3―3
「透子待って! ねえっ!」
出足は遅れたものの、元々シギルの方が身体能力は高く、当然のように足も速い。それほど経たない内に透子に追いつく事に成功する。
「……シギル」
腕を捕まれ、透子は逃げるのを諦めた。振り解くのに使う気力も、今は無い。
「今一人になるのは危ないよ。理由はともかく、黒帝が透子を本気で狙ってるのは確かだからさ」
「そうよ、だから……危ないから、もう、いいわ」
「いいって……何それ」
俯いたまま投げやりに呟かれた透子の言葉に、シギルは苛立った声でそう言った。
「シギルが私を護る必要なんか、もうないのよ? 私、リピリスに手を貸す気なんか更々ないんだから」
言いながら透子は引きつった笑みを浮かべる。何故あんなに怒ったのか、自分でも判らない。
「私と一緒にいても、無駄よ」
「無駄じゃないよ。少なくとも、僕が生きてる間は透子を護れる」
「……シギル」
下から見上げてくる赤い瞳の真摯さに、透子はようやく自分が怒った理由を見つけ出した。
(……私、信じてたんだ)
シギルが本当に、命を懸けてくれたから。
リピリスが『好意』で助けれくれているんだと……本気で思ってしまったのだ。
(始めから言ってくれても、良かったのに)
透子の魔器としての力が欲しいから、必要だから……護るのだと。
見返りの無い『善意』だと思い込んでいたから、透子はリピリスに一摩を、僅かではあったが重ねてしまっていた。だからこそ、裏切られたと思った時、自分自身の勝手な理由で怒ったのだ。
それに気が付いた瞬間、透子は自分自身に失笑した。
(何してるんだろう。私)
本当に勝手すぎて、嫌になってしまう。
「……戻ろうか」
「え?」
「リピリスの所。殴っちゃったしね、謝らないと」
よくよく考えてみれば、シギル達が命を張らなければならないのに対して、透子の魔器としての力を利用するといっても、透子はただそこにいればいいだけなのだ。
身体を許す事は絶対に出来ない。けれど。
「リピリスが私の魔器としての力が欲しいって言うなら、出来る限りは……協力しなきゃね。命張らせてるシギル達に釣り合うとは思えないけど」
「そんな事どうでもいいよ」
「どうでもって」
「言ったよね。僕は透子を護るって。大丈夫、絶対護るよ。僕は、透子の事」
言いかけてシギルは躊躇った。透子に手酷く拒絶された事を思い出したのだろう。しかしすぐに吹っ切ったように笑って、少年の瞳で言葉を続けた。
「僕、透子の事好きだから」
「っ……ごめ……」
本気の言葉を酷い形で拒絶した事に、今更ながら後悔した。本能、という言葉を借りてはいてもシギルの想いは本物だった。
「何? いいよ。謝って欲しくなんて無いから。……でも」
「?」
「僕の事、好き?」
勿論シギルは嫌いじゃない。けれどシギルの『好き』には応えられない。返答に詰まった透子にシギルは微かに苦い笑みを浮かべる。
「ちぇっ。つまんないの」
だがそれは見間違いかと思うほどの瞬く間。わざとらしい舌打ちと明るい声でそう言うと、シギルはにっ、といつも通りの笑みを浮かべて見せた。
「じゃあ行こうか。陛下のところに戻るんだよね」
「う、うん」
シギルに申し訳なく思いつつ、それでも言われた内容の方に透子は意識が向いてしまう。
かなり勝手な理由で怒って、しかもひっぱたいてそのまま逃げてきてしまった。非常に戻り辛いが、このまま時間が経てば経つほど会い難いし、話も切り出しにくくなってしまう。
「透子」
「あ……」
来た方向から声を掛けられ、透子は気まずい思いでそちらを振り向く。
行く前に、来られてしまった。
「陛下」
近付いてきたリピリスに怒っている様子は感じられなかった。身勝手だと走りつつ透子はほっとして、この好機にさっさと済ませてしまおうと息を吸う。
「リピ……」
「済まなかった。不躾な言い方だった」
「え」
確かにリピリスの言い方は酷かった。それはそうなのだが、今自分に頭を下げているのは『陛下』なのだ。その事実に行き当たって、慌てて透子は両手を体の前で振った。
「いえあのそのっ」
動揺している。しかしすぐに何を言うべきかを思い出して、少し冷静に戻った。
「……えと。ごめんなさい、叩いたりして」
「別にいい。俺が悪かっただけだから」
顔を上げたリピリスの眼を見て、透子は自分に失笑したくなった。
何故この人を女性だと思ってしまったのかと。そして、彼の言葉を鵜呑みにしてしまった自分自身に。
