表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/18

到達


世の中には、到着したくない到着がある。


一つ、終電に間に合ったと思ったら、行き先が逆方向だったとき。

二つ、ようやく会えた相手が、こちらを「初対面の顔」で見るとき。

三つ、地獄の底に辿り着いたはずなのに、そこが誰かの「暮らし」になっているときだ。


到着とは本来、安心のはずだ。

だが安心は、予定どおりにしか来ない。

予定どおりじゃない到着は、だいたい怖い。


最も怖い到着は、「ここに来なければよかった」と分かったときの到着だ。


---


久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし生存中。職業、農業者。


深層DASH村の朝は、四つの音で始まる。


ぽた。

ぽた。

ふす。

ジィ。


四拍子。

狂わないなら、今日も生きている。


俺は体を起こし、まず水を確かめた。透明。匂いなし。一口。喉が受け入れる。よろしい。


「水が先」


畑を見た。根菜の区画。葉物の区画。実験区画。三つの区画が、薄い藻の光と堆肥の熱で呼吸している。干し根を裏返す。発酵壺の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。五日目の酸味。丸い。膜が厚い。菌糸が真面目に働いた証拠だ。閉じる。貯蔵穴に手を入れる。冷たい。水路の流量を確かめる。石を一つ直す。


仕事をしていれば、余計なことが入ってこない。


視界の隅に、運営の表示が浮かんだ。


「救援:進行」

「接続:段階3」

「中継拠点:安定」

「転送陣座標:特定中」


短い。手順の言葉だ。地上の誰かが、道を作っている。俺の知らない場所で、俺の知らない手順で。帰るかどうかは後でいい。今は畑が先だ。


ムクは土塁の縁に座っている。前足の爪先が、内側に一ミリだけ入っている。昨日より一ミリ。信頼は目立たない速度で増える。畑と同じだ。根は見えないところで伸びる。


土塁の外に干し根を一本、蒸留水を少し。ムクが匂いを嗅ぎ、一・五秒で食った。外交の速度が上がっている。信頼か、空腹か。どちらでも構わない。食うなら味方だ。


俺は水路の石をもう一つ直し、乾燥棚の端を結び直した。


――そのとき、ムクの耳が立った。


立ち方が、いつもと違う。


警戒の耳は横に開く。狩りの耳は前に倒れる。今日の耳は、まっすぐ上だ。まっすぐ上は「大きいものが来る」の耳だ。俺がそう読めるようになったのが何日目からかは数えていない。数える暇があるなら水路の石を直す。


匂いが来た。


金属。油。汗。人間。


ここまでは前と同じだ。刺客のときと同じ匂いの系統だ。


だが、太さが違う。


前の匂いは三人分だった。今日の匂いはもっと太い。五人か、それ以上。鼻は正確な数を返さないが、太さの差は分かる。


そして、その太い匂いの中に、知っている匂いがあった。正確には、忘れていない匂いだ。


忘れたかったが、鼻が覚えていた。上等な整髪料。清潔すぎる衣類。そして、その下に隠れた薄い薄い金属の匂い。命令を出す人間の匂いだ。命令を出し、自分では剣を振らず、カメラの前でだけ笑う人間の匂い。


堆肥に還したはずの冷たさが、蓋の下から這い出てきた。


菌糸の分解は、まだ終わっていなかったらしい。


胸の真ん中に、冷たいものが戻った。冷たさの形は前と同じだ。同じだが、今度は名前がある。


高木玄真。


その名前が、鼻の奥から胸に落ちた。落ちて、堆肥の蓋を内側から押した。蓋は閉めてある。閉めてあるが、匂いは漏れる。蓋とはそういうものだ。


俺は土に手を当てた。


温かかった。温かいものは今日も味方だ。味方の温度を手のひらで受け取って、胸の冷たさの上に置いた。温かさは冷たさを消さない。だが、上に載せることはできる。載せておけば、時間が経つ。時間が経てば、菌糸が食う。今日食えなくても、明日の微生物が齧る。


