七章 (2)
メータ商会に着くと、リーファ達はまず本館の方へ向かった。
「猫いらずのことなんかは、女中さんが把握してるかな」
「多分な。……あれ、誰かいる」
裏手に回った二人は、勝手口に先客がいるのに気付いて首を傾げた。捜査を始めてから一度も見た事のない男だ。身なりからして、店の使用人ではない。だが正面から訪れる類の客でもないらしい。
二人が近付いていく間、その男は応対に出た女中と言葉を交わしていたが、突然、「ええっ」と驚きの声を上げた。そして、数回ぺこぺこお辞儀をして邪魔を詫び、踵を返して歩き出す。カナンとリーファは急ぎ足になり、男が帰ってしまう前に捕まえた。
「失礼、警備隊ですが」
こちらには何の御用で、とカナンが尋ねるまでもなく、男は二人の制服を認めて、ああ、と嘆息した。
「レジーナさんのことですね。亡くなられたとか。お気の毒に」
男は悲しそうに眉を下げ、頭を振った。白々しさは感じられない。リーファは男を観察して、ふむと推理した。
「もしかして、レジーナさんとは何か仕事上の付き合いがありましたか」
「ええ」
男はうなずき、勝手口を振り返った。応対した女中がまだそこにいて、こちらを見ているのに気付くと、彼はもう一度ぺこりと会釈してから、二人に向かって小声で話し出した。
「どうも、店の方には隠していたようですので、私の口からお話しして良いのかどうか迷うところなんですが……しかし、お金のこともありますしねぇ。実はレジーナさんからは、自分の店を開く資金として、月々の積み立てを預かっていたんですよ」
「この店を出て独立する、と?」
カナンが目を丸くした。こんな大店に勤めて、それなりの年数も経てば、小さな個人経営の店主よりよほど経済的には恵まれているはずだ。それを敢えて捨てたいとは。
「ええまぁ。去年の年明けでしたかね、相談に見えられて。あ、うちは何軒か貸し店舗を扱っておりますのでね、それで……」
開店準備に必要な資金や揃えるべきものなどを相談し、レジーナは男に月々決まった金額を渡して、出来るだけ安く上げられるように準備を頼んだという。
「今まで一度も、遅れたり忘れたりということはなかったのに、今月はまだ見えられないから、どうしたのかと様子を見に来たんですよ。まさか亡くなっていたなんて」
本当にお気の毒です、と男はまた嘆息した。
二人は念のため、男の名前と事務所の所在地を確認してから、ひとまず彼を放免した。カナンは複雑な顔で本館を見やり、独り言のようにつぶやく。
「そんなに嫌だったのかねぇ」
「使われるのが性に合わないのもいるさ。大店で色々見てるうちに、自分でも好きなように仕切れる店が欲しくなったのかも知れないし。……まぁもちろん、中で地味に揉めてたってことも、あるかも知れねーけど」
リーファはカナンの考えていることを察し、中立的な意見を述べておいた。独立心の強いレジーナが、使用人同士のみならず雇い主側とさえ、水面下でいざこざを起こしていたとしても不思議ではない。
だが、単に職場環境が嫌だというだけなら、他の勤め口を探す方が安全だし、金もかからない。自分の店を持つという目的には、きっともっと積極的で前向きな動機があったのだろう。
それを、一番残酷で取り返しのつかない手段によって、潰されてしまった。
リーファはレジーナに対する同情を深めながら、カナンを促して勝手口に向かった。
興味津々になりゆきを観察していた女中は、何も教えてもらえず不満そうな顔をしたが、用件を聞くと女中頭に取り次いでくれた。
「猫いらず、ですか?」
女中頭は変な顔をして、おうむ返しに確認した。二人がうなずくと、彼女はちょっと考えてから、「いいえ」と首を振った。
「先月の末にまとめて買って、まだ一回も使ってませんからね。壺にいっぱい入ってるはずです。買い足す必要はありませんよ」
「そうですか、どうも。ところで、ユネアさんは今、お仕事中ですか」
カナンは礼を言って、さりげなく質問する。
「ユネアですか。ええ、表に出ておりますけども。呼んで参りましょうか?」
「ああ、いえ、急ぎませんので。後でまた伺います。もし時間が取れたら、宿舎の事務室に来て欲しいと、お伝えください」
お邪魔しました、とカナンは愛想良く笑ってその場を離れた。リーファは並んで歩きながら、ひそひそ話しかける。
「逃げられないかな?」
