孤独な欲求
彼女の心に暗く重い悲しい何かが溜まっている。
改札をゆっくりと抜け、駅の中に入り、階段を足早に下って行く。
彼女は冬はエレベーターを使わない。
人影もまばらなホームに立ち、コートの襟を立て、彼女はぼんやりと向かいのホームに立つ男の顔を見た。黒くて長い髪を揺らし流れていく冬の風が気になった。
そんな時、一瞬、ふと思った、今日は金曜日、そう・・・。
彼女は考えた。しかし一人では何か物足りない。
今の彼女には心を割れる友人、優しく抱きしめてくれる恋人がいなかった。
自分に会社で友人がいないことは立場上仕方ないだろうと彼女は納得していたが、恋人のいないことに気持ちが妙に鬱になった。
そして大した男じゃなかったが、最近別れた男の事を思い浮かべていてしまっていた。
彼女は美しかったが、いまだ独身だった。
そんな自分の年齢を考えずにはいられなかった、37・・・。「結婚」という言葉が浮かんでくる。望んではいるがチャンスがないのだ。
彼女はそう思うことにして、それ以上考えないことにした。
そうして彼女は地下鉄ホームの端にある人目につかない古臭い長椅子に座って、誰か適当な会社の人間を待つことにした。
腰を掛け、細く長い足を組んだ。長椅子はまるで、先ほどまで冷たい雪が積もっていたように冷えていた。
彼女はコートの襟を立て、ホームに張り付いている女探偵事務所の看板をみつめながら、時計をちらりと確認した。
六時まで待つことにした。あと30分ある。ホームの弱い光りがなぜか妙に寂しく感じられた。「ホームに誰か飛び込まないだろうか」彼女はそんな陰鬱な思いに魅了されていた。
彼女は桂子だった・・・。桂子はある小さな会社の事務所に努めていた。50人程度の小さな事務所。彼女は所長だった。事務所にはその下に女の副所長とその下に男の係長が一人いた。仕事柄、社員はほとんどが女だ。彼女はすべての社員の顔と名前が一致して頭の中に入っている(名前は全てファーストネームだ)。
10分ほどたったところでピンクのコートを着た厚化粧の上に、真っ白なマスクをして直美がいかにも暇そうに現れた。彼女は確か同い歳だ、今までも何度か飲みに連れ出したこともある。
彼女もいまだ独身のはず。
丁度いい・・・、そう思った桂子は立ち上がって近づこうとした。
待っていたと思われないよう、偶然を装い若干の驚きの表情でもって呼び止めた。
「直美、直美じゃない」
彼女は鬱陶しそうに足を止め、面倒くさそうに振り返った。
桂子は座っていた長椅子から立ち上がり、ゆっくりと直美に近づいていった。
「いま帰りなの?」
「まあ、出社じゃないけどね」いかにも直美らしいもの言だった。
彼女はピンクのコートに手を突っ込み桂子から顔をそむけた。
「暇そうね・・・」桂子は片方の頬で軽く微笑みながら言った。
「明日は休みだけど何か予定でも入っているの?」桂子は直美の視線を追った。
彼女の視線は逃げていった、
「いいえ、別に・・・」
そっけない返事だ。ここは少しサービスする必要がありそうだ。
「どう、飲みにでも行かない?おごるわよ」
桂子は乾いた唇に優しく笑みを浮かべた。
「所長と飲みに行って割り勘じゃ笑い話よ」
直美は斜めに桂子を見つめ、そしてすこし不貞腐れた様に言った。桂子は直美のこのふてぶてしさが好きだった。
「どう、明日は休みよ?」追い詰めるような口調でもう一度桂子が言った。
桂子は彼女の目を見つめたが、彼女はやっぱり視線を逸らした。
そして少しの間をおき視線を逸らしたまま、彼女はあきらめたように肩を落とし、言った
「いいわ・・・、付き合ってあげる」。
その直美のもののいいように、さすがに桂子は少し神経をとがらせた。
「いい店見つけたから連れてってあげるわ」。
なんとなく先行きに不安なものを感じながらの一言だった。
桂子は直美を従えるようにすすきの行きのホームに向かった。直美はあいかわらずコートのポケットに手を突っ込みついていった。
階段を降りるとホームにはもう長い人の列ができていた。やがて並んでいる人の列を裂くような音をたて、地下鉄がホームに入ってきた。地下鉄のエナメルの車体が鈍く光り、中の乗客はうつむいて何かを祈っているように見える。
桂子は何故か飲みに出ようと思ったことを一瞬後悔した。二人は何も言わずに地下鉄に乗り込んだ。
ススキノの夜は人影も少なく寂しかった。
緊急事態宣言とかいうやつのせいだろう。が、店に入るとそんなことはお構いなしだった、店は盛況だった。
店内の五色のライトは、客の会話や煙草の煙を映し、客の会話は流れるリズムに揺れていた。桂子は席につくと思わず辺りを見渡してしまった。
特別カップルは目につかなかった。
彼女は店に入るとまずカップルを探す自分が少し悲しく思えていた。直美は席に座ると慣れた手つきでカバンからタバコを取り出し火をつけた。煙草はメンソール、カバンはシャネルだった。
それを見た桂子は内心、通勤にシャネルか・・・。そう思いつつ言った。
「素敵なカバンね」
「前のボーナスよ」そう言って口をとがらせ、軽く煙を吐き出した。
「あなたタバコやめたじゃないの」桂子が言った。
「会社で吸わないだけよ」。
「よく我慢できるわね」。
「そんなに吸わないわよ」。
「本数はどんどん増えていくものよ、どこまで我慢できるかしら」桂子は言った。
二人はビールを注文した。
直美の細い指先に白い煙が揺れている。
そして直美はビールのジョッキに口を浸けると、桂子に乾いた笑みを浮かべ、彼女の顔を覗き込むように小さく訊ねてきた。
「金曜の夜に部下を誘って飲みに出るなんて、所長今彼氏がいないでしょ?」。
隠すほどの事でもない。桂子は素直に白状した。
「まあね。一番新しい彼氏と別れてもう2年になるわ」。
「そうなの。所長の過去は謎だって事務所の中じゃ評判よ」。
「私が中途採用だからよ」。
「うちの事務所はほとんど中途よ」。
桂子は確かに自分のことを他人に話したことがない。
それは所長という立場上、部下に弱みを見せることができないからであり、隠していたわけではなかった。自分の過去は他人には話せない弱みなのだ。自分にとって恥辱と屈辱に満ち溢れた歴史なのだ。その秘密を知る人間は誰もいない。誰もいないはずだ。
「まあ、そう言う自分も金曜の晩に所長の相手だから、一緒よね」直美は呟くようにそういうと軽く煙草の煙を吐き出し、手に持ったジョッキのビールを大きく飲み込んだ。
「それより、所長、知ってる?あの芳江が今、妊娠してるらしいわよ」
「その所長っていうの、止めてくれる直美」桂子が鬱陶しそうに言った。
「ゴメン。それよりどう、知ってる?」
「知らないわ。そんな人の事より自分は最近どうなのよ?」桂子はそっぽをむいたまま直美を叱る様なくちぶりで言った。
「なんかあったら今頃こんなとこにいやしないわ」
直美は少し淋しそうに手に持ったタバコの先を見つめた。この子は物を考える時によくタバコの先を見つめる。
二人のあいだに少しの間が流れた。
