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水が先


人生には、喉が渇いているときほど遭遇したくない場面が三つある。

一つ、ペットボトルのフタが固すぎて、開けるまでに人生の尊厳が三割減る場面。

二つ、給水機の前で「故障中」の紙が、こちらを見て笑っている場面。

三つ、口の中が砂漠なのに、目の前の水が「飲んだら死ぬ」と自己紹介してくる場面である。


――今の俺は、三つ目にいる。


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。

昨日までの俺は、S級ダンジョン最下層で英雄の物語の端っこを支えていた。今日は深層の暗闇の中で、土を握っている。握っているだけで妙に落ち着くのが腹立たしい。人間、落ち着く場所が間違っているときほど落ち着くものだ。


身体は痛い。

全身を鈍器で丁寧に撫でられたような鈍痛がまだ残っている。だが内臓はようやく正しい位置に戻りかけており、骨も折れてはいない。潰れてもいない。生きている。

生きているという事実は、だいたいの問題を先送りにできる。先送りというのは人類の発明の中でも上位に入る。


暗い。

どれくらい暗いかというと、目を開けていても閉じていても誤差だ。

誤差がないなら閉じたほうがいい。まぶたは、余計な情報を遮断するのに最適な装置である。


俺は目を閉じたまま、呼吸を数えた。

吸う。肺が痺れる。吐く。鉄の味。

深層の空気は薄い。薄いのに重い。矛盾しているが、矛盾しているものほど世界には多い。高木玄真の人格とか。


ふと、肩口に手を伸ばした。

配信カメラ。セイバーズの戦いを全世界に届ける小さな目。

指先に当たったのは、硬い破片だった。レンズの縁が割れている。赤い点滅もない。

全世界に繋がる目は、深層の暗闇に飲まれて死んだらしい。

俺だけが生きて、カメラが死ぬ。英雄譚としては順番が逆だと思うが、英雄譚のほうが間違っている可能性もある。

肩のカメラが死んだだけで、世界に繋がる可能性まで死んだと決めるのは早い――そういう気配だけ、胸の奥に残しておく。


いい。どうせここは電波が届かない。

俺が生きていることを誰かに証明するのは、後でいい。

今は――水だ。


「水が先」


声に出した瞬間、腹の底に棲みついた恐怖の塊が少しだけ黙る。

恐怖は消えない。消えるものではない。ただ、手順があると、恐怖は発言権を失う。会議で議題が進んでいるのに私語を続けられる人間は少ない。恐怖も同じだ。

俺はまだ手順を持っている。

持っているのは剣ではなく、チェックリストだが。


頭の中で四つの項目を回した。


酸素。

水。

安全地帯。

熱源。


酸素は――ある。薄いが、ある。俺がこうして考え事をしている時点で、脳に酸素は届いている。届いていなければ考え事の前に倒れている。

熱源は――土の発酵熱が使える可能性がある。深層の土は異常に肥えている。微生物が過労死しそうな勢いで働いている。

安全地帯は――自分で作る。そういう職業だ。

そして水。


水の匂いがする。


匂いは、方向を持つ。

俺は目を閉じたまま、ゆっくり首を動かして匂いの濃いほうを探った。

水。湿った石。藻。……そして、毒。


毒の匂いが混じっている。甘くて、重くて、舌の奥に引っかかるような匂いだ。

毒というのは、だいたい水に棲む。水というのは、だいたい人間を油断させる。だから毒は水が好きなのだろう。性格が悪い。


俺は立ち上がり、暗闇の中を歩き始めた。

