4―2
「あ、はい」
声を掛けられ起き上がり、透子は扉を開けて皇希を招き入れる。
「試したい事がある。少し付き合って欲しい」
「はい」
そのためにここに留まっているのだ。お呼びが掛からないとむしろヒマで仕方がない。
「……あれ? そういえばシギルは?」
「おや、俺が迎えじゃ不満か?」
「いえいえそうじゃないですけどっ」
からかうような調子で言われ、慌てて透子は手を振った。確かに、年上の美形と並んで歩くのは少し気恥ずかしいのだが、それとはまた別件だ。
「ずっとシギルといたから慣れちゃったし、それに……」
一度言葉を区切って、リピリスに頼もうと思っていた事柄を思い出す。狂花界珠と、自分が呼ばれた真相ですっかり脇に追いやってしまっていたのだが、結構重要なことだ。
「雄流さんはあんまり私に近付かないほうがいいんじゃ……」
「……」
前を歩いていた皇希の肩が僅かに震える。
「……シギルが何か言ったか?」
「言われなくても気がつきます、普通」
本当はシギルに答えをもらったのだが、皇希の声が硬くなったのに気が付き、咄嗟に透子はそう言った。
話したのはシギルだが聞いたのは透子だ。
「私の側じゃ、体調悪くなるでしょう?」
(私が黒帝の側にいるのが怖いのと、同じでしょ?)
そう考えてはたとおかしな事に気がつく。皇希は神の眷属だ。当然、魔器である透子とは相反する事になるのだが。
(雄流さんの側は別に平気だ、私)
「そうだな、確かに俺の力は紀上の魂に負けている」
確信を持って言われた透子の言葉に、諦めて皇希はそう認めた。
「別に勝ち負けってわけじゃあ……」
「いや、そうなんだよ。純粋に能力の高い方が場を魔気か神気かを決定する。ここは元々魔の大地だから魔気が優先されるのはそうなんだが……。紀上の魂は強いからな」
(じゃあ私相当黒帝に負けてるわ……)
神そのものと争おうというのがそもそも間違っているかもしれないが、この魔界の大地での邂逅ですら透子は黒帝の気に圧迫された。それどころか狂花界珠にも押されている。
「俺が魔界で長い間過ごしてこられたのは、魔界の大地だけよりも俺の神気が強く、周囲を神域にする事が出来るからだ。最も、側に誰か魔物が一人でもいれば負けるんだけどな、土地柄的に」
「じゃあ余計に私の側じゃ駄目じゃないですか」
おそらく皇希は人間界ですら透子の魔気に負けてしまっている。自分の体内の神気のバランスを崩すほどに。
「ああ……本当はそうだな」
「だったらどうして……。リピリスの命令だからですか?」
それだったら折角今から会うのだし変えてもらおう、と決めてそう言う透子に、あっさりと皇希は首を振る。
「いや、俺が君の護衛に付いたのは俺の意志だよ」
「……どうして?」
皇希の言葉が不思議で透子は目を瞬いた。透子の側は皇希には辛いはずだ。それは黒帝に負け、場の空気の痛さを知った透子には断言できる。
「うん……」
皇希は数瞬迷ったようだったが、すぐに次の台詞を口にした。
「俺は家を捨てて逃げてきたんだよ」
「……え?」
脈絡なくさらりと口にされた重たい内容に透子は声を上げて皇希を凝視した。一体何を言い出すのかという目で。
「俺の名前は、皇を希むって意味で付けられたものでね。一族の血も薄くなっていたから、神の力を継いだ長の家に相応しい跡継ぎになりますようにって」
「……駄目だったんですか?」
「カケラも継いでなかったんなら、期待はずれだろうが……その方が良かったんだけど」
言いながら、何かを思い出すように皇希は右目の傷跡を撫でた。
「俺の一族……つまり雄流の家は千里眼が受け継がれていて、それを両眼に発現できれば長だと認められる。だが、残念な事に俺は片目にしか千里眼を持たなかった」
「右目、ですか?」
「そう。それでも久し振りの発現だったし、長の嫡男だったから一応次代の長として扱われてた。妹が生まれるまでは」
「……」
「妹は両眼に千里眼を持ってた。千里眼は長にのみ許されるものだったから、その時に俺の眼は潰された」
空で記憶している物語を話すような言い方に透子の方が息を呑む。
(……酷い……っ)
本人を目の前にして言える言葉ではない。皇希は何でもない事のように話しているが、何でもないはずがない。
「習わしだったから、仕方ない事だったんだ。一族はそういうものだったから。最近じゃ稀になっていたけど、昔の血が濃かった時代では雄流の一門は長以外の全員が盲目って事だって、珍しくなかったらしい。両眼を失わなかっただけ幸運だと、祖父には言われたよ」