「どこか旅行でも行きたいわね」桂子が両手を大きく突き上げ、大きく体を反らしながら夢を見るように言った。
少し離れた席でそんな二人の会話を一人の男が興味深そうに聴いていた。
直美が二杯目のビールを注文した時、二人の背中からその男が声を掛けてきた。
「二人だけで女子会かい?」。
二人が振り向くと、黒のジャケットに細身、長身の男が立っていた。悪くない、一瞬、桂子は思った。男は柴田だった。柴田はさり気なく2人の向かいの席に腰を掛け、テーブルにウイスキーの入ったグラスを置いた。
直美は柴田の顔を見ると、桂子以上に強く彼に惹かれた様だった、彼女は心に響く何かを感じたようだった。
彼女ご自慢の大きく丸い目をさらに大きく開き、少し戸惑ったような表情さえも観た。これをみた桂子は男の事より、直美の様子の変わりように関心を持った。どちらかというと、飲みに出ると自分より男に積極的になる直美。桂子はその直美の心の中に入り込んだ大きなものを想像し、対抗心を燃やした。桂子は自分の女としての魅力では直美に負けたくないと想っていた。この男は今夜は自分のものにする。桂子は思わずそう想った。
「丁度女二人で退屈していたところなの」。
桂子が言うと、直美が割り込むように言った。
「私たち社会福祉士。高齢者サービスの仕事よ。」
直美は適当な事を言った。彼女は社会福祉士でも何でもない、ただの女子事務員だった。
「福祉かい、大変だね」柴田はそう言うと、探るような目つきでグラスを軽く口によせた。桂子は直美の嘘にあきれて彼女を見つめてしまった。彼もその直美の言葉は軽く聞き流したようだった。そしてウイスキーをもう一口飲むと、言った。
「今日は僕がおごる」。
気前のいい男だ、金回りもいいに違いない。40代前半に見える。
今夜の相手にはちょうどいいかもしれない、桂子はそう思いながらビールのジョッキに口を付けた。桂子は柴田のなにげなく自分にむけられる視線に、彼女の心のカギが緩んでいくのを感じていた。そして彼の視線が明らかに直美に向けられる時間より自分に向けられる時間が長いことも感じていた。
その日は三人で酒を楽しんだ。
少しすると直美はかなり酔ったようだった。
桂子もすでに酔いが回り、柴田にもたれかかり、そして滅多に見せない自分の心の内を彼に何故か打ち明け始めた。柴田は何も言わずにただ頷いていた。
帰り道、桂子がひどく酔っぱらった直美をタクシーに乗せ地下鉄に向かうと、柴田が待っていた。そして何も言わずに二人はススキノのホテル街に消えて行った
その後も二人は会う事を止めなかった。
寒く、遠い星空の冬のある日の夜、出会いからもうすぐ3か月が経とうとしていた。桂子と柴田、二人は彼女の部屋で熱く愛し合っていた、その時
「結婚しよう・・・」柴田が小さくささやいた。
彼女は柴田の表情から、彼が何を言おうとしているか、すでに感じ取っていた。彼女に驚きはなかった。彼女はそうなるような気がしていた、そして目でうなずいた。
ベットの横のテーブルに置かれた灰皿から、煙草の煙が細く立ち上っていた。
彼はそれ以上何も言わなかった。彼女は幸せなはずだった。
恐らくみんなが祝ってくれるに違いない。友人、知人、すべての人達が自分の人生のこの大きな出来事を祝い、祝福してくれるに違いない、桂子はそう思った。世界中の、すべての人々に祝福され、胴上げされるような気がしていた。そして次の日、いつもより入念におしゃれをして、普段は着ない三越で買ったピンクのコートを着て、真っ赤な口紅を塗って濃い目に化粧をして会社に出かけた。電車の中でもすべての人が自分を見ているような気がした。すれ違う人々がみんな自分を見ているような気がした。
しかし会社では特別なことはなかった。結婚したことを、課長に報告すると課長はあたりまえのように笑って
「おめでとうございます」と言っただけだった。社員のみんなからも、
「おめでとうございます」と特別なことでもなさそうに一言いわれただけだった。
直美は完全無視だった。
二人とも両親は亡くなり、兄弟もいない、親戚づきあいもないということで結婚式なるものは挙げずに、婚姻届けに判を押し、区役所に届け出ただけだった。そしてその日に二人で彼の部屋で缶ビールを飲んで祝った。適当に酔った頃に二人で彼のベッドで愛し合った。いつもと同じで特別なことは何もない、いつもと同じ一日だった。
そして桂子は柴田と彼女の部屋で結婚生活を開始した。彼は優しかった。いい人だった。
ただ彼女はあの時の直美のあの大きな目がいつも自分を見詰めているような気がしていた。
桂子は休みの日に一人で買い物に出かけていた。一人で出かけるのは珍しくはない。むしろ外出は別々なことが多いくらいだ。そんな休日の過ごし方に、彼女は何の疑問も抱いてはいなかった。
11月も半ばだった、見上げると空は鉛色の雲が一面を覆っている、そこからいずれ降り落ちて来る雪が白いとは桂子には思えなかった。その厚く濁った雲の切れ間からは、力ない光が差し込んでくる。季節はもう冬なのだ。しかしまだ雪はない。最近は季節がずれ込んでしまったかのように冬の到来を遅く感じる。しかし彼女の心には既に白い雪が積もっていた。
彼女は買い物を済ませると、いつもの喫茶店でコーヒーをのむことにした。そこの店のコーヒーは非常においしいと評判だが、桂子にはその味が理解できなかった。
店に入って店内を見渡すと暗い印象が目に映る、目つきの悪い女店員。その声が薄気味悪く彼女の耳に響く。味の評判のわりに感じの悪い店だ。だからだろう、いつ来ても客は少ない、彼女はそう思っていた。
「いらっしいませ」薄気味悪い声だった。
彼女は枯れた外の景色が見えるいつもの一番奥の窓際の席につき、誰も通らない窓の外を眺めた。目つきの悪い女店員が彼女の座った席に寄ってきた。
「本日のおすすめはブラジルです」薄気味悪い声が耳に障る。
彼女は一瞬迷ったがやはりいつもの飲みなれたブレンドを注文した。
ゆっくりと足を組みなおし、桂子は壁にかかっている絵を見つめたが、絵の名前が思い出せなかった。
彼女はこの絵が気に入っている。
彼女は絵の題名を思い出そうとした
何と無く覚えていたはずである、しかし出てこない。
しばらく待つと、目つきの悪い店員がコーヒーを運んできた。
「お砂糖はご自由にお使いください」
そう言ってコーヒーをテーブルに置いていった。やっぱり薄気味悪い声が耳に触った。
桂子は横を向き、窓の外を見つめ枯れてかすれた外の景色を見つめた。外では枯れてかすれた裸の並木が冷たくかすかに風に揺れているのが見える。
ゆっくりとコップを口に運んだ。やっぱりただ苦く感じた。カップをテーブルに置きながら
これがおいしいコーヒーだと桂子は自分に言い聞かせていた。
そしてテーブルに肘をつき手のひらに顎を乗せ窓の外を見つめた。
ふと柴田のことを考えた。何をしているのだろうか、少し気になったが考えないことにした。暗く静かな店の中で、時計の振り子が大きな音を立ててゆっくりと大きく重く揺れている。時間は確実に進んでいるようだった。しかし桂子の心は前に進まず、音もたてずに小さく重く揺れているようだった。
