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土を生かす


人生には、腹が減っているときほど遭遇したくない場面が三つある。

一つ、冷蔵庫を開けた瞬間に「調味料しかない」と現実が笑ってくる場面。

二つ、待ち合わせで「あと五分で着く」と言った友人が、そこから三十分以上来ない場面。

三つ、目の前に"食べ物っぽいもの"があるのに、それが全部「食ったら死ぬ」側の存在である場面だ。


――今の俺は、三つ目にいる。


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。

水は確保した。濾過層も回っている。ぽた、ぽた、と未来が落ちている。

水があると、人間は欲を出す。腹が減る。喉が潤った途端に「次は腹だ」と会議の議題を勝手に更新する。民主主義はこういうときだけ仕事が早い。


俺は濾過層の横に座り、腹の内側に耳を澄ませた。

ぐう、と鳴った。

深層の静けさの中では、胃の独り言がやけに響く。恥ずかしいが、胃は恥を知らない。恥を知っていたら胃はやっていけない。胃というのは、身体の中で最も厚顔な臓器である。


だが厚顔には、正直さが伴う。

胃が鳴るということは、身体がまだ「食え」と要求しているということだ。要求があるうちは生きている。要求が消えたとき、人間は終わる。

だからこの腹の音は、生存証明だ。

恥ずかしいが、ありがたい。


「……土が先」


声に出す。

水が先、の次は土だ。

この順番は畑の基本であり、生存の基本でもある。土が整えば、食料が作れる。食料が作れれば、時間が買える。時間が買えれば、だいたい死なない。死なないことを「勝ち」と呼ぶなら、俺はまだ勝てる。


問題は、ここが深層だということだ。


俺は立ち上がり、沼の縁から少し離れた地面に手のひらを当てた。

ひんやりしている。湿っている。だが、どこか生温い。

表面は冷たいのに、中が温かい。微生物が働いている。働きすぎている。過労死の気配すらある。深層の土は、養分ではなく魔力で肥えていた。

肥えているのはいい。肥えているのは農学者にとって朗報だ。

問題は、毒だ。


俺は土を指先で摘み、鼻に近づけた。

甘い。

甘いというのは、土の匂いとして最悪の部類に入る。土は甘くない。土は「土の匂い」がするべきだ。甘いのは毒の証拠であり、この匂いを嗅ぐだけで鼻の奥が痺れる。

深層の土は、普通に触るだけで皮膚が負ける。長く触れていると指先の感覚が鈍くなる。

それを、食料の土台にする。

つまり俺は今、「毒でできた世界を、食える世界に変える」という仕事に着手しようとしている。


まともに考えると馬鹿げている。

だが馬鹿げていることは、ここでは免罪符だ。まともなことをしていたら、昨日の俺は囮にされていない。まともな世界は俺を殺した。ならば馬鹿げた世界で生きてやる。


俺は周囲を探った。

光る藻の淡い青緑が沼の縁だけを照らしている。光の届く範囲は狭いが、情報は多い。

砂。石。菌糸。炭化した木片。苔。骨片。枯れた蔓。

使えるものが揃っている。深層は性格が悪いが、材料だけはよく落ちている。性格が悪い奴ほど物を散らかすのは世の常である。


俺は小さな区画を決めた。

一坪もない。畳一枚分。

畑は広くなくていい。最初は胃袋一つ分で十分だ。

目標は、死なない量を食うこと。死なない量というのは、思ったより少ない。人間の身体は飢えに強くできている。水さえあれば、最低限のカロリーで驚くほど動く。

問題は「最低限のカロリー」を、この毒の土から引き出すことだ。


掘る。


素手で土を掘る。

泥が指に絡む。ぬるりとした粘り気。甘い毒の匂いが、掘るたびに濃くなる。

鼻の奥が痺れる。目の縁がぴりぴりする。

粘膜が抗議している。粘膜はいつも正直だ。英雄より正直だ。


だが手は止めない。

掘って、並べて、分ける。表土と深土を分ける。表土は毒が濃い。深土は、まだマシだ。地上でも同じだ。表面に溜まった汚染は、深い層ほど薄くなる。

土にも、皮と身がある。


区画を掘り終えた。

浅い箱型の窪みができた。底に深土を戻す。表土は脇に避ける。

ここからが、俺の仕事だ。


《土壌改良》。


両手を土に当て、意識を沈める。

地上でこの技能を使うときは、せいぜい「酸性が強いな」とか「窒素が足りないな」とか、そういう地味な手触りがあるだけだ。農協のおじさんが土をすくって「うん、今年は良い土だ」と頷く、あの動作に毛が生えた程度の技能。

