六章 (1)
いつもより少し値段の張る店で、リーファは自分では絶対注文しないだろう値段の定食を頼み、遠慮なくぱくついた。向かいでカナンがうなだれているが、自業自得である。
しばらく黙って食べた後、リーファはそろそろいいか、と切り出した。
「で、何かあったのかい」
「……?」
まだ萎れたまま、カナンがおずおずと顔を上げる。リーファは無表情を保ったまま、茸のソテーを口に放り込んだ。
「昨日から、なんか様子がおかしかったからさ。悩み事でもあるんじゃないかと思って」
「おかしかったか?」
カナンは眉を下げたまま聞き返し、もそもそとパンをかじる。リーファはうなずいて、相手を真っすぐに見つめた。
「オレと組むのはやりやすい、ってったろ。じゃあ普段はどうなんだ? 仕事、やりにくくて困ってるのかい」
「あー、いや、まあ……仕事は普通だよ。参ったな、これだからおまえは……」
カナンは頭を抱えてうつむき、恨めしげな口調でこぼした。
「親切にするなよ、気があるのかと誤解するだろ」
「オレのせいかよ!」
「そうだ、いや違う、違うんだが」
しばし意味不明に唸り続けてから、カナンはため息をつき、顔を上げた。
「なぁリー、俺と結婚する気ないか?」
「ぶッッ」
ちょうど水を飲みかけていたリーファは噴き出しそうになり、むせ返って咳き込んだ。
「げほっ、げほげふッ! いきなり、何……げふん! なんで、ここで、そんな話になっ、ごほごほ!」
「ないよなぁ、そうだよなあ……はぁぁ」
カナンは勝手に返事を聞いたことにして、一人憂鬱げに肩を落とす。リーファはなんとか喉を落ち着かせてから、口を拭って問うた。
「もしかして、気に入らない相手と無理に結婚させられそうなのか?」
「ああ、まあ、そんなところかな」
「……??」
煮え切らないカナンに、リーファは顔をしかめる。ようやくカナンは、ぼそぼそと話しだした。
「班長になったし、そろそろ結婚しろって、お袋とか親類がうるさいんだ。次々話を持ってくるんだが……何て言うか、駄目なんだよ。いや、結婚自体はさ、俺もしたいとは思うんだ。けど、相手が……うう。いいか、今から言うのはただの独り言で愚痴だから、聞き流せよ。わかったな」
不吉な前置きをしてから、彼はリーファを見ずに続けた。
「おまえが悪いんだぞ。俺だって昔は、普通の女の子が好きだったさ。何が楽しいのかさっぱり分からんが、他人の噂話とか、どこの店の何が欲しいとか、そんな話で盛り上がってるのを、可愛いなぁって眺めてたんだ。けど、おまえみたいな女がいるって知ってしまったら、駄目なんだよ」
カナンは話しながら、フォークで皿の卵をぐちゃぐちゃかき回した。
親や親類が連れてくる見合い相手は、にこにこ愛想は良いものの、彼とは全く話が噛み合わない娘ばかり。子供は何人欲しいだとか、王都のどの辺りのどんな家に住みたいだとか。中にはもう女房気取りで、その服はもっとこうした方がいいとか、食事はきちんと取れているのかとか、躾けに取りかかる者までいる。
彼の仕事については給与の額を除いて関心がないか、興味を持つふりはしても、適当かつ的外れのことしか言わない。カナンが家事の実際を知らないように、彼女らも警備隊の実務など知りようがないのだから、会話が成り立たなくても仕方がないのだが。
それでも、外見が自分の好みで、優しく接してくれるのなら、結婚相手には充分だと思っていた。昔は。だが、リーファに出会ってその価値観が見事に崩れてしまったのだ。
「おまえはおまえで、最近どんどん女らしくなってきたし、そのくせお構いなしに親切だし優しいし、平気で体くっつけてくるし、俺もう理性の限界だって……」
「おい待て、いい加減にしろよ。じゃあ何か、オレは今後一切あんたを無視すりゃいいのか。事務連絡以外は口も利かない目も合わせない、半径五歩以内には近寄らない、そうすりゃいいってのか」
リーファが憤慨すると、カナンは即座に「それは困る」と否定した。
「聞き流せって言ったろ? 俺だって分かってるさ、おまえは大事な仕事仲間で、一番やりやすい相手なんだから妙な考えは捨てろ、ってな。第一、城暮らしで毎日いい男ばっかり見てるおまえが、俺なんか相手にするわけないし」
はーぁぁ、と、特大のため息。そんなカナンの前で、リーファは曖昧な顔になった。いい男、と言われて脳裏にシンハの姿が浮かんだが、しかし、彼を基準にしたら誰も相手にならなくなってしまうではないか。
「城住まいは関係ねーと思うけどな」
彼女がつぶやくと、カナンはちょっと訝る目をしてから、いやいや、と首を振った。
「いくらなんでも、国王陛下と引き比べちゃいないさ。けど、しがない警備隊員よりずっと条件のいい奴がいるだろ? ほらあの、国王付秘書官とか」
「っっ!? なんでロトが出て来るんだよ!!」
思わずリーファはテーブルに拳を叩きつけて叫んだ。周りの客が、なんだなんだと振り返る。リーファは慌ててぺこぺこ頭を下げて、騒がせたことを詫びた。