休日の午後、窓の外は二づれであふれ、振り子時計の音が耳に触った。見上げるともう3時を過ぎている。しかしまだ大丈夫だろう。柴田もまだ帰らないはずだ。彼の帰る時間もいつもどおりのはず。彼女はそう思いながら外の人の流れを見つめ、コーヒーを飲んだ、やはり苦かった。
しばらくすると、窓の外にはでな帽子をかぶり、赤く短いスカートをはいたスナックのママのような女が歩いてきた。
よくみると見慣れた顔、会社の美千代だ。
桂子が何げなく手を振ると彼女は店に入ってきた。
美千代は桂子の向かいに腰を掛け、ニッコリ笑うと挑戦するように細く長い足を組んでみせた。その足を見た男の胸は間違いなくドキリとするに違いない。
しかしこの季節にその短いスカート、寒くはないのかと彼女は思ったが黙っていた。
桂子は、コーヒーを口に運びながら、
「一人なの?」と尋問するような口調で聞いた。
「私も久々に独身貴族ってやつ。所長も一人なの?」。そういうと美千代は面倒くさそうにコーヒーを注文した。
「うちは休みの日はだいたい別々よ」。
桂子はカップをテーブルに置き少し間を置いてから寂し気に答えた。
「いいわね、そのうち子供ができるとそうともいかなくなるわ」。
彼女は独り言のように言った。桂子は美千代の子供という言葉を聞いて、胸が一瞬縮み上がった。
「そっ、そんなものかしら。お宅は結婚して何年目で子供ができたの?」
桂子はその気持を美千代に見破られないように、わざと平然と答えた。
「いいえ、うちは子供ができたから結婚したの、できなかったら別れているところだったかもしれない、逃げられないように子供を作ったってわけ。所長は結婚しても仕事を続けているけど子供ができたらどうするの?」。美千代は探るように聞いた。
彼女は子供ができてからの生活など想像もしたことがなかった。というより、子供ができるということなど考えたこともなかったのだった。
「わからないわ」桂子は美千代から視線を逸らした。
彼女は子供というものがどういうものか考えてみたこともなかった。
美千代は運ばれてきたコーヒーカップに口をつけて驚いた。
「あら、おいしい。このコーヒーおいしいわ」。
「へー、あなたコーヒーの味わかる。ここのコーヒーおいしいって評判なの」
桂子は話をそらそうと、大袈裟に驚いて見せた。
実際、桂子は美千代がここのコーヒーをおいしいと言うとは思わなかった。
「すごくコクを感じる、深みがあってすごくおいしいわ。所長は感じない」
「あなたのように、一口飲んで驚きはしなかったわ」
桂子は少し悔しそうに美千代をみつめ、さらに話題を変えようとわざと大袈裟に聞いた。
「ずいぶんと若作りなかっこうしてるけど、どこへ行くつもり?」
美千代は三十台半ばだったはずである。
「街に買い物に行こうとしていたの。給料も出たじゃない」
美千代は自慢げに答えた。
「あら、邪魔しちゃったかしら」桂子は別に気にも留めずに言った。
「いいわ、あたしが自分で入ってきたんだから」美千代は言った。
店内に静かにビートルズのイエスタデイが流れ始めた。
彼女が言った。
「あら、サイモンとガーファンクルだわ」彼女はそれが、ビートルズだと知っていたが黙っていた。美千代が何か話し始めていたが、桂子は彼女の顔を何げなく見つつ曲を聴いていた。美千代の話が途切れ、我に返った桂子が彼女に聞いた。
「あなた、コーヒー通の様だけど、お気に入りの店なんかあったりするわけ?」
「だから子供ができるとそれどころじゃないの」
彼女は諦めた様に言うと、コクがあり深みの感じるコーヒーを一気に飲み干し、店を出ていった。しばらくして、ふと桂子が顔を上げると、店に飾ったキスリングの絵が目に入った。その時、彼女の中にその絵の題名が浮かんだ、確か「婦人」という絵だった。赤いワンピースを着て、椅子に腰を掛けた一人の「婦人」の絵。赤いバラを持ち、横を見つめる瞳は何処かうつろで虚しげだった。誰を待っているのだろうか、何を待っているのだろうか、何を求めているのだろうか、桂子は考えていたが、キスリングの絵に「婦人」という題の絵は無い。
店を出て部屋へ帰ろうとした彼女は、その日、「子供」という言葉を聞いて少しショックを感じた自分に驚いていた。彼女は子供のことを今まで考えた事がなかったし、二人で真剣に話し合ったこともなかった。そして部屋まではバスで一区間だったが、タクシーを止めて乗り込んだ。行き先を告げると、ひげ面の運転手は少し嫌な顔をした。が、彼女はいつものことだと思うことにして特に気にはしなかった。ワンメーターでタクシーを降り、部屋へ向かおうとすると、保育園の子供たちが列を作って歩いている。黄色の帽子に青の帽子を被って、どれもかわいい。それを見つめていた彼女は、思わずあの中から「一匹」さらって自分のものにしたい、そんな欲求に駆られていた。
そうして、彼女が部屋に帰宅すると柴田はいつも通りの時間に部屋に帰ってきた。彼女は食事の準備を始めた。
「お風呂は沸いているわ」桂子が言った。
「ありがとう」柴田は言って、バスタオルを首に巻き付けバスルームへと向かった。
彼の入浴時間はいつも30分だった、桂子は男にしては少々長いような気もしていた。しかしこの間に彼女は食事の準備を済ませることができた。だいたいは購入してきた出来合いのものだったが彼は何も言わなかった。
入浴を済ませテーブルについた柴田は
「いただきます」一言、早口で言ってから小さく手を合わせ箸を取った。
桂子は少し緊張していた。食事を始める前に「子供」という言葉に柴田がどう反応するか試してみたかったのだ。
「あなた、私たちもそろそろ子どものことを真剣に考えない、子供をどうするかなんて二人で真剣に話したことがないじゃない?」桂子はひさびさに柴田の目を見て言った。
「子供?」柴田は驚きを超えてなにかあきれた様な表情で桂子を見つめ、箸を止めた。
「僕らには子供は必要ないだろう。それは君も感じていることだと思っていたけど」
そう言うと、彼は止めた箸を再び動かし始めた。
その言葉に桂子は少し悲しみと怒りを覚えた。
「でも、経済的にも少し余裕はあるしそろそろ・・・・」囁くような声で言ったが
柴田は相変わらず興味なさそうな表情で言った。
「そういう問題じゃなくて」と彼は言った。
部屋はいつもより暗く感じられた。そのことが桂子を妙に攻撃的にさせた。
「私は子供が欲しいわ」
そう言いながら、彼女は自分の言った言葉に恐怖を感じた。柴田はやっぱり興味なさそうに無言のまま食事を続けていた。何か妙に時間の経つのが遅いような気がした。彼女は無言で食事をしている柴田の肩越しに見える時計の針が進むのを見ていた。
やがて彼女は時間が止まっているような感覚に襲われてきた。
桂子は思い切って続けた。
「子供を育てていくことによって二人の結びつきが強まるものだとも思うわ」
彼女は本当に自分が子供を欲しがっているとは思っていなかった。
