第一章 神の襲撃
どんな夢を見ても気になることがあっても、基本的に学生である以上は朝が来れば学校へ行く。
無難に都立高校を選び、無事合格をして現在二年三組に在籍する木城透子は、いつもと同じ学校への道を歩いていた。
普段は慣れ過ぎてもう面白みも何もない道のりだが、今はその『いつもと同じ』がとれもありがたい気がする。
(……別に……夢のお告げとか、信じる訳じゃないんだけどさ)
背の中程まで長く伸ばしたクセの無い黒髪が、歩く動きにあわせて肩に掛かる。それを払い除けて透子は軽く息を付いた。
別に特別に夢を信じていなくたって、子供の頃から何度も何度も同じ夢を見ていれば、流石に気になる。何よりも、目覚めても全く薄れない登場人物の顔と声が、その夢を透子にとって特別にしていた。
(リピリス・リア・クロート……)
名前も顔も覚えてる。必死に助けを求める声も。
リピリスは他の誰でもない、透子に助けを求めている。
(……どうして……?)
判らない。たかが夢だと切り捨てて気にしなければいいのに、それが出来ないのはリピリスの紡ぐ言葉のせいだろうか。
『その名前じゃない』と、リピリスはいつも首を振る。それに心当たりがあるからこそ、透子の心に引っ掛かってしまうのだろうか。
役所に登録されている名前は確かに『木城透子』に間違いない。しかしいつだったか、祖母から聞かされた事があったのだ。
透子の名前は『木城』ではなく『紀上』と書くらしい。
始まりに記された者、との意味があるのだと、そう言われた。
何故木城と書くのかと尋ねた透子に、祖母は悲しそうな顔をして、怯えるようにそっと透子に耳打ちした。神に嫌われた名前だから、と。
どういう意味かとは、祖母は最後まで透子に教えなかった。ただ繰り返し人にみだりに名乗ってはいけないと透子に言い聞かせてきたのだ。
祖母から聞くのを諦めた透子が両親に聞くと、母が苦笑してそんな事あるわけ無いでしょと否定されてしまった。父の方も似たり寄ったりだ。
結局聞き出せないうちに祖母は天寿を全うしてしまって、それきり答えを聞ける人間はいなくなってしまった。
(……)
子供の頃から見ていた夢を、最近とみに気にするようになったのには勿論理由がある。前に比べてしょっちゅう夢を見るようになったのだ。まして今日は、いつもと違うものが混ざっていた。
(もしかして、時間がないから……とか?)
焦ったような、必死に掛けられるリピリスの声に何となくそんなことを思いつく。
助けを求められていたのは変わらないが、子供の頃に見ていた時は、あんなに切羽詰った様子は無かった。だがすぐにまさかねと思い直す。
たかが夢だ。
冷静な部分では否定しているのに、所詮夢だと思いながらも完璧に切り捨ててしまう事が出来ずにいた。
それでも夢に囚われている自分がおかしくて、透子は軽く頭を振って考えを振り払おうとする。
お世辞にも成功したとはいえなかったが、学校に近付くにつれ透子の意識は夢から遠ざかっていった。
「……?」
それは、学校の朝の風景に溶け込まないものを見つけてしまったからだ。
背の高い男性の姿。若いが、高校に用があるような年齢ではない。二十歳は確実に超えているだろう。
服装そのものは風景に違和感がなかったが、彼には似合っていない様に見えた。着慣れていない、そんな感じだ。そもそも学生でも教員でもない人間がこの場に留まっている事事態が不自然だろう。
そんな人間が校門脇の壁に寄りかかって、誰かを待っているかの様に周囲へ視線を巡らせている。
透子の目から見て、彼は明らかに異質な存在だったが、不審である点はいくらでも挙げられても、何が異質かと問われれば答えられなかっただろう。
どこからどう見ても彼は普通の人間なのだから。
――そのまま気が付かなければ良かったのかもしれない。
だが、透子は気が付いてしまった。
誰も彼の事を……はっきり言ってしまえば、『不審な男』を不思議に思わないらしいという事。そしてもしかすれば、彼の存在そのものを認識していないのではないかという事実に。まるでそこに居るのが当然、もしくは見えてもいないかの様に素通りしていくその様を。
恐怖に近い感覚で不審に思いながらも校門へと近付いていくと、彼が整った容姿の持ち主である事に気が付いた。
女性でも中々いないだろうと思われる細く艶やかな黒髪。首の後ろで古風な組紐で纏められていて、腰の辺りまで伸ばされている。手入れが行き届いており毛先まで綺麗だった。どこか肉食獣を思わせる、精悍なきつい顔立ちで、瞳は似合いの金色だ。
(……金の眼ッ!? 嘘!?)
