007:北大陸からの願い
■第一章:境界の親書
帝国歴327年。南大陸ローレンシアを統べるアーンレイム帝国の静寂を揺らす、一通の親書が届いた。
発信元は北大陸ユニアシアの強国、ルミアトリア王国。その内容は、第一王女を帝国傘下の十一王国のいずれかへ嫁がせたいという、正式な婚姻申請であった。
帝都アーンレイムの中枢「密議院」の官僚たちは、届いた羊皮紙を無機質な手つきで検分した。彼らにとって、これは情愛や縁談の類ではない。
「文明接続の試み、ですね」
密議院の筆頭官が、報告書に帝国語の端正な文字を刻む。北の大陸が武力で届かぬ帝国に対し、血統によって内部へ食い込み、その高度な魔導科学を覗き見る「窓」を作ろうという腹積もりであることは明白だった。
報告を受けた第八代皇帝リーアム・デル・ハウウェル・ビーノ・バナキは、玉座に深く背を預けた。リーアムは有能な皇帝であり、制度を信頼しつつも、この申請が帝国の「検疫」に触れる事案だと即座に断じた。
「即座の許可は秩序を汚し、即座の拒否は彼らに無用な試行錯誤を許す。密議院を通じて”上”の解答をいただけるように手配せよ」
諮問の火は、帝都の喧騒から離れた場所で、静かに灯った。
一般の帝国民は知らない。自分たちの王国の王が、かつて北大陸で「オリハルコン」以上のランクを誇った伝説の冒険者、そして建国時から姿を変えぬ不老の「存在」が作った国々を統治させるために慎重に選ばれていることを。十一人の初代選帝王たちは現在、冒険者時代の名も、初代王としての名も一切捨て、偽名で活動している。彼らは十年に一度はその名を変え、帝国の深部で分析を行い、あるいは各地を旅行して遊ぶ、この世界の絶対的権力者である。
帝都の片隅、熟成した酒の香りが漂う酒場の個室。
「聞いたか? 北の連中がまた面倒なことを持ち込んできたぞ」
現在は偽名で隠居人を装う巨漢が、一般流通していない極上の熟成酒を喉に流し込んだ。
対面に座る指先でグラスを弄ぶ男も、静かに応じる。
「……ルミアトリアか。血を混ぜ、情報を抜き、数世代かけて侵食する。彼らの常套手段だ」 「どうする? 追い返すのは簡単だが」
「いや。帝国が求めるのは秩序だ。ルミアトリアの王女に、帝国の重みを教えてやればいい。ここへ来るということは、自らの文明を捨てるに等しいのだと」
北大陸の人々にとって、帝国への畏怖は理屈ではない。
かつて帝国歴149年、トヴァール王国が他国の侵攻の危機に瀕した際、帝国は「皇帝の名の下に」救援を送った。荒れ狂う海の魔物を無視して現れた巨大船から、シルバーからミスリル級の技量を持つ10万の人間化ベアロン兵、そして兵站を担う10万、計20万の軍勢が整然とトヴァールの国境線に姿を現したのだ。
それを見た侵攻軍は一合も剣を交えることなく軍を引いた。
アーンレイム帝国はその出兵の代償として、トヴァール王国の領土を割譲され、それが現在のアーンレイム港国となった。
窓の外では、夕刻の帝都が穏やかな光に包まれていた。
魔力によって照らされた大通りを、平和を疑わぬ市民たちが行き交う。北の大陸の王が抱く野心も、この完成された静寂の前では、水面に落ちた一滴の雫に過ぎなかった。
物語は、事件が起きないはずのこの地で、一人の王女が「世界の真実」に触れるところから動き始めようとしていた。
■第二章:断絶の対価
ルミアトリア王国が送り出した親書への返答は、通常通り帝都アーンレイムからではなく、北の大陸の「出先機関」であるアーンレイム港国から届けられた。
皇帝の蝋封が成されたそれは、婚姻の快諾でもなければ、拒絶でもない。ただ一通の「転化の誓約書」であった。
帝都の深部、歴史の重層に潜む十一人の選帝王たちは、静かにその結論を共有していた。
「帝国は、他文明と混ざることで滅びるのではない。他文明に『我々は帝国を理解した』と思わせた瞬間に、その均衡が歪むのだ」
かつて国家の崩壊を、神話の時代にその目で見てきた彼らの判断は冷徹だった。北の王女が抱く「対等な婚姻」という幻想は、帝国の秩序を維持するための強固な「検疫」によって徹底的に解体されることになる。
提示された「条件」
ルミアトリア王国の宮廷に届けられた書状には、北の大陸の常識を根底から覆す四つの条件が記されていた。
一、王権の完全なる剥離
王女は、ルミアトリア王家の「外交代表」としての資格、および王位継承権を永久に放棄しなければならない。帝国へ入るその日から、彼女は「北大陸国家の王女」ではなく、ただの一人の「帝国国民」となる。以後、彼女に適用されるのは帝国法のみであり、実家の庇護は一切及ばない。
二、血脈の断絶