「……静かに」


自分に言った。ムクにも言った。畑にも言った。堆肥の蓋にも言った。


騒ぐと枯れる。花も、人も。感情も。


---


ここから先は、俺の知らない場所で始まった話だ。

だが距離があっても、匂いは先に届く。深層はそういう場所だ。


---


高木玄真の一行は、五名だった。


高木玄真。三門由良。戦闘員三名。


八雲慎吾の姿はなかった。


いつからいないのかを、高木は聞かなかった。由良も言わなかった。聞けば答えが返る。答えは、聞きたくない種類のものだ。口封じの音声が配信に乗った日の翌朝、八雲のデスクは空だった。引き出しも空だった。端末も消えていた。残ったのは椅子だけだった。


由良は、降下前に高木に言った。


「画面の中では、もう勝てません」


高木は黙って聞いた。


「スポンサーは全社撤退しました。凍結は継続中。登録者の減少は日に三万を超えています。掲示板では内部告発の噂が広まっています。残った支持層も離れます」


由良は数字を読み上げた。数字を読む声は冷静だ。冷静な声で、終わりの報告が続く。


「残った選択肢は一つです。現場に行って、“救出した英雄”の画を撮ること。深層で久遠洋に会い、彼を救い出す映像を撮れば、物語が変わります。物語が変われば、数字が変わります」


「リスクは」


「現場に出た瞬間、あなたは証拠になります。撤回はしません。ただし、行かなければ確実に終わります。行けば、画次第で逆転の可能性がある。可能性は低いですが、ゼロと低いは違います」


高木は由良を見た。由良の手が震えていた。端末を持つ手だ。端末を持つ手が震えるのは、由良にとって思考が震えるのと同じだ。それでも数字を読み続けるのが、この女の正気の処方箋だった。


高木が立ち上がった。


「行く」


一語だった。英雄の一語は重い。重い一語で、人が動く。動いた先が地獄でも、一語の重さは変わらない。変わるのは、一語の意味だけだ。


---


深層への降下は、重力と似ている。


最初は抗える。途中から抗えない。最後は落ちるだけだ。


高木玄真の一行は東ルートの脇道から入った。西ルートは前回の刺客が使った道で、監視が厚い。東ルートの本道は救援班が使っている。脇道は旧い。旧いが、由良が地図を持っていた。出所は聞かない。聞いても答えは一つだ。金だ。


第三層までは口数があった。


「人類のために」と高木が言った。戦闘員が頷いた。頷きは同意ではない。給料だ。


「皆を守る」と高木が言った。由良は何も言わなかった。何も言わない由良を、高木は見なかった。


第五層で声が減った。


空気が重くなる。湿度が上がる。壁が苔に覆われ、足元が滑る。携帯灯の白い光だけが視界を作る。


第六層で冗談が消えた。


「深層って意外と静かっすね」と戦闘員の一人が言った。言った直後、壁の苔が動いた。苔に似た甲虫が音を立てずに壁を降り、音を立てずに闇に消えた。戦闘員は二度と冗談を言わなかった。