スルーしそうになって透子はぎょっとして足を止め、思わず彼の方を振り向いた。間違いない。金の眼だ。
「……」
(え……っ)
透子の視線が彼の瞳で止まった瞬間、不機嫌そうだった彼の顔にひどく楽しそうな表情が浮かんだ。良
いものではない。長い間待ち望んでいた獲物を捕らえた肉食獣の様な、獰猛な笑み。
コッ……
長い足を優雅に動かし、彼は透子へと近付いてきた。
(やっ……)
知らずのうちに透子の足は後ずさり、少しでも男から離れようとする。理由は判らない。だが確実に、この男は透子にとって良くないものだ。
(怖い……っ!)
本能に近しい恐怖感が透子の全身を支配する。嫌な汗が背中を伝い、細かく体が震え出す。その透子の恐怖を感じたのか、男の笑みが深くなる。
(い、や……っ)
「木城」
「あ……っ」
恐怖は唐突に終わりを告げた。耳に慣れた優しい声が場の空気をやんわりと変革させていく。
「鈴宮……」
「はよ。そろそろ行かないと遅刻だぞ?」
クラスメイトである鈴宮一摩の姿に、緊張で強張っていた体がほっと緩んだ。
一摩は男にしては華奢な部類に入る。顔立ちも整っていて綺麗だ。そう、鈴宮一摩は『美形』ではなく『綺麗』だという形容詞になってしまう。性別は確かに男なのだが、その纏う空気は中性的。
顔以上に、一摩は特別に空気が綺麗だ。それは温厚な人柄のせいだと透子は思っている。
「……」
踏み出していた足を止め、男は微かに眉間にしわを刻み、しかし何をするでもなく、そのままくるりと身を翻した。
「木城?」
まるで彼の存在などないかのような一摩の振る舞いに、透子は慌てて首を振る。
彼の存在は知覚してはいけないものだと、何となくそう思ったのだ。そんなものを知覚してしまっている事を目の前の少年に知られたくなかった。
「あ、ううん。なんでもない。……じゃあちょっと部室寄ってくから、お先に」
ぱたぱたと手を振り、透子は一摩から離れて部室へ向かう。
別に本当に用があるわけではない。一摩は綺麗で、優しい。存在そのものが人を惹きつける空気を持っているといっていい。カリスマとでもいうべきだろうか。
そういう人間であるため、本気を含めたファンが多い。街を歩けば普通に芸能事務所から声が掛かる人種でもある。……ので、一緒に居るのは怖い。女の子が。
透子自身も一摩に仄かな憧れを抱く一人だが、それ以上には考えないようにしている。
(鈴宮に本気になったら終わりだって……苦しすぎ)
取り敢えず自分の所属する手芸部の部室まで来て、透子はふうと肩から力を抜く。今いる学校の中は変わらない日常。いつもと同じ、穏やかな日。
(……あの眼……本物だよね……?)
ニセモノっぽさのない眼だった。本物の金の瞳。思い浮かべるだけで日常を壊されそうな強い瞳だった。
(猫の……ううん、アレは猫じゃない。もっと大きい、虎とかの……)
思い出すと、背筋が冷たくなってきた。思わず透子は自分の腕で自分を抱える。
「……誰……?」
気にしなければいいのに、どうしても気に掛かる。
――とても、怖い。