六章 (2)
仕方なくリーファは言われた通り本部に戻ったが、その日はもう、自分でも何をしているのか良くわからない状態だった。
時間が経つに連れて、路地での不快な出来事に対する怒りが後退し、代わって罪悪感が前面に現れてくる。
カナンには入隊試験でも世話になり、最初の配属先で一緒になって、現場検証の手順から報告書の書き方、昼食はどこの屋台が早くて安くて美味いか、などということまで、それこそ手取り足取り教えてもらったのだ。
目をみはるほどの抜きん出た能力はないが、リーファの新しい考えにも積極的に協力する柔軟性があり、退屈な捜査にも手抜きはしない、警備隊員としては至極まっとうな青年。
その先輩に、あんな顔をさせた。あんなことを言わせた。
(……オレ、やっぱり邪魔なのかな)
女だから。その一点だけで。
(ここにいちゃ、いけなかったのかな)
次第に落ち込んできたリーファは、城に帰る頃にはすっかりうつむいてしまっていた。
悄然と跳ね橋を渡り、庭をとぼとぼ歩いて、城館に入る。廊下を進む内に、自分でもどうしようもなく、視界が揺らぎだす。
いつものように執務室に入り、いつもの二人を目にした途端、とうとう涙がぽろりとこぼれた。
「リー!」
驚いてロトが声を上げ、書類をそこらに放り出して駆け寄ると、リーファの肩に手をかけた。どうしたのかと訊かれるより先に、リーファの口から言葉がとめどなく溢れ出した。
「あんたに散々言われてたのに、分かってなかった。馬鹿だったよ、ちゃんと聞いとけば良かった」
「……? 何があったんだい、リー。とにかく、座って」
ロトが心配し、ソファに座るように促す。だがリーファはその場に立ち尽くしたまま、自分を罰するようにきつく拳を握り締めていた。
「気安く体に触るな、って。前に、言われたのに。あんたの言う通りだったよ」
前から彼女は、何の気なしに肩や腕に触れたり手を取ったり、親密な仕草をしては、ロトに注意されてきた。リーファにとっては特段深い意味はなく、ただ子供がじゃれる程度の感覚でしかなかったのだが、それが通用するのはシンハだけだということを、分かっていなかったのだ。
「なあロト、やっぱりオレが悪いのかな。何も考えずにべたべたして、それじゃ何をされても自業自得ってことなんだよな?」
ほとんど掴みかかるようにして言い募る。説明なしでも事情が窺える言葉に、ロトとシンハが揃って顔色を変えた。
「リー、誰に何をされた」
シンハが執務机の向こうで立ち上がる。だがリーファは答えず、食い入るように、何度も自分に忠告してくれていたロトを見つめる。
「オレのせいなのかな、全部オレが悪かったから、だからあんな……」
「落ち着いて。とにかく一度、ゆっくり息をするんだ」
ロトはリーファの肩を軽く揺すり、混乱しているリーファの頬に両手を添えて言い聞かせる。でも、とまだ何か言おうとするリーファに、彼は断固とした口調で命じた。
「目を瞑って、ゆっくり数を数えて。ひとつ、……ふたつ」
言われるままに、リーファはぎゅっと目を閉じる。ロトの声が静かに数を読むのにあわせて、呼吸が落ち着いてゆく。
「みっつ……よっつ」
きつく寄せられた眉根が緩み、すう、と自然に息を吸い込む。肩の力が抜けていく。
知らず、ほっと息をついた。それが合図だったかのように、ロトの声が止む。
「……?」
代わりに何か、顔に迫るような感覚がした。目を開けようとしたが、その直前、正体が分かった。
ふわり、と。優しく、しかしそれと分かる程度にしっかりと、唇が合わさる。
驚きのあまり、リーファの頭の中は真っ白になった。
どのぐらいそうしていたのか分からない。だが一瞬、軽く唇を吸われた途端、針で刺されたように正気を取り戻した。
「――っっ!!」
反射的にロトを振り払い、しかし同時に右手をがっしと掴んで、小手を返しつつ肘に手刀を落とす。もちろん足払いも忘れない。
「うわっっ!!」