それが外れ職と呼ばれる所以だ。


だが深層は違う。


手のひらが熱を持った瞬間、土が"応えた"。

地上では感じたことのない反応だ。技能が土に触れた途端、土の中の魔力が共鳴するように動き出す。毒の甘い匂いが引っ込み、代わりに湿った石と菌の匂いが前に出てくる。鼻の奥の痺れが薄くなる。

深層の魔力濃度が、《土壌改良》を増幅しているのだ。

地上では「まあまあの土」にする程度の技能が、ここでは「毒を中和し、成分を根本から組み替える」レベルで効く。

外れ職が、深層限定で最適職に化ける。

その片鱗が、両手の熱として、今ここにある。


嫌な匂いが仕事の匂いに変わる。

完全に無害ではない。だが「扱える」側に寄った。


俺は同じ動作を繰り返した。

掘って、触れて、改良して、混ぜる。

砂を足して水はけを作る。細かい石で通気を確保する。菌糸を混ぜて発酵を安定させる。炭化木片を薄く入れて余分な魔力残留物を吸わせる。

手順は地味だ。手順はいつも地味だ。

畑の手順は嘘をつかない。嘘をつくのは英雄だけだ。


……英雄と言えば。


高木玄真は今頃、地上で泣いているだろう。

「彼は名誉の戦死だ」と言い、視聴者に感動を配り、スパチャを集め、切り抜きのサムネイルに"慟哭"の文字が踊っているだろう。

三門由良が裏で「涙は3秒、沈黙は2秒」と台本を組み、テロップの色とフォントを調整しているだろう。

一方で俺は、深層で土を混ぜている。

泣くより混ぜるほうが忙しい。泣くのは後でいい。今は胃が議長だ。


――だが、ふとした瞬間に、手が止まる。


恐怖ではない。恐怖の塊は腹の底で静かにしている。手順が動いている間は、恐怖は発言権を失う。

止まるのは、別のものだ。


寂しさ、ではない。

寂しさというのは、誰かがいた場所に誰もいなくなったとき感じるものだ。

俺がいた場所には、最初から誰もいなかった。

セイバーズの中で、俺に話しかける人間はほとんどいなかった。荷物持ちに話しかける暇があるなら、剣を振る。それが攻略ギルドの合理性だ。合理的な世界では、農学者は透明人間だ。

