第五章 血と魂と、そしてその力を
透子が現れた場所は自宅の自室だった。当たり前の日常と当たり前の夜の静けさが、まるで先程の出来事を冗談か夢かのように現実感を押し流していく。
だが、あれは紛れもない現実で今は一刻を争う時だ。
(お願い、出て……っ)
時計代わりに服に突っ込んでいた携帯電話を引っ張り出し、透子は友人としてのみ得る事の許された一摩の番号へと電話を掛ける。
『はい?』
「鈴宮っ」
望みの相手がすぐに出てくれた事に安堵して、それ以上の言葉が続かない。しかし、一摩の方が透子の切羽詰った様子に先に気が付いてくれた。
『どうした?』
「ごめんっ。頼める立場じゃないのかもしれないけど……っ。お願い、助けてっ!」
『何があった?』
「狂花界珠の封印が解かれて……っ、黒帝が庇ってくれたんだけど、今、黒帝達が……」
焦って説明の組み立てが巧く出来ない。あまりの要領の得なさに透子は息を吐き、なんとか落ち着こうとする。
『聖戦兵器が発動したんだな?』
一摩は魔界と関わりは無かったはずだ。それでも『封印』という単語で大体の予想をつけて確認する。
「っ……うん……っ」
『判った。すぐ行く。今どこにいる?』
「今は自分の家……」
透子の答えに電話の向こうで舌打ちをする音がする。
『こんな時間だ、そうだろうな……向こうで合流しよう。処現城にある木城の部屋で』
「判った。……あの、鈴宮」
『ん?』
「……ごめんなさい」
勝手に一摩の好意を突っぱねたのに、今また勝手にその力を当てにしている。
『うん。気にしなくていいから。俺が木城でもそうしたよ』
一摩はそんな事はしない。判っているから、透子はそれ以上は何も言わなかった。それ以上は一摩に対して失礼だ。
「……待ってる」
電話の向こうで頷く気配がして透子は通話を切る。それからすぐに腕輪に触れ、再び魔界へと向かった。
いい加減見慣れた空間の割れ目を渡ると、処現城の自室にはシギルと皇希が揃っていた。 透子の姿を認め、二人は壁に預けていた身体を離して駆け寄ってくる。
「透子! 無事だったんだね!」
「どうなってるんだ、これは?」
城全体を包み込むような神気の濃さに、透子は吐き気を覚えて口元を覆う。これだけの神気だ。おそらくシギルも皇希は狂花界珠に原因があることも、大体の事情もわかっているのだろう。
それでも尋ねたのは混乱しているからに他ならない。
「ギウリウムが結界の封印を解いたの。それで、リピリスと黒帝が中に……」
「リピリスはいなかったから多分透子と一緒だとは思ってたけど……黒帝が来てたのか」
不愉快そうに眉を寄せ、シギルは舌打ちをする。ギウリウムの暴挙に関してはシギルも皇希から聞いていたのか、驚くような事はしなかった。
「一緒だと思ったって……じゃあ、なんでわざわざ私の部屋に」
「リピリスが透子と一緒にいるなら、透子を逃がさないわけないもん。でも多分透子は戻ってくるだろうから」
「……」
読まれている。逃げろと散々言われたのに、結局透子は処現城にまた来たのだから、シギルの勘は外れてない。
「あの小部屋の近くは結界で覆われてた。神気だったから何事かと思ったが……まさか黒帝だったとはな……」
「黒帝の神気があんなに弱いのは異常だよ。あんまり持ちそうにない。くっそ……どうすれば」
苛立った声でそう呻き、シギルは自分の親指の爪を噛んだ。苛立った空気の中に一番冷静な声が割り込んで来る。
「とりあえず、重傷者を癒して時間を稼ぎ、冷静に策を練るべきだと思うけどな」
律儀に扉を開き、中に入りながら一摩はそう提案する。
「お前! 白雅っ! どうやってここまで入ってきたっ!」
「城内が混乱してたし、俺の神気は狂花界珠に混ざったから、誰も止めたりはしなかったな」
