八章
その日の内に、事件の全貌がはっきりした。
ユネアはレジーナがいずれ店を出ると知り、手が届かなくなる前に復讐すべく、梨のジャムに猫いらずを混ぜ込んだのだ。他人が食べる可能性は低かったし、食べたとしても、あまり好きではないから少量だけで、せいぜい腹痛で済む。
「罰してやりたいと思いましたが、殺すつもりじゃありませんでした。どのぐらい入れたら死ぬかなんて、知るわけないでしょう?」
取調室で、ユネアは相変わらずの調子であれこれと自己弁護を続けた。
毒は思ったよりもよく効いて、こっそり様子を見に行ったらもう死んでいるようだったから驚いた。よく見たらまだ息はしていたが、じきに死ぬだろうと分かった。
どうしようかと悩んだ末、彼女が赤毛であることから、連続犯の仕業にしてしまえばいい、と思いついたのだ。どうせ何人も殺しているのだから、もうひとり増えても罪は変わらないだろう、と。
蜘蛛のしるしが残されていることぐらいは知っていたから、強盗に見せかけて細工するのは簡単だった。
梨のジャムは机に置かれていたので、こっそり自分の部屋に隠して後で処分するつもりだったという。だがもし今回の件で捕まらなかったなら、じきにまた彼女は、それを誰かに使ったのではないか、とリーファは密かに考えた。
腹立たしく憎らしい相手を始末する快感は、一度味をしめたら止められないだろう。ことに、自分は悪くない、こうするのが正義なのだ、と信じこむような人間には。
ユネアを拘置所に移して、調書をひとまず整理し、リーファはくたくたになって城に帰った。
館に入る頃には少し気力が持ち直し、リーファは制服のまま国王の部屋へ向かった。今度こそ解決した、と報告して、延期になったお祝いの準備をしてもらおう。
(その為なら、あいつも張り切って仕事を片付けるだろうしな)
意地の悪い楽しみに口元を緩ませ、執務室を訪う。今日はロトがいなかった。
「あれ、一人?」
「ロトなら、まだ打ち合わせ中だ。会議そのものは終わったんだがな」
「……王様が先に抜けていいのかよ」
「俺がいるとやりにくい場合もあるんだ。おまえ、俺が隙あらば仕事をサボるものだと思っているだろう」
苦笑いを向けられ、リーファはとぼけて目をそらした。それから、おっと、と表情を取り繕う。そんな話をしに来たのではなかった。
「サボリといえば、例の事件、解決したよ」
「? 何がどう関係あるんだ」
「え、だって解決したらおまえがお仕事サボってお祝い作ってくれるんだろ」
「……言いたい事は色々あるが、まあ、話を聞こうか」
なにやら耐える風情の国王陛下に、リーファは気にせずことの顛末を報告する。赤毛君のことも含めてすべて聞き終えると、シンハは難しい顔になった。
「やはり警備隊の組織も、改革が必要だな。手口や証拠に関する情報を一元管理しておけば、今回の件ももっと早く連続事件だと判明しただろうし、メータ商会の件のような偽装も暴きやすかっただろう。ディナルを呼ぶか」
「それとさ、やっぱり猫いらずの管理、なんとかなんねえかな? せめてもうちょっと、買うのが面倒くさくなる規制をかけるとか」
「そうだな。その辺りはセレムと相談して、毒物の扱いに詳しい術師や薬師を集めて考えさせよう。鼠の駆除を認可制にして専門業者に任せる手もあるが、金が絡むとどうにもな……」
シンハは渋面で唸ってから、リーファの表情に気付いて苦笑した。
「ああ、おまえが責任を感じることはない。こっちで何とかするから心配するな」
その言葉に頼もしい温かさを感じて、リーファはほっと笑みを広げた。そして不意に気付く。
「あのさ、シンハ。おまえ昔、言ってたよな。オレみたいなのがそばにいるだけで、助けられている、って」
「……そうだったか?」
本当に覚えていないのか、照れ隠しなのか、シンハは曖昧な口調でごまかすように応じる。リーファは苦笑した。
「そうだよ。入隊試験の時にね。今度はオレが、同じこと言わなきゃな。おまえには色々世話になってるけどさ、それを除けても、おまえがいてくれるだけで、オレは凄く助かってる。おまえがいてくれるから、仕事でわけわかんねえ言い訳とか屁理屈とか山ほど聞かされても、オレは自分を見失わずにいられるんだ」