第七層で、正義が消えた。


正義は酸素と似ている。濃いときは気にならない。薄くなると、なくなったことに気づく。気づいたときには、もう吸えない。


高木の足が遅くなった。疲労だけではない。足が先に進みたがらない。足は正直だ。頭より先に答えを出す。足の答えは「帰れ」だ。だが帰る場所は凍結されている。


由良が言った。


「匂いがします」


甘い匂い。温かい匂い。腹の底が勝手に反応する匂い。回復作物の匂いだ。深層にあるべき匂いではない。


由良の足が止まった。


「……ありえない」


由良の声に、初めて数字以外のものが混じった。驚愕だ。驚愕は数字で処理できない。処理できないものに出会ったとき、由良の声は裸になる。裸の声は震える。


次に音が来た。


ぽた。ぽた。


水の音だ。自然の滴りではない。管理された間隔。等間隔の水音は、人の手がある証拠だ。


そして光。


藻の光ではない。白い、針のような光が闇の中を走っている。古代ドローンの光だ。光が線を描いている。線は、何かの輪郭だ。


輪郭が、見えた。


土塁。低いが、きちんと積まれた土の壁。

水路。石と土壌改良で漏水を防いだ溝。光って流れている。

乾燥棚。骨と蔓で組んだ枠。薄切りの根が吊るされている。

発酵壺。甲殻片の器。蓋がされている。甘い匂いの源。

貯蔵穴。冷暗所。石と土壌改良で防水されている。

三区画の畑。根菜。葉物。実験。区画ごとに土の色が違う。


深層に、暮らしがあった。


高木の一行は、止まった。


止まったのは疲労ではない。理解が追いつかないのだ。地獄の底には地獄があるはずだ。地獄の底に畑があるのは辞書にない。辞書にないものを見たとき、人間は止まる。


戦闘員の一人が呟いた。


「……住んでんのかよ。ここに」


誰も答えなかった。答える言葉がなかった。


由良の目が、畑の構造を舐めるように走った。水路の線。棚の配置。土塁の高さ。発酵壺の位置。排水路の角度。すべてが「完成している」。完成しているだけではない。「稼働している」。稼働は完成より上だ。完成は止まれる。稼働は止まれない。


由良が言った。声が乾いていた。


「絵として、強すぎる」


「こっちがどれだけ言葉を積んでも、あの画に負けます」


高木が前に出た。


前に出るのは英雄の癖だ。前に出れば背が高い。背が高ければ画になる。画になれば数字がつく。数字がつけば正義になる。この循環で、高木玄真は帝国を築いた。


だが深層は、前に出る人間に優しくない。


土塁の手前で、靴底がぬるりと沈んだ。


粘る土。土壌改良を施された縁の土だ。知らない足を掴む土。刺客の足を止めた、あの土。


由良が即座に言った。


「足元。止まってください。ここは危険です」


高木は聞いた。聞いて、無視した。


無視したのは勇気ではない。傲慢だ。傲慢は深層で最も早く死ぬ性質だ。だが傲慢は自分では気づけない。


「久遠――!」


高木が呼んだ。


声は深層の湿気に絡んだ。思ったより飛ばなかった。重い空気は声を運ばない。地上で百万人を動かした声が、ここでは十メートルも飛ばない。


由良が小さく言った。


「声、通りません。ここは彼の環境です」


高木の拳が握られた。握られた拳は剣の柄を探す。だが剣はここで「勝ち」にならない。抜けても振れない。振れても届かない。届いても終わらない。ここはそういう場所だ。


高木がもう一歩、踏み込もうとした。


足が沈んだ。粘土が靴を包んだ。引いても抜けない。


高木の体が揺れた。英雄の体が揺れるのは、珍しい光景だ。珍しい光景を、ドローンは逃さなかった。古代の機械は几帳面だ。


そして――


土塁の外周に、影が立っていた。


ムクだ。


座っていたのが、いつの間にか立っていた。立つだけで、空気が変わった。圧というほど大げさじゃない。空間の質が変わった。同じ暗闇なのに、暗闇の密度が上がった。


琥珀色の目が、五人を見た。


見るというより、数えている。一人。二人。三人。四人。五人。数えて、値踏みして、結論を出している。結論は一つしかない。「大したことはない」だ。


高木がムクを見た。


見て、初めて足が正直になった。


足が「帰れ」と言った。今度は頭も同意した。だが粘土が靴を掴んでいる。帰れない。帰れない英雄は英雄ではない。ただの、足を取られた男だ。


戦闘員三人が、同時に一歩下がった。下がれたのは、まだ粘土の手前にいたからだ。高木と由良だけが沈んでいた。


由良が端末を見た。画面に数字が並んでいる。並んでいるが、どの数字も由良を助けてくれない。数字は味方のとき心強い。敵のとき残酷だ。今は無関係だ。無関係な数字は、ただの記号だ。


