後日談 (2)
顔を洗って少し頭を冷やしてから、リーファはてくてく国王の執務室へ向かった。
以前は毎日必ず顔を出して、その日の出来事を報告しあったり、たわいない話をしたりしていたが、ここしばらくは遠ざかっていた部屋だ。
(しょげてる、なんて言われるようじゃなぁ……まずあいつを何とかしなきゃ)
テアに気付かれるぐらいだ、他にも古参の使用人や、付き合いの長い貴族の何人かは察しているだろう。国王がへこんでいると何かと不都合があるぐらいは、リーファにも想像がつく。
ふう、と息をつき、胸に手を当てて緊張をほぐすと、開け放しのドアを軽く叩きながら中を覗き込んだ。
「よ、お邪魔……って、ありゃ」
遠慮がちにかけた声が途切れる。珍しいことに、部屋にはシンハひとりきり、それも椅子に座ったまま肘掛によりかかって眠っているではないか。
リーファは足音を忍ばせて部屋に入り、そーっと執務机を回り込んでシンハに近寄った。それでも彼は目を覚まさない。人の気配には敏感なはずなのに、よほど疲れているのだろうか。
滅多に見られないシンハの寝顔を、知らない人物かのようにしげしげと観察する。リーファは不思議な気分になった。
こうして見ると、シンハの顔立ちは精悍だし、体格も逞しくて、いかにも男らしい。それを今まで、あまり“男”として意識することがなかったのは、いくら自分が鈍いにしても妙だ。
(多分……こいつが、ずっとオレを守ろうとしてきたから、なんだろうな)
親のように、友のように、あるいはただ、弱き者の庇護者たる王として。
そうでなければ、もっと早くに彼女は気付き警戒していたはずだ。相手は男で、腕力も権力もあって、簡単に自分をもてあそび打ち捨てることが出来るのだ、と。だが今まで、そんな可能性など夢にも思わなかった。考えてみることさえ馬鹿らしい。
無防備な寝顔を見つめるうち、リーファの視線は彼の唇へと動いていた。今ならキスしてもばれないかな、などという考えがちらと脳裏をかすめる。だが、それは一瞬の陽炎のように儚く消えた。
――キスでもなんでもしてみればいいのよ。
フェイミアに言われたせいで、初めてリーファは、自分が女としてそうすることを考えたのだ。が、ほとんど同時に、それは違うと悟った。
つい昨日まで顔を見る度に混乱させられていた羞恥が、いつしか彼方へ去っていた。静かに澄んだ湖のように、心が透明になってゆく。
不意に、いとおしさのあまり泣きたくなった。
(ああ、そうか)
頭ではなく胸の奥から、腹の底から、確信が湧きあがり満ちていく。
リーファはゆっくり身を屈め、シンハの頬に唇を触れさせた。そっと優しく、羽根がかすめるほどに。
だが顔を離すと、夏草色の目が片方、薄く開いてこちらを見ていた。
「どういう風の吹き回しだ?」
咎めるでもからかうでもなく、彼は穏やかに問いかけた。リーファは思わず苦笑する。
「起きてたのかよ。寝たふりして様子を見るなんて、ずるいぞ」
「そうでもしないと、またおまえは逃げるだろうが」
言い返してシンハは手を上げ、リーファの頬に触れる。親指で軽く唇をなぞられ、リーファは赤面した。急いでその手をはがし、ぺちんと叩いてやる。シンハはおどけて首を竦め、軽く伸びをしてから居住まいを正した。
「……それで?」
いつもの、話を聞く姿勢だ。急かしはせず、探るでも強要するでもない。相手から自然な言葉を引き出す、力強くも穏やかなまなざし。
リーファは微笑み、こほんと小さく咳払いした。そして、捕まえたばかりの確信が消えないうちに、舌に乗せる。言葉はするりと、ずっと前から決まっていたかのように滑り出た。
「大好きだよ、シンハ」
「…………」
シンハは答えず、小首を傾げてうなずいた。続きがあると分かっているらしい。リーファは時々ちょっと考えながら、胸に満ちる想いをそのまま言葉にしていく。
「今までもこれからも、おまえが一番大事で大好きで、……きっと一生、おまえがオレの知ってるおまえでいる限り、それは変わらないと思う。この先おまえが結婚したりして、オレより大事な人をいっぱい抱えることになっても、オレはずっとおまえが好きだ。何があっても、誰が現れても、……なんていうか、オレはもう、全部おまえに差し出すつもりだから。それだけ、忘れないでいて欲しいんだ」
拙いながらも真摯な告白を、シンハは黙って聞いていた。そして、リーファが口をつぐむと、すべてを受け入れるように、ゆっくりと深くうなずいた。
「そうか」
応じた声には、納得の響きがあった。安堵と理解と、そして共感の響きが。
シンハが微笑む。いつもの複雑な笑みではない、ひたすら優しく、どこか敬虔にさえ見える笑み。リーファがそれに驚いている隙に、シンハは立ち上がって、素早く顔を寄せた。
ごく軽い、触れたか触れないか分からないほどのキス。
それから、その感触とおなじぐらい微かなささやき声で、ひとこと告げる。
「俺もだ」
「――え?」
思わずリーファがぽかんと聞き返すと、シンハはいつもの少し皮肉な笑みを浮かべ、軽く彼女の頭をはたいた。
「言わせるな。おまえの気持ちは、よく分かったよ。おかげで自分の事もな」
「え? う? それ、どういう……」
「だから、言わせるな。もういいから、部屋に戻って制服を着替えて来い」