何が正しくて何が間違っているのか、一概に断ずることは出来ない。悪党でもたまには筋の通った主張をするし、心が弱くて過ちを何かのせいにしたがる人間の言葉を、ただ切り捨てることも出来ない。
だが、それらに惑わされていては、治安を保つという本来の目的まで見失ってしまう。
リーファにとってシンハの存在は、傾いた心を元に戻すための水準器なのだ。
「――ありがとな」
にっこりと、深い思いをこめて感謝の言葉を伝える。
正面から真情をぶつけられたシンハは、例によってややこしい表情になり、片手で口元を隠すようにして目をそらした。途端にリーファは真摯さを投げ捨て、意地悪くニヤニヤする。救われたように、シンハも苦笑をこぼした。
それからシンハは何か言おうとして、ふと表情を変えた。おや、とリーファが訝っていると、彼はゆっくりそばまでやってきて、神妙な様子で言った。
「リー。悪いが、目を瞑って、少しの間動かずにいてくれるか」
「……??」
なんなのだ、いったい。リーファは変な顔をして、視線だけさっと室内に走らせた。危険な気配は感じられない。不可解な気分のまま、彼女は言われるままに目を瞑った。
一呼吸ほどの間、緊張した沈黙が続く。
そして、顔に何かが近付き――
「ひでっっ! あにすんら!!」
両頬を左右に引っ張られ、リーファは抗議と共に目を開けた。シンハの呆れ顔が間近にある。彼はごつんと額同士をぶつけると、おまけに頬をひねってから手を離した。
「おまえな……ロトに騙されたばかりで、同じ手にひっかかるなよ」
呆れ果てた、とばかりに言われ、リーファはカッと赤くなった。
「昨日騙されたばっかなのに同じ手を使うから、何か理由があんのかと思ったんじゃねーか! なんだよ、おちょくっただけかよ!! こん畜生!」
騙されたのと、昨日の記憶の二段攻撃で猛烈に恥ずかしくなり、リーファは罵声と共に蹴りを繰り出す。もちろん、軽くかわされた。
「理由があったら、同じ事をされても構わなかったのか」
シンハは攻撃の届かないところまで下がり、複雑な顔で嫌な突っ込みを入れてきた。間合いを取られたリーファは、唸りながら隙を窺う。だが簡単に距離を詰められる相手ではない。仕方なく彼女は、しかめっ面で答えた。
「理由があるんなら、しょーがねーだろ」
「…………」
単純な返事は、思わぬ殺傷力があったようだ。シンハがよろめき、執務机に両手をついてうなだれる。
「ロトが言ってたのは、これか……」
小さな呟きを、リーファは聞いていなかった。ここぞとばかり駆け寄って、がら空きの脇腹をくすぐってやる。
「っっ、やめろ、この卑怯者!」
「うっせーや、人をおちょくるから仕返しに遭うんだよ!!」
騒いだのも束の間、じきにリーファは振り払われてしまった。広い執務机を挟んで、げんなりしているシンハと向かい合う。ややあって彼は、つくづくとため息をついた。
「はぁ……おまえは俺を信用しすぎだ」
「なんだよー。おまえのやる事いちいち疑ってたら、付き合ってらんねーだろ」
「そういう事じゃなく」
やれやれ、とシンハは頭を振り、もうひとつ小さなため息をついてから苦笑を見せた。しょうがないな、と諦めながらも優しく受け入れるように。
「俺を基準に物事を判断するのが、いつでも正しいわけじゃない。俺だって時々、実行したら国中から非難されて歴代一の愚王と言われるのが分かりきっていることを、それでもやってしまいたくなる」
「……たとえば?」
リーファは戸惑いながら訊いた。自分のせいで弱音を吐かせてしまったように感じられ、少し後ろめたい。対してシンハは肩を竦め、軽い口調で短く答えた。
「ここから逃げ出す」
「…………」
いつもやってるじゃねーか、と突っ込みかけて、リーファはそれを飲み込んだ。むろん彼が言っているのは、普段の“脱走”とは全く違うことだ。玉座も責任も何もかも打ち捨てて逃げ出し、二度と戻らない――そういうこと。
リーファは落ち着かなくなって、身じろぎした。
「やっぱり王様やってるの、嫌なのか」