ただ自分があのとき、子供という言葉にショックを受けた自分の気持ちを柴田にぶつけているだけだった。
「僕らみたいな年齢で結婚した夫婦は子供を必要としないコンパクトな生活をすべきだ、子供ができたらこのマンションも引っ越さなければならない、教育費も掛かる、その分、貯蓄に回したほうが生活は安定する」。
柴田は桂子を諭すように言った。桂子は今日の帰りに見た保育園の子供の列を思い浮かべていた。あの時の欲求がさらに強くなった気がした。
本当は柴田が言うコンパクトな生活の目的はどこにあるのか桂子は知っていた。以前、彼の本棚の一冊の本の背表紙を見た桂子は、柴田が将来独立して、会社を作ることを計画していることを薄々感じていたのだ。そのせいで子供が作れないことよりも、柴田がそれを口に出さないことが彼女は淋しかった。しかし彼女はそれ以上何も言わなかった。
柴田は相変わらず買ってきた惣菜をおいしいと言って食べている、中にはインスタントも混じっている。彼女は自分で作る気はなかった。ないとゆうより起きない。今の彼に作ってあげようという気にはならなかった。ほんとの事を言えば彼女はカレーしか作れない。大丈夫だろう、将来自分は社長夫人だ・・・。彼女はそう思うことにした。
次の日、桂子はいつも通りの時間に家を出た。気温は冬だ。空気は透明に澄んでいる、東の空は淡くオレンジ色に輝いていた。まだ雪が降らない。驚きと、喜びと、少し恐怖のようなものを感じながらの毎日だった。
柔らかい光に包まれた透明な冬の澄んだ空気。大きく息を吸ってみると、針先のように尖ったものが心の中に突き刺さる様な冷たさを感じた。しかし見ていた回りの広い景色は心の中でどんどん大きく膨らんでいくようだった。彼女は襟元のマフラーを巻き直した。今日のコートはベージュ、空を飛んでいるカラスを見つめ、彼女は俯き、歩き始めた。
今日は本部への直行だった。地下鉄の路線を途中で乗りかえる以外、時間的にいつもの事業所に出るのと差異はない。
本部は男性社員と女性社員が半分くらいで、女性社員の平均年齢が桂子の事業所よりも確実に低かった。その若さが彼女には何となく妬ましく思えていた。
本部は広く清潔で静かだった。だれかが欠伸をしたら確実にフロア中に響きそうだった。
その中に女子社員の打つ、パソコンキーの音がバックミュージックとしてフロアにひっきりなしに、リズムよく流れていた。
本部の窓から見た空は広く、いつも青かった。絵にかいたような、白い雲が山の向こうに低く集まっている。今日も晴れだ、彼女はここからみるこの広い景色が好きだった。幼い頃、母の手にひかれていたあの頃を何となく思い出すような気がしていた。
今日は会議に出席するために本部に来たのだったが、会議では会社の幹部達がピリピリしているのが彼女には見て取れた。いつもはこんな重役の集まる会議に桂子は参加はしなかったのだが、今回、政府が発表した法改正が小さいながらも桂子の会社が大きく影響を受けかねない内容を含んでおり、事業所長要参加の通達が来たのだった。しかし、このまま政府が法改正を強行したら、私の事業所はどうなるのか?この会社はどうなるのか?この街はどうなるのか?この国はどうなるのか?そんなことを想ってみたが彼女にはまったく分からなかった。恐らく何も変わらないのだろう。彼女はそう結論づけた。
会議が終わると、
「久しぶりだな」と太く低くいやらしい声が聞こえてきた。恐る恐る振り返ると、人事部の米田部長がニヤニヤ笑いながら近づいてきた。
「お宅の事務所も覚悟しておいてくれよ」
彼女は自分がなにを覚悟すべきなのか結局理解できていなかったが、まあ部長の言うことだ、そう思い
「はい、部長」と少し大げさに微笑んで見せた。
米田は桂子が本部へ出向くと必ず声をかけてくる。中肉中背の背も高くまあ、スマートなタイプではあった。確実に50は超えていると思われるのだが正確な年齢を彼女は知らなかった。米田は桂子が結婚した事実を知らなかった。
「どうだ、今日は昼めしを一緒に食わないか」米田は少し狡がしこい表情で、彼女に言った。彼女は彼に特別おかしな感情を感じることはなかったので、
「いいですよ」と冷たい口調で答えた。
丁度お昼になったころフロアがざわついて席を立つ社員と弁当を広げる社員で、フロアは2分されていた。
社内に食堂はあったが米田は外へ行こうといって、近くの喫茶店を案内してくれた。その店は彼女の初めて入るジャズの鳴り響く、感じのいい店だった。
席に座ると米田はポケットから煙草の箱を取り出し一本くわえると、何も言わずに例のいやらしい顔つきでもって手にした煙草の箱を桂子に差し向けた。
桂子は米田を真直ぐに見つめて何も言わずにゆっくり首を振って断った。
少しすると店におしゃれな二人ずれが入ってきた。
「素敵な店ですね」何げなく彼女の口から本音が出た。
「そうだろう、ここに入ると俺は青春時代を思い出す」彼が懐かしそうに言った。
彼女は彼の青春という言葉に一瞬吹き出しそうになってしまったがこらえた。
少し俯き加減で彼はくわえていた煙草に緑の100円ライターで火をつけ、うまそうに一息吸い込んだ。
桂子は思い切って聞いてみた。
「米田さんはおいくつですか?」
彼は大きく溜息を突くように煙草の煙を吐き出しながら言った
「55だ、子供も大学を卒業して社会人になった。ようやくひと段落ついたところだ」
圭子は彼の子供という言葉にその時、何の感動も覚えなかった。ただ彼が父親だったということがなんとなく意外だった。
「なににする。ここのカレーは市内じゃ5本の指に入るうまさだ」そう言って彼はメニューを桂子に見せた。
彼女はおいしいコーヒーの味を覚えたので、今度はおいしいカレーも悪くない。そう思いカレーを注文した。米田もカレーを注文した。そして桂子に尋ねた。
「お前のとこの部署、部長がそろそろ定年だけどお前はどうだ、その気はないのか、本部勤務もいいもんだぞ」
彼は煙草の煙を浮かせるように大きく吐き出し、真剣な顔つきで彼女に尋ねた。
彼女はこの会社は女性社員が何年働いても、どんなに成績が良くても事務所の所長で頭打ちなのを知っていた、本部の部長にはなれない。本部の女部長は聞いたことがなかった。
部長はいずれどこからか、名前の聞いたこともない男性社員がやってきて、その椅子に座るのだった。しかし桂子にとっては、今以上の責任と仕事を負わされるより、今の給料で今の事務所で仕事を続けていたかった。来年も、再来年も。
「私は別に、今の生活のリズムを壊す気はないし、主人がとりあえずIT企業の社員で収入にもそれほど窮屈な思いもしていませんので」
そういうと突然その桂子の言葉を聞いた米田が叫ぶように言った。
「お前結婚したのか?」米田のびっくりしたその顔見て桂子は驚いた。
「はい、そろそろ1月くらいたちます」何げなく答えたが、米田はしばらく桂子の顔を見つめたまま、信じられないような表情で
「そうだったのか」と一言ようやくはきだし、そうして手に持った煙草を灰皿でもみけした
