第四章 『君』を守るために
今よりもやや新しい感のある処現城の中。カラーで再生されるその映像が、夢の中の出来事だというのを透子はもう知っている。
(起きたい……)
心の底から、そう願った。
知りたくない。
この夢は苦しすぎる。この夢が過去、本当にあった事だと判っているから、だからこそ見たくない。
「貴方は愚かだわ」
しかし透子の意志とは関係なく、過去は夢として再生されていく。
まだ若いといっていい外見にそぐわぬ、深い、と表現するに相応しいその瞳を真っ直ぐに正面の青年に向け、紀上はそう言い放った。
「君は厳しいね、紀上の姫」
「貴方が甘やかされすぎているのよ。そして、皆が貴方に甘えすぎているの。だから歪んでしまうのよ」
紀上の言葉に青年は苦笑する。少年と呼んでも差し支えない、甘く優しい顔立ちだった。
淡い金髪と、僅かに翠の混ざる銀の瞳。古来より、金と銀は両方とも太陽を表す光の色だったという。
「熾己、今からでも遅くはないわ。貴方は帰るべきよ」
「……君が来てくれるなら、戻るよ」
「ごめんだわ」
縋る様にそう言った第一位の地位を持つ至天七柱神を、ぴしゃりと紀上は拒絶した。
「私は貴方の仲間の代わりではないの。貴方が望んでいるのは私ではないでしょう」
「……」
熾己は無言だった。だが、否定の無言ではない証に彼は少しだけ困ったように目を揺らす。
「甘えるんじゃないわ。欲しい手があるなら、自分で掴み取りなさい」
「……本当に、君は厳しいや」
「そうよ。私は紀上、始まりの魔。魔の王だもの」
ふふ、と小さく笑ってそう答え、それから声音を少し優しくして次の言葉を紡いだ。
「ねえ、熾己。考え直しなさい。今至天七柱神はバラバラよ。貴方は守護の王なのよ」
「……僕が選んだ訳じゃない」
「熾己!」
子供の我がままの様に吐き捨てた熾己に、同じく人の上に立つ定めを負った王の女性は鋭い叱責の声を上げた。
「僕はもう、耐えたくないんだよ。僕は……」
「馬鹿ね」
優しくそう言うと、紀上は息を付いて熾己の言葉を遮った。
「それを、言えば良かったのよ?」
たった七人の同胞に、手足としてのモノではなく、仲間として生きて欲しいのだと。
「……言えないよ」
「……」
「だって、僕に意見すると『狂神』になってしまうんだから」
熾己の望む友の形に一番近しい同胞は、他の七柱神からすら蔑みを込めて『狂神』と呼ばれてしまっている。王であり、意志である至天掟柱に自分の意見を申し立てるなど……手足としてしか生きてくれない他の同胞達にしてみれば不敬だという事なのだろう。
「それは……彼の事を言っているの」
「……」
彼が怖がっている事を、熾己は勿論知っていた。
たった七人の仲間から、異端扱いされるのを恐れているのを知っていた。
「……それでも僕は……彼に狂神である事を望んだよ。彼しか、いなかったから」
沢山苦しめてしまったのも、知っている。
「紀上、僕は間違っているのか? 彼等と仲間でありたいと思うのは間違ってるのか? 世界でたった七人だけの同族なのに。それとも世界の守護者として生まれた以上、それを望むのは分不相応なのか? だったら……」
銀の瞳を揺らし、熾己は苦しそうに吐き捨てる。
「どうして、心を持った……ッ」
様々な種の生命を操作するための存在である至天七柱神は、ただ恐れられるだけの存在だ。それを認めてくれるのは同族である彼等だけのはずなのに。
「熾己、時は緩やかに変わるものよ。私達の様に。そして、彼の様に。それまで待ってみる事は出来ないかしら?」
「変わるまで? それは万か、億か、それとももっと先か……」
乾いた笑みを貼り付けそう言った熾己に紀上は言葉を返せなかった。
一見幼げに見えるこの青年が、自分よりも遥かに長い時を……いや、自分が生まれる前から長い、長い時を一人で生き続けているのをもう知っていたから。
孤独に耐え抜いてきたその精神性そのものが、既に奇跡だと紀上は判っていたから。
「いずれ君も僕より先に逝く。そうしたら……僕にはこうして話す人すらいないんだ」
「……そうね」
魔の王たる紀上とて、こうして熾己と会うことに陰口を囁かれていないわけではない。神の寵愛を受けた魔の姫だと。身の程を弁えろと言われた事もある。
至天七柱神は、地上の全ての種にとって神なのだから。
「君が、同族だったら良かったのに」
