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茹で上がった


深層は、人間を茹でる。


火で茹でるのではない。湿気と、酸素の薄さと、逃げ道のなさで茹でる。


地上では「正義」が鎧になる。頑丈で、見栄えが良く、カメラ映りも良い。

だがここでは正義は水に溶ける。溶けた正義は泡になる。泡はすぐ消える。

残るのは素の肉だ。腹が減った肉。足が冷えた肉。怖くて震えている肉。


つまり深層は、本音が出る場所だ。

一度出た本音は、戻らない。


---


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。職業、農業者。


深層DASH村の朝は、いつものとおり。


濾過層が、ぽた。

蒸留装置が、ぽた。

ムクの鼻息が、ふす。

ドローンの羽音が、ジィ。


四拍子。狂わないなら、今日も生きている。


「水が先」


蒸留水を一口。透明。匂いなし。喉が受け入れる。よろしい。


畑を見る。根菜。葉物。実験区画。三区画とも正常。

干し根を裏返す。発酵壺の蓋を開ける。六日目の丸い酸味。膜が厚い。菌糸は今日も真面目だ。閉じる。

貯蔵穴に手を入れる。冷たい。

水路の流量を確かめ、石を一つ直す。


ここまで手順を回すと、心のほうが静かになる。

手順は心の骨格だ。骨格が残っていれば、肉が震えても立っていられる。


静かになると、外の匂いが分かる。


金属。汗。整髪料。焦り。


まだいる。二夜目を越えたらしい。


深層で二夜を明かした人間の匂いは、一夜目とは違う。地上の匂いが剥がれ始め、深層の湿気が染みつく。

染みついた匂いは不安定だ。不安定な匂いは、不安定な人間を意味する。


不安定な人間は、本音を出す。


ムクは土塁の縁に座っている。前足の爪先が、内側に入っている。昨日よりさらに一ミリ。

信頼の測定単位はミリメートルだ。ミリメートルは目立たないが、畑で鍛えた目は拾う。


干し根を一本、土塁の外に置く。蒸留水を少し。

ムクが匂いを嗅ぎ、一秒。最速記録。外交の速度が安定期に入った。

揺れない外交は、信頼と呼んでいい。


ムクの耳が横に開いている。警戒の耳。だが「まっすぐ上」ではない。

大きいものは縮んでいる。怖くはない。だが、面倒だ。

いるだけで匂う。匂うだけで煩わしい。


今日やることが一つ増えた。


「……飯が先」


---


畑で採れた根を一本抜く。


光る根ではない。普通の根だ。光る根は回復と解毒の属性を持つ。一本で数万の値がつくと掲示板が騒いでいた。

薬だ。薬は温存する。


今日使うのは、普通の根だ。苦い。だが苦い根は腹を満たす。

腹を満たすことが、今日の仕事の核心だ。


蒸留水で洗う。最小限。水は贅沢品だ。

薄く切る。骨の刃で。刃先が繊維を断つ音が小さく響く。切り方が安定している。手が覚えた。


甲殻椀に並べる。割ったばかりの頃は臭かった。今は匂いが抜けて、ただの器だ。

品格のない器は、何を盛っても文句を言わない。


堆肥山の上に椀を置く。蓋をする。菌糸の発酵熱で蒸す。

茹でるより匂いが少ない。匂いが少ないほうが客が減る。


客は、もういるが。


蒸し上がるまでの間に、水路の石をもう一つ直す。干し根の端を結び直す。蒸留装置の受け皿を確認する。

手順は隙間を嫌う。隙間があると、余計なことを考える。余計なことは堆肥に還す。


甲殻椀の蓋を開けた。


湯気が立った。白い湯気がドローンの光に染まり、淡い金色に見える。

匂いが甘い。毒じゃない甘さ。

苦い根でも、熱で少し変わる。深層は変化を許す。たまに。


腹が鳴った。


鳴ったのは俺の腹だ。だが同時に、土塁の外でも鳴った。

腹は平等だ。英雄でも鳴る。数字の女でも鳴る。

鳴りを止めるには食うしかない。食うには作物が要る。作物を作れるのは農学者だけだ。


つまり今この瞬間、深層で一番強いのは、蒸し芋を持っている人間だ。


---


土塁の外から声がした。


「久遠!」


高木玄真の声だ。二日目の声は一日目より掠れている。酸素が足りない証拠。

掠れた声は短くなる。短い声は嘘を載せにくい。――はずだが、あの男は嘘の在庫が多い。


「聞こえてるだろ!」


聞こえている。聞こえているが、返事はしない。返事をすると会話になる。会話になると手順が乱れる。乱れた手順は深層で死ぬ。


俺は甲殻椀を持って立ち上がった。


熱い。蒸し芋の熱が手のひらに伝わる。熱いものを持つと、手が現実に固定される。

現実に固定された手は、震えない。


土塁の内側、低い段差まで歩く。境界線は越えない。越えなくても届く距離で止まる。


ドローンの光が土塁の外を照らした。


高木玄真。靴がない。薄い靴底カバー。立ち方が傾いている。

由良。端末を握っているのに手が泥だらけだ。数字を追う目じゃない。諦めた目だ。