透子はおそらくその時代を見ている。夢で、という状況ではあったが確かに透子はその時代を知っていた。そこで面差しが皇希に似た青年の両眼が引き裂かれているのを……確かに、見た。
「そりゃ……そりゃあ、昔はそういう事だってあったかもしれないけど! 現代でそんな非道が……」
「時の止まった一族だから」
「……」
言われてぐ、と透子は言葉に詰まる。
もう終わってしまった事、過ぎてしまった事だ。今この場で透子が雄流の一族を非難したところで、何も変わらない。そしてそれは他人の透子がしていいものでもないはずだった。
例えどんな一族であろうとも、皇希にとっては家族なのだ。
「けど、俺は耐えられなかった。いつか一族全体や、友人だった他家の者も……血を分けた妹さえも憎んでしまいそうで、怖かった。怖かったから、俺は家から逃げ出したんだ」
(……鈴宮……)
仲が良かったのだと、そう思った。曖昧に笑って誤魔化した一摩の態度に合点が行くような気がした。
「妹には済まない事をしたと思ってる。長姫から急に長にされて大変だったのに、兄である俺はさっさと家から逃げてるんだからな。一族を抜けた事は後悔してない。ただ、一番辛い時に見捨ててきた事は心残りだ」
「……」
「紀上は妹と少し似てる。歳が同じって言うのもあるだろうけど」
「でも、私は妹さんじゃないわ」
「判ってる。今妹はきちんと長として一族をまとめているよ。ただ、大変な時に護ってやれなかった事は……やっぱりね。後悔してる。その罪悪感から逃れるために妹に似てる紀上を護ろうとしてるだけだというのも……判ってる」
「状況に流されているのが似てるから……ですか」
「うん、多分ね。だから、単に俺は俺の自己満足のためにそうしてるだけだから、紀上が力の領域どうのなんて考える必要はないんだよ」
「……本当に?」
隣を歩く皇希を真っ直ぐに見上げて透子は問う。
皇希の話した内容に嘘があるとは透子も思っていない。けれど逃げるために現実から目を逸らし続ける程、皇希は弱くも、愚かでもない気がした。
だったら何故かと聞き返されると何も答えられなかっただろうが。
「気に障ったかな? 自分が誰かの代わりだっていうのは」
「いいえ」
守ってもらっている状態で、そんな贅沢な事を言うつもりはない。
「それなら良かった」
「……本当にいいんですか? 妹さんの事もそうですけど。ご両親だって心配してるんじゃあ」
「俺は期待されてなかったし、長はもういる。家は心配ないよ。元気でやってるのは知ってるから。俺が魔界にいるっていうのも……多分知ってるだろうしね」
「ああ……」
確かに、少なくとも一摩は知っていた。
「そう……ですか」
皇希の発する言葉からは些かの歪みも感じられない。それが本当かどうかは透子には判らなかったが。
けれどもし本当に皇希がそう思っているのならば、きっと家を出た事はそう間違いではないのだと透子は思った。
「それより紀上」
「はい?」
「陛下をあまり嫌わないでいてくれるか」
そういえば皇希もリピリスをひっぱたいた場面に居合わせていた。やはり重役としては心配なのだろう。
まして皇希にとってリピリスは家から逃げ出した時に自分を受け入れてくれた恩人だ。
「嫌いじゃないですよ、勿論。今こうして私が生きてるのはリピリスのおかげですから」
(ただちょっと……苦手だけど)
明るく答えながら本心は心の内に留めておく。ただでさえ自分とリピリスの関係を心配している皇希にそれを言うのは忍びなかったのだ。
「リピリスが紀上を助けたがってるのは本当だから。こっちとしては最終手段で狂花界珠をそちらに捨ててもいい訳だし」
「え」
思ってもみなかった選択を突きつけられ、透子は眼を見張った。
「そういう案がなかったわけじゃない。特に、ギウリウムは」
「……」
無責任な、とは言えない。何しろその聖戦には、今の、ではないとはいえ人間だって関わっていたというのだ。狂花界珠はもしかしたら人間界に捨て置かれてしまっていたかもしれない。
「でも、もしこの一ヶ月でどうにもならなかったら、やっぱり……」
「一回否決された事は蒸し返されない。シギルから聞かなかったか?」
「……。一度口にしたら守るっていうのは、聞きましたけど……」
「そう。狂花界珠は魔界でケリをつける。どんな結果になったとしてもね」
「……どうして?」
「さあ、それは」
今更、人間界を守るためにリピリスが魔界を犠牲にするとは透子には思えなかった。リピリスがここの『王』である事はもう、よく判っている。
だから戸惑い、皇希を見上げた透子に彼は薄く微笑んだ。
「それを決定した本人に聞いてみてくれ」