「IT企業のエンジニアとはいい男見つけた。まあ、お前さんじゃあな・・・」彼は桂子を見つめたまま頷きながら言った。彼女は店の入り口に飾られた絵を見つめながら
「運がよかったんです」彼女は何も思わずに言った。これも本音に近かった。しかし、彼女は柴田の会社、IT企業というものがどんなことをしているのか、プログラマーとはどんな仕事なのかは彼女は知らなかった。彼女は少し考えこんでしまった。
「どうした、カレーが来たぞ」米田の声に我に返ると、目の前にカレーが運ばれていた。
桂子はカレーに口を付けた。少し怖かった。カレーを食べるのに恐怖を覚えたのは初めてだった。おいしいと思うかどうか。米田が彼女の顔を見つめていた。
「おいしいわ」とりあえず言っておいた。正直、自分の作るカレーと大差ないと思ったのだが、米田が納得するように言っておいた。
「そうだろう」そうして米田は満足そうな表情で自分のカレーに手を付けた。
食べている間は何も言わなかった、桂子は幼い頃から食べるときは静かにしなさいと言われて育ち、食べている間は口をきく事がない。
「これがおいしいカレーなのですね」桂子が食べ終わってから一言、言った。
実際、何がどうおいしいのか説明してみろと言われても出来そうもなかったが、そういっておいた。
「そうだ。この辛みと香りが絶妙だ」米田が言ったが彼女にはぴんとこなかった。でもとりあえず頷いておいた。
食事が終わったあとコーヒーが運ばれてくると、コーヒーを飲みながら彼はカレー講義を始めた。桂子は少々うんざりしていた。
彼女はもう米田の話はほとんど聞いていなかった。そして内心で彼と食事をするのはもうよそうと固く心に誓った。
会社に戻るとすでに無機質で色のないパソコンキーのバックミュージックはひっきりなしに鳴っている。
今日は本部出向のせいで一時間の残業、いつも通りには帰れないことをメールで彼に知らせた。彼からは何の返答もなかった。
その頃、柴田は会社で本部長に呼び出されていた。
この会社は本部長クラスから個室と秘書付きだ。秘書の女の子からは本部長の好みが見て取れる。この会社は社内用システム構築、WEBシステムの構築、アプリの開発、ゲームソフトの開発、そしてAI研究開発とパソコンソフトの何でも屋みたいな会社だった。開発プロジェクトでは、色々新型アプリ、ゲームソフトの新作を作り出そうとしている。前回のシステム構築プロジェクトでも彼はリーダーという立場で参加している。
彼が部屋の前に行って2回ドアを強くノックをすると、
「入れ」中から本部長の、本部長らしい声がした。
ドアを開けると早速煙草の煙だった。相変わらずだ、本部長は仕事中でも煙草を吸っている。そんな煙の充満した部屋の中に入ると、象のように太った本部長が後ろを向き、腕を組んだまま窓から外の景色を眺めていた。部屋にはディスクと、中央に透明なテーブルをはさんでソファが二つ並んでいる。本棚には古い本やら書類やらが押し込まれ、今にも倒れそうだった。まるで大学教授の部屋を思わせた。
「まあ、座れ」彼が後ろを向いたまま言った。
「失礼します」そう言って柴田は部屋の中央に置かれたソファに座った。以外と座り心地の良い柔らかなソファだった。
すると象の様に太った本部長がこちらを向き、窓を離れて、自分自身の大きな体をゆすりながら重々しく柴田の向かいにゆっくりと座った。
この業種は人の入れ替わりが激しいが、この本部長はたたき上げで、相当長く勤続しているらしい、彼に逆らうとつるし上げを食うということだ。彼に逆らった部長は地方へ飛ばされたらしい、どこかは知らない、雪の多い、寒い地方だ。平社員が下手なことは言えない。柴田は少し緊張した。
本部長は早速タバコをポケットから取り出した。銘柄はラーク、大した銘柄でもないな。柴田はそう思いながら彼が煙草に火をつけるのを黙って見つめていた。ライターはジッポだった。
「どうだ、部署の調子は」と、じろりと下品な目つきで彼を見つめ本部長が聞いてきた。
柴田は何と言っていいかわからず、答えに窮して思わず背筋を伸ばしてしまった。
「そう緊張するな、リラックスしてくれ」と彼は大声を出して今度は下品に笑った。
そうして煙草の煙を大きく吐き出した。柴田は彼の吐き出した煙草の煙を煙たく感じたが、我慢した。
「君にとってはいい知らせだ、柴田」そう言うと。本部長は少し優しく微笑んで、短く太い足を組み直しながら言った。
「今度の君の部署の開発プロジェクト、君に任せる。重要なプロジェクトだ。しっかり頼む」そうゆっくりと言った。彼はとりあえず
「ありがとうございます」と、答えておいた。
「3か月の予定を組んでいる。A社との共同研究だ。予算など細かい点はまだ決まってない。メンバーは君が部署から選んでくれ」そう言うと、彼は煙草を灰皿に押し付けてもみ消した。そしてポッケトから煙草の箱を取り出し、二本目の煙草に火をつけた。柴田は何も言わずにそれを見ていた。
すると本部長が、急に厳しい顔になり、
「よろしく頼む」と言って、2本目の煙草をくわえたままゆっくりと立ち上がり後ろを向いた。
「はい」と答え、立ち上がり部屋を出ようとした。
その時、本部長が突然振り向いて
「そうだ。君結婚したのか?」と聞いてきた。
「はい」と面倒くさそうに返事をしたが、本部長が窓の外をみながら、
「どこの誰だ、いい女なのかね」振り向くとニヤリとこれもまた下品に笑って聞いてきた。
柴田はどう答えていいかわからず、
「それなりに」と返事をして、とりあえず彼女の仕事と年齢を答えておいた。
実際、彼は彼女がいい女だと思っている。どこへだしても恥ずかしくないと思っているし、自分程度の男にはもったいないくらいだとも感じていた。
しかし本部長室から出ると、彼は少し悩んでいた。
そう言えば自分の女房がどこの誰かと聞かれて、彼女がどんな育ち方をしてきた人間なのか、どんな経歴を持った人間なのか、自分はほとんど知らなかった。お互い話したことがなかった。
知っているのは両親が死んで、親戚づきあいもほとんどないということと、生年月日、最終学歴、そして今何をしているかくらいだった。なぜ結婚したのか?話をして悪い人間じゃないと思ったのだ。そして、ただ単に彼女が美しいからだった。彼女の美しさに惹かれたのだ、彼女の本当のことは何もしらない、ただ美しいということ以外は。
フロアに戻り席に着こうとすると岡本が声をかけてきた
「本部長のおよびだって?」いやらしい声だ。
柴田はこの男が嫌いだった。彼と同じ大学を出ている男だが、彼はこの男の人格は2流だと思っている。もちろんやつの仕事自体も2流なのだ。前回も当然プロジェクトから外したが、今回も選ぶつもりはなかった。
「お前には関係ない」柴田は言った。
「プロジェクトの件だろう」彼がしつこく聞いてくる。
この男は何かとひとの粗探しをしたがる、どこの会社にでもいる、一番嫌われるタイプだった。彼は普段から相手にしていなかった。
そうして仕事に取り掛かろうとすると今度は木島が声をかけてきた。
「柴田。何の話だったのだ」スマートな声だ、スーツもいいものを着ている様に見える。