見事に投げ倒され、ロトが叫んだ。そこにリーファの悲鳴が重なる。
「何すんだよ!?」
真っ赤になって混乱しつつも、しっかり捕らえたロトの右手は離さない。いつもなら腕を回して体をうつぶせにさせ、膝で押さえつけて逮捕、となるところだ。流石は警備隊員、天晴れと言うべきか。
ロトは絨毯に叩きつけられたまま、リーファを見上げて苦笑いした。
「蹴りか拳は予想したけど、まさか投げがくるとは……」
あいて、と呻きながら、用心深く立ち上がる。呆れ顔のシンハを一瞥して肩を竦めてから、彼はリーファに向き直って真顔になった。
「さて今の場合、悪いのは君か、それとも僕かい? 何か嫌な目に遭ったばかりなんだろうに、無防備に、言われるままに目を瞑ったりした君の、自業自得かい? もしそう思うなら、どうして君は僕を投げ飛ばしたのかな」
「っ……で、でも、それは、その」
リーファはまだ動揺がおさまらず、しどろもどろになって、視線をあちこちにさまよわせる。そんな彼女に代わって、ロトは自ら言った。
「そうだね、君は僕がこんなことをするなんて、まったく考えもしなかった。君の嫌がることを、僕がするわけがないと、完全に信頼してくれていたわけだ。だからこそ、裏切られた君は僕を打ち倒した」
「ご、ごめん」
「謝らなくていい」ロトは強く遮った。「悪いのは僕の方だ。君の信頼に付け込んだんだから。まあ、今のは理由があってわざとしたわけだけど……君に、何か同じようなことをした奴がいるなら、それは相手が全面的に悪い。そんな奴は、君の信頼には値しない、最低のクズだ」
声はどんどん怒りの色を濃くし、表情は厳しく険しくなっていく。
リーファはその迫力にたじろぎながらも、慌てて弁護に回った。
「いや、その、確かに嫌な目には遭ったけどさ、カナンにも事情があって」
「カナン? 二番隊にいた頃の先輩かい」
凍てつく声音で確認され、リーファは失言に度を失って、思わず逃げ出した。どこへかというと、国王陛下の背後へ、である。盾にされたシンハは、複雑な顔でため息をついた。
「俺を当てにするな。事と次第によっては、俺がこの手でそいつを吊るしてやるぞ」
「ちょ、待て待て待て、おまえが言うと洒落になんねーよ! 情状酌量って言葉はないのか、おまえの辞書に!」
「最新版では削除されたようだな」
「うわー!! 残しとけぇぇ!!」
馬鹿なやりとりのおかげで、場の空気も少しばかり和らいだ。ロトはまだ怒りのおさまらない様子だったが、それでも、ふっと苦笑まじりのため息をついた。
「さてと、少しはまともな判断力が戻ったかい、リー」
「う、うん、戻った。戻ったから勘弁してやってくれよ、な、二人とも」
どうどう、となだめる仕草をしたリーファに、暴れ馬扱いされた二人は胡乱な目つきをした。やれやれ、とシンハが頭を振る。
「おまえがそこまで庇うんだ、それなりの事情はあったんだろうが……」
だがしかし、と続く前に、リーファは「そうそう」と急いで口を挟んだ。
「それに実際、何もなかったんだよ。いやその、ちょっと気分悪くはなったけどさ、実害はなかったっていうか。詫びに昼メシ奢らせたし」
「それで気が済む程度のことだったのか?」
本当だろうな、とシンハがじっと夏草色の瞳で見つめてくる。リーファは思わず明後日の方に目をそらしかけたが、なんとか堪えて受け止めた。
「うん。もう気が済んだ。ちゃんと話し合ったし、解決したと思う」
しっかりと一語一語意識して言うと、自分の中でも気持ちが落ち着く。静かに深呼吸すると、のぼせていた頭が冷えた。リーファは目を伏せ、思いを整理する。
「相手が全面的に悪い、ってロトが言うのも分かるけど、やっぱりオレも悪かったんだ。自分の立場ってのを、ちゃんとわきまえてなきゃいけなかった。いつまでも、新入りの子分扱いして貰ってる気分のままでいたから、変な気を起こさせたんだ」
