15 帰るべき場所
それから一週間が経ち、半月が経ち、一カ月近くが経とうとしているけれど、ルキウスのくろねこ亭通いは続いている。
最近ではルキウスもくろねこ亭の常連たちと顔見知りになり、なぜかみんなに『閣下』と呼ばれるようになった。
ルキウスの素性を知るのはヘレナさんだけで、実はこの国の宰相だということは誰も知らないのだけれど、貴族らしいということはみんな察していて、『貴族』→『身分の高い人』→『閣下』という呼び名に落ち着いたようである。
言い得て妙というか、そのものズバリというか。
ルキウス自身、「民の話を直接聞く機会なんて今までなかったからな。シアのおかげで、貴重な体験ができているよ」と満足げである。
この頃になると、さすがにわたしも、ルキウスの想いを疑い続けることが難しくなっていた。
だってこの一カ月近く、ルキウスは毎日わたしに会いに来ていろんな話を聞きたがり、甘いセリフを繰り返しささやき、狼狽えるわたしを見てうれしそうに微笑み、そしてまた甘いセリフを吐くという日常を過ごしているのだもの。
その行き過ぎた愛情表現に、演技だったらここまでする必要もないのでは、という気がしてくる。もしもこれが全部演技だったとしたら、それはそれでもうあっぱれとしか言いようがないのだけれど。
しかも、その間、ルキウスが未来を予知する力のことを口にしたことは一度もなかったのだ。
そういう力があるのかどうかを直接確認することもなければ、それとなく真実を引き出そうとする気配もない。『力』のことなどすっかり忘れているようなその態度は、次第にわたしの警戒心を緩めていく。
ただ。
この生活が一カ月近く続き、それなりに安定している今、公爵邸に帰るタイミングがもはやわからない、というか。
くろねこ亭で働く時間は楽しいし、ルキウスが毎日会いにきてくれるのも日課として定着してきたし、だったらこのままでいいのでは、という気持ちにもなってくる。もちろん、そんな戯れ言が通用しないことも、わかってはいる。
ヘレナさんはこうなることを見越していたのか、以前こんなことを言っていた。
『どんな事情があろうと私がシアちゃんを引き受けると決めたんだから、あんたさえよければずっとここにいてくれていいんだよ。でも、もしもこの先、シアちゃんがあの旦那のところに帰りたいと思うようになったとき、ずっと意地を張り続けたままだと帰りにくくなっちまうからね。それだけは注意するんだよ』
意地を張り続けているつもりはなかったのだけれど、こうなってくるとこれからどうしたものかと思い悩んでしまう。
そんなときだった。
「奥様」
ルキウスの猛攻の間を縫うように、時々わたしの様子を見にくるサラが渋い顔をして言った。
「旦那様からは何もうかがっていないと思いますので、私から言っちゃいますけど」
「な、なんなの、いきなり」
「オディウムの国王陛下が、近々この国を訪れることになったそうです」
「……え?」
思いもよらないその言葉に、わたしは愕然とする。
「……陛下が、来るの……?」
「そうらしいです。国交が樹立され、それを祝して輿入れされた奥様の様子が心配だということで、オディウムのほうから訪問を打診してきたらしく」
「……何よそれ……。向こうにいた頃は、一切かかわりを持とうとしなかったくせに……」
「そうなのです。オディウム王家の所業を知る私としても陛下の訪問には何か裏があるのでは、と思ってしまうんですけど、この国の人たちには知る由もないことなので。病弱な娘を心配する心優しい父親という認識のもとに、陛下の株も爆上がりだそうです」
「ちょっと待って。サラは病弱設定のことを知っていたの?」
「まさか。旦那様から聞いて初めて知りましたよ。向こうの国の浅はかさに失笑してしまいましたけど」
「そうよね。でもその病弱設定が、ここで生きてくるなんて」
まったく、なんだか猛烈に腹立たしい。人のことをなんだと思っているんだか。
「でも、ルキウスはそんな大事なことをどうしてわたしに教えてくれないのかしら」
ふと不思議に思ってつぶやくと、サラは憮然とした様子で答える。
「奥様のために決まってるじゃないですか」
「わたしのため?」
「だって、陛下が来るとわかったら、奥様どうします?」
「そりゃあ、こんなところでのほほんとしてる場合じゃないし、公爵邸に帰るわよ。わたしがいないとなったら、大問題になるでしょうし」
