戦死扱い
人生には、なるべく遭遇したくない場面が三つある。
一つ、人気のお店に並んでいたら、自分の前の人で完売する場面。
二つ、上司が「君のためを思って」と人員整理の紙を差し出す場面。
三つ、仲間がカメラ向けの顔で「囮になれ」と言う場面である。
三つ目に関しては補足がいる。
なにしろ俺は今まさにその渦中にあり、補足でもしなければ正気を保てない。
俺の名は久遠 洋。
肩書は探索者。職業は【迷宮農学者】。
世間が「外れ職」と呼んで憚らない、あの不名誉なる称号の持ち主である。剣は振れない。魔法は唱えられない。唱えられるのは《土壌改良》と《魔力合成栽培》と《適応収穫》の三つだけであり、要するに「土をこねる」「種を甘やかす」「実をもぐ」という、農家の朝を圧縮したような技能に過ぎない。
こんな男が、なぜS級ダンジョン最下層の攻略パーティに加わっているのか。
答えは単純だ。
高木玄真が「連れていく」と言ったからだ。
高木玄真。
トップ攻略ギルド「セイバーズ」代表。国民的英雄。配信登録者数一千万の男。
カメラの前で泣ける。背中で語れる。正義を語れる。語彙の七割が「人類のために」で構成されている。残りの三割は「俺が背負う」と「皆を守る」だ。足すと十割になるが、それでいい。あの男の辞書には、それ以外の言葉がない。
――いや、一つだけあった。
「洋。お前が、時間を稼げ」
これだ。
最下層は、地上の常識が湿気で腐る場所だった。
そう表現するしかない。空気が重い。音が鈍い。息を吸うと肺の奥が痺れ、吐くと口の中に鉄の味が残る。魔力濃度が高すぎて、身体のあらゆる粘膜が「ここは人間の来る場所ではございません」と丁重に抗議している。粘膜というのは正直者だ。英雄の大義名分より、よほど信用できる。
ボスは巨大だった。
甲殻と角と、古い建物の柱のような脚を持ち、その脚が地面を踏むたびに、俺の内臓がせり上がった。一歩ごとに胃が口に近づく。二歩目で腸が抗議する。三歩目には、もはや人間の内臓配置として成立しないような心地がした。
俺の役割は明快だった。
前衛の後方で荷物を守り、薬草を抱え、魔力の霧を薄める素材を拾い、たまに地面を改良して足場を作る。要するに「便利な荷物持ち」であり、なんなら荷物のほうが俺より戦闘に貢献していた。
畑の話はしない。
畑の話をすると、玄真の眉間に縦線が入る。「戦場で土いじりの話をするな」という英雄の美学があるらしい。美学というのは便利なもので、他人の口を塞ぐのに刃物がいらない。
さて、戦いが崩れた。
英雄の美学のせいではない。単純に判断ミスだ。
甲殻の関節が開いた。
あの瞬間を、俺はおそらく一生覚えている。関節の隙間から肉が覗き、そこへ剣士が突っ込んだ。魔法が追った。火が走り、氷が刺さり、雷が焦がした。美しい連携だった。配信映えする見事な攻撃だった。視聴者は歓声を上げただろう。コメント欄は「神回」で埋まっただろう。
だがボスは、関節を閉じなかった。
逆に“裂いた”。
自らの甲殻を内側から引き裂くように開き、裂け目から黒い霧が噴き出した。霧は床を舐め、壁を這い、天井に届き、視界を奪った。
前衛の一人が膝をついた。
次の一人が喉を押さえた。
魔法職が詠唱を止め、両手で顔を覆った。
そして高木玄真が、一拍、遅れた。
たった一拍だ。心臓が一度打つ間の遅れだ。
だがダンジョンでは、一拍は一生分の重さがある。
遅れたものは取り返せない。取り返せないものは、誰かに押し付けるしかない。
「退く!」
玄真の声は、よく通った。
驚くほど“正しい声”だった。声量、音程、切迫感、そのすべてが計算されたように適切だった。この男は地獄の底でも“正しい声”が出せるのだ。それは才能かもしれないし、病気かもしれない。
「全員、撤退線へ!」
仲間が動く。隊列が崩れながらも後方へ流れる。
その流れの中で、玄真が振り返った。
俺と目が合う。
俺の肩には、配信カメラがある。
