九章 (2)
新しい部屋を整えるのに一日費やし、リーファは城に帰ると急ぎ足にいつもの部屋へ向かった。体はくたくたに疲れているのだが、気分が高揚して休む気になれない。
ところが、残念なことに執務室の扉は閉まっていた。どうやら取り込み中のようだ。落胆したリーファは、途端に疲労に襲われて、その場に座り込んでしまった。
壁にもたれて、はーっ、と大きなため息をひとつ。と、まるでそれが魔法の呪文だったかのように、扉がそっと開いた。
おやと見上げると、ロトである。彼は訝しげに廊下を見渡し、それから妙な位置にあるリーファの頭に気付くと、慌てて一人分の隙間から滑り出た。
「お帰り、そろそろ来る頃だと思った。疲れているところ悪いんだけど、ここで行き倒れないでくれるかい」
小声で話し、苦笑しながら手を差し出す。リーファは無意識にその手を取ろうとして、指先が触れる寸前、わずかに怯んだ。今まで感じたことのない気恥ずかしさが、動きをためらわせる。
ロトはそんな彼女の反応に気付くと、申し訳なさそうな目をして、やや強引に手を掴んだ。そのままリーファを支えて立たせ、背後の閉じた扉をちらと振り返る。大事な話の途中なのだろう。流石にリーファも察して、なんとか自力できちんと立った。
「ごめん、後で出直すよ」
「いや、今日は多分無理だから。こっちで話を聞こう」
おいで、と促され、リーファはしゅんと萎れてついて行く。ロトが気の毒そうに問うた。
「何か直接言いたい事があったみたいだね」
「んー……うん。でも、まあ、いいや。あいつならもう知ってるだろうし」
ディナルに分析室設置を急がせたのがシンハなら、リーファの知らせを聞かなくても状況は把握しているだろう。案の定、ロトがああとうなずいた。
「新しい部署が出来たって話かい。早かったね」
「なんだ、あんたも知ってたのか」
ちぇっ、とリーファは唇を尖らせる。ロトは苦笑して、自室の扉を開けた。
「僕もその場に居合わせたからね。どうぞ、そっちに掛けて」
リーファにソファをすすめておいて、自分は水差しの盆を取ってくる。ふたつのコップに注いでから、彼は続けた。
「元々ディナル隊長も考えていたらしくて、思ったよりすんなり話がついたよ。今後は君も、おおっぴらに手腕を発揮できるだろうね」
「うーん、どの程度のことが出来るか、まだ分かんねーけど」
リーファはありがたく水を頂戴し、少し飲んでから小首を傾げて考える。
「全部の事件について現場を見に行ったり、遺体を調べたりするのは、手が足りないから無理だし。今はまだ、上手いやり方をあれこれ模索したり、いろんな事例の記録を集めるっていう、土台作りの段階かな。でもまぁとにかく、ここまで漕ぎ着けたのは、あんたやシンハのおかげだよ。ありがとな」
にこりとしたリーファに、ロトも微笑を返し、どう致しまして、と首を振った。
「君が諦めずに、ずっと努力してきたからこそだよ」
「そりゃ、もちろんそれもあるけどさ。でもやっぱり、オレが一人で頑張るだけじゃ、こうはいかなかったよ。何かある度に、あんたやシンハに力を貸してもらったし。今回のことだって、シンハが早くしろってせっついてくれなきゃ、もっと後になってたかもしれない。だから、出来れば直接、言いたかったんだけど……今日は会えないんだったら、とりあえず礼だけ伝えといてくれるかな」
リーファはロトの了承を取り付けると、残りの水を一息に飲み干し、立ち上がった。
ご馳走さん、とコップを置こうとしたリーファの手が、受け取ろうとしたロトの手とぶつかる。途端にリーファはびくっと竦み、コップを取り落とした。
「っ、ごめん!」
幸いロトが受け止めてくれたので、大事には至らなかったが、その場の空気は非常に気まずくなってしまった。ややあって、ロトがつぶやくように詫びた。
「こっちこそ、ごめん」
手の中でコップを右に左に動かしながら、うつむきがちに言葉を紡ぐ。
「まだ気にしているんだね。悪かったよ。いくら君の様子がただ事でなかったとは言え、あんな方法で……」
「い、いいいいや、その、あんたは悪くないよ! あれはそのっ、ほら、理由があったんだし!」
思わずリーファはごまかすように大声を上げ、次の瞬間、自分の言葉に衝撃を受けて立ち竦んだ。脳裏でシンハの声が木霊する。
理由があったら、同じ事をされても構わなかったのか――と。
「うわ……っっ!」
全身の血が沸騰したように感じた。ロトに触れられた唇の感触がまざまざとよみがえり、足から溶融してしまいそうになる。
あれと同じ事を、シンハに、されるとしたら。
「わっ、あ、うあああああどうしようオレとんでもない事言った……っ!!」
道理でシンハがうなだれるはずだ。両手で頭を抱えてうろたえる。目の前のロトの不審顔さえ見えていない。
(っていうかそもそも、ロトのあれだって必要やむなくって感じじゃな……ってあわわわわいや待て、待てオレ!!)
