最弱警備に負ける
世の中には、負け方というものがある。
強い相手に負けるのは、まだ理解できる。
数が多い相手に負けるのも、言い訳ができる。
だが「弱いもの」に負けると、人は言い訳の置き場を失う。
置き場を失った言い訳は、だいたい怒りになる。
怒りは派手だ。派手は深層で死ぬ。
だからこの話は、派手な人間が地味なものに負ける話だ。
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久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。職業、農業者。
朝の四拍子は狂っていない。
濾過層が、ぽた。
蒸留装置が、ぽた。
ムクの鼻息が、ふす。
ドローンの羽音が、ジィ。
狂っていないなら、今日も生きている。
外がどうなっていようと、畑は回る。
俺は水を確かめた。透明。匂いなし。一口。よろしい。
「水が先」
手順が起動する。恐怖が黙る。手が動く。
土塁の外は、昨日から騒がしい匂いが続いている。
金属。汗。整髪料。焦り。
焦りの匂いはすぐ分かる。呼吸が浅いからだ。浅い呼吸は匂いを薄くする。薄いのに濃い。矛盾しているが、焦りはいつもそうだ。
ムクが立っている。
立っているだけで、外は止まる。
俺は見ない。
見る必要がない。
見ると手順がずれる。
だが手順の中にも、「境界を見る」仕事がある。
畑は守るものだからだ。
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土塁の手前で、高木玄真はまだ沈んでいる。
沈んでいるのは靴だけではない。
画も、言葉も、帝国も沈んでいる。
「……動け」
高木が言った。誰に言ったのか分からない。粘土にか。自分の足にか。世界にか。
返事はない。
返事がないものに怒鳴るのは、無駄だ。
無駄だが、高木は無駄に慣れていない。
由良が高木の袖を引いた。
「叫ばないでください。息が減ります」
言い方が冷たい。冷たいのは心ではない。手順だ。
高木が袖を振り払った。
振り払う動作で、靴がさらに沈んだ。
深層の粘土は、派手な動きを嫌う。
戦闘員三人は粘土の手前にいる。
いるが、前に出ない。
賢明だ。賢明な人間は給料分しか踏み込まない。
「引っ張れ!」
高木が言った。
戦闘員の一人がロープを投げた。
投げたロープは粘土に落ち、ぬるりと沈んだ。
沈んだロープを引くと、引いた腕が泥で汚れる。
泥で汚れるのは嫌だ。
嫌だ、という感情は深層では正しい。嫌なことは死に繋がることが多いからだ。
戦闘員は躊躇した。
躊躇の一瞬で、ムクの目がこちらに向いた。
向いた瞬間、戦闘員の肩が落ちた。
落ちたのは勇気だ。
勇気が落ちると、動作が遅くなる。遅い動作は深層で死ぬ。だから彼は動かないことを選んだ。
動かないのは、最も安全な選択肢だ。
少なくとも、ムクの前では。
由良が言った。
「最短で行きましょう」
「何が」
「土塁を越えないことです。越えたら、完全に終わります」
「……終わってるだろ」
高木が言った。声が掠れている。
由良は答えなかった。
答えないのは同意だ。
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「最弱警備」という言葉がある。
一番弱い警備。
つまり、誰でも突破できるはずのもの。
だが畑の警備は、弱い。
弱いのに、効く。
土塁は膝ほどしかない。
高い壁ではない。
だが膝の壁は、人間の足を止めるには十分だ。足が止まれば手が止まる。手が止まれば頭が止まる。
畑の蔓柵は、ただの蔓だ。
刃物があれば切れる。
だが刃物を振るには足場が要る。足場がなければ刃物は自分を傷つける。
畑の水路は、細い溝だ。
跨げる。
だが跨ぐ瞬間に足を取られる。足を取られた瞬間、ムクの目が光る。
全部、地味だ。
全部、最弱だ。
最弱の積み重ねが、最強になる。
それが畑だ。
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高木は、粘土の中で手を伸ばした。
土塁の上に指が届く。
届くが、掴めない。
掴めないのは、土塁の表面が締まっているからだ。
土壌改良で締まった土は、爪を許さない。
「……由良!」
高木が言った。命令の声になりかけている。
だが命令の声は、ここでは重いだけだ。
由良は一歩前へ出た。
前へ出て、すぐ止まった。
止まったのは、賢明だからだ。
由良はロープを取り出し、土塁の杭――骨で作った小さな杭――に引っかけようとした。
