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骨の鍬


人生には、道具がないときほど人間の尊厳が試される場面が三つある。

一つ、割り箸が割れずに縦に裂けて、片方が使い物にならない場面。

二つ、傘を忘れた日に限って、空が本気を出す場面。

三つ、今まさに"耕したい"のに、手元にある道具が「素手」しかない場面だ。


――今の俺は、三つ目にいる。


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。

水は落ちている。畑はある。芽も出た。ステータスも跳ねた。

だが芽が出たからといって腹が黙るほど、世界は甘くない。世界は甘い匂いで人を殺すほうが得意だ。


俺は畑の端に座り、芽を見て、次に土を見て、その次に自分の手を見た。

指先は傷だらけだった。爪の間に土が詰まり、指の腹に細かい切り傷がある。深層の土は微細な結晶を含んでいるから、素手で掘るたびに皮膚が少しずつ削れる。痛くはない。痛みは時間が経つと鈍くなる。鈍くなるというのは慣れたということであり、慣れたというのは壊れ始めたということでもある。

指は便利だが、万能ではない。万能だったら人類は石器時代で満足していた。


「……道具が先」


声に出す。

水が先。土が先。次は道具。

畑の順番は正しい。正しい順番は生存率を上げる。


今の畑は「畑っぽいもの」だ。

畑というのは、本来、耕され、排水され、保温され、保護され、収穫される。

俺のは、耕しが雑で、排水は沼頼みで、保温は堆肥の発酵熱だけで、保護に至っては何もない。

何もない畑は、深層にとって「どうぞ食べてください」の看板と同じだ。


畑を作ったとき、あいつが嗅いでいた。

呼吸の匂い。生温い、土ではない何かの匂い。圧。

近づいてこなかったのは、興味がなかったからではない。たぶん様子見だ。深層の強者は急がない。急ぐ必要がないからだ。急ぐのは、死にそうな側の仕事だ。


だから俺が急ぐ。


俺は周囲を見回した。

藻の光が届く範囲は狭いが、材料は落ちている。深層は散らかっている。性格の悪い部屋ほど散らかすのは、人も場所も同じだ。

炭化木片。菌糸。苔。砂。石。骨片。枯れた蔓。

そして、深層で拾った甲殻。


俺を落としたボスの残骸は、上にある。ここにはない。

だが深層には深層の死骸がある。死骸は資源だ。資源は道具になる。道具は生存になる。循環は地味だが、強い。


俺は湿った岩陰を探り、硬いものを引きずり出した。

白い。長い。関節が二つある。

骨だ。

何の骨かは分からない。分からないほうがいい場合もある。地上のソーセージと同じ原理だ。

俺は骨の端を岩に叩きつけた。鈍い音。割れない。いい骨だ。

いい骨というのは、だいたい悪い生き物の骨だ。だが死んだ後は平等に資源である。死後の平等。人間社会よりよほど公正だ。


次に必要なのは、刃になる部分だ。

石でいい。石は裏切らない。裏切るのはいつも人間だ。高木玄真とか。


俺は平たい石を選び、別の石で叩き割った。

ぱき、と乾いた音。割れた断面が鋭い。

鋭さは正義だ。「正義」という言葉は嫌いだが、刃物の正義だけは認める。切れるものは助かる。切れないものは死ぬ。


問題は固定だ。

骨と石を合わせるには紐がいる。紐は蔓で作る。蔓は湿っていると柔らかく伸びる。伸びた蔓は乾くと縮んで締まる。自然は勝手に結束バンドを作っている。人類の発明はだいたい自然の真似だ。自覚がないだけで。


俺は枯れた蔓を水に浸して柔らかくし、骨の先端に石の刃を当てた。

隙間に菌糸の塊を薄く挟む。菌糸は粘りがある。魔力を吸った深層の菌糸は、地上の接着剤より信用できる。

そこを蔓でぐるぐる巻きにして、締める。


締めながら、手のひらを当てた。


《土壌改良》。


土のための技能だ。だが深層では、土の定義が広い。

菌糸も蔓も、ここでは"土の延長"なのかもしれない。あるいは俺の技能が、深層の魔力に引っ張られて適用範囲を拡げているのか。

正直、分からない。地上にいた頃には起きなかった現象だ。

だが使えるなら使う。疑問は後回しにする。後回しにできるものは、まだ致命的ではない。致命的なのは道具がないことだ。


指先が熱を持つ。

菌糸が少しだけ硬くなり、蔓が締まり、骨と石の隙間が埋まる。

手の中で「道具」の輪郭が固まった。

外れ職の地味さが、こういうところで効く。


俺は完成品を持ち上げた。

鍬――と呼ぶのは図々しい。

だが「骨の棒に石の刃がついたもの」は、だいたい鍬だ。鍬の定義は意外と広い。人類史において、鍬は剣より古い。剣で世界を変えた人間より、鍬で世界を変えた人間のほうが多い。教科書には載らないが。


