古代ドローン
人生には、押したくないボタンが――いや、三つ数えるのは飽きた。
深層では、押したくないボタンは一つで十分だ。
目の前の"これ"は、何だ。
久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。
骨の鍬はできた。排水路も掘った。蒸留装置も回り始めた。保存容器には水が入っている。畑は「畑っぽいもの」から「畑」へ、少しずつ人間側に寄ってきた。
それでも深層は、俺が頑張った分だけちゃんと面倒を寄越す。公平である。人間社会よりよほど公正だ。
闇の向こうの"隣人"は、まだいる。
近づいてこない。去りもしない。
昨日、俺が根と蒸留水を土塁の外に置いたら、朝には消えていた。受け取ったのだ。受け取りは外交の第一歩だ。第二歩はまだ来ない。外交は焦ると死ぬ。人間社会でも深層でも。
さて。
面倒は、土塁を補修しているときに来た。
骨の鍬で土塁の基部を突き固めていると、刃先が硬いものに当たった。
石でも骨でもない感触。硬くて、冷たくて、滑る。
金属だ。
深層に金属があるのは珍しくない。探索者の装備が落ちていることはある。
だがこの金属は、匂いが違った。
錆びの匂いが薄い。古いのに古くない。何年も――あるいは何十年、何百年も土の中にあったのに、腐っていない。
探索者の落とし物ではない。探索者の装備は、深層の瘴気に数日で錆びる。数百年保つはずがない。
つまりこれは、探索者よりも前に、ここにあったものだ。
俺は鍬で周りの土を慎重に剥がした。
慎重に、というのが重要だ。勢いよく掘ると壊れる。壊れたものを深層は返してくれない。深層は貸し借りに厳しい。
土の中から出てきたのは、小さな箱だった。
手のひら二つ分。角が丸い。表面が滑らかで、土がくっつかない。
蓋のような継ぎ目がある。側面に薄い穴。レンズのような丸い凹み。
そして端に、小さな記号。
「起動」
読めた。
読めるのが悪い。読めないなら諦めがつくが、読めると押したくなる。人間は文字に弱い。文明は人間の弱さに寄り添って発展してきた。
俺は箱を持ち上げた。
軽い。軽いのに、中身が詰まっている重さがある。
水に濡らしてもいないのに、表面が冷たい。
誰が作ったのか。
いつからここにあるのか。
人間が作ったものか、それ以前の何かが作ったものか。
分からない。
分からないが、使えるなら使う。疑問は後回しだ。後回しにできるものは、まだ致命的ではない。致命的なのは、今日も腹が減っていることだ。
俺は箱を畑の内側へ運び、土塁の陰に置いた。
藻の光が届く場所だ。作業ができる。もし音が出ても、土塁が少しは遮ってくれる。少しでいい。少しが生死を分けるのは、深層では日常だ。
蒸留水を少しだけ使い、菌糸の柔らかい部分で箱の表面を拭いた。
贅沢だが、錆びの粉は口に入れたくない。
土が落ち、文字がはっきりした。
「起動」
俺はしばらく、指を浮かせたまま止まった。
起動したら、何が起きるか分からない。
光るかもしれない。音が出るかもしれない。光と音は深層では広告だ。広告は客を呼ぶ。呼ばれた客が友好的かどうかは、賭けだ。
だが賭けない人間は、深層では緩やかに死ぬ。資源は待っていても増えない。
増やすには、手を伸ばすしかない。
手を伸ばすのは、いつも怖い。
怖いが、やる。
俺は押した。
カチ、と音がした。
驚くほど小さい音だった。
派手に爆発するか、眩しく光るか、悲鳴のような警告音が鳴るか――そういう想像を、深層は丁寧に裏切る。深層は派手ではなく、確実に殺すほうが好きだ。
箱の上面が、ふっと浮いた。
浮いた、というより開いた。
中から小さなものが出てきた。金属の虫みたいな形。折り畳まれた羽。丸い目。
ドローンだ。
俺は息を止めた。