だから寂しくはない。いなくなった人がいないのだから、寂しくなりようがない。


ただ、静かだ。


深層は静かだ。

濾過水が落ちる音と、自分の呼吸と、たまに胃が鳴る音。

それだけだ。


地上にいた頃は、常に音があった。配信のBGM。仲間の怒声。剣がぶつかる音。魔法が炸裂する音。そして玄真の声。あのよく通る、正しい声。

全部うるさかった。うるさいと思っていた。うるさいのが嫌で、任務の合間にこっそり宿の裏で土をいじっていた。

今、その静けさが手に入った。

欲しかったものが手に入ったのに、手のひらの中で微かに形が違う。

欲しかった静けさと、押し付けられた静けさは、同じ静けさなのに重さが違う。


俺はその重さを、手のひらの土ごと握った。

握って、混ぜて、区画に戻す。


感情は土に混ぜればいい。

土は何でも受け止める。怒りも、悲しみも、寂しさとは呼べない何かも。

土に混ぜて、畑にして、作物にして、食う。

感情の最も生産的な処理方法は、堆肥にすることだ。

少なくとも俺は、そう信じている。


区画の土が整った。

匂いを嗅ぐ。甘さがほとんど消えている。代わりに、湿った土と微生物の匂いがする。仕事の匂いだ。

次は、種だ。


ここで人間は二種類に分かれる。

「種がない。詰んだ」と座る人間と、「種がない。なら作る」と動く人間だ。

俺は農学者なので、後者を選ぶ。選ぶというより、それしか知らない。


まず、光源を確保する。

畑には光がいる。暗闇では光合成ができない。

だが、光る藻がある。


沼の縁から藻を少し掬い、畑の周囲に置いた。

青緑の淡い光が、畳一枚分の区画をぼんやりと照らす。

光量としてはまるで足りない。地上の日照に比べれば、月明かりの方がまだマシだ。

だが、あるのとないのとでは違う。ゼロと一の差は、一と百の差より大きい。


次に、雑草を探す。

雑草はどこにでもいる。深層にもいる。世界のしぶとさは雑草で測れる。

俺は岩の割れ目や土の隙間を這いまわって、植物を探した。

菌類はある。苔はある。だが根を持つ植物は――


あった。


岩の裂け目に、細い茎が一本だけ伸びていた。

引き抜く。根が白い。

白い根は希望だ。地上でも深層でも、白い根は「こいつはまだ死んでいない」というサインだ。


だが問題がある。

この雑草自身が毒を含んでいる。深層の瘴気を吸って育った植物は、根にも茎にも葉にも毒が溜まる。そのまま食えば、腹を壊す。腹を壊せば体力が減り、判断が鈍り、死ぬ。喉の渇きから死までの導線が短いように、食あたりから死までの導線も短い。


だから、直接食うのではない。

育て直すのだ。


改良した土に、雑草の根を埋める。

《土壌改良》で毒を薄めた土で育てれば、根が吸い上げる毒も薄くなる。植物は土の鏡だ。土が変われば、植物が変わる。農学の基本中の基本だ。

問題は時間だ。地上なら、育て直すのに何日もかかる。

ここで三つ目のスキルが出る。


《魔力合成栽培》。


俺は埋めた根の上に手を置き、意識を切り替えた。

《土壌改良》のときは、土の匂いが変わる。鼻で分かる。

《魔力合成栽培》は、違う。耳で分かる。


手を当てた瞬間、土の中から微かな音が聞こえた。

ぱき、という音。

硬い殻が割れるような、小さな音。

根が伸びている。


深層の魔力が、養分になっているのだ。

《魔力合成栽培》は、地上では「肥料の効きが少し良くなる」程度の、地味な加速装置に過ぎない。だが深層では、桁違いの魔力がそのまま肥料に変わる。光が足りない? 魔力で補える。養分が薄い? 魔力が養分になる。