セイバーズの戦いを全世界に届ける小さな目だ。赤いランプが点滅している。今この瞬間も、数百万人がこの画角を見ている。
玄真は画角を理解している男だ。
理解しているから表情を作れる。
理解しているから言葉を選べる。
理解しているから――囮を選べる。
「洋。お前が、時間を稼げ」
言い方は丁寧だった。
「皆の命を守るために」という接頭辞すら付かない。そういう飾りは後で切り抜きにすればいい。配信には“間”というものがある。沈黙を足し、音楽を被せ、テロップを重ねれば、どんな台詞も英雄の決断に化ける。
この瞬間に必要なのは飾りではなく、命令の速度だ。
俺は頷いた。
こういうとき、人間は「嫌だ」と言えない。
正確に言えば、言う暇がない。言えば状況が変わると信じるほど、俺は若くも無邪気でもなかった。二十数年生きてきて学んだことがあるとすれば、それは「断っても結果が変わらない場面では、断るエネルギーを別に回せ」という、およそ英雄譚には似つかわしくない処世術だけだ。
「了解」
口から出たのは、事務の返事だった。
自分でも驚くほど温度のない声だった。
恐怖がなかったわけではない。恐怖はあった。腹の底に、冷たくて硬い塊としてあった。だがそれは「怖い」という感情ではなく、「ああ、これは怖いという状態だな」という観察に近かった。
感情と、感情の観察は、似ているようで全く別のものだ。泣いている自分を見つめるもう一人の自分がいるとき、人は泣いているのか、見つめているのか。俺はたぶん、見つめている側の人間だった。昔からそうだ。土を触っているときだけ、その二人が一人に戻る。
玄真は一瞬だけ目を細めた。
感謝なのか、安堵なのか、あるいは「思ったより手間がかからなかった」という計算の表情なのか。
分からない。
分からないまま、英雄は踵を返し、仲間を引き連れて撤退線へ走った。
残されたのは俺とボスと、黒い霧と、赤く点滅するカメラだ。
なかなかに寂しいメンバーである。合コンなら成立しない。
黒い霧が迫る。
ボスの脚が鳴る。
床が震え、腹の底が震え、世界が少しだけ遅くなる。
死ぬ間際の走馬灯というものを、俺は信じていなかった。
だが世界が遅くなるのは本当だった。時間が引き伸ばされて、一秒の中に妙な余白が生まれる。その余白で、人間は余計なことを考える。
――ああ、今朝食べた味噌汁は美味かったな。
――死んだら、ギルドの実験畑の苗は誰が水をやるんだろう。
――玄真、お前の涙は何秒で落ちるんだろうな。
俺の足元に、裂け目があった。
床に開いた深い穴。ボスの一撃で地殻ごと砕けた断層だ。黒い霧がそこへ流れ込み、吸い込まれている。地獄の排水溝だ。もしくは、世界の雑排水がここに集まっているのかもしれない。
ボスの影が落ちた。
甲殻の脚が、頭上で振り上げられる。
俺は咄嗟に地面に手をついた。
戦うためではない。そんな技能は持っていない。
ただ、土に触れたかった。
触れた瞬間、世界が変わった。
いや、変わったのではない。“分かった”のだ。
湿り気。硬さ。毒の混ざり方。魔力の流れ。地層の重なり。水脈の方向。
戦闘の勝敗は分からない。分かったことは一度もない。
だが土の機嫌なら分かる。二十数年、ずっとそうだった。
この土は――生きている。
その判定を下した0.5秒後、甲殻の脚が俺の足場を砕いた。
落ちる。
世界が裂け目に吸い込まれ、上が遠くなり、光が細くなる。
英雄の背中も、仲間の声も、カメラの赤い点滅も、すべてが頭上へ遠ざかっていく。
最後に見えたのは、高木玄真が振り返り、カメラへ向けて顔を作るところだった。
あの男のことだ。涙は三秒で落とすだろう。沈黙は二秒入れるだろう。そこへ「彼は――名誉の戦死だ」と、ちょうどいい声を乗せるだろう。
三門由良が裏で台本を整え、テロップを組み、切り抜きの導線を作るだろう。
「涙は3秒、沈黙は2秒。そこで“正義”を入れます」――あの女の口癖が、暗闇の中で妙に鮮明に蘇った。聞こえたというのは嘘だ。ただ思い出しただけだ。
――なるほど。