「……りょーかい……」
釈然とせず首を捻りながらも、リーファは素直に応じてくるりと背を向ける。数歩行ってから、自信なさげに彼女は振り向いた。
「あのさ。ちゃんと分かってくれたか?」
「おまえこそ、ちゃんと分かってるのか?」
揶揄するように返されて、リーファは顔をしかめる。そのまま彼女が何とも答えられずに沈黙していると、シンハがやれやれと苦笑した。
「おまえは俺のものだし、俺はおまえのものだ。何もかも全部、な。そういう事だろう?」
「――っっ」
最前、訥々と苦労しながら紡いだ言葉を見事に要約されて、リーファは真っ赤になった。
「おまっ、は……恥ずかしいこと言うなよ!!」
「だから言わせるなと言ったんだ。だいたい、恥ずかしい台詞はおまえのお株だろうが。そら、もう行った行った」
「ちょ、なんだそれお株って、オレがいつ恥ずかしいこと言ったよ!?」
「列挙して欲しいのか?」
「んなわけあるか! 余計な事は忘れろ馬鹿野郎!!」
気付けば、いつの間にやらすっかりいつも通りのやりとりである。リーファは怒鳴った直後に堪えきれず笑い出してしまい、シンハもふきだした。
そうして二人が笑っているところへ、ちょうどロトが入って来た。小脇に書類挟みを抱えて、忙しげに片手のメモを読みながらだったが、楽しげな声に気付いて立ち止まる。
久しぶりにいつも通りの光景を目にして、ロトの唇がほころんだ。
「やあ、リー。お帰り」
「あ、ロト」
リーファは幸せな気分のまま振り返る。口からは今まで通りの挨拶が自然に出かかった。
「ただい……」
ま、と言い終わる前に、魔法が解けたようだった。リーファの笑顔がこわばり、見る間に頬が上気する。
あれ、とロトが目をしばたき、おや、とシンハは面白そうな顔になった。当のリーファは赤くなったまま、じりじり下がって壁にへばりつき、そのまま蟹のように横歩きで出口へ向かう。
露骨に避けられたロトが絶望的な顔をしたので、リーファは慌てて言い繕った。
「いやあの、ちょっと、その、ご、ゴメン今ちょっとまずいんだ」
意味不明な言い訳に、シンハが失笑する。リーファがぎろっと睨むと、彼はすっとぼけて言った。
「背中側が少々恥ずかしい事になっているんでな、見てやるなよ、ロト」
「……そうなんですか?」
「ああ」
実に当然の顔で言い、シンハはリーファの恨めしげな視線も、ロトの疑惑の視線をも、共にきっぱりと跳ね返した。仕方なくロトは、心配そうにリーファを振り返る。その時にはもう、彼女は廊下に一歩出ていた。
「そ、そういうことだから、んじゃ、ま、まままた今度!!」
じゃっ、と手を挙げて敬礼し、赤い顔のままリーファは引きつり笑いで逃げていく。ロトは呆然とそれを見送るしかなかった。
ややあって彼は気を取り直し、声を殺して笑っている国王に歩み寄った。
「何があったか知りませんが、まあ、少なくとも陛下とは普段通りに戻ったようで良かったですね」
「そうだな」
シンハはまだ笑いを堪えるのに苦労しており、ロトの皮肉もまるで効果がない。
主君の平常心が戻るのを、ロトは渋い顔でじっと待っていた。胃が痛そうな様子の彼に、シンハはにやりとして残酷な一言をくれる。
「まあ、頑張れ」
「…………」
ロトはさらに顔をしかめたが、深いため息の後で言い返したのは、
「そうします」
の一言だけだった。シンハの意図が読めたからだ。もう遠慮などしなくて良い、ロトがリーファを求めるのに障害となるものはないと、そう告げたことが分かったから。
彼が間違いなく理解したのを察し、シンハも笑いをおさめて小さくうなずいたのだった。
一方その頃、リーファは自室で火照った顔をまた洗面器に突っ込んでいた。
「うぁ……駄目だ、やっぱりすげー照れる……」
タオルの中でもぞもぞ呻き、盛大なため息をひとつ。
そうか。そういうことか。
ようやく自分が誰にのぼせてしまったかを悟り、彼女はやるせなく天井の隅を見上げた。
「どーしたもんだかなぁ……」
っていうか、なんでこんな恥ずかしいんだ、おかしいだろ、何も照れるようなことしてないしされてないし、目が合って挨拶しただけじゃねーかしっかりしろよオレ。
ちょっぴり泣きたい気分になりながら、リーファはせっかく拭いた顔をまた洗う。
恐らく、シンハに対する想いはもうとっくに固まっていたのだ。ただそれを明確に自覚しなかっただけで。そこへ、いきなりロトを意識することになって、こんがらがってしまったのだろう。そうと納得は出来たが、だからと言って感情も同様にすっきり片付くものではない。
「うぅ……」
タオルを食べてしまいそうな風情で呻き、リーファはがっくり肩を落とした。そのまま、かなり長い間うなだれていたが、幸か不幸か今日はアラクセスがまだ図書館から帰って来ず、誰も何も言ってはくれない。
諦めて渋々と顔を上げ、リーファはタオルを振って金具に引っ掛けた。
「しょーがないや、頑張るしかねーな」
感情を抑えられるようにか、それとも、フェイミアの勧めに従って突き進めるようにか、その辺はよく分からないが。
ともかく、どうにか動かないことには現状は変わらない。リーファは頭を振って前髪についた雫を払うと、ぺしんと自分の頬を叩いたのだった。
(終)