止める必要はないが止めた。未知のものを目の前にすると、呼吸はまず保守的になる。保守的な呼吸は、深層では正しい判断だ。
ドローンはゆっくり羽を広げた。
羽の表面に、藻の光とは違う紋様が走る。魔力の回路だ。この世界の技術ではない。少なくとも、俺が知っている技術ではない。
古い。だが動く。動くものは、使える。
ドローンがふわりと浮いた瞬間、天井に向けて細い光が飛んだ。
白い、針のような光だ。
光は暗闇をまっすぐ貫き、遥か上方の岩盤の隙間へ消えた。
消えた先は見えない。だが光は止まらなかった。岩盤の隙間を縫って、上へ、上へ。
あの光が地上まで届いているのか。
それとも、どこかで中継しているのか。
分からない。
分からないまま、ドローンは空中で静止し、レンズをこちらへ向けた。
まっすぐ。迷いがない。
高木玄真の「正しい声」みたいな向き方だ。嫌な連想だが、レンズに罪はない。
俺の影が地面に落ちた。
ドローンが発する白い光のおかげだ。
久しぶりに、自分の影を見た。
影があると、人間は少しだけ安心する。世界に奥行きがあると確認できるからだ。深層の闇は、時々世界を平面にする。平面の世界では、人間は距離を見失う。距離を見失うと死ぬ。
影は距離を教えてくれる。影は、藻の光よりも信用できる。
その瞬間、視界の隅に薄い文字が浮かんだ。
「接続」
ステータスの表示ではない。
ステータスは俺の内側のものだ。これは外側だ。
世界が勝手に何かを繋げようとしている。
ドローンが小さく鳴いた。
ピー、ではなく、もっと控えめな音。深層に遠慮しているような音。
礼儀正しい起動音だ。深層の礼儀は信用ならないが、礼儀があるなら会話の余地がある。
視界の文字が変わった。
接続:成功
「成功」という言葉が、ここまで不安なものだとは知らなかった。
成功は普通、喜ぶべきものだ。だが深層では、成功はだいたい別の面倒の始まりだ。
次に浮かんだのは、数字だった。
視聴者:0
接続は成功した。だが、まだ誰もこの配信を知らない。
ゼロというのは、ある意味で安心する。誰も見ていない。俺と土とドローンだけだ。
だがゼロは、ゼロのままではいられない。回線が繋がった以上、いつかは誰かが見つける。
水が流れ始めたら、止められない。水のことなら、俺はよく知っている。
俺はドローンを無視して、作業に戻った。
土塁の補修。畑の手入れ。濾過層の確認。蒸留装置の水替え。
手順は変わらない。見られていようがいまいが、手順は手順だ。
畑は見せ物ではない。畑は畑だ。
どれくらい時間が経ったか分からない。
深層には時計がない。時間は作業の量で測る。土塁を直し、畑を耕し、水を三回汲み、根を一本収穫した。その間ずっと、ドローンは空中で静止し、レンズを俺に向けていた。
邪魔だが、壊すと惜しい。道具は道具だ。使い道が分かるまでは壊さない。
ふと、ドローンが低く降りてきた。
俺の顔の高さまで。
レンズが正面を向く。
反射的に手で払おうとして、やめた。
その瞬間、視界の端の数字が変わった。
視聴者:1
誰かが見つけた。
俺はしばらく、数字を見つめた。
視聴者。
視聴者というのは、画面の向こうにいる人間のことだ。
画面の向こうに、人間がいる。
俺が土を触っている映像を、今、どこかの誰かが見ている。
セイバーズの配信では、視聴者は数十万人いた。高木玄真の涙に数十万人が泣き、三門由良のテロップに数十万人が「神回」と書き込んだ。
1人。
数十万から1人になった。
だが1人は、ゼロではない。ゼロと1の差は、1と百万の差より大きい。
コメントが浮かんだ。
短い一行。
「……生きてる?」
疑いと驚きと、少しの期待が混ざった一行だった。
高木玄真の演説より短い。三門由良のテロップより簡素だ。
だが、正直だ。
