プロローグ
(……ここは、どこなんだろう)
長く続く無人の廊下。空気はひんやりと冷たく重々しい。
周りに光源は無く色はすべて黒と灰色。本来の色彩はまったく判らない。
廊下の脇に備えられた窓はガラス製。枠のデザインは、植物の蔓か何かがモチーフだろうか。そこから見えるはずの外の景色は、今は黒く塗り潰されている。
(無機質で、綺麗)
目に見える場所だけでなく、人気はまったく感じられない。まるで用意されたセットの様だ。
西洋の城を思わせるその造りが、二十一世紀の日本を生きる彼女にはよりその印象を強めている。
まったく無人の、闇に閉ざされた城の廊下で、彼女は一人闇の世界に取り残されていた。
本来ならば怖れてしかるべきその状況で、彼女は引き返すことも考えず、迷わず足を前に進めていく。
何故なら、彼女はこれが夢である事を知っていたからだ。
幼い頃から何度も、何度も同じ夢を見た。
暫らく進むと、目の前に重たそうな大きな扉が現れる。その扉に手を着き、押し開く。金属特有のひやりとした感覚が掌を通して伝わった。
他の夢とは違い、この夢だけは温度が感じられるのだ。
開いた扉の先を、更に彼女は進んでいく。
磨きぬかれた石の床。上質な造りで仕上げられたその部屋は、王の間か謁見の間か、そんな印象だ。
奥に設えられた玉座から、ゆらりと人影が動いて立ち上がる。歩み寄る彼女に伸ばされる手。
近付くにつれ色がはっきりと見て取れる。輝くライトブルーの髪が周囲の闇を弾くように煌いた。
白い肌に翡翠の瞳が良く映える。胸には豊かなふくらみがあるが、体付きは柔らかさを感じられない。
鍛えられ筋肉の付いた女性の体、というわけでは無い。女性形と男性形が絶妙なバランスを持って混在している、そんな印象だった。
「……貴方は、誰……?」
「俺はリピリス・リア・クロート。俺は何度も君に名乗ってる」
(うん、知ってる)
だけど、知りたいのは名前ではない。
「君は?」
「私は……」
『みだりに名前を口にしてはいけないよ』
心の中で、幼い頃に何度も刷り込まれた警告が彼女の言葉を切らせた。
そして、彼女はいつもの言葉を口にする。
「木城、透子……」
「その名前じゃない」
『名前は、本質を現すものだから』
「透子。時間がないんだ。どうか……」
「え……?」
徐々にリピリスの声が遠のいていく。周囲の景色もぼやける様にして崩れていく。
(起きるんだ。私)
目覚めの予兆。何度も、何度も繰り返し見てきた夢の終わり。
「透子!」
「!」
もう周りの景色は崩れて形を成していない。リピリス自身の姿も最早見えない。
それなのに、透子の耳には呼びかけるリピリスの声が強く響く。
必死で呼びかける、助けを求める声。
見えないのが判っていて、それでも透子は声に惹きつきけられ振り向いた。だがそこにあったのは見慣れたライトブルーの輝きではなく曖昧な闇よりも深い黒。
白く崩れる虚構の世界から、まるで独立しながらそこに存在ように、純粋な漆黒が人の形を取って透子を見ていた。
冗談のように黒一色で作られた影の中で、一つだけ異彩を放つ金の眼で。
―見つけた。
紡がれた言葉は低く小さく、透子の耳には聞き取れない。
ただ聞き取れたならば、それがまぎれもない喜びに震えた言葉だと判ったはずだ。
透子が夢から離れるのを見届けると、黒い人影は用は済んだとばかりに姿を消す。夢が存在していた虚構の空間は、全ての意識が途絶えると同時に消え失せた。
(……)
眼を開けるとそこは自分の部屋で、朝だった。カーテン越しに差し込まれる朝の日差しは柔らかく、徐々に気持ちを落ち着けてくれる。
「……何……?」
幼い頃から何度も繰り返し見てきた夢が、今日はまったく別のもののように感じられた。ただ一つの異物、世界に紛れ込んだ黒の異質物のせいで。
「……何で……?」
たかが夢。
たかが夢のはずなのに、透子は自分が震えていることに気が付き、乾いた声で小さく呟く。
良くない事の前兆のようだと、体が自分に暗示をかけているようだった。