この男は柴田の落ちた有名私立大学、理工学部卒で、同期でも出世頭と目されている。あの本部長よりずっと本部長的だ。なんでこんな地方の中小企業に就職したのか知らないが、来年あたり早くも係長らしい、ないがしろにはできない。出身大学で人を判断しないと思ってはいるが、やはり一流大学出身者は出世していくものである、不思議だ。
「ああ、今度のプロジェクトの件だ」柴田は言った。
「やっぱり君が仕切るのか」木島が言った。
「とりあえず仕切らせてもらう。君も手伝ってくれ」柴田が言った。
「わかっている。力になるよ」やっぱり、スマートな返答だ、この男に頼ればプロジェクトもスムーズに進むだろう。柴田はそう思った。
しかし部屋に帰ってもプロジェクトの準備に追われ柴田は休んでいる暇などなかった。桂子は彼が何をしているのかわからず、そのうちで掛けるのだろうと思いながら、自分も一人で買い物に出かけた。そしてその帰り道、彼女は自宅へ向かっていた。「彼もまだ帰っていないだろう」そう思いながら歩いていたが、何となく悪臭の漂い始めた時間帯だった、暗くなり始めていた街角。マンションの近くにある交差点、信号が変わる直前、明らかに法定速度を超えた速度で一台の車が交差点に突っ込んできた。桂子はこういう車を見ると車の前に飛び込んでやろうかと思う。そうすればこの車の運転手の速度違反も暴かれる。自分も正義の味方で死んでいけるかもしれない。でもその勇気はない。医者から君は明日死ぬ、そう言われた身でも駄目だろう。「痛いに違いない。そうだ、死ぬほど痛いに違いない」。そう思ったら絶対ダメだった。
マンションに着きカギを開けようとする、鍵は開いていた。柴田は家にいる。少しほっとしてドアを開けた。彼女はなんだか今日は彼に抱きしめて欲しくなってきた。
桂子が部屋に入ると柴田は本を読んでいた。彼はよく本を読んでいる。コンピューターの本を一日中読んでいることもある。彼はよく桂子には全く分からない、難解なコンピュータープログラムに関する本を読んでいる。それが彼の仕事に関するものだと彼女は理解していた。時々彼のいないときに本を開いて見てみたが、英単語と記号の羅列、まったく意味が分からなかった、ひょっとして彼はロシアかどこかのスパイではないかと本気で疑ったりもした。そうなのだ、自分は彼の頭の中に何があるのか、心の中に何があるのかは何も知らない。そう思えば思うほど今日の彼に対する欲求は強いものになっていった。
「今日はどこにも出かけなかったの」桂子が柴田に尋ねた。
「特別用はなかったから」柴田は本を読んだまま、そう突っぱねるように言った。
桂子はなんとなく、自分の解からない世界に没頭している柴田に怒りを通り越して淋しさを感じるようになった。部屋での会話も一日一日とだんだん少なくなっていく様な気がする。もう少し自分の方を向かせたい。そう感じ始めていたがどうすればよいのか彼女には全く分からなかった。
「明日一緒に出掛けない」桂子は聞いた。
柴田は一瞬平手打ちでも食らったような表情で桂子を見つめ、すぐに視線を本に落とし、言った。
「今忙しんだ」彼は関心なさそうに言った。桂子は納得できない様子で、問い詰めた。
「何かあるの」寂しげに、でもちょっと甘える様な口ぶりだった。
「新しいプロジェクトを任されたんだ」
と柴田は投げ捨てる様に言っただけだった。彼女の胸中は悲しい思いと悔しい思いが混濁し、諦めきれずに彼を強く、刺すように見つめていた。そしてふと彼女は口にした。
「あなた、私が死んだらどうする」自分でもなぜそのようなことを言ったのか、分からなかった。何となく自分がいつまで生きていられるのか、そういう不安が一瞬、速度違反のダンプが突っ込んできた時の様に彼女の頭をよぎったのだった。
「何を言っている。現に生きているだろう」彼はまた少しイライラした様子で言った。桂子はそのイライラした彼の表情を見て思わず心に火が付き、獣の様にいきなり大声で彼に嚙みついた。
「なによ、でも明日私が生きている保証はないわよ。きょう寝むったら明日目を覚ます保障はないのよ。ひょっとしたら明日の会社帰り地下鉄に飛び込んでバラバラに砕け散ってしまうかもしれない。もしかしたら明日手首を切って真っ赤な血を流して死んでしまうかもしれない。」真っ青な顔をした鬼のような形相だった。
「なぜそのようなことをする必要がある」柴田が座ったまま驚愕の表情で、しかし落ち着いて桂子を見上げるように言った。
「・・・・・」彼女は一直線に口を結んだまま黙っていた。彼女は何といえばいいのか分からなかったのだ、その後の言葉が出てこなかったのだ。そして桂子は自分の目に涙を浮かべて見せようとしたが、出来なかった。どうしても涙は出てこなかった。
「今僕らは十分に幸せじゃないか、そのためにこうして僕は仕事をしているじゃないか」柴田は言い訳がましく反論した。
桂子はそれ以上何も言わなかった。自分自身、彼に対して肝心な言葉が出てこなかったことに驚いてしまった。この人に何を言っても無駄だと感じてしまっていたのだった。
柴田は会社でもプロジェクトとのメンバーがなかなか決まらずに悩んでいた。自分を含めて6人と設定したがあと一人・・・・。まず木島、斎藤、この二人のC言語の腕は社内でNo1と言っていい、外す訳にはいかない。そして高橋の開発力、そうなのだ、彼の想像力は開発に必ず必要だ。林。プロジェクトを進めていくうえで彼の総合的な技術力というものは必ず必要になってくる。あと一人。そう、あと一人がなかなか決まらない。
若手社員が何かと声をかけてくる。普段、会話をしたことのないような連中が何かと声をかけてくる、柴田は彼らを平然と見つめ、腕を組んで目をつむった。確かにプロジェクトの参加回数は人事評価の対象だ。昇進への近道だ。それにしても露骨だ。いやらしくも感じる。そしてこのメンバーで何が欠けているか考えたがなかなか出てこない。
その時同じ課の翔子が彼の席に近づき書類を彼の机の上に置きながら言った。
「柴田さん、前回のオブジェクトのデーター処理しておきました」
「あ、ああ、ありがとう・・・」柴田は振り向きざまに彼女の目を見て言った。
翔子は去年入社した若手の女性エンジニアだった。
その日、祥子は会社の同期の二人、幸恵と芳江と飲みに出かけていた。今日は焼き鳥の美味しい居酒屋で、元気のよい3人組にピッタリの店だった。祥子もこの店が気に入っていた。この店の熱々の大きな味付きの唐揚げが何とも言えず彼女は好きだった。
「聞いた、葉子に彼氏ができたんですって」幸恵がチューハイを飲みながら二人を驚かすように言った。彼女はその手の情報源だった。店の中は金曜の18時、会社帰りの客でざわついて、煙草の煙が煙たかった。二人とも興味がなさそうに言った。
「あの子がどこで男なんか捕まえたの」
芳江が面倒くさそうに聞いた。彼女はビールを飲んでいた。
「ネットですって」
幸恵が煙草を吸いながら言った。幸恵は会社でも煙草を吸っている。同期で女子一番のヘビースモーカーだった。