「俺は別にいいんだ」
意外な返事だった。力みのない声から、無理をしていないと分かる。大丈夫だから心配するな、と言い聞かせるための強がりではない。
リーファが目をぱちくりさせると、彼は穏やかなまなざしで彼女を見つめ、しばし沈黙した。そして、ふと口元をほころばせる。
「そうだな、たまにはおまえに愚痴ってみるか。……俺自身が王の務めを続けることは、昔ほど苦痛じゃない。まわりも俺のやり方に慣れて、合わせてくれるようになってきたしな。だがこのまま、どこぞの反則的な国王のように、何百年も俺が居座れるわけじゃない」
神の化身たるサラシア国王を引き合いに出し、彼は一瞬、辛辣な笑みを閃かせた。リーファは彼の言わんとするところを察し、小さくうなずく。
いかに神の加護が強かろうと、シンハも元はただの人間だ。普通より長生きはするかもしれないが、死ぬ時は死ぬ。それに、神の化身ではないのだから、長く王位にあることを不満に思う国民は少なからず現れるだろう。
彼女が理解したのを見て取り、シンハは続けた。
「いずれ後継に席を譲ることになるが、……それが順当に行われるかどうかを考えるとな。逃げ出したくなるんだ」
「おまえをぶっ殺して玉座を奪おうって奴が、いるとは思えないけどな」
「そんな奴はいくらでも返り討ちにしてやるさ。言ったろう、俺自身のことじゃないんだ。世継ぎとなる、子供のことだよ」
言って彼は苦笑した。
「王妃もまだ決まっていないのにと思うだろうが……俺にとってはそれは、政治的な問題に過ぎないからな。どうでもいい。だがもし、生まれた子が俺と同じ、黒髪ではなかったら?」
「え……でも、おまえ本当は金髪だろ。太陽神がちょっかい出さなきゃ、子供も金髪になるんじゃないのか?」
「多分な。だが俺の本来の姿を知っている貴族はいないし、事情を説明したとしても、不義の子だから加護を授かれなかったのではないか、とささやく者は現れるだろう。よりによって俺の弟は、血筋に難癖をつけられまくる相手と結婚してくれたからな。国王である俺の子にも問題があるとなったら、次の王は当家からこそ、と言い出す奴がいるだろう。実際、心当たりが何人かいる」
「……マジかよ」
「と言って、もし逆に黒髪だったら? 俺と同じように、太陽神に余計な手出しをされて、この髪と目の色を受け継いでいたら、どうなる。レズリアは神の国だとか思い上がって、領土拡張へと国策を導く連中が出てくるだろう。黒髪の二代目となれば、期待も圧力も、利害がらみの思惑も、桁違いだ。穏便な治世になるとは到底考えられん」
シンハは淡々とそこまで語り、だから、と両手を広げて言葉を切った。
だから時々、逃げ出したくなるのだ。地位も責任も、期待もしがらみも、何も追って来られないほど、どこまでも遠くへ――。
そんな彼の思いを察して、リーファは沈んだ表情になった。あまりにも問題が大きすぎて、何も出来ない己のちっぽけさが悲しくなる。彼女はやるせなく、夏草色の双眸をじっと見つめ返した。
「……あのさ、うまく言えないけど……」
考えはさっぱりまとまらなかったが、思いだけは胸いっぱいになって、口からこぼれ出す。
「もし、もしもだよ、本当にどっかうんと遠くに逃げることに決めたら、そん時はオレも付いてくから。っていうか、いっそカリーアに逃げるのだってアリだよな。そしたらオレも、少しは役に立てると思うしさ」
「そうだな」
否定も肯定もせず、シンハは穏やかに応じる。リーファは首を振った。
(違うんだ、言いたいのはこんな事じゃない。そうじゃなくて、もっと、もっと)
渦巻く感情をうまく捕まえられない。もどかしくて、切なくて、泣きたくなる。
「じゃなくって……っ、ああもう、シンハ、ちょっと手ェ出せ!」
「??」
いきなりの命令に、シンハは不審な顔をしながら、それでも片手を差し出した。リーファは首を振り、何かを受けるように両のてのひらを上に向けて見せる。シンハがそれにならうと、リーファは思い切り自分の手をそこへ打ちおろした。
「痛っ!!」
バチィン、と盛大な音が響く。顔をしかめて抗議の目を向けたシンハに、リーファは断固として言い切った。