「……骨の鍬」


声に出すと、武器みたいに聞こえる。

武器ではない。畑の道具だ。

だが深層では、畑の道具と武器の境界が曖昧になる。地上でも鍬はだいたい強い。農民一揆の主力武器だ。


試しに土を掘った。

ざく、と音がした。

素手のときとは違う音だ。素手は「殴り合い」だったが、鍬は「対話」に近い。道具があると、土と人間の間に距離が生まれる。距離は安全だ。距離は効率だ。


俺は畑の区画をもう一度耕した。

固いところは崩し、湿りすぎたところは砂を足し、匂いが甘いところは炭化木片を混ぜる。

素手でやっていたときの三倍は速い。

三倍速い、というのは三倍長く生きられるのと同じだ。作業時間が減れば、休息が増える。休息が増えれば、判断が鈍らない。判断が鈍らなければ、死なない。

道具と生存率は、直結している。


手順が加速すると、恐怖が黙る時間が長くなる。

恐怖は暇だと喋り始める。忙しいと黙る。黙ってくれるなら、俺は永遠に忙しくていい。

永遠に忙しい。農学者の人生そのものだ。


鍬ができると、次が見えた。

一つ作ると次が作れる。道具は道具を呼ぶ。


深層の甲殻の破片を拾い集め、椀を作った。

さっき水を汲むのに使った小さな皿より、二回りは大きい。縁を石で削って整え、底を平らにする。蓋は蔓と苔を編んで被せる。

保存容器だ。

水を溜められる。根を保管できる。虫が入らない。

「保管できる」というのは、「今食わなくていい」ということだ。今食わなくていいということは、明日の分があるということだ。明日の分があるということは、明日を信じられるということだ。

保存容器は、未来を入れる箱だ。


次に、蒸留装置を作った。

大げさな名前だが、やっていることは単純だ。甲殻の椀に沼の水を入れ、菌糸の発酵熱で温める。椀の上に、冷たい石の板を斜めに置く。温まった水が蒸気になり、冷たい石に当たって水滴に戻る。水滴は石の傾斜を伝って、下に置いた別の椀に落ちる。

濾過と《土壌改良》の中和に加えて、蒸留。四段階の浄水。

地上の浄水場でも、ここまでやらない。

深層の水は、それだけ手強いということだ。だが手強い相手ほど、倒した後の安心感が大きい。


蒸留水を一口飲んだ。

濾過水より澄んでいる。土の味が薄い。

美味いとは言わない。だが、安全だ。

安全な水が量産できるようになった時点で、ここは「落ちた場所」ではなく「住む場所」に変わり始めている。


畑の周囲に浅い溝を掘った。

排水路だ。毒沼の水が勝手に流れ込まないようにする。

溝を掘るだけで、畑が「畑っぽいもの」から「畑」に近づく。

近づくのは嬉しい。嬉しいというのは本来、誰かに見せたい感情だ。だがここには誰もいない。

だから俺は「悪くない」とだけ思う。


次に、保護だ。

畑は匂いを出す。匂いは広告だ。広告は客を呼ぶ。

俺は客を呼んだ覚えはないが、深層の広告代理店は勝手に仕事をする。


俺は畑の外周に土を盛り、低い土塁を作った。膝くらいの高さ。

低い。だがないよりマシだ。「マシ」は生存の基本単位だ。完璧を目指した瞬間、人は止まる。止まった瞬間、深層は食いにくる。


土塁の表面に《土壌改良》をかけて締めた。

水が染み出しにくくなる。崩れにくくなる。土が、ほんの少しだけ「構造物」の顔をし始める。


完成――とは言わない。完成はない。畑に完成はない。

だが「生活圏」の輪郭が見え始めた。


水がある。畑がある。道具がある。保存容器がある。蒸留装置がある。排水路がある。土塁がある。

数日前、俺は暗闇の底で一人、土を握っていただけだ。

今、俺は「暮らしている」。


暮らす、というのは面白い言葉だ。

生きる、とは違う。生存する、とも違う。

暮らすには「繰り返し」が含まれる。朝起きて、水を汲み、土を見て、芽を確かめ、道具を手入れし、食べ、眠る。その繰り返しを「暮らし」と呼ぶ。

繰り返しがあるということは、明日があるということだ。

明日があると信じられるようになった時点で、俺は「生存」から「暮らし」へ移行した。


だが暮らしには、暮らしの寂しさがある。


作業が一段落すると、手が止まる。

手が止まると、静けさが戻る。

濾過水の音。蒸留装置から滴る音。自分の呼吸。

三種類の音しかない世界で、俺は土塁の内側に座り、膝を抱えた。


寂しいのか、と自分に訊く。

寂しくはない、と答える。

嘘だ。

いや、嘘ではない。正確には、寂しさの形が分からないのだ。


セイバーズにいた頃、俺に話しかける人間は少なかった。荷物持ちに用がある人間は、荷物を渡すときだけ声をかける。「これ持ってて」「あっち運んで」「邪魔」。三種類の言葉だけで、俺との関係は完結していた。