一歩ごとに足の裏で土を読む。硬さ、湿り気、温度、魔力の密度。

人間は目で世界を知っているつもりだが、足の裏はもっと多くのことを知っている。俺の足の裏は、農学部の教授より現場を知っている。


十数歩で足元がぬるりとした。

石が濡れている。湿り気が増える。空気が少しだけ冷たくなる。

そして、音。


ぽとり。ぽとり。

滴る音がする。

水がある。


俺は手を伸ばし、岩の表面を撫でた。冷たい。湿っている。水滴が指の腹に乗る。


――舐めたい。


喉が命令する。舌が待機する。指が口のほうへ動こうとする。身体というのは民主主義で動いていて、喉と舌と指が多数決を取ると、理性は少数派になる。

だが少数派が正しいことは、往々にしてある。

俺は指を下ろした。


「……静かに」


自分に言い聞かせる。

騒ぐと枯れる。花も、人も。

それに、この水滴の匂いには毒が混じっている。岩を伝って落ちてくる間に、深層の瘴気を吸っている。舐めたら死にはしないだろうが、腹を壊す。腹を壊すと体力が減る。体力が減ると判断が鈍る。判断が鈍ると死ぬ。

喉の渇きから死までの導線は、思ったより短い。


さらに進むと、匂いが一気に濃くなった。

毒の甘さが空気を支配している。

目を開ける。闇の中に、鈍い光が揺れていた。


光る藻だ。

魔力を含んだ藻が、ぬめる水面に群れている。薄い青緑の光がゆらゆらと揺れ、沼の表面を幽霊の宴会のように照らしている。

幻想的だ。

そして幻想的なものは、だいたい危険だ。世界は昔から、危険に美しい包装紙を巻くのが得意である。


水溜まり――いや、沼だ。

浅いが広い。表面に薄い膜が張っていて、ところどころ泡が上がる。泡が弾けるたびに、甘い毒の匂いが濃くなる。

いい沼というものを、俺は知らない。

だが「いい沼」にすることはできるかもしれない。


俺はしゃがみ、沼の縁の土を指で摘んだ。

ぬるい。生温い。

生温いというのは、微生物にとって天国の温度だ。そしてここに天国を享受している微生物は、人間の味方ではない。

だが敵でもない。

敵か味方かを決めるのは、使い方だ。毒も微生物も水も、扱い方の問題に過ぎない。


「飲めないな」


声に出すと、現実が確定する。

飲めない。だが水はある。

あるなら、飲めるようにすればいい。


俺は立ち上がり、周囲を探った。

藻の光だけが地形を教えてくれる。青緑の光に照らされた深層の底は、不気味だが、情報量は多い。

岩。砂。腐った木片のようなもの。苔。菌糸。何かの骨。

――使える。


俺はまず、沼から少し離れた場所に小さな窪みを掘った。

素手で土を掘る。馬鹿らしいが、馬鹿らしさは生存の邪魔にならない。馬鹿らしさを恥じて手を止めるほうが、よほど致命的だ。

掘った窪みの底に、まず砂を敷く。

その上に、細かく砕いた石を重ねる。

さらにその上に、苔と、黒ずんだ木片を細かくしたものを敷き詰めた。


この木片が、鍵だ。

深層の木は、魔力のせいで半ば炭化していることがある。地上の備長炭とは成り立ちが違うが、結果として似たものになっている。多孔質で、不純物を吸着する。自然が勝手に浄水フィルターの材料を用意してくれていた。

深層は性格が悪いが、たまに気まぐれに親切だ。人間にもそういう奴はいる。高木玄真には、「たまに」すらなかったが。


即席の濾過層ができた。

砂で大きな濁りを止め、石で中間の粒子を止め、炭化木片で微細な不純物を吸着する。三層構造。原理は地上の緩速濾過と同じだ。教科書に載っている。教科書が深層で役に立つとは思わなかった。