わたしが公爵邸から逃げ出したことは、すでにこの国の王家にも知られている。公爵家がすぐに大々的な一斉捜索を始めたこともあり、隠しておくことはできなかったのだ。
ただ、ルキウスが「絶対に見つけ出すから、しばらくは黙認してほしい」と伯父である陛下に頼み込み、わたしの失踪については公になっていないという。
「陛下が来るとわかったら、真面目な奥様は当然公爵邸に帰ると言い出すでしょう? だから旦那様は言いたくなかったのですよ。母国で奥様を冷遇していた張本人に会わせることになるのも、気が進まないようですし」
この一カ月近くの間に、わたしはオディウムでの生活について、ほとんどのことをルキウスに話していた。
だから離宮でのことはもちろん、父親である国王陛下とはどんな関係性だったのか、きょうだいたち、とりわけ二人の姉から何をされ、どんな扱いを受けてきたのかということも、ルキウスは知っている。
その一つひとつに驚き、憤り、「もっと早くに知っていたら、シアをオディウムから救い出せたのに」などと心底悔しそうに口走るルキウスに、わたしの心はすでに何度も救われていた。
「もうわかってると思いますけど、旦那様の生活はいまや奥様が中心ですからね。奥様に会いに行く時間を確保するために、公務の段取りが組まれているといった状況ですし。旦那様の行動基準は、すべて奥様なのですよ」
「それは、まあ、なんとなく……」
「旦那様はこれ以上奥様の気持ちを無視するようなことはしたくないと仰って、オディウム王のことも伝えずになんとかやり過ごそうとしておいでなのです。でもさすがにそれは、無理があるんじゃないかと思いまして」
「それはそうよ。陛下が来るのに、わたしに会わせないなんてできないでしょ。下手したらわたしが逃げ出したことがバレて、その責任を追及されたうえ外交的に不利な条件を突きつけられる可能性だって……」
「そうした諸々も踏まえまして、私のほうからお伝えした次第です」
仕事のできる侍女はそう言って、なぜかにっこりと微笑む。
サラのことだもの。どうせ私の気持ちなど、とっくにお見通しなのだ。
だからその日の夕方、くろねこ亭を訪れたルキウスに向かって、わたしはさらりとこう言った。
「そろそろ帰ろうと思うのですけど」
あまりにもあっさり言ったものだから、ルキウスははじめ、何の話なのかピンとこなかったらしい。
「帰るって、どこに?」
「公爵邸ですよ」
「……え?」
たっぷり十秒間ほど固まったルキウスは、言葉の意味がわかって大喜びするかと思いきや、だいぶ訝しげな顔になった。
「……もしかして、何か聞いたのか?」
「聞きましたよ。オディウム王が来るのでしょう?」
「そうだけど、シアは気にしなくていい。会わせるつもりもないし」
「そういうわけにはいきませんよ。あの人のことですから、万が一この状況を知られたら何を言われるかわかりません。わたしだって、この国に不利益をもたらすようなことはしたくないですし」
「だとしてもだ。俺はこれ以上お前に嫌な思いをさせたくないし、こんな形で帰ってきてほしいわけじゃないんだ。ちゃんと自分の意志で、自分のタイミングで帰りたいと思ってほしいから……」
「帰りたいです、わたし」
真っすぐに、ルキウスを見つめる。
この想いに嘘はないのだと、わかってほしくて。
「本当はあなたに見つかったときから、いつまでもここにいるわけにはいかないとわかってはいたんです。でも帰るタイミングがつかめなくて、ずっと甘えていました。ごめんなさい」
「シア……」
「あなたにもひどいことをたくさん言ってしまったし、たくさん傷つけたと思います。待たせてしまって、ごめんなさい。でもわたしのわがままにとことんつきあってくれて、うれしかった。ありがとう、としか――」
言いかけた途端。
わたしはするりと伸びてきたルキウスの腕に、強く抱きしめられていた。
「……ほんとにいいのか?」
少し掠れたルキウスの声が、耳元で低くささやく。
「帰ったらもう、二度と逃がさないし放してやらない。それでもいいのか?」
確かめるように、ルキウスが顔を上げる。
焦がれるような瞳は、ただひたすらわたしの答えを待っている。
――――わたしの心など、とうの昔に決まっていたのに。
「もう、逃げるつもりはありませんから」