「……考え直す事は出来ないかしら?」
「もう、決めたよ」
「そう」
紀上からは目を逸らしたまま、それでもはっきりと断言した熾己に紀上は諦めと共に溜め息を付いた。
「確かに、戦いというものは有効な手段だと思うわ。本来、指揮を執るべき貴方がいないのならば彼等は彼等で考えなくてはならない。世界を護らなければいけないのは彼等にとっても同じだから……。思考は意志を引き出すには有効かもしれないけれど……。それで犠牲になる者の事を、きちんと考えているの?」
「……必要、ないだろ? だって僕は……『カミサマ』なんだから」
「……そう」
そんな言葉を言える程、熾己は追い詰められている。今の自分の状況に。
「判ったわ。それならば、私は貴方の敵になる。貴方の行う全ての前に、必ずこの私が立ち塞がる事を覚悟しなさい」
「……」
「けれど熾己。私は、貴方の友人よ。だから……」
「紀上……」
「引き返しなさい」
熾己が引き返さなかった事を、透子はもう知っている。
白雅が死んでしまって、熾己自身は封印されてしまって、聖戦は決着が付いたけれど。
気が付いたときには既に目を開いていて、ぼうっとした頭が見慣れない天井の色を天蓋の笠衣だと理解するまで数秒掛かった。
「………酷い理由………」
虚しすぎる聖戦の理由にそう感想を漏らし、透子はのろのろと起き上がる。何のことはない、人間も魔物も、至天七柱神に巻き込まれただけだ。
(……そうさせたのは……私達のせいでもあるんだろうけど)
神である事に、熾己は疲れてしまったのだ。
癒される事なく恐怖と異端の眼で傷を広げられていく事に、耐えられなくなってしまったのだろう。仲間にも、それ以外の種にも熾己を癒してくれる存在は無かったのだ。
狂花界珠の封印が解けるまで後一月。
そう知らされた透子に、リピリスや皇希も隠す事はしなくなった。
とりあえず三連休の初日である昨日は家に戻り、残りの二連休は友達の家に泊まる事にして、今透子は処現城の自室にいる。
別に泊まりにする必要はないのでは、とも思う。だが、残された少ない時間、一分一秒でも無駄にするべきではないだろう。まだ黒帝の件もある。
「まあ、こうなるとベッド用意してくれてたの、ありがたいわねー……」
寝るだけなら別に客室でも構わないが、やはり自分一人の個室というのは安心する。
「でも本当に……これからどうしよう」
天蓋付きのやたら立派なベッドに転がり、高い位置にある衣笠をぼうっとした頭で眺める。
いつまでもシギル達に護ってもらう訳にはいかない。力が足りない以上、いつかは必ずシギル達を殺してしまうだろう。だが、だからといって。
『紀上の力を受けた魔物は七柱神をも凌ぐって話だし……』
シギルの言葉を思い出しはしたものの、すぐに透子は首を左右に振った。
「……いきなり決心は付かないわよ……」
殺されるよりは断然マシだろう、という説もある。けれどそれで自分は本当にいいのか?
確かに生き延びる事は出来るかもしれない。だが女としての部分がそれを拒否している。
それに上乗せするように、黒帝を、至天七柱神を殺す事に躊躇いがあった。人の形をしていて、人と同じ言葉を話す生き物を、あっさり殺せる方がどうかしている。
しかも手を下すのは自分ではないのだ。
殺されないためには殺してもらうしかない。その理屈は判っている。判っているが。
(この間のだって、鈴宮が学校にいなかったらきっと死んでたんだ……。……でも、……あれ?)
冷静になった今になって透子は初めて気が付いた。
黒帝が透子を殺せる場面は何度もあった。どんな状況になっても力でごり押しさえしてしまえば黒帝は透子を殺せたはずだ。それだけの力の差がシギル達と黒帝の間には存在する。
「……何で?」
(私が紀上だから殺したいの? 魔物に力を与えるから? ううん、そんなこと気にするタイプじゃないと思う。でも、私が紀上だと確認してから襲ってきたし……)
「訳わかんない……」
どうして襲ってきたのだろう。
あと一歩、あと一振りすればいつでも殺せたはずなのに、それをしないのは何故なのか。
「もしかして私を殺したいんじゃない……の、かな……」
(楽観すぎるかぁー)
自分の考えに苦笑して透子はごろりと寝返りを打つ。と、丁度思考が一段落したのを見越したようなタイミングで扉がノックされた。
「紀上。雄流だ。少しいいか?」