2―2
「!」
唐突に響いたノックの音に、透子は現実へと引き戻された。思わず出入り口のドアの方に目を向けるが、もう一度聞こえてきたノックは窓からだった。
「透子ー」
「シギル」
ベランダの窓際にちょこん、と座ってシギルがひらりと手を振った。
どこで調達したのか服装は人間のものに合わせ、人と逸脱した頭部の羽は無くなっている。赤い瞳だけが鮮やかで異質だが、カラーコンタクトと言い張れなくもないだろう。
からりと窓を開け、透子はシギルを手招きする。
朝早くとはいえ誰が道を通るか判らない場所で噂の種を振りまく趣味は透子にはない。
「どうしたの?」
「ええっとね、今日ヒマ?」
「? 何で?」
学校は土、日、月の三連休の初日に入っていて、何か予定を立てていた訳ではない。そもそも命を狙われている状況で、そんな気分になるはずもない。ヒマといえばヒマだった。
「皇希がそろそろ魔界に戻んないとまずいんだよね。僕一人だと黒帝が来た時不安だし。数時間でいいんだけど」
「それは別に平気だけど、雄流さん、どうかしたの?」
何かまずい事にでもなったのかと表情に不安が出たのだろう、シギルは気楽に笑って手を左右に振った。
「違う違う。いつもの事だから」
「いつもの?」
「皇希の右目が義眼だって知ってるよね。神の力と魔の力ってのは本来相反するものだから、定期的に薬打って中和しなきゃいけないんだよ」
「へえ。案外不便なのね」
視神経まで繋げてしまう技術の割に、融通は利かないらしい。
「まあね。でも人間の科学だってそうじゃん?」
無理をすれば必ずどこかに歪が生まれる。世界というのはよく出来ているのだ。
「でも定期的に、なんでしょ? 雄流さんなら見越して薬ぐらい持ってそうだけど。あ、自分だと難しいとか?」
まさか直接目に薬を打つわけでもないだろうが、自分ではやりにくい場所というのは確かにある。
「そういうわけじゃないんだけどね。皇希はあれで神の眷属だから、透子が」
(私が?)
思わぬところで名前が出て驚く。しかし、その疑問が解消される前にシギルの言葉を遮るようにして、皇希の声が割り込んだ。
「シギル」
「っ!」
見れば、いつの間に来たのかベランダに居た。
おそらく近くにいて様子を見てはいたのだろうが、シギル一人だけを向かわせたのは気遣いだったのかもしれない。
「何?」
シギルは振り返ると不満そうに答える。台詞を途中で切られたのが面白くなかったらしい。
「余計な事はいいから、紀上の姫の都合が付くなら、行くぞ」
「判ったよ。いい? 透子」
あっさりと退くと、シギルは透子に確認をする。
出かけるのは構わない。構わないが――
「……。あの、ちょっと着替えてからでお願いします……」
シギルには同性・年下故の気安さがあって、寝間着姿でもさほど気にならないが、皇希は別だ。
肩から上掛けを掛けて自分の格好を隠した透子に、シギルは不思議そうに首をかしげ、皇希は申し訳なさそうに苦笑していた。
「悪かったね」
そうなると判っていたから、シギルだけに行かせたのだろうが。
(判ってても来ちゃうぐらい、聞かせたくない話だったって事?)
そして透子への気遣い以上の意味が皇希に無いことの証明でもある。
(いいけど。良いんだけど、全然。大人だしね雄流さんは!)
「じゃあ、用意が終わったら声を掛けてくれ。シギル、お前も」
「え、何で」
「俺は構わないが、後で多分、怒られるぞ?」
「何で?」
「いいから」
(……?)
若干透子には意味不明なやり取りの後、結局シギルは大人しく皇希について姿を消した。
同性の眼ならそれほど気にはならないが、わざわざ好き好んで見せたい訳では決してないから、その方がありがたいのは確かだったが。、
「雄流さん、シギル。――用意できました、けど……」
からりとベランダの窓を開けて、控えめに外に向けて声をかけてみる。
「よっし。じゃあいこっか」
「うわっ!」
言いながらシギルは上から飛び降りてきた。
(まさか、屋根!?)
それはそれで、誰かに見られていたら恐ろしい噂が、と透子が若干顔を強張らせると。
「心配しなくて大丈夫だから。視覚障害魔術ぐらい掛ける程度の常識はあるよ」
「あ、有難うございます……」
――皇希がいてくれてよかったと、しみじみと痛感した。
「これから処現城に行く訳だけど、折角だし使ってみたらどうだ?」
「え?」
「それ」
戸惑う透子に、皇希は服に隠すようにして右の上腕に付けられているリピリスの腕輪を指差す。やはり堂々と付ける勇気は出なかったのだ。
元々リピリスの手首に飾られていたものなのだから、サイズが合うはずがないのだが、何故かぴったりと填っている。その気になれば額にでも着けられそうだ。
これも透子には理解不能な何らかの技術が使われているのだろう。
「いざという時に初めて使うよりいいだろう?」
「そうですね」
言われて透子は頷いた。使わなければいけない時はきっと余裕のない状態のはず。躊躇っているような時間は無いだろう。そう考えれば事前に試しておいた方がいい気がする。
「触ればいいんですよね?」
「そうだよ」
簡単なだけに、少し怖い。行く場所が判っていても未知の体験には違いないのだ。恐る恐る填め込まれている翡翠に触れる。
ギンッ!