次に、沼の水をすくう器がいる。

器がないなら作る。


俺は近くの岩の割れ目から、硬い殻のようなものを引き剥がした。甲殻――ボスほどではないが、何かの外皮だ。ひび割れている部分を折り、手のひらサイズの皿にする。

水を汲む。濁っている。臭い。藻がぬめる。

それを濾過層の上に、少しずつ注ぐ。


待つ。


人間にとって最も難しい行為は「待つ」だ。

走るより、戦うより、叫ぶより、待つほうが難しい。

喉が渇いているときは、なおさらだ。

喉は「今すぐ飲め」と言う。胃は「何でもいいから入れろ」と言う。脳だけが「待て」と言う。一対二で脳が負けそうになるたびに、俺は手のひらを土に当てた。

土に触れていると、待てる。

理由は分からない。分からなくていい。


ぽた。


音がした。

濾過層の下の窪みに、一滴の水が落ちた。

濁りが消えている。透明に近い。


ぽた。ぽた。


続けて落ちる。

窪みの底に、薄い水の層ができ始める。


だが、まだだ。

濾過は濁りを取る。だが毒は、濁りの顔をしていない。色のない毒、匂いの薄い毒、舌で分からない毒。そういうものが一番怖い。人間関係と同じだ。


ここからが、俺の仕事だ。


俺は窪みに溜まった濾過水に手のひらを浸した。冷たい。

そこへ、意識して《土壌改良》を流し込む。


《土壌改良》は、土の成分バランスを"あるべき状態"に近づける技能だ。酸性度を整え、塩分を調節し、有害な魔力残留物を分解して無害化する。地上では「畑の土を良くするだけの地味な技能」でしかない。外れ職と呼ばれる所以だ。

だがここは深層だ。

魔力濃度が桁違いに高い。そして魔力が濃いほど、《土壌改良》は深く効く。


指先が微かに熱を帯びた。

水面の薄い膜が、ふっとほどける。毒の甘い匂いが薄くなる。水の匂いが前に出てくる。

《土壌改良》が、水の中の魔力毒を中和しているのだ。

地上では起こらない反応だった。深層の魔力が技能を増幅し、「土壌」だけでなく「水質」にまで干渉している。

不遇職が、深層限定で最適職に化ける。

その片鱗が、指先の熱として、今ここにある。


匂いを嗅ぐ。

毒が、消えている。


「……よし」


よし、と言えるほどの確信があるわけではない。だが「扱える」という判定は出た。農学者の判定は、だいたい外れない。外れたら死ぬ職業を二十数年やっている。


最後に、温度を上げる。

煮沸が理想だが、火がない。火打ち石もない。魔法も使えない。

なら、深層の微生物に頼る。


俺は菌糸の塊を集め、乾いた苔と混ぜて、小さな山にした。

深層の菌糸は魔力で発酵速度が異常に速い。発酵は熱を生む。地上の堆肥でも中心温度は六十度を超える。深層の菌糸なら、もっといく。

発酵熱を文字通り舐めてはいけない。


甲殻皿に濾過・中和済みの水を入れ、菌糸山の上に置いた。

待つ。

また待つ。

待つのは難しい。だが俺は土に手を当てて待った。


水面が、揺れ始めた。

温まっている。

菌糸山の中心から熱が立ち上り、甲殻皿の底を焦がす勢いで伝わっている。

やがて水面に小さな泡が浮いた。沸騰には届かないが、充分に熱い。

濾過で濁りを取り、《土壌改良》で魔力毒を中和し、発酵熱で温度を上げた。

三段階。

地上の浄水場がやっていることを、深層の暗闇で、素手と外れ職でやった。それだけのことだ。


俺は甲殻皿を持ち上げた。

湯気が立つ。藻の光に照らされて、湯気が青緑に染まる。

匂いを嗅ぐ。水の匂いしかしない。


口に運ぶ。


人間は水を飲む直前に、一瞬だけ止まる。それは祈りに似ている。祈りというのは、理屈が尽きた後に出てくる保険だ。

俺は祈りの代わりに、もう一度匂いを嗅いだ。

毒の匂いはない。

水の匂いだけがある。


「……水が先」


飲んだ。


ぬるい。

微かに土の味がする。

ミネラルウォーターのような爽やかさはない。上等な湧き水の澄んだ甘さもない。

だが、生き物の味がしない。毒の甘さがない。腐敗の酸味がない。

ただの水だ。

ただの水が、これほど美味いとは知らなかった。


飲んだ瞬間、身体の奥で何かが緩んだ。

喉が潤いを取り戻す。食道が「ああ」と言う。胃が受け止める。腸が動き始める。

身体というのは正直なもので、水が入った途端に「まだ足りない」と主張し始める。さっきまで黙っていたくせに。民主主義が復活するのは、いつも最低限の保障がなされた後だ。


