことしたな、とリーファはシンハにささやく。確かに老人は待っていたのだが、しかし、相手が違った。
「レウス様、ごめんなさい」
慌てて詫びながら駆け寄ったのは、侯爵夫人だったのだ。思わずリーファはぽかんと口を開けてしまった。老人――モルフィス侯爵その人は、厳しい顔を作ろうとして失敗し、くしゃりと笑って夫人を迎えた。
「言うた通りになったな。いや、引き止めなんだ私が甘かった。しかしかえって幸いしたようだね?」
「はい、会いたかった方とお話しできました」
親子の間には決して見られない、情のこもったやりとり。初めは何かの間違いかと当惑したリーファも、どうやらこの二人が夫婦であるらしいと自然に納得してしまった。
「それなら良かった」
うんうん、と侯爵はうなずき、それからやっとシンハに目を転じた。
「お久しゅうございますな、陛下。妻がご迷惑をおかけしました」
「いや、おかげで思いがけない発見がありました。レウス殿もご健勝で何より」
「若さと力に満ちた国王陛下から、ご健勝、なんぞと言われても厭味にしかなりませんな」
くくっ、と侯爵は笑う。シンハが頭を掻くと、侯爵はにやりと意地悪く笑って、杖の先でこっそり彼の足を叩いた。
「マリーシェラのことは、ドゥカイアスから聞いてご存じですな? 見ての通り、彼女は若く、私はいつお迎えが来てもおかしくない老人だ。あ奴にしても、相変わらず年甲斐もなく草原に出ては暴れとるようだから、そのうち揃ってぽっくり逝ってもおかしゅうない。そうなったら、後の事はくれぐれも頼みますぞ」
淡々と物騒な事を言い、侯爵はさらに声を低めて付け足す。
「おかしな気を起こしよったら、ただじゃおかんぞ」
「シャーディン河に突き落とされるのはこりごりですよ」
シンハは苦笑いし、これまた小声で「あんたなら百二十まで生きるだろうさ」と応酬する。侯爵はもう一度シンハの足を打ってから、フンと鼻を鳴らして夫人の手を取った。
「さあ、見るべきものは見たわけだし、長居は無用、帰って我が家でくつろぐとしようかね、マリーシェラ。態度のでかい若造を相手にしとったら、頭に血が上って寿命が縮むわい」
「レウス様ったら」
困った人、と夫人は眉をひそめたが、しかしすぐに愛しそうな笑みに変わり、侯爵に寄り添う。改めて辞去の挨拶をすると、夫妻は連れ立って歩き出した。シンハが近くの給仕に合図を送り、馬車を呼びに行かせる。
侯爵夫妻が馬車に乗って出て行くまで、シンハはその場を動かなかった。もちろん、隣にいるリーファも。ややあってシンハが足をさすったので、リーファは笑いをこぼし、
「昔の知り合い?」
疎外感を悟られないように、快活な声で問うた。シンハは「ああ」と短く応じて、いつものようにくしゃりと頭を撫でる。
「馬鹿、やめろよ。せっかくきれいに結ってもらったのに」
「既に崩れてるぞ。畑まで走って行ったくせに、今さら気にするな」
「えっ、本当か!? うわ、やばい、どっかで直して貰わないと駄目かな」
慌ててリーファは頭に手をやったが、もちろん自分では分からない。ちょっと戻ってくる、と言い置いて館へ足を向けた。
少し行って振り返った時も、やはりまだシンハは同じ場所にいて、馬車が去った城門の方をじっと見つめていた。