コメントというのは、案外、人間の本音が漏れる場所だ。
俺はしばらく黙った。
返事をするべきか、判断がつかなかった。
返事をすれば、繋がりが確定する。繋がりは資源になる。だが資源は敵も呼ぶ。
返事をしなければ、視聴者は去る。去れば安全だ。安全は大事だ。
だが安全だけでは、ここの暮らしは変わらない。
俺は高木玄真のことを考えた。
あの男は、カメラの前で「正しい声」を出す。泣く。語る。画角を計算し、台詞を選ぶ。
俺にはそれができない。
できないし、やりたくもない。
俺にできるのは、手順を見せることだけだ。
土を触り、水を汲み、畑を耕し、根を食う。
それが俺の「配信」だ。
それ以上のものは、持っていない。
だから、返事も短くていい。
「生きてる」
それだけ言った。
説明は後でいい。泣きの演技もいらない。俺は英雄ではない。農学者だ。
コメントがもう一行浮かんだ。
「どこだよそこ」
俺は答えなかった。
答えられない。俺も知らない。深層の住所は、まだ届いていない。届く予定もない。
代わりに、いつもの言葉を小さく言った。
「水が先」
ドローンのレンズが、俺の手元を映している。
蒸留装置から落ちる水滴。畑の芽。骨の鍬。保存容器。土塁。
俺の生活が、一つ残らず画面に流れている。
見せ物にするつもりはなかった。
だが見えてしまったものは、もう隠せない。
隠す必要もない。
ここにあるのは土と水と、俺の暮らしだけだ。嘘がない。嘘がないものは、強い。
俺が死んだことになっている世界に、俺が生きている映像が流れ始めた。
土は証拠だ。
生きている証拠。
嘘が嘘だという証拠。
証拠を突きつけているつもりはない。俺はただ、暮らしている。暮らしが勝手に証拠になるなら、それでいい。
英雄が泣いて作る「正義」より、農学者が黙って作る「畑」のほうが、証拠としては強い。
少なくとも、腐らない。
――そのとき、闇の向こうの匂いが、ふっと濃くなった。
隣人だ。
光が増えたからだ。音が増えたからだ。匂いが増えたからだ。
ドローンの起動は、深層にも広告を打ったのだ。地上と深層、両方に同時に。
面倒だ。面倒が二倍になった。
だが面倒は、もう後戻りできない形で始まっている。
俺は骨の鍬を握り直し、畑の土を一度だけ起こした。
ざく、と音がする。
土が応える。
芽が揺れる。
濾過水が落ちる。ぽた、ぽた。
蒸留装置から水が滴る。ぽた。
三種類の音がする世界に、四つ目の音が加わった。
ドローンの羽音。静かな、虫のような音。
うるさくはない。だが確かに、世界の音が一つ増えた。
「……まあ、やる」
久遠洋、享年なし。
戦死扱い。ただし配信が始まった。
視聴者は1。面倒も1つ増えた。
だが手順は変わらない。手順がある限り、俺はまだ負けない。
ドローンが、畑の上を静かに旋回している。
レンズが土を映し、水を映し、芽を映し、俺の手を映す。
見たいなら見ればいい。
俺は、やることをやるだけだ。
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【探索者掲示板】深層で畑やってる配信見つけたんだが
※スレ進行が早すぎて一部ログ欠落
1:名無しの探索者
なんか変な配信流れてきた 画質悪すぎ
2:名無しの探索者
どこだよこれ 洞窟?
3:名無しの探索者
待って これダンジョンの中じゃね?
5:名無しの探索者
光ってる藻みたいなの 深層にしかないやつだろ
7:名無しの探索者
畑???? 深層で????
8:名無しの探索者
配信者の顔映ったけど めちゃくちゃ汚い
11:名無しの探索者
なんかこの顔 見たことある気がする
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