「客やほかの店員の目があるから、無理だろ。それに、俺達は何の用件で来たとも言ってないのに、逃げたら自分が犯人ですと白状するようなものじゃないか。仮に逃げたとしても……どこへ行くんだ? 匿ってくれる当てがあるにしても、ユネアは人付き合いが良いようだから、伝手を辿ればすぐ見付かるさ」
「そう言われたらそうか。んじゃ、あんたは事務室で管理人さんを足止めしといてくれよ」
「おいおい、何をする気だ? 俺は何も指示は出してないぞ」
カナンが白々しくとぼける。リーファは脇腹を小突いてやりたくなったが、昨日のことを思い出し、ぐっと堪えた。
「部屋を確認しに行くだけだよ。ちょっと邪魔されたくねーからさ」
「ああ、それなら全然構わないとも、存分に嗅ぎまわってくれたまえ」
よりにもよってセルノの口調を真似し、カナンは偉そうに許可する。今度こそリーファは我慢できず、思い切り足払いをかけてやった。
少し砂っぽくなったカナンが事務室で管理人と雑談している間、リーファはレジーナの部屋の鍵を借りて、階段を上がった。行き先はしかし、そこではない。
一部屋一部屋、名札を確認しながら静かに廊下を歩く。三階に上がってユネアの部屋を見つけると、リーファは左右を見渡して人の気配がないのを確かめ、愛用の七つ道具に手を伸ばした。
簡単なつくりの錠なので、すぐに開く。派手な音もせず、すんなりと。
リーファはするりと中に忍び込むと、静かに扉を閉めた。中にある家具は基本的にレジーナの部屋と同じだったが、ユネアの部屋は全体に、潤沢、という表現が相応しい状態だった。
自分で購入したのであろう小さな棚には余分の茶器があり、窓には洒落たカーテンが掛けられていた。書き物机のほかに小卓があって、レースで縁取りした布が敷かれている。他人に見せること、接客することを意識した部屋だった。
リーファはざっと室内を見回し、書き物机の下に潜り込んだ。普通に室内を見ても気付かない、そして客の前で開閉することのない場所。ベッドの下のように、あからさまにものを隠す目的でもない場所。
案の定、古い何かの箱が、足の邪魔にならない隅に置かれている。
小箱を引っ張り出し、明るいところでそっと開ける。中には、ごく私的なものであろう手紙や、何か思い出の品らしきものが様々入っていた。さしものリーファも、それらを漁るのは気が引けて、後ろめたく感じる。目的の物がなければ、すぐにも蓋を閉めて元通りに戻していただろう。
そう、ただひとつ、場違いな物がそこに入っていなければ――。
一方カナンは、事務室の扉を叩いてユネアが入ってきたことに、少なからず驚いていた。女中頭にああ言いはしたものの、まさか自分から来てくれるとは思っていなかったのだ。
ユネアの顔はこわばり、平静を保とうと努力しているのが明らかだった。
「お忙しいところ、すみません。後でも良かったんですが」
カナンは立ち上がって慇懃に謝り、どうぞお掛けください、と促す。しかしユネアは座ろうとしなかった。忙しいのだ、と言いたげに、突っ立ったまま腕組みする。
「何の御用ですか。手短にお願いします」
「ああ、すぐに済みますよ。あなたが昨日、薬店で購入された猫いらずのことです」
「……店の用だと言ったのが、嘘だとばれたんですね」
ユネアは自分から言って、ぎゅっと眉を寄せた。どうやら女中頭は、余計なことまでしゃべってくれたらしい。カナンは先制されて当惑した顔を作り、ええ、とうなずいた。
「差し支えなければ、何のために買われたのか教えて頂けますか」
「…………」
ユネアは不機嫌な沈黙で応じる。居合わせた管理人夫妻は、どういうことかと不安げに、ユネアとカナンを見比べた。
ややあってユネアは、顔を背けたまま苦々しい声で答えた。
「治療の、ためです。そんなこと、堂々と言えますか」
「あ……」
カナンは予想外の答えに、今度は本当に言葉に詰まってしまった。
砒霜で治療する病、と言ったら、梅毒である。完治するわけではないが、少量ずつ摂取すれば進行を抑えられると言われているのだ。
ばつの悪い沈黙が降りる。ユネアはしかめっ面のまま「私が使うのじゃありませんけど」と言い足し、大きなため息をついた。
「ご質問がそれだけなら、もう仕事に戻ります。それとも、まだ訊きたいことがおありですか」
誰が使うのかまで知りたいか、との非難を込めて、挑むように言う。応じられなかったカナンに代わり、別の声が訊いた。
「じゃあ、もうひとつ質問を。これも治療に使うんですか?」