二口目を飲む。

三口目を飲む。

四口目で、ようやく「死なないかもしれない」と思えた。


人間は、四口目で未来を見始める。

一口目は「生きている」の確認。二口目は「死なない」の祈り。三口目は「もう少し」の欲。四口目で初めて、明日のことを考える余裕が生まれる。

俺は四口目の水を飲みながら、明日のことを考えた。


次は安全地帯だ。

次は熱源だ。

次は――食料。


だがその前に、この沼を整える必要がある。

毒沼は、そこにあるだけで空気を腐らせる。腐った空気は睡眠を奪う。睡眠を奪われると判断を間違える。判断を間違えると死ぬ。

死ぬのは嫌だ。カブが収穫できない。

――ここにカブの種はないのだが、まあ、その話は後でいい。


俺は沼の縁に土を盛り、簡単な堤を作った。

《土壌改良》で泥を締め、染み出しを減らす。

沼から濾過層への水路を浅く掘り、水の流れに導線を作る。

手順は地味だ。手順はいつも地味だ。だが地味は生存に直結する。地味は裏切らない。派手が裏切る。

英雄が派手に泣く裏で、地味な男が地味に死ぬ。

それが昨日までの世界だった。

今日からは、地味な男が地味に生きる。


水路の形が整い、沼の水が緩やかに濾過層へ流れ始めた。

ぽた、ぽた、と濾過水が窪みに落ちる音が、規則正しく響く。

いい音だ。

時計がなくても、この音があれば時間が流れている実感がある。


――ふと、水面が揺れた。


風は感じない。

少なくともこの空間には、空気の流れを作るものがない。

なのに、沼の水面が揺れた。

小さく、だが確かに。

何かが、遠くで地面を踏んだのだ。


俺は動きを止めた。

呼吸を浅くする。手のひらを地面に当てる。

土が、微かな振動を伝えてくる。規則的ではない。歩行のリズムでもない。

何かが、いる。

何かが、近くにいる。


背筋を、冷たいものが伝った。

恐怖の塊が腹の底で身じろぎする。「ほら、やっぱり」とでも言いたげに。

だが俺は、その塊を見つめる側の人間だ。見つめている限り、飲み込まれはしない。

たぶん。


「……静かに」


自分に言い聞かせる。

騒ぐと枯れる。


水面の揺れは、止まった。

振動も、消えた。

去ったのか。それとも、止まっただけか。


分からない。

分からないものは、今は後回しにする。

後回しにできるものは、まだ致命的ではない。

致命的なのは、水がないことだ。水はもう、ある。


俺は膝をつき、濾過層を確認した。

水は落ちている。

ぽた、ぽた、と、律儀に落ちている。


なら、今日は生きられる。

今日を越えれば、明日が来る。

明日が来れば、土を見る。

土を見れば、畑を考える。

畑を考えれば――まあ、生きていける気がする。

気がするだけで充分だ。確信は贅沢品だ。


俺は暗闇の中で、土に手を当てたまま、少しだけ笑った。

笑ったというのは大げさかもしれない。口の端が、わずかに動いただけだ。

だが深層の暗闇で口の端を動かせるなら、それはもう笑いと呼んでいい。


上では今頃、英雄が泣いているだろう。

画面の中で美しく泣き、視聴者の涙を誘い、コメント欄を「英雄の慟哭」で埋めているだろう。

下では、俺が水を飲んでいる。


泣くのは後でいい。

今は水がある。水があれば、明日がある。明日があれば、土がある。


「……まあ、やる」



久遠洋、享年なし。

戦死扱い。ただし水は確保。

職業、農学者。


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