世界が暗いなら、世界の暗さごと養分にする。


ぱき。ぱき、ぱき。

根が枝分かれする音。茎が伸びる音。

土の中で植物が「分かった」と応えているような、嫌なほど素直な反応だった。


速い。


地上の何倍、という比較ではない。次元が違う。

俺は思わず息を吐いた。


深層の魔力は、危険だ。だが資源でもある。

この場所は、人間が剣を振って勝つ場所ではない。

だが環境を勝たせるなら、話が変わる。

外れ職が深層で最適職に化ける仕組みは、たぶんこういうことだ。


時間が経つと、土の表面が僅かに盛り上がった。

芽が出た。


小さな、青白い芽だ。

藻の光を受けて、弱々しく揺れている。

だが生きている。


芽が出るというのは、世界が「まだ続く」と言っているのと同じだ。

どんな英雄の演説より、どんな配信のスパチャより、芽が出るほうが信用できる。

芽は嘘をつかない。土が良ければ出る。土が悪ければ出ない。

今、出た。

つまり、俺の仕事は正しかった。


腹の底で、恐怖の塊が少しだけ黙った。

恐怖は、食料の見込みに弱い。

「食える未来」が見えた途端、恐怖は声を小さくする。現金な奴だ。だが恐怖が現金であることに、俺は感謝した。


俺は畑の脇に、小さな堆肥の山を作った。

菌糸と苔と、枯れた蔓と、炭化木片。発酵を促す材料を重ねる。

それに――言いたくないが、俺の排出物も使う。

言いたくないが、現実はいつも言いたくない形で役に立つ。

人生とは、だいたいそういうものである。


堆肥が熱を持ち始めた。

発酵熱が畑をほんの少し温める。温度が上がると成長が速くなる。成長が速いと胃が黙る。胃が黙ると頭が働く。頭が働くと生き残れる。

地味な循環だ。だが循環は、地味であるほど安定する。


芽は、見ている間にも少しずつ伸びた。

深層の魔力が《魔力合成栽培》を加速し、加速した栽培が植物を変えていく。

葉が広がる。茎が太くなる。根が深くなる。

毒を吸い上げていた雑草が、改良された土の中で「別の植物」に育ち直している。


俺は待った。

待つのは、相変わらず難しい。だが土に手を当てていると待てる。理由は今も分からない。


やがて、根が太くなった。

引き抜く前に、匂いを確かめる。

甘い毒の匂いは――ない。

改良した土で育てた根には、毒が溜まっていない。土が変われば、植物が変わる。農学の基本通りだ。基本が深層でも通用することに、俺は静かに安堵した。


引き抜く。

白い根が、少しだけ太くなっている。食べられる量ではない。つまようじ程度だ。

だが、これは「最初の一本」だ。

最初の一本があれば、二本目がある。二本目があれば、十本目がある。

十本あれば、畑だ。


土を軽く払い、匂いを嗅ぐ。

土の匂いしかしない。


噛んだ。


苦い。

青臭い。

歯ごたえは硬く、味は貧しい。

だが――苦いだけだ。

毒の甘さがない。腐敗の酸味がない。"死の味"がしない。


ただの、不味い根だ。

不味い根が、これほど美味いとは知らなかった。

――いや、美味くはない。不味い。不味いが、嬉しい。


噛みながら、視界の端が一瞬だけ光った。


光った、というのは比喩ではない。

文字通り、視界の隅に薄い光の枠が浮かんだ。


ステータスだ。


この世界の探索者には、個人の能力や職業を表示する「ステータス」がある。普段は意識しなければ見えない。だが成長があったとき、変化があったとき、勝手に視界の端に浮かぶ。

邪魔だ、と思いながら目を向けた。


――――――――――――――――

久遠 洋

職業:迷宮農学者

称号:【深層耕作者】(NEW)


《土壌改良》 Lv.3 → Lv.5

《魔力合成栽培》 Lv.2 → Lv.4

《適応収穫》 Lv.1(変化なし)


◆ 環境適応率:12% → 31%

◆ 深層魔力親和:E → D

――――――――――――――――


数字が、跳ねている。

地上で何年かけても上がらなかったレベルが、深層に来て数時間で倍近くになっている。

環境適応率に至っては、地上では測定不能だった項目だ。深層でなければ意味を持たない数値。

そして――称号。

【深層耕作者】。

聞いたこともない。


俺は根を噛みながら、その称号を眺めた。

外れ職の、外れた先。

誰も来ない場所で、誰もやらないことをやった結果が、これだ。


嬉しいとは思わない。

嬉しいというのは、誰かに見せたいときに感じる感情だ。ここには誰もいない。

だが――悪くない。

悪くない、で十分だ。


ステータスの光が消える。

視界が暗闇に戻る。

だが暗闇の中に、畑がある。芽がある。水がある。

昨日はなかったものが、今日はある。


ふと、沼の水面が揺れた。


風は感じない。

少なくともこの空間には流れがない。

なのに水面が揺れた。

同時に、匂いがした。

土の匂いではない。水の匂いでもない。

生温い。湿っている。だが植物ではない。

何かが、呼吸をしている匂いだ。


沼の向こう、藻の光が届かない暗闇の奥で、石が一つ転がった。

音は小さい。だが重い。

踏んだのではない。押したのだ。何かの身体が、石を押しのけて動いた。


俺は動きを止めた。

呼吸を浅くする。手のひらを地面に当てる。

土が振動を伝えてくる。

重い。

足音というより、圧だ。存在するだけで周囲の空気を押す。深層の生き物は、そういうスケールで生きている。


畑の匂い。水の匂い。改良された土の匂い。

俺がここで作ったものすべてが、深層の暗闇に「ここに何かある」と宣伝している。


面倒だ、と思う。

だが面倒は、生きている証拠でもある。死んでいたら面倒は来ない。

面倒が来るということは、俺の畑が「価値がある」と認められたということでもある。

敵に認められる畑。

農学者として、複雑な気分だ。


「……静かに」


自分に言い聞かせる。

騒ぐと枯れる。


闇の奥の気配は、近づいてもこなかったが、去りもしなかった。

そこにいる。じっと、こちらを嗅いでいる。


俺は畑の土をもう一度撫でた。

芽は、まだ揺れている。藻の光の中で、弱々しく、だが確かに。


「……まあ、やる」



久遠洋、享年なし。

戦死扱い。ただし、土が使える。芽が出た。称号が付いた。

職業、農学者。食料、着手。

そして暗闇の向こうで、何かが、まだこちらを嗅いでいる。


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