カナンはそれをじっと観察していたが、リーファが渋い顔で席に座りなおすと、何事も無かったように続けた。
「他にも色々いるんだろ。俺はよく知らないけど、近衛兵とか、貴族だって出入りするし」
「そ、そりゃ……いるけどさ。オレには関係ねーよ」
「じゃあ、俺と結婚してくれるか?」
「それは無理。つーかあんた、真面目に言ってねえだろ。愚痴りたいだけのくせに。真剣に求婚する気があるんなら、時と場所を選べよ。それにせめて、もうちょっと気合い入れろって」
「やっぱりおまえは、俺のことをよく分かってる」
「それなりの付き合いでございますからね、先輩」
「……だな」
カナンは苦笑して首を振り、冷めてしまった卵を口に運ぶ。リーファは最後のパンで皿を拭いて片付け、水を飲みながらふむと考えた。
「話が合わなくても気が合えば別にいいんじゃないか? 同僚と同じものを嫁さんに求めるのは、何か違うだろ」
「そうは言ってもな、考えてみろよ、おまえなら耐えられるか? 仕事が終わって疲れ果てて家に帰ったら、子供がどうした、隣の奥さんがああしたこうした、どこそこの店でこんなものが売ってたから欲しい、そんな話ばっかりされるんだぞ。毎日だぞ。どうだ」
「……う……それは、確かに……」
言われてリーファは返答に詰まった。意識した事はなかったが、彼女の場合、城に帰ればシンハやロト、アラクセスが話し相手だ。仕事で何かあったらすぐ相談できるし、何事もなければ、お互い余計なことは言わない。それはとても居心地の良い環境だったのだ。
結局リーファは、何の役にも立たない慰めしか言えなかった。
「まあ、捨て鉢にならないで、もうちょっと頑張れよ。マシな相手が見付かるまで探すか、少々難があってもうまくやっていくコツを見付けるんだね」
「それしかないだろうな」
カナンはどんよりと暗雲を背負い込み、やっと皿を空にした。ぐいと水を呷り、気分を切り替えようと頭を振る。
「やめだ、やめ。それより仕事の話だ。さっき薬店から出てきたよな。レジーナは何を買ったんだ?」
「いつ質問されるのかと待ってたよ」
リーファはにやっとしてから、テーブルに身を乗り出して声を潜めた。
「猫いらずだった。店で使うものだって言ってたけど、オレに見られたのはあんまり嬉しくないみたいだったな。なくなったジャム、睡眠薬じゃなくて猫いらずを盛られたってことは考えられるかい?」
「いいや」
カナンは即答した。私事ではぐだぐだの青年も、仕事になると顔つきが引き締まる。彼はちょっと考えてから、自分の記憶を確かめるように慎重に言った。
「猫いらずは一番手軽な毒だから、俺も今までに何件か、未遂も含めて毒殺事件を調べたことがある。悪戯とか誤飲も少なくない。それで知った限りでは、猫いらずを口にしたら下痢をするんだ。死なない場合もあるし、そのまま数日中に死ぬこともあるけどな。俺が見た場合は全部、水みたいな下痢をした痕が残ってた」
「そっか。レジーナにはなかったんだな」
「ああ。気になるなら、薬店でメータ商会に売った量を確認して、商館の帳簿と、残っている猫いらずを調べてもいいが……あまり意味はないと思うぞ」
いつどれだけ買ったかは経費の記録で分かるとしても、使用した時期までは無理だろう。事件の直前にどれだけ猫いらずが残っていたのか、正確な数字が得られない限り、減ったのか減っていないのか判断がつかない。
「うーん、そうか」
リーファは唸ると、椅子に座ったまま、うんと伸びをした。
「じゃあ、本当に単なるお使いだったわけだ。何かの取っ掛かりになるかと思ったんだけど、甘かったか。それにしても、そんなに猫いらずの中毒が多いんなら、簡単に買えないようにすりゃいいのに」
「同じ事を考えなくもないけどな。けど、皆が手軽に猫いらずを撒けなくなって、鼠が大繁殖したら、えらいことになるぞ。王都みたいに人の多い所で疫病が発生したら、一度に何百人が死ぬか」
「ああ……うん、でもなぁ」
「そりゃな、どこの家にも、台所に人を殺せる毒があるってのは、考えるとぞっとする状況だ。けどそれを言うなら、包丁だって人を刺し殺せる。結局、問題の根っこは別にあるってことだろう」
なんだったら国王陛下に、毒物規制の厳格化を相談してみるか、と半ば冗談めかして言い、カナンは席を立つ。
「俺は張り込みに戻るよ。おまえは本部で念のためにレジーナの遺体をもう一度確認して、あとは調書でも見直しててくれ。今日はそのまま帰ってくれていいから」
複雑な苦笑を浮かべたカナンに、リーファも返事に困って無言のまま立ち上がる。カナンは彼女の横を通り過ぎる前に、小声で改めて「悪かった」と詫びた。そして、
「おまえも今後は、あんまり気安く触ったりくっついたりしないでくれ。頼むよ」
卑屈な自嘲に歪んだ微笑でささやくと、そのまま店を出て行った。