婚姻によって生まれる子は、例外なく帝国国民とされる。北大陸の王家との血縁関係は公的に一切記録されず、将来にわたって北大陸の王位に対する継承権を主張することは認められない。
三、不可視の境界
王女が帝国内で知ることができる情報は、帝国法に従い、嫁ぎ先である「十一王国」の行政レベルに限定される。帝都の基幹技術、帝国行政の運用、および皇帝領の実態――帝国の「真実」を、彼女が生涯知ることはない。
四、受け入れ側への枷
この婚姻を受け入れる王国の王に対しても、帝国による監査頻度の増加と、次代継承権の一部制限が課される。
ルミアトリア王国の執務室で、書状を読み終えた重臣たちは絶句した。
「……これは婚姻ではない。我々の至宝である王女を、名もなき平民として差し出せと言っているのか」
「条件三に注目しろ。彼女は帝国へ行っても、帝国の『核』には触れられない。我々に送れる情報は、ただの地方都市の記録に過ぎなくなるのだ」
しかし、同時に彼らは理解していた。この異常なまでの高慢さと冷徹さこそが、アーンレイム帝国という不可解な存在の「正体」であることを。
その頃、アーンレイム港国の巨大な接岸壁には、一隻の輸送船が横付けされていた。全長300メートルを超えるその「鉄の島」は、ルミアトリアの王女を静かに待っている。
もし彼女がこの誓約に署名すれば、二度と故郷の土を踏むことはない。彼女が手に入れるのは、王女としての栄光ではなく、完成された秩序という名の、果てしない「孤独な帰化」であった。
■第三章:検疫の宣告
ルミアトリア王国の宮廷に届けられた「転化の誓約書」は、北大陸の支配層にとって、冷水を浴びせられるどころか、存在そのものを否定されるに等しい衝撃であった。
彼らが期待していたのは、強大な帝国との「血の紐帯」であり、それによってもたらされる技術、富、そして大陸間交渉における絶対的な優位性であった。しかし、帝国が突きつけた四つの条件は、そのすべてを根底から叩き潰すものであった。
1.条件の「本当の意味」
帝都の深部、偽名で隠遁生活を送る初代選帝王の一人は、北大陸から届くであろう悲鳴のような抗議を予測し、皮肉げに口角を上げた。
「これは婚姻の許可証ではない。拒絶条件だ。それも、ただの拒否ではない。北大陸に対し、自分たちがどれほど無力で無知であるかを突きつけるための、残酷なまでの儀式だ」
帝国の論理は一貫している。北大陸の王女という「異物」を受け入れるにあたり、帝国はその背景にある政治的意味、外交的思惑、そして何よりも「北の文明の残滓」をすべて削ぎ落とすことを要求した。
彼らは静かに宣言しているのだ。
「来るなら来い。だが、帝国に『意味』を持ち込むな。お前たちの王冠も、歴史も、野心も、このローレンシアの土を踏む前に捨て去れ」と。
帝国にとって、レイマンス王国以外の北大陸との婚姻は「友好」という名の善意を装った「文明の侵食」に他ならない。それを許容することは、数百年の時をかけて積み上げられた帝国の均衡を歪ませる病原菌を招き入れることと同義であった。
2.北大陸側の混乱と戦慄
ルミアトリア王国の重臣たちは、書状に記された「帝国各王からの返答」を読み進めるうちに、さらなる絶望の淵に立たされた。
そこには、彼らの「高貴なる血統」への信仰を、真っ向から否定する記述があったからだ。
『アーンレイム帝国、および十一王国の各王は、血統を軽視するものではない。しかし、皇帝、および次代の支配者たる代理の選定において、血筋は絶対の条件ではない。我々が求めるのは、厳密な選考を勝ち抜く能力と、統治者としての歪みなき人間性である』
この一文は、王家の血さえ引いていればその立場が保証される北大陸の価値観を無残に粉砕した。帝国側は、王女の血を受け入れる用意はあると述べつつも、こう付け加えた。
『その血統が次期の王になるとは限らない。帝国の王とは、皇帝が庇護するべき一億の国民の一人に過ぎず、その役割は特権ではなく重責である。王女が産む子もまた、帝国国民の一人として一からその資質を問われることになるだろう』
これを見たルミアトリアの王たちは理解した。自分たちが「至宝」として送り出そうとしていた王女は、帝国へ渡った瞬間に、文字通り「ただの人間」へと格下げされるのだ。北大陸での彼女の価値は、帝国という巨大なシステムの前では何の効力も持たない。
帝国は、婚姻すらも支配の手段として扱わない。彼らにとって、他国との血縁など、システムの末端に生じる誤差のようなものに過ぎない。その事実こそが、北大陸の諸国家にとって、いかなる軍事力よりも恐ろしい「化け物国家」の片鱗であった。
3.公式判断と文明の断絶
第八代皇帝リーアム・デル・ハウウェル・ビーノ・バナキは、密議院から提出された最終的な公式判断文に目を通した。その内容は、帝国の姿勢を象徴する冷徹な総括であった。