女だから、という問題以上に、己の心構えがなっていなかった、と自覚する。実際まだまだ一人前には程遠いが、しかし、とうに新入隊員ではないのだ。後輩だからと己を甘やかし、自分がどう振る舞おうと先輩は大目に見てくれる、擁護してくれる、と無意識に決め付けていた。
「オレがもっと、しっかりしてりゃ良かったんだ」
「落ち度を認めて内省できるのは、君の美点だけどね。相手の非まで、自分のせいにしなくていいんだよ」
ロトが渋面で諭し、シンハはリーファと向かい合って、くしゃりと頭を撫でた。
「大方、そいつに言われたんだろう。おまえのせいで魔が差したとかなんとか。そんなものはただの責任転嫁だ、まともに取り合うな」
「でもさ」
リーファはちらっと遠慮がちな視線をロトに向けてから反論した。
「ロトがしょっちゅうオレを叱ったのは、そういうことがあるって分かってるからだろ? オレが自分で気をつけるべきだから、じゃないのかい」
「…………」
シンハは沈痛と言って良いほどの表情で天を仰いだが、ため息ひとつの後でもう一度リーファの頭を撫でた時には、その表情は消えていた。
「確かにな、リー。人間が弱い生き物だってことは、おまえも知っての通りだ。出来心だとか、気の迷いだとか言って、ちょっとした誘惑に簡単に屈してしまう。だがその弱さは、責任転嫁を正当化する理由にはならん。誘惑するものが悪い、などとはな。つまずきやすい罠は片付けておくに越した事はないが、現実問題としてすべての“隙”をなくすことなど不可能だ」
そこまで真面目に話してから、彼は不意に皮肉っぽい笑みを浮かべ、おどけた口調になった。
「まあ、おまえは稀に見る良い女だから、誘惑に負けたその男には、同情しなくもないがな」
「馬っ鹿、何言ってんだ」
思わずリーファはふきだし、苦笑いになった。
「厭味ならもうちょっと上手いこと言えよ。けど……今の話で、なんとなく分かった。昼間、猫いらずのことが話題になったんだけどさ」
急な方向転換に、シンハとロトは揃って目をしばたく。リーファはカナンとの会話をかいつまんで話し、ちょっと頭を掻いた。
「要するに、無用心にしてるのは良くないけど、それと悪事を働くこととは、まったく別の問題だってことだよな。オレも昔は色々盗んだし、出しっ放しの開けっ放しが悪いとか言ってたけど、でもだからって盗みは悪くないのかって言うと、そうじゃない。そりゃま、オレにとっちゃ当たり前のことだったし、ほかに生きてく方法がなかったから、別に反省はしてねーけど。でもそれが褒められたことじゃないってのは、ちゃんと分かってる」
「そうだね」ロトがうなずく。「やっといつもの君に戻ったみたいだね。良かった」
「う……」
途端にリーファは赤くなった。恥ずかしくなってしまい、相手の微笑を正視できない。
「も、ももも戻ったかな、どうかな。よくわかんねーや、まだどっか抜けてるかも。いやでもその、二人とも、あり、ありがとな。オレもうちょっと、頭冷やしてくる。んじゃっ」
支離滅裂なたわごとを口走りながら、そそくさと手を振って部屋から逃げ出す。珍しく階段でつまずく音がして、部屋に残された二人はひやっとして廊下を見やった。
すぐに足音は正常に戻り、ぱたぱた遠ざかって行く。
「無事だったようだな」
やれやれ、とシンハは息をつく。それから彼はロトに向かって、軽く揶揄する口調で言った。
「おまえにしては随分、思い切ったことをしたもんだな。驚いたぞ」
悪気のないからかいと、わずかばかりの安堵と寂しさが入り混じった、複雑な表情だった。シンハの予想に反して、ロトは照れもせず真顔のままでじっと見つめ返し、小さく肩を竦めた。
「先を越されたくなかったんですよ。あなたが同じ手を使ったら、色々と大変なことになりますから」
「……??」
「分からないのなら結構。気にしないで下さい」
「おい」
困惑する国王陛下を放って、ロトはさっさと仕事の後片付けにかかる。シンハは途方に暮れて瞬きしたが、ロトは結局そのまま最後まで相手にしてくれなかった。