寂しかったのか。

たぶん、寂しかった。

だが寂しいと思う暇がなかった。暇がないのは便利だ。暇があると人間は余計なことを考える。余計なことの筆頭が、寂しさだ。


今、暇がある。

作業と作業の間に、ぽっかりと時間が空く。

その時間に、寂しさが入り込む。


――入り込むなら、入り込ませる。

感情は土に混ぜればいい。

怒りも、悲しみも、名前のつかない何かも。

土に混ぜて、畑にして、作物にして、食う。

感情の最も生産的な処理方法は、堆肥にすることだ。

少なくとも俺は、そう決めた。


俺は立ち上がり、土塁の外を見た。

藻の光の縁。その向こうの暗闇。


あいつが、まだいる。

水場でも、畑でも感じた"あの圧"が、今夜も闇の向こうにある。

近づいてもこない。去りもしない。

ただ、嗅いでいる。


俺は考えた。

戦えない相手に対して、人間ができることは二つしかない。

逃げるか、隣にいるか。

逃げる場所がないなら、隣にいるしかない。

隣にいるなら、まず敵意がないことを伝える必要がある。

伝える手段は何だ。言葉は通じない。身振りは闇の中では見えない。

なら、匂いで伝える。

匂いで伝えられるものは何だ。

食料だ。

農学者にできるのは、食わせることだけだ。


俺は畑の端に残っていた根を一本引き抜いた。

不味い根だ。貴重な、不味い根だ。

貴重なものを差し出すのは痛い。だが痛みと引き換えに安全が買えるなら、安い買い物だ。人間社会でも深層でも、外交の基本は交換である。


俺は根を土塁の外側に置いた。

小さな音。乾いた音。

それから、蒸留水を少しだけ、根の横に流した。

水の匂いは強い。深層の生き物にとっても、水は価値がある。


しばらく待った。

息を三つ数える間、何も起こらなかった。


四つ目で、闇が動いた。


石が転がる音。

今度は近い。はっきり聞こえる。

藻の光の縁が僅かに揺れ、何かが光の手前まで来て――止まった。

境界線を踏まない。

踏まないのは慎重だからだ。慎重な相手は厄介だが、理性がある。理性があるなら、交渉の余地がある。


交渉と言っても、俺が差し出したのは不味い根と蒸留水だけだ。

大した外交ではない。だが外交は、最初はだいたいこんなものだ。人類史が証明している。まず交換。次に信頼。最後に裏切り。

裏切るのは人間だけにしてほしい。


闇の中で、鼻息のような音がした。

湿った空気が動き、土の匂いが揺れた。


そして、根の匂いが消えた。


食ったのか。嗅いで持っていったのか。

どちらでもいい。「受け取った」という事実が重要だ。

受け取りは、外交の第一歩だ。


俺はゆっくり呼吸を戻した。

濾過水の音が、少しずつ通常のリズムに戻る。ぽた、ぽた。

蒸留装置からも、ぽた、と滴る音がする。

畑はそこにある。芽も揺れている。骨の鍬は手元にある。保存容器には水が入っている。


道具があると、世界が少しだけ人間寄りになる。

暮らしがあると、世界が少しだけ味方になる。


闇の向こうで、何かが身じろぎした。

去ったのか。それとも、座ったのか。


分からない。

分からないものは後回しにする。


俺は骨の鍬を持ち直し、畑の土をもう一度起こした。

ざく、と音がする。土が応える。


「……まあ、やる」



久遠洋、享年なし。

戦死扱い。ただし道具ができた。畑が締まった。生活圏の輪郭が見えた。

そして闇の向こうに、"隣人"がいる。


隣人が敵か味方かは、まだ分からない。

だが受け取った。それだけで、昨日よりは近い。


深層は静かだ。

だが静けさの種類が、少しだけ変わった気がした。

敵意の静けさではなく、様子見の静けさ。

様子を見ているなら、見せてやればいい。

俺は畑を作る。それを見せる。それだけだ。


遠くで、何かが低く息を吐いた。

鳴き声ではない。ため息でもない。

ただの、息だ。


息をしているなら、生きている。

生きているなら、隣にいられる。


俺は土塁の内側で、土に手を当てたまま、目を閉じた。

明日は、もう少し耕す。

もう少し植える。

もう少し、暮らす。


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