「よっし、大丈夫!!」
「……は?」
「大丈夫! おまえなら出来る!!」
リーファは有無を言わさず繰り返した。叩きつけたてのひらが痺れていたが、おかげで気合が入ったように思えた。
「悩んでたって、そん時になってみなきゃ分かんねーだろ? おまえが嫁さん貰って子供育てて、ジジイになって位を譲る頃にはさ、髪の色がどうかなんて誰も気にしなくなってるかも知れないじゃんか。っていうか、そういう風にしてやりゃいい話だろ? もしおまえの子供が全然似てなくて、弱っちくて馬鹿で王位を継がせられない奴だったとしても、だからって殺されたりしないように手を打ってやりゃいいじゃねーか。ひょっとしたら、おまえより強くて賢くて、おまえが助けてやらなくても自力で大層な王様になっちまう奴かも知れないんだしさ!」
強引な楽観論だという自覚はあった。ぽかんとこちらを見ているシンハが、今にもしかめっ面になって否定するか、呆れ返って頭を振るような気がする。それでもリーファは退くわけにはいかなかった。語気を強めて言い募る。
「大丈夫だよ、おまえなら大丈夫! 何とかなる!!」
「…………」
「万が一、どうしようもなく運が悪くて行き詰まって、やっぱ逃げなきゃどうにもならなくなったら、そん時はオレが逃がしてやるから!」
と、ついにシンハが、堪えきれなくなったように失笑した。そしてそのまま、肩を震わせてくっくっと小さく笑い続ける。リーファは途端に恥ずかしくなり、耳まで赤く染まった。無茶を言ったという自覚があるだけに、笑うなと責めることも出来ない。
リーファが黙って羞恥に耐えているのに気付くと、シンハは咳払いしてごまかし、いつもの微妙な笑みを浮かべた。にこりともニヤリともつかない、優しくて、しかしどこか面白がっているような笑み。
「そうだな。……おまえ、気が付いてるか? おまえが自分を見失わずにいられるのは俺のお陰だ、と言ったが、たった今、おまえは霧の中にいた俺を引っ張り出したんだぞ」
「え……、あ、う、そうかい?」
なにやら大層なことをしたような。リーファは目をしきりにしばたたき、意味もなくきょろきょろして、もじもじと足を踏み替えた。
「えーと、まあその、……お役に立てたんなら良かったよ」
「ああ、役に立った。とても、な」
シンハは愉快げに笑い、来い来い、と手招きする。リーファが用心しながら近付くと、彼はいきなり彼女を引き寄せて抱きしめた。そして、笑いながら頭をくしゃくしゃかきまわし、額に口付けする。
「おまえの言う通り『何とかなる』としても、それは俺だからじゃない。おまえのような奴がいてくれるからだ。……感謝してる」
真摯な言葉をささやかれ、リーファはむず痒そうな顔になって笑った。
「感謝の気持ちも嬉しいけど、食い物の形になってたらもっと嬉しいなぁ」
「調子に乗るな」
シンハは笑って軽くリーファの頭をはたき、腕をほどく。リーファが口を尖らせて膨れると、彼はにやりとした。
「事件の解決祝いを、ちょっとばかり豪華にしてやるよ。後でロトが戻ってきたら、報告を聞かせてくれ。とりあえず部屋に戻って、一休みしろよ。アラクセスが心配するぞ」
「あ、いけね、そう言えば父さんにまだ顔見せてなかったや。んじゃまた後で!」
言われて思い出し、リーファは慌てて部屋を出て行く。だが扉のところでふと立ち止まり、振り返って「あのさ」と遠慮がちに問いかけた。
「おまえは、その……気にしないよな? オレがさっきみたいに、その……」
「飛びついたり殴りかかったり蹴りつけたりしても、か?」
「違う! いや違わないけど、それもだけど!」
「ああ分かってる。おまえはとっくに特別扱いだ、今さら遠慮するな」
シンハは寛容に応じ、それから意地悪く笑った。
「ばかでかい犬がじゃれついたからって、無礼だの節度だの言っても無駄だろうが」
「言いやがったな、この野郎。覚えてやがれ、次は噛み付くぞ」
がう、と一声吠えてから、リーファは執務室を後にした。部屋に残ったシンハが一人、複雑な苦笑を浮かべて首を振ったのを、彼女が見ることはなかった。