「えー、じゃあ完全に偶然てやつじゃない」芳江がびっくりしたように言った。
芳江もチューハイを飲んでいる。彼女は酔うとあちこちの男に声をかけて回る。二人ともそうなったら完全に芳江を無視することにしている。
「わからないわよ、それを運命というのかもしれないし」
幸恵が天井を仰ぐように両手を広げて言った。
「運命か、私にもそんな運命的な出会いがないかな」
祥子が嘆くように言った。そして注文してあった唐揚げをひとつ、つまんで眺めた。
「そういえば、桂子、あんた、研究室で松坂さんにプログラミングを教えてもらってんでしょ。運命的な絆を感じるんじゃない。それにあの人は恐らく教授になるわよ、これ以上ないわよ」
芳江が探るような目で彼女を見つめながらチューハイを一口飲むと言った。
「さあね」
桂子はわざと興味なさそうに言って、小さくかぶりを振ると、大きな唐揚げを躊躇わずに口に放り込んだ。幸子と、芳江は皿に乗った鳥串セットをつまみながら言った。
「それに桂子、あんたこの前の研究室のプロジェクト、松坂さんの推薦で女子学生でただ一人参加してんじゃないの」芳江が口を尖らせながら言ったが、彼女はただパソコンのデータ入力を手伝っただけで大したことはしていない。
「ま、そうだけど」桂子は少しとぼけた様に答えた。
幸恵はビールを飲みながらその話を少し不愉快そうに聞いていたが、彼女はそんな桂子のすべてを妬ましくも感じていたのだ。
「松坂さんは年齢もちょっとね」
桂子は少し寂しそうに言った。彼女は何となく本気になってくれない松坂に不満を感じていたのだった。
「恋愛に年齢は関係ないわよ、たとえ奥さんがいたって私たちには若さがある、桂子、あなた結構いけてるわよ自信もっていいわよ」芳江が彼女を嗾ける様に言い、そうして2杯目のチューハイを注文した。そんな芳江を桂子は心配そうに見つめた。
「そうよ、今度モーションかけてみたら? それとも何、あなたまだ男の経験ないわけ」
幸恵が軽く笑みを浮かべながら言った。
「何言ってんのよ」
桂子は幸恵を目を吊り上げて睨みつけた。彼女はなかなか自分に手を出そうとしない松坂をじれったく思っていた。
「それにそんな真剣に考えなくても、松坂さんくらいの年が、遊び相手にはちょうどよ、向こうもそう、セックスしましょ、そう言ったら、いいよ、そう言うわよ、きっと」
幸恵が不気味な笑みを浮かべて言った。
「何、幸恵。あんたそんな経験が大学であるわけ?」今度は桂子が軽く笑みを浮かべながら彼女に言い寄った。
「いっ、いや・・・。そっ、それよりね、驚きよ。千鶴と大阪さんがね、出来てるらしいわよ」
幸恵が少し動揺したが、チューハイを飲み込みながら再び二人を驚かすように言った。
「できてるってどこまでの話よ」
桂子がもどかしそうに言った。そして自分だけ注文し忘れていた、鳥串セットを店員に注文した。
「もう寝たってことよ」
幸恵がなぜか自信たっぷりに言った。
「あのふたりお似合いじゃないの、そのうち結婚するわよ」芳江がつまらなそうにそう言うと、彼女は桂子の唐揚げに手を出した。
「そうかしら」幸恵がつぶやいた。
「そんな人のこと言ってないで幸恵あんたこそどうなの」桂子が再び幸恵を睨みつけた。
「私は、今はちょっとね、いい男が見当たらなくて」
「なんなのよ、人の事より自分のこと考えなさいよ」桂子が少し腹ただしげに言った。
3時の休憩時間に、女子社員のグループが集まって会話している。この会社は女子がほとんどいないが皆優秀だ。それを見つめて柴田はピンときた。そう女子、若い女子社員を加えよう。そうすれば仕事に花が加わるようなものだ。柴田はそう思った。そして早速1人の女子社員に目を付け、近づき話しかけた。
「高田さん、今回のプロジェクト興味ないかい」ずばり聞いた。彼女の心臓の鼓動が高鳴るのが聞こえた様だった。
「えっ」彼女は突然の柴田の問いかけに、急に顔を赤らめて柴田を見つめた。
「あたしなんかでいいんですか?」なんて初々しいのだ。きっとまだ男を知らないに違いない。そんなことを思いつつ。
「勿論だ。だからこうして声をかけているじゃないか」彼女ははにかんだ様に下を向き少し考えてから。柴田を見上げ、少し考えた様に俯いてから顔を上げた。
「はい」と元気に答えた。彼は桂子にない魅力を彼女に感じた。
そうしてプロジェクトのメンバーは決定した。
日曜日、珍しく柴田が出かけていた。桂子は一人で彼のCDを聞きながらソファに横になっていた、昨日の会議で攻め上げられ、少し疲れていたのだ。その時、突然玄関のベルが鳴った。無視しようと思ったがしつこく鳴る、ドアに向かって、座布団を投げつけてやったが、まだしつこく鳴る。
彼女はやれやれと思い、ドアに向かった。そしてドアを開けると、厄介な人物がそこに立っていた。
妹の恵みである。恵がニッコリ笑って言った。
「久しぶり」
桂子は往復ビンタを食らったように目を覚ました。
「あんたを中に入れる気はないわよ、ちょっと待っていて」そう言うと桂子は急いで着替え、外に出た。取りあえずタクシーを捕まえ近くの喫茶店に向かった。タクシーの中でもぎくしゃくとした空気に包まれたまま二人は何も話さなかった。
店について席に着くと桂子がようやく言った
「何しに来たの」迷惑そうだった。
「久しぶりに会った妹にいきなりそれはないでしょ。姉さんらしいわね、それでよく結婚なんてできたわね。京子姉さんから聞いたけどいい男なんだって?あたしも会いたかったわ」恵はちゃかすように言った。
「どうでもいいでしょう。あんたには関係ないわ、とにかく、きた目的をはっきり言いなさいよ。」桂子はイライラしていた。
「まあ、そうせかさないで・・・・。姉さんまだ働いているの。何しているの。姉妹で姉さんだけ大学へ行ったのだから一番いい思いしているじゃないの。お子さんはいないって京子姉さんから聞いたけど」
桂子は大きくため息をついて落ち着こうとした。こういう態度の恵はしぶとい、なかなか本当のことを言わない。
「仕事は結婚してからも続けているわよ、子供はいない」桂子は諦めて、取り調べを受けるように質問に答えた。
「ご主人は何している人、いくつなの」
恵が目を丸くして興味深そうに聞いてきた。
「主人はプログラマーってやつ。今年で40になるわ」桂子は嘘をついた彼は45である。しかしよく考えるといまだにそれ以上柴田の事を知らないような気がした。
「それよりあんた今何しているの。お母さんのことも知っているのでしょ」
話をそらそうと、桂子が恵に聞いた。
「お母さんの事は京子姉さんから全部聞いたわ。私が顔を出すとかえって心配するから、行くのはやめておく」恵が少し悲しそうに言った。
実は母は生きていたのだった。母は認知症にかかり姉が釧路で面倒を見ている。みんな柴田には隠しておいたが、姉と妹もいたのだった。
人に言えるような家庭内の事情ではなかった。
恵は躊躇ったようにも見えたがゆっくりと口を開き言った。
「そこでなんだけど・・・。お金を貸してほしいの」