引っかける、という動作は地上では簡単だ。
深層では違う。
深層では、指先が震える。
震えたのは恐怖ではない。
絵が崩れる恐怖だ。
由良にとって恐怖は「死」ではなく「画が死ぬ」だ。
ロープが杭にかかった。
その瞬間、由良は息を吐いた。
吐いた息が、白い靄になって見えた。
深層の空気が冷たいからだ。
由良は引いた。
引いたロープが張る。
張ったロープが、高木の腕に絡む。
絡む腕が、動いた。
高木は、ようやく一センチ浮いた。
浮いたのは体ではない。靴底だけだ。
だが浮いたことで、高木の顔が「勝てる顔」になった。
勝てる顔は危険だ。
勝てると思った瞬間、人は踏み込む。
高木は踏み込もうとして、失敗した。
粘土が靴を離さない。
靴が離れないなら、上がるものがある。
靴が抜けなかった。
足だけが、上がった。
高木の靴が、粘土に残った。
残った靴が、泥に沈んでいく。
沈んでいく靴は、墓標みたいだった。
高木の足元は靴下になった。
靴下は深層に向いていない。
靴下は吸う。湿気を吸う。毒を吸う。冷たさを吸う。
高木の顔色が変わった。
初めて「深層の冷たさ」が皮膚に届いた顔だ。
「……ふざけるな」
声が、震えた。
震えた声は、英雄の声ではない。
戦闘員が目を逸らした。
目を逸らすのは優しさではない。
見ていられないだけだ。
由良が小さく言った。
「……靴、置いていきます」
「何?」
「置いていかないと、動けません」
由良の声は乾いていた。数字の声だ。数字は情けを持たない。
高木が叫ぼうとして、咳き込んだ。
発酵の匂いが届いている。
呼吸が浅いと、匂いに負ける。
高木は吐いた。
吐いたものが、泥に落ちた。
泥は、全部受け止めた。
泥は優しい。優しいが、助けない。
畑の土は受け止める。だが、歓迎しない。
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そのとき、ムクが座った。
座っただけだ。
立つより安全な姿勢に戻っただけだ。
だが座った瞬間、空気の重さが少し抜けた。
抜けた空気に、人間の欲が入り込む。
欲は言う。
「今なら行ける」と。
戦闘員の一人が、土塁を越えようと足を上げた。
越えれば、仕事が終わると思ったのだろう。
仕事が終われば給料が出る。
給料は、勇気を作る。
足が土塁の上に乗った。
その瞬間、土が足を読んだ。
知らない足。
歓迎しない足。
足首に、蔓が絡んだ。
ずるり、と音がした。
音は小さい。だが決定的だった。
戦闘員は転んだ。
転んで泥に顔を打った。
泥が口に入った。
咳が出た。咳が出ると息が減る。息が減ると恐怖が増える。
ムクの耳が動いた。
動いた瞬間、戦闘員の手が止まった。
止まって、動かなくなった。
「戻れ!」
由良が叫んだ。
叫びは由良に似合わない。似合わないほど、状況が悪い。
戦闘員は戻ろうとして、戻れない。
足首が締まっている。
締まっている蔓は、ただの蔓だ。
ただの蔓に負けるのが、畑の怖さだ。
高木が泥の中で、笑った。
笑いは明るくなかった。
笑いは壊れていた。
「……そうか。これが、こいつの城か」
城。
違う。
畑だ。
畑を城と呼んだ瞬間、高木はまた負けた。
畑は城じゃない。城は奪うものだ。畑は育てるものだ。
奪う発想で来た人間は、畑に勝てない。
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深層。
俺は畑の中にいた。
外が騒がしい。
騒がしいが、手順は回る。
土に手を当てる。温かい。
水を確かめる。落ちている。
干し根を裏返す。乾いている。
発酵壺を触る。温かい。
貯蔵穴を確認する。冷たい。
全部、正常だ。
外の五人が泥だらけになっている。
だがそれは俺の仕事ではない。
畑の仕事だ。
俺がやるのは、畑を回すことだけだ。
「……静かに」
言う。
言って、手を動かす。
ムクの鼻息が、ふす、と一つ。
それだけで、外の動きが止まる。
最弱警備に負けた人間は、最強の敵ではない。
最強の敵は、最弱に負けることを認めない。
認めない人間は、次に「言い訳」を探す。
言い訳が見つからないと、次は「本音」が出る。
本音が出た瞬間に、終わる。
終わるのはどちらか。
それはまだ、分からない。
久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし最弱警備が勝った。
土塁、蔓、水路。全部地味。全部強い。
英雄は靴を失い、泥に吐き、声を失った。
畑は回っている。ムクは座っている。
次は、余裕の一言だ。