俺は死んだことになるらしい。
人は落下中に、実に多くのことを考える。
航空力学者によれば、自由落下中の人間の思考速度は通常の三倍になるそうだ。嘘だ。そんな研究はない。だが俺の体感では本当だった。
一、痛そうだ。
二、死ぬかもしれない。
三、死ぬとしたら、実験畑の三列目のカブが収穫前なのが心残りだ。
四、今の心残りの優先順位はおかしくないか。
五、おかしい。だが本心だ。
人間の本性は、落下中に露呈する。
俺の本性は、カブだった。
暗闇の底に、地面があった。
叩きつけられた。
が、死なかった。
痛みはある。全身を殴られたような鈍痛が骨の芯まで響いている。だが骨は折れていない。肺は潰れていない。
おかしい。この高さから落ちて、無傷はあり得ない。
身体を起こしながら、手のひらに残る感触に気づいた。
土だ。さっき、落下の直前に触れた土だ。
あのとき《土壌改良》が――起動していたのか。意識したわけではない。ただ「触れた」だけだ。だが指先にはたしかに、スキル発動時の微かな熱が残っている。
深層は魔力が濃すぎて、スキルが意思とは無関係に立ち上がることがある――と、どこかで聞いた。
落下点の地面が、ほんの少しだけ軟らかく“なっていた”。崩落で溜まった土の堆積が衝撃を受け止め、そのうえで改良が追い打ちをかけたのだろう。
偶然か。必然か。
どちらでもいい。生きているなら、それでいい。
俺は立ち上がった。
闇だ。
何も見えない。
頭上は遥か遠く、裂け目から差していた光も、もう細い糸ほどしかない。
だが匂いは分かった。
水の匂い。
毒の匂い。
土の匂い。
そして、遠くでこちらを嗅いでいる“何か”の匂い。
恐怖の塊が、腹の底でまた動いた。
冷たく、硬く、確実にそこにある。
だが俺は、その塊を観察する側の人間だ。
「……静かに」
自分に言い聞かせる。
騒ぐと枯れる。花も、人も。
目を閉じた。どうせ開けても暗い。なら閉じたほうがいい。
手のひらを地面に当てる。
深層の土は、異常に肥えていた。魔力が濃すぎて、微生物が過剰に活性化している。毒もある。瘴気もある。だがそれは“害”ではない。扱い方の問題だ。
農学者の指が、勝手に判定を下す。
“使える”。
なら――畑にする。
馬鹿げている、と思う。
S級ダンジョンの最深部で、仲間に見捨てられ、英雄に殺されかけ、底の見えない暗闇に落とされた男の最初の決断が「畑にする」だ。英雄譚なら剣を拾うところだ。復讐劇なら拳を握るところだ。
俺は土を握った。
握った土は、温かかった。
「水が先」
誰に聞かせるでもなく呟く。
酸素は――まだある。薄いが、ある。
水は――匂いの方向にある。毒が混じっているだろうが、濾過すればいい。
安全地帯は――自分で作る。
熱源は――この土の発酵熱が使える。
チェックリストが頭の中で回り始めた。
これは、畑を始めるときの手順だ。
場所を見て、土を測り、水を確かめ、日照を計算する。
日照がない? なら魔力光源を探す。
道具がない? なら作る。
種がない? なら、この土に生えている雑草を使う。
手順がある限り、人間は正気でいられる。
絶望は、手順を失ったときに来る。
俺にはまだ手順がある。
上では今頃、英雄が泣いているだろう。
美しい涙だろう。視聴者を震わせる涙だろう。コメント欄は「英雄の苦悩」で埋まり、スパチャが飛び、切り抜き動画のサムネイルには「最愛の仲間を失った男の慟哭」とフォント30pxで書かれるだろう。
下では、俺が土を握っている。
泣いてはいない。
泣く暇があったら、水を探す。
嘆く暇があったら、土を測る。
恨む暇があったら――いや、恨む暇は少しだけある。だがそれも、カブの心残りに比べれば些細なものだ。
俺は暗闇の中を歩き出した。
一歩ごとに、足の裏で土を読む。硬さ、湿り気、温度、魔力の密度。
深層の闇は深い。
だが、土は生きている。
「……まあ、やる」
久遠洋、享年なし。
戦死扱い。ただし生存中。
職業、農学者。