「・・・・・・」桂子は目をつむって聞いていた。
「100万」恵はすっぱりと言った。
桂子はゆっくりと目を開いた。
「あんたに貸すお金なんかないわよ」
やっぱり、そう思いながら桂子は言った。100万、内心大した額じゃないと思った。でもこの子を助けるつもりはない、桂子はそう思った。
そして桂子は窓の外に目をやった、相変わらずの人ゴミ、その人たちの服装は次来る季節を知らせているようだ。裸の並木が風に泳ぎ、空にはカラスが1羽飛んでいた。その黒がいやに印象的だった。しばらく恵は黙っていた。そして
「仕方ないわ・・・、姉さんは一度言ったことは変えないものね」
恵はあっさりと言った。
「姉さんが貸してくれるとは思っていなかった」
そう言いながら立ち上がった、
「今度いつ会えるか分からないけど」そういって、店を出て言った。
店を出る前にここのコーヒーは美味しい、そう言った。
とりあえず肩の荷が下りた桂子は、「これ以上ここにはいたくない」そう感じ、久しぶりに例のコーヒーのおいしい喫茶店に行くことにした。
ところが店に着き、店内を見回すとそこにはタバコを吸いながらまるで桂子を待っていたように直美が座っていた。恵の次は直美・・・。
そう思いつつ店に入りゆっくりと直美に近づいた。直美は赤いコートを席の横に置いたまま、桂子を無視するように、タバコを吸いながら乾いた窓の外を見つめていた。
店は貸切られたように二人のほかに客はいない、店員も暇そうに時間を持て余している様に見える。桂子は直美の向かいに座わると、彼女は少し不愉快そうな笑みを浮かべ、吸っていたタバコを灰皿でもみ消すと腕を組んで椅子の背にもたれて足を組みなおし、あの大きな目で桂子を見つめた。店員が置いて行ったテーブルの水のコップの中で氷が躍った。
直美と二人きりで話すのはあの時、飲みに言って以来だった。相変わらずの厚化粧だ。この子はどこへ行くときも飲みに出かけるような厚化粧だ。
桂子がブレンドを注文しようとすると、例の目つきの悪い店員が本日のおすすめを紹介しようとしたので、彼女は手を振りさえぎった
そして前を向くとまだ直美は彼女を見つめていた。直美は何も言わず彼女を見つめていた。
「何となく雨が降りそうね」桂子は少し寒そうに腕を組んだ。
「ご主人とはうまくいっているの?」
直美は彼女の言葉を無視してそう言うと桂子を見つめたままポケットからタバコの箱を取り出した。彼女のタバコは相変わらずメンソールだった。
「まあね。」桂子は彼女から視線を逸らして軽く答えた。
彼女はタバコを一本加えて火をつけた。それを見ながら桂子は尋ねた
「あなたこそまだなの?」
直美も桂子から視線を逸らし、言った。
「まあね・・・」
「早くした方がいいわよ」。
直美は手にしたタバコの先を見つめながら言った。
「そうね・・・」しばらく二人の間に沈黙が流れた。
店員がコーヒーを運んできた。
桂子はテーブルに置かれたコーヒーカップを手に取り口に運んだ。
タバコを手にした直美がそれを見ていた。彼女は手にしたタバコを一口吸い込みゆっくり吐き出すと、桂子を見つめながら冷たく言った
「でもね、あまり急ぎすぎてもね・・・、誰かさんみたいに・・・」
桂子は何も言わなかった。
直美は少し意地悪く微笑みながらタバコを灰皿に置くと彼女のカップを持ち上げ静かに口をつけた。彼女のコーヒーはすでに冷めていた。
「一緒に生活していけば自然とお互いが理解できていくものよ」コクと深みのあるコーヒーは相変わらず苦いだけだった。
直美は灰皿に置いたタバコを再び手に取り、タバコの先をしばらく見つめていた。
「まあ、どっちでもいいけどね・・・。いずれ神様が連れてきてくれる。この人だって」
直美はそう言って椅子の背にもたれ、窓の外を見つめた。
窓の外は小雪が降り始めていた。
「また、一緒に出かけましょうよ。桂子と一緒だといい男が近づいて来るわ」
「人妻が夜出て歩いて、遊んでなんかいられないわよ」少々直美を見下すように言った。桂子は軽く微笑んでカップを口に運んだ。
沈黙が流れた、少し煙草の煙が息苦しかった。桂子は沈黙に我慢できず彼女に尋ねた。
「あなたこの店のコーヒーどう思う?」
「どうって?」不思議そうに直美がコーヒーカップを眺めながら答えた。
「何か感じる?」桂子が問い詰めると彼女が言った。
「普通のコーヒーだと思うけど」彼女は首をひねりながら答えた。桂子は何故かほっとしたものを感じながら言った。
「ここのコーヒーはコクと深みのある美味しいコーヒーで評判なのよ」桂子はいたずらっぽく微笑むと彼女は、
「そうなの、そう言われると、そんな感じがするけど」彼女は納得した様子で言った。
「美千代は一口飲んで、コクと深みに感動していた」桂子がそう言うと、直美は
「どうせ私にはコーヒーの味は解からないわ」そう言うと、煙草の火を消し、コーヒーを残したまま、赤いコートを脇に抱え不愉快そうにさっさと店を出て言った。
桂子がコーヒーを飲み終え、ぼんやりと窓の外を眺めていた、店員がやってきて、コーヒーのおかわりは半額だと言って勧めた。コクと深みのあるコーヒーを安売りするものだ、そう思い彼女は断わった。そして再び窓の外の色のない景色に目を移した。
しばらくすると店に客が入ってきた。黒のコートにハンチング帽をかぶった中年の客だ。柴田より年上に見える。男が彼女の横を通るときに彼女は腕を組んで、足を組み直し、男を見たが、男は彼女を見なかった。
店内に流れる曲に耳が反応した、彼女の何も知らなかった青春、少女、処女の頃、そんな時代の曲だ。曲名は忘れてしまっていた。何も知らない青春時代。しかし今の自分が何をどこまで知っているのか、彼女には解からなかった。
店を出ると雨が降っている。今日、まさか本当に雨が降るとは思っていなかったが予報通りだ。傘は持ってきた。「帰りの遅い方は傘を持ってのお出かけを・・・・」ぴったり当たった。地下鉄の駅前。若い女性が黄色のダウンを着てにこやかに旅行代理店のチラシを配っている、ティッシュ付きなのでもらっておく、歩きながら桂子はチラシに目を通していた。
駅のホームでは、いつもより遅い時間、知的障害のある青年が歌っていた。この時間必ず現れる。
「ももたろさん、ももたろさん・・・・」大きく、元気いっぱいに、そして悲しげに。
「ももたろさん、ももたろさん・・・・」誰も注意はしない、そしらぬふりだ。それが一層ホームを悲しげにする。仕方あるまい。注意しても聞いてはくれない。
「ももたろさん、ももたろさん」ホームの端から端を歩きながら。歌っている。
「ももたろさん、ももたろさん」・・・・・。
確か去年も同じ歌だった・・・。桂子は思った。
終わり
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このような稚拙な文章、最後まで目を通していただき、感謝感激であります。
ありがとうございます。
もしよろしければ、他の文章ものぞいていただければと思います。