「……戻りましょう」

由良が言った。声が小さい。


「戻れない」

高木が言った。足が、ではなく、状況が、だ。戻れば終わる。進めば画が撮れるかもしれない。かもしれない、に賭けるしかない。


高木はもう一度叫んだ。


「久遠! 俺だ! 助けに来た!」


---


深層。


俺は畑の中にいた。


聞こえた。


聞こえないふりをしようかと思ったが、声は耳を選ばない。聞こえたものは、なかったことにできない。


「助けに来た」


嘘だ。


嘘だと分かるのは、匂いで分かるからだ。助けに来た人間の匂いと、画を撮りに来た人間の匂いは違う。助けに来た人間は汗の匂いが先に来る。走ってきたからだ。画を撮りに来た人間は整髪料の匂いが先に来る。身だしなみを整えてきたからだ。


高木の匂いは、整髪料が先だった。


俺は鍬を持ったまま、振り返らなかった。


振り返る必要がない。振り返ると、ドローンが正面の顔を映す。正面の顔は感情を映す。感情を映すと、相手に使われる。使われた感情は相手の画になる。


俺の感情は、俺の堆肥だ。他人の画にはさせない。


土に手を当てた。温かい。


「……水が先」


言った。いつも通りに言った。いつも通りに手順を回した。


干し根を裏返す。

水路の流量を確かめる。

発酵壺の蓋を指で押さえる。


押さえた蓋の下で、菌糸が仕事をしている。分解は続いている。感情も分解は続いている。だが高木の声が聞こえた瞬間、蓋の下の冷たいものが跳ねた。跳ねて蓋の裏に当たった。匂いが漏れた。


怒りだ。


怒りは普段、名前をつけない。名前をつけると育つ。育つと手順を壊す。手順が壊れると正気が壊れる。正気が壊れると畑が死ぬ。


だから名前をつけない。つけないが、ある。堆肥の蓋の下に、ずっとある。


俺を落とした。

戦死にした。

追悼で金を稼いだ。

刺客を送った。

そして今、「助けに来た」と叫んでいる。


畑の温かさの上に、冷たいものが載っている。温かさは冷たさを消さない。ただ上に載せることしかできない。載せて、時間をかけて、菌糸に食わせる。だが今、冷たいものが多すぎる。蓋が押されている。


俺は蓋を両手で押さえた。


比喩ではない。発酵壺の蓋を、両手で、物理的に押さえた。押さえる力が、そのまま感情を押さえる力になった。手が何かを押さえていれば、心も押さえられる。体と心は繋がっている。繋がっているなら、体から制御する。


「……静かに」


自分に言った。声が少し震えた。震えたのは初めてだった。


ムクの耳が、俺のほうを向いた。


琥珀色の目が俺を見た。値踏みではない。確認だ。「大丈夫か」と聞いている目だ。獣の目がそんなことを聞くのかは分からない。分からないが、俺はそう読んだ。読みたかったのかもしれない。


ムクの鼻先が、微かに動いた。


ふす。


一つだけ。短い鼻息。いつもの鼻息。


その音で、蓋が閉まった。


胸の冷たさが一段沈んだ。消えたのではない。沈んだだけだ。だが沈めば、手が動く。手が動けば、手順が回る。手順が回れば、正気が戻る。


ムクの鼻息が、俺の処方箋の一部になった日がいつだったのかは覚えていない。覚えていないが、今日もそうだ。


俺は蓋から手を離し、鍬を持ち直した。


土塁の外に、英雄が足を取られている。地獄の底の畑の前で、英雄の帝国が泥に沈んでいる。


見ていない。見る必要がない。


ドローンが映している。世界が見ている。俺が見なくても、世界が見ている。


俺がやることは、いつも通りだ。


畑を回す。

水を落とす。

根を育てる。


地獄の底の暮らしを、暮らし続ける。


それだけで、英雄が滑る。



久遠洋、享年なし。戦死扱い。ただし英雄が到達した。

到達した先は地獄ではなく、暮らしだった。

英雄は泥に沈み、農学者は振り返らなかった。

ムクは立っている。畑は回っている。

鍬は振られた。根は、下へ向かっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