「わっ!」
触れた途端、透子の周囲の空間が壊れ、透子を呑み込んですぐに修復された。おそらく一秒かかっていない。
そして今透子が立っているのは自宅の部屋ではなく、石造りの床に絨毯のひかれた広い部屋だ。パールホワイトの天蓋つきベッドと机のみの、広いが異様に殺風景な部屋。
「……えっと、ここって……」
見覚えがない場所だった。と言っても、初日にシギルに案内された数箇所しか透子はこの処現城を把握していないのだが。
「処現城。の、透子の部屋。どこで腕輪を使ってもここに出るようになってる。家具は趣味があるだろうから暇なときにでも街で見るといいよ。いつ来るか判んないから、取り敢えずベッドだけは用意しちゃったけど。紀上の姫を客室やらなにやらに泊めるわけにも行かないしね」
「私あんまりここに居ないんだから、それでいいような気がするけど……ってか外泊はしないと思う……」
皇希やシギルにそう気を許している訳ではないし、見知らぬ場所で一夜を過ごせるほど神経は太くない。
「どうなるかわかんないからね。襲撃の基本は夜だから」
「……」
言われれば、そうだ。黒帝は朝早くから来ていたが。
「でもだからってこんな広い部屋はちょっと」
「だって紀上の姫だし。それなりの待遇なのは当たり前でしょ」
「……。その『姫』っていうのもちょっと」
「何で?」
不思議そうにシギルは首を捻った。成る程、魔界においては常識なのかもしれない。町の外観もそんな感じだし、何しろリピリスは『陛下』だ。違和感も気恥ずかしさもないのだろう。
助けを求めて皇希を見るが、皇希も透子に視線に首を傾げるだけだった。
「何か?」
「……えっと……現代日本で過ごしてたら『姫』っていう単語はちょっと……」
「そうなのか? ごめん、俺の家では妹も『長姫』って呼ばれてたし、普通だったから」
「長姫……」
皇希の言葉に、神の一族の長の家系だとシギルが言っていたのを思い出す。
(育ち良過ぎ……っ、というか、特異過ぎ……一般常識外なんですけど)
本人目の前に流石にそんな事はいえないが、心の内でこっそり透子は嘆息した。
「どこの世界の話よ……」
ぽつりと口の中だけで呟く。勿論現代日本の話だが。
「気に障るなら変えるけど。何て呼べばいい?」
「えっと……雄流さんの方が年上なんだし、木城でいいです」
皇希に答えながら今更ながらに思い出す。リピリスやシギルに呼ばれる『透子』はさして親しくもないのに嫌じゃない。
透子が心の内で関係ない事を考えているのには気が付かず、皇希はあっさりと承諾する。
「じゃあこれからそうするよ。シギル、後は頼むな」
「りょーかーい」
間延びした声で請け負い、シギルは部屋を出て行く皇希を見送った。
扉が完全に閉められたのを確認して、くるりとシギルは透子を振り向く。
「さて、どうする? 街に行って家具でも揃える?」
「いいの?」
「何で?」
「だって黒帝が」
唖然として透子はシギルを見た。何しろ命を狙われているからここに来ているのだ。身を護る術も持たない透子がフラフラ呑気に観光できるとは思っていなかった。
「平気平気」
「?」
気楽に言い放ったシギルに訳がわからず透子は眉を寄せる。
「だってここは魔界だよ? 神である黒帝にしたらここは来るだけでダメージを負う危険ゾーンだよ? 力だって抑えられちゃうし、周りは敵だらけだし、わざわざアウェーにいる時を狙ってなんて来ないでしょ」
まして透子は魔王に護られ常に護衛付きの厳戒態勢だ。
「更に言えば、透子は魔器だしね。魔物である僕の力は高められ、逆に神である黒帝の力は削られる」
「へえ」
何となく相槌を打ってから、はたと気がつく。
「じゃあ、雄流さんは?」
皇希は神の眷属だ。当然その影響は皇希にも及ぶだろう。
「……もしかして雄流さんが魔界に戻る必要があったのって、私のせい?」
「うんそう」
さらりと肯定されてしまった。予定よりも早く帰る必要があったのはそういう理由だったわけだ。
「でもそれって人選ミスじゃない? 私の側に居ると雄流さんだって力抑えられちゃうんでしょ?」
「まぁそうなんだけどね。それでも皇希は強いし……本人の希望だし」
「……?」
理解しがたい。何故わざわざ自分にとっての危険物である透子に近付こうとするのか。
(今度別の人に代わってもらったほうがいいかも……。それとも、他の人が護衛なんかごめんだって事なのかしら)
ギウリウムの態度を思い出すに、それもあり得る。
だが王たるリピリスの決定なのだから、好き嫌いでは行動しまい。リピリスに頼んで早いうちに護衛の人を変えてもらおうと、こっそりと透子は心の中だけで決めた。
例えその結果でギウリウムになっても文句は……言えまい。
「魔界に居るのは大丈夫なのかな」
「もう十年近くここに居るしねー。慣れたんじゃない?」
「……へぇ……」
いい加減なシギルの言葉に透子は詳しく聞くのを諦める。今までの傾向を見るに、あまり細かい事は気にしないらしい。気遣いが欠けている、とも言う。
「じゃあ、行こうか?」
「うん。あ、待って」
シギルに付いて歩き出そうとして、ぴたりと透子は足を止めた。
「どうかした?」
「リピリスに挨拶とかしなくていいのかなって。城にお邪魔してるわけだし」
「いいんじゃない? それに陛下は普段執務にかかり切りで忙しいだろうし。会いたいの?」
「や、それなら邪魔になっちゃうでしょ。別に平気ならいいわ」
「うん」
透子に頷き、シギルは先導して部屋から出る。シギルの後姿しか見えない透子は気が付かなかったが、その表情にはどこかほっとしたような色が混ざっていた。