いきなり背後から声をかけられて、ユネアは滑稽なほどに竦み上がった。幽霊に肩を叩かれたかのように、飛び上がらんばかりにして振り返る。そこにはリーファが立っていた。無表情に、手にはジャムの瓶を持って。
「ユネアさん。あなたは賢い人だ。昨日私に見られた時からきっと、いずれ訊かれる、その時にはこう答えよう、と考えていたんでしょう。そして、その用意が功を奏したのを見て、今度は自分が店を追い出されないように、私が使うのではない、と言い訳を付け足した。誰に渡したのかと問い詰められたら、どう答えるつもりだったんです?」
「……何を言っているのか、分からないんですけど」
ユネアは青ざめて声を震わせながらも、強気に言い返す。リーファは一歩進み出て、ユネアの間近に迫った。
「答えられますか。昨日買った猫いらずは、自分で使うのでないなら、誰のためです?」
「…………」
「その人にも、口裏を合わせるように頼んだんですか。それとも、今この場で出任せを言うつもりですか。他人を巻き込み、嘘に嘘を重ねて、結局どこへ行きつくのか。分からないほど馬鹿じゃないでしょう」
冷ややかに容赦なく追い詰められ、ユネアは無言で我が身をきつく抱き、かたかた震えだした。長い沈黙の末に、突如その目から涙が溢れ出す。
「許せなかったのよ……っ」
絞り出すように、ユネアは床に向かって言った。
「あの人っ、気持ち悪いって、侮辱して……! 私が、なんとか……お互い気持ちよく過ごせるように、努力しようと、言ったのに!」
憎悪と怒りを込めて吐き出し、ユネアはキッと顔を上げてリーファを睨み付けた。そこにいるのが警備隊員ではなく、憎い女であるかのように。
「笑ったんです。あの人、私を嘲笑ったんです。気取ったことを言うな、あんたの顔を見て気持ち悪くならないわけがあるか、って」
流石にそれは酷い。リーファは同情的に眉をひそめた。調べているうちに見えてきたレジーナの人物像からして、恐らく言ったのはこんなところだろう。
――気持ちよく? 出来もしない事を気取って言わないでよ。あんたなんかと顔を付き合わせちゃ、気持ち悪くなるに決まってるじゃないの――
リーファはため息をついた。レジーナには子供じみた正直さがあったのだろう。感じ悪い、と陰口を叩かれる一方で、悪い人じゃないんです、と弁護される。良くも悪くも率直な言動をする女。恨みを買っても無理はない。
皆が押し黙った中、ユネアはまたうつむき、嗚咽まじりに話し続けた。
「しかもあの人、楽しそうだった。心配しなくても出て行くわよ、って笑って。じきにお互い、顔を見ることもなくなる、本当に気分良く過ごせるようになるから安心なさい、なんて言って。……あの人、自分の店を持つ計画だったんです」
声に含まれるものを感じ取ったリーファは、驚き、まじまじと彼女を見つめた。その視線にユネアは気付かず、憎しみに顔を歪め、床にぽたぽた涙を落としながら、拳を握り締めて言葉を絞り出す。
「許せなかった。人を好き放題に傷付けて、侮辱して、貶めて……自分だけ自由を手に入れて、外に出て行くなんて。そして今度は、自分の城を構えて、思うさま人を傷付けるのかと思うと、許せなかった……!!」
「…………」
リーファは唖然となった。
いったい彼女は何を言っているのだ? 途中までは分かった、共感も出来た。だがその先は何なのだ。本気で言っているのか。こんな言い分が正しいと、己の怒りが義憤だと、本当に信じているのか? わけが分からない。
涙声が、繰り返し言い訳する。
「あの人を野放しになんて、出来なかった。これ以上、人を傷付けることは、許せなかったんです……!」
絶句しているリーファの脳裏を、ふと、シンハの言葉がよぎった。
(ただの責任転嫁だ、まともに取り合うな)
頭に置かれた手の温もりを思い出すと、混乱しかかっていた心がぴたりと静まり、澄み渡る。リーファは小さく息を吐いた。
「いい加減にしなよ、ユネア。あんたは自分のした事を、何もかも他人のせいにしようとしてる。情けないと思わないのか? 侮辱されたのが許せなくて仕返しした、そんな単純な理由まで、見知らぬ誰かのせいにして、それであんたは少しは気が晴れるのか」
ユネアは答えず、その場に泣き崩れる。リーファの言葉など、耳に届いていないのかも知れない。
リーファはやりきれない思いで、カナンと顔を見合わせて首を振った。