あっさりとそう答えられてシギルはぐ、と言葉に詰まった。
「一摩……」
シギルのような敵意ではないものの、皇希は複雑そうな表情でその名を呼ぶ。
「久しぶり、皇希。元気そうで何よりだ」
それに応えた一摩もどこかぎこちない笑みを浮かべていた。お互い否定的なものは含まっていないが、どう対応しようか困っている、そんな感じだ。
「ああ……お前も。けど、今はそれどころじゃないだろ。お前が紀上と一緒に来たって事はさ」
「そうだな。とにかく、現場に行って黒帝達を癒しておこう。時間が経つと流石に命取りになりかねないだろうから」
「うん、こっち!」
そのつもりで一摩に来てもらったのだ。急いで駆け出そうとした透子の袖をくん、と引き止めるようにシギルが掴む。
「透子……」
「大丈夫」
心配に瞳を揺らしたシギルに透子は笑ってそう答えた。ぎこちない笑みになっているだろうと自覚はあったが。
「大丈夫だから」
「……判ったよ」
不承不承、それでもシギルは断言する透子に頷いた。今の状態で白雅の治癒能力が必要だという事はわかっている。
すでに小部屋に向かって走り出していた皇希と一摩の後を追い、シギルを連れて透子も駆け出した。
「うっ……」
しかし階段を一つ下った所で目の前の光景に透子は呻いて足を止める。いや、止めざるを得なかった。
一面桃色に覆われた花の絨毯とむせかえる様な甘ったるい香気に口と鼻を覆う。
「すさまじい繁殖力だ。結界を通り抜けた種の幾つかから発芽したんだろう」
「とにかく、邪魔なら潰してけばいいだけじゃん。火掟封呪、解! 我が力を代価に魔炎よ、具現せよ!」
ごうっ!
周囲にひしめく狂花界珠の花々を勢い良くシギルの炎が焼き払う。
「やぁっぱ植物に炎は特効っしょー」
ぐっ、とガッツポーズをとるシギルに皇希は苦笑する。
「植物の形してても植物じゃないんだけどな、それは」
「判ってるよー。さっ、早く行こう!」
部屋へと近づく程に濃くなる神気に、透子は吐き気と共に嫌な想像が込み上げてくるのを抑えられなかった。
(もう殆ど狂花界珠の神気だ……黒帝……っ)
死なないで欲しい。
散々怖い思いをさせられた相手だし、そのせいで透子は魔王と知り合ったり殺されかけたりしたけれど。
(あんな哀しい眼をしたままで、死なないで欲しい)
「!」
小部屋の手前の通路で透子達は揃って足を止める。誰に言われるまでもなく気がついた。
薄い壁が覆うように、自分達の魔気や神気が跳ね返されているのを。
「黒帝の神気だ」
通路に張られた薄い壁から、いい加減慣れてしまった気配を感じる。
「皇希、王弟陛下。木城を頼む」
「後ろに」
一摩に言われるまでもなく、庇うように皇希が透子を自分の後ろに下げる。それを確認してから、一摩は錦を呼び出した。
「壁掟封呪、解! 我が力を代価に破呪の力よ、具現せよ!」
形を崩し、光の塊となった錦から真皓の閃光が発され、薄壁一枚の結界を切り裂いた。
「なっ……」
目の前に広がる光景に透子は思わず声を上げた。
石造りの床を無視して広がった桃色の花。その全ては結界の外側に侵食していた狂花界珠の分身よりも一回りは大きい。
甘い、しかしどこか毒を含んだその香りに、口と鼻を覆い隠す。狂花界珠の発する香気が人体に有益であるはずが無いのだ。
そしてその桃色の海に埋もれる様に、静かに目を閉じたまま微動だにしない黒帝の姿を見つけ、息を呑む。乱れて、肩に零れ落ちた黒髪は桃色の花弁に映え、終末を描いた絵画のようだ。生命を感じさせない無機質な美。
「やっ……まさか、黒帝……っ」
「勝手に殺すな」
震える透子の声に目を開き、彼は薄っすらと笑みさえ浮かべてみせた。余裕があるわけでは決してないだろうに。
それでも彼は平然として笑ってみせるのだ。
「カミサマ、だからな」