頭の中で奇声を発して悶えころげまわる。現実にそれをする前にと、リーファは耳まで赤くなって叫んだ。
「ご、ごめん! 頭冷やしてくる!!」
あとはもう、呼び止めるロトの声も聞かず、一目散に自分の部屋まで遁走した。
驚いているアラクセスにただいまの一言もなく、洗面器に駆け寄って水を張り、顔を突っ込む。……豪快にもほどがある。
本人としては、水に触れた瞬間、蒸気が立つのではないかとさえ思ったのだが、さすがにそこまで熱くなってはいなかった。じきに息が苦しくなり、顔を上げる。まだ火照りは残っていたが、少しは正気が戻ってきた。目を丸くしている父親に、言い訳しなければと思い出す程度には。
「た、ただいま……」
顔を拭きながら挨拶したリーファに、アラクセスは当惑したまま、しかし小さく苦笑した。
「お帰り。なにかよっぽど恥ずかしい思いをしたのかい」
「う、うん、ちょっとね」
到底『ちょっと』では済まないのだが、そう言ってごまかす。手拭に半分顔を埋めて、前髪からポタポタ雫が垂れるに任せて。
そんな娘を、養父は小首を傾げて面白そうに眺めた。そして、
「どうやら、誰かに恋をしたかな」
「――っっ!!」
必殺の一撃をお見舞いしてくれた。リーファは怯み、よろけて後ずさり、壁にぶつかる。そのまま膝が抜けて、ずるずる座り込んでしまった。
幸い、アラクセスはそれ以上のことは突っ込んで来なかった。ただ微笑んで、小さく数回うなずいただけ。リーファはその優しい横顔を見上げ、情けない顔でつぶやいた。
「……よく分からないんだ。何がどうなってるのか、どうしたらいいのか……」
恋をした、と言われて動転したからには、多分、そういうことなのだろう。自分のことなのに、だろう、という辺りが怪しいのだが、判断力の低下が特徴なのだとしたらその通りだ。
しかし、誰に、だろうか。シンハに憧れを抱いていたのは確かだし、今も間違いなく彼は、何よりも誰よりも大切で大好きな存在だ。しかし恋だろうか? 同じ船に乗りたくない、と自ら言って、差し出された手を退けた相手なのに。
ではロトにかと言うと、確信は持てない。ここ数日で急に相手を意識したとは言え、それが恋かと言われると……。
「焦って答えを出さなくてもいい、と思うがね」
悩んでいるリーファの頭上から、アラクセスの穏やかな声が降ってきた。彼はおどけた気配を目元に浮かべ、ゆっくりと諭すように続けた。
「夢中で、熱に浮かされたように振舞うのも、恋する者の特権だ。しかしね、時間をかけて想いを大切に醸成してゆくのも、愛情のひとつの形だと思うよ。その過程を楽しみながら、じっくり見極めをつけるのもいいだろう」
「見極め……」
「恋人たちが皆、確信を持っていると思うかい?」アラクセスは小さく笑った。「自分の気持ちも、相手の気持ちも分からないまま、お互い手探りで求め合っている男女も多いよ。人と人との関係は、そう簡単に答えが出せるものではないんだろうね」
「……そっか」
リーファはつぶやき、うつむいた。
過程を楽しめばいい、と言われて、すとんと肩から力が抜けた。日常接する人々の姿が胸をよぎり、温かな気持ちになる。思えば確かに、誰一人として、単純に好き嫌いの二語だけで片付けられる相手ではない。その中の一人二人が、ちょっと今までより複雑さを増したというだけのこと。
ふう、と息を吐いて、リーファはやっと気を取り直し、立ち上がった。
「ありがと、父さん。お陰ですっきりした」
アラクセスは相変わらず穏やかに、そうかい、と微笑むだけ。リーファはふと不思議になって、訊いてみた。
「父さんは、その……色々、経験があるのかい?」
結局今も独身のままだが、過去には恋愛遍歴もあったのだろうか。若い頃は密かに想いを寄せる貴婦人も多かったとか、噂には聞いたが。
アラクセスは答えなかった。含みのある目をして、わずかに首を傾げただけ。だからリーファもそれ以上は訊けず、黙って肩を竦め、着替えるために寝室へ入った。
「簡単に答えは出せない、か」
無意識に言葉がこぼれる。
(白黒付けようとしないで、ありのまま受け止められる余裕があれば)
あんな事件も起こらなかっただろうに。
拘置所にいる二人の罪人を思い浮かべ、リーファはため息をついた。こればかりは、一人一人の心の問題だ。自分にはどうすることも出来ない。
(オレはオレで、何とかやって行くだけだな)
諦めと共に自戒する。身勝手な理屈に惑わされないよう、外からの様々な力に翻弄されないよう、自身の水平を見失わないように。
「――よし、大丈夫!」
上着の裾をぴんと引っ張り、リーファは小さくうなずいた。
己の目指す未来も、為すべき事も、変わりはない。道は動かずそこにある。これからは多少、景色が変わって見えるかも知れないが。
(一歩ずつ、歩いていくだけだよな)
意志を確かめると、リーファはその考えをなぞるように踏み出した。口元に、微かながらも晴れやかな笑みを浮かべて。
(終)