リピリスの瞳は男のものだった。王であるための覚悟と、強さ。それも強い野心を持って心の奥に一つか二つは裏のある眼。
「ねえ陛下。もう隠し事無しで行こうよ。もうあんまり時間無いんだから」
「シギル」
シギルを嗜めるリピリスの声に透子は本気の怒気を感じ取った。
鳥肌の立ってしまった素肌を撫でてシギルへと目を向けるが、リピリスの正面でその怒気を受け止めているシギルはそ知らぬ顔で怒気を流し態度を変えない。
「何怒ってんの陛下。切羽詰ってんの知られたら足元見られると思ってる?」
「シギル!」
今度の制止は声だけではなかった。素早く動いた右手がシギルの左頬を打ち据える。
「いい加減にしろ、シギル」
叩かれた頬をぐいと拭い、シギルは冷めた目でリピリスを見た。
「従順な部下に囲まれて、あんた変わったよね」
「……」
「兄弟だから出来る限り力になろうと思ってる。でも僕、今のリピリスは嫌いだよ」
『陛下』ではなく自分自身へと向けられた兄弟からの言葉に一瞬だけ顔を歪ませ、リピリスは強く拳を握り締める。
「……」
弁解でもしようとしたのか、リピリスは口を開きかけるが結局言葉が発される事は無く、そのまま踵を返してシギルと透子に背を向けた。
「透子に話すよ、陛下」
「……勝手にしろ」
思いがけず険悪な関係を見せられ、透子はシギルを見る。余程情けない顔をしていたのだろう、視線気にが付いたシギルが透子を見上げて苦笑した。
「別に仲悪いわけじゃないから」
「……うん」
「おいでよ。陛下が透子を呼んだ理由を見せるから」
「無理して『陛下』なんて呼ばなくてもいいのに。兄弟なんでしょ?」
シギルが口にしたリピリスの名前はしっくりと耳に馴染んだ。そう呼びなれているのだろうと、聞いた透子に思わせる程度には。
「んー……。でもほら。もうリピリスは『陛下』だから」
「だから?」
「うん、だから」
もうリピリスとは呼ばないのだ、とは口にはしない。
「でもね、別に呼び方なんてどうでもいいんだ。それで何が変わるわけでもないから。でも……」
言いながら、ほんの少しだけシギルは表情を曇らせた。怒りや苛立ちという種類ではない。
ただほんの少しだけ、寂しそうに。
「リピリスは、変わったけどね」
「……」
「陛下になる前のリピリスはあんなんじゃなかったんだよ。前に僕言ったよね。魔物は口に出した事は守るって」
「あ、うん」
「それは僕達にとって最大の誇りだ。相手に誓約を求める時に使用するのが言葉だから、僕達も誠意を持ってそれに応えるために。だけど……」
ふっとシギルは視線を落とした。無機質な城の廊下は何も写しはしなかったが。
「今のリピリスは嘘をつくよ。今のリピリスは……僕は、嫌いだ。それに多分、リピリスがああなったのは、皇希が来てからだ」
「……うん」
シギルは本当にリピリスも皇希も嫌いではないのだろう。
だが、幼い頃から共に育ったシギルには、リピリスが変わった事を受け入れられないのかもしれない。魔物が持つ言葉についての誇りがどれだけ彼等を縛っているのか透子には判らない。
だが、リピリスが嘘をつく理由が透子は判る、気がした。
「きっと王様だからだよ、シギル」
「?」
「王様は国中のいろんな人を護らなきゃいけないから。信じられるかどうか判らない私にいきなり全部は話せないでしょ」
リピリス一人の問題なら話してくれたかもしれないが、王であり、国のために透子が必要ならばきっと話はしないだろう。
「それならそう言えば良かったんだ」
吐き捨てるようにシギルは言う。ついさっき自分も同じ事を考えていたのに、他の人の口から聞くと冷静に考えられるのは何故なのだろう。
「それも無理だったんじゃないかな。理由はこれから見せてもらう訳だけど、リピリスには私の力が必要だったんでしょ? 私の力を使うために、逃げられたり断られたりするような状況説明は出来なかったんじゃない?」
自分の力が届かないところで命が狙われていて、それを護ってくれるというのならばそこから離れるはずが無い。実際にはリピリス達の予想よりも黒帝はしつこく透子を狙ってきてしまっているが、そうでなければ今頃透子はリピリスに好意しか抱いていなかっただろう。
透子よりも先に、リピリスの元には皇希が来ていた。おそらく皇希も用心深かったのではないだろうか。
日本で育てられた子供は幼い内から他人を信用するなと刷り込まれている。それは寂しい事だけれど、今は仕方がない。