二人とも、茹で上がりかけている。

深層の二日間が鎧を剥がした。正義の鎧も、英雄の鎧も、数字の鎧も。全部溶けた。


ムクは土塁の縁に座ったまま動かない。動かないのに境界が固定されている。

宣言に言葉はいらない。存在が宣言だ。


俺は甲殻椀を、土塁の上に置いた。


落とすんじゃない。置く。

落とすと施しになる。置くと提示になる。提示は対等だ。


「……蒸した。食える」


それだけでいい。


---


高木の目が椀に落ちた。


湯気。甘い匂い。腹が鳴る。

手を伸ばせば届く。土塁は膝の高さだ。


だが高木は手を伸ばさなかった。


食べれば負ける。英雄が、追放した農学者の蒸し芋を食べる画が残る。

食べなければ腹が鳴る。腹の音もログに残る。

食べても負け。食べなくても負け。


拳が震えた。震えは飢えか、怒りか、屈辱か。全部だ。


由良は湯気を見ていた。数字じゃなく、湯気を。喉が小さく動いた。唾を飲んだ。


---


高木が俺を見た。


俺は見返さない。正面は映さない。感情は燃料になる。燃料は相手の画になる。

俺の感情は堆肥だ。他人の燃料にはしない。


横なら向ける。影になる角度で。涙の画にならない角度で。


胸の蓋が跳ねた。

押さえるか、出すか。


出すなら事実だけだ。事実は編集できない。


蒸し芋を差し出したまま、言った。


「助け? ……遅い。もう暮らしてる」


言い終わったら、もう言うことはない。言葉を増やすと材料になる。


---


沈黙が落ちた。


重い沈黙は泡を消す。正義の泡も、英雄の泡も。


高木の「正しい声」が迷子になった。二秒。

台詞の在庫が尽きた沈黙だ。


尽きた人間は、本音しか出せない。


「……返せ」


小さい声。でもドローンは拾う。古代の機械は几帳面だ。


「俺が作ったんだ。あの称号も、数字も、画面も……お前はただの荷物持ちだったはずだろ」


荷物持ち。


由良の目から光が消えた。


「高木さん。やめてください。全部録られてます。消せません」


短い言葉で十分だった。

言い終わった由良の声は、もう数字じゃなかった。


高木は聞いていなかった。空っぽの目で椀を見ていた。湯気は薄くなる。冷めかける。

湯気が消えたらただの芋だ。ただの芋はただの事実だ。


高木は両手で顔を覆った。荒い呼吸が漏れた。泣いているのか笑っているのか分からない。

分からないものをドローンは映す。


---


コメントが滝になる。


『返せって言った?』

『言った ログ残ってる』

『荷物持ちって……最初から見下してたんだ』

『蒸し芋食えない英雄』

『由良の顔、終わった顔』

『ムク動かないのが怖い』

『七語で終わった』


望月◆LOG/0v:

高木玄真の発言、全音声ログ保全を確認。タイムスタンプ記録済み。


---


俺は畑に戻った。


戻るのに一歩でよかった。畑がここにあるからだ。

他に行く場所がなかったから、ここが場所になった。


「水が先」


手順に戻る。干し根を裏返す。発酵壺の蓋を確認する。水路の石を直す。蒸留装置の受け皿を確かめる。

手を動かす。動かし続ける。


胸の蓋の下で冷たいものが暴れている。


「荷物持ち」


侮蔑は最初からあった。最初からあったものは、認める必要がある。認めるのは痛い。

だが嘘をつくよりましだ。


俺は荷物持ちだった。それは事実だ。

事実を認めた上で、今の事実もある。


畑がある。水がある。ムクがいる。

暮らしがある。


鍬を握る。確認する。手が動く。手順が回る。畑は死なない。


「……まあ、やる」


鍬を振る。土が裂ける。裂けた土の下に白い根が見えた。


ムクがゆっくり瞬きをした。俺は初めて見た。

意味は分からない。だが了解より深い何かだった。


分からないものは堆肥に還す――はずだが、これは胸に置くことにした。

冷たいものの上に、温かいものを載せる。


ムクの鼻息が、ふす。

今日の「ふす」は、少しだけ柔らかい。


前足がさらに二センチ内側に入っていた。過去最大の進行。

外敵が来ると味方が近づく。近づいた距離は戻らない。


---


ドローンの画面に表示が浮かんだ。


「転送陣:起動準備完了」


道ができる。


道ができても、畑は変わらない。

変わるのは畑の外だ。


土に手を当てる。温かい。


「……まあ、やる」



久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし七語で終わった。

「助け? ……遅い。もう暮らしてる」

英雄の正義が泡になった。本音が漏れた。

ムクが瞬きをした。前足がさらに内側に入った。

転送陣、起動準備完了。

畑、稼働中。


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