「アーンレイム帝国は、他国との友好を拒まない。だが、帝国の時間、血統、そして未来に干渉する行為は、いかなる善意を装っても許可しない。帝国へ入る者は、過去を捨て、帝国の秩序という海に溶け込む覚悟を持つべきである」
皇帝リーアムは制度的に冷静であり、密議院はこれを一つの「危険事象」として淡々と処理した。そして、その背後にいる初代十一選帝王たちは、これを「文明防疫」という観点から完全に制御下に置いた。
この婚姻騒動は、帝国にとっては最初から「脅威」ですらなく、日常の行政手続きの一環に過ぎなかった。しかし、この一件を通じて北の大陸は、自分たちがどれほど帝国という存在から遠ざけられ、拒絶されているかを思い知ることとなった。
アーンレイム港国に横付けされた全長300メートルの巨大客船は、依然として沈黙を保ったまま岸壁に鎮座している。
もし王女がこの「文明の自殺」とも呼べる誓約に署名すれば、彼女は北の大陸の歴史から完全に抹消される。帝国は扉を開いているが、その先にあるのは、北の住人が決して理解することのできない、永遠に閉じられた完成された世界であった。
■第4章:王冠の解体
1.王女本人の反応――「拒絶」ではなく「解体」を突きつけられた理解
ルミアトリア王国の第一王女は、帝国から届けられた返答を読み終えた瞬間、周囲が予想だにしなかった反応を見せた。彼女を包み込んだのは、屈辱による激昂ではなく、静かな「安堵」であった。
北の大陸の基準では、血統そのものを理由に縁談を拒まれることこそが最大級の拒絶である。だが、帝国は血を受け入れることは拒まなかった。ただ、その血が持つ「権威」という名の飾りを剥ぎ取ったに過ぎない。
しかし、その直後に訪れたのは、彼女の自我の根底を揺さぶる戦慄であった。
「王妃になれる可能性はある。王の母になる可能性もある。……だが、それを誰も保証せず、問題にもしていないのね」
「そして、帝国国民には絶対に成れる。あの理想と呼ばれる国の」
王女はここで初めて、帝国の思想に真に接触した。自分は「王女」として評価されたのではなく、「一人の人間」として、厳しい条件付きで検討されたのだ。これは北大陸の価値観では最大級の侮辱であると同時に、王女個人にとっては、これまでに感じたことのないほど恐ろしく、そして抗いようもなく魅力的な思想であった。
数日後、彼女は混乱する側近たちを前に、ぽつりと独白した。
「あの国では、王の子であることが『資格』ではない。……それなら、私は何を持って向こうにいくのかしら」
以後、王女は自らの血統を語ることを止めた。代わりに、彼女は貪るように帝国史を、その統治思想を求め始めた。
2.ルミアトリア国王と貴族たちの混迷
一方で、王女の父であるルミアトリア国王と貴族たちの反応は、無残なものであった。
国王は、愛娘を送り込むことで帝国を動かす「梃子」を手に入れるつもりであったが、突きつけられた条件は、その梃子を根元から折るものであった。
「継承権の放棄、外交代表資格の剥奪……これでは王女を人質に差し出すのと変わらん。いや、人質としての価値すら、帝国は認めていないのだ」
重臣たちは憤慨し、あるいは頭を抱えた。彼らにとっての婚姻は「取引」であり「投資」である。投資した血が、次代の”帝国の血を持つルミアトリア王”という配当を生まないことが確定している。そして帝国の次王という結果も確定したものではない以上、この婚姻は政治的な「失敗」でしかなかった。
ルミアトリアの宮廷内では、次第に王女を「政治的に危険な存在」と見なす空気が醸成されていった。帝国の思想に汚染された、あるいは利用価値を失った娘。彼女を送り出すことは、もはや国家の繁栄のためではなく、帝国の怒りを買わぬための「供物」に近い意味合いへと変質していった。
3.近侍の覚悟と帝国行きの決意
混乱を極める宮廷の中で、王女だけは一点を凝視していた。
彼女の最も近くに仕える近侍は、王女の瞳に宿った新しい光に気づいていた。それは、生まれ持った宿命に従う者の目ではなく、自らの足で未知の秩序へ踏み出そうとする者の目であった。
「姫様、本当によろしいのですか。噂に聞く”巨大な鉄の島(客船)”に乗れば、二度とこの国の風を浴びることは叶いません」
近侍の問いに、王女は淡く、しかし確かな微笑みを返した。
「ええ。私は、私が何者でもなくなる場所へ行きたいの。そこで、一人の帝国国民として、自分の価値を確かめてみたい」
王女は自ら誓約書に署名し、北の大陸の王冠を脱ぎ捨てた。
彼女の決意は、北大陸の貴族たちには「正気ではない」と映り、帝都の選帝王たちには「興味深い実験体」と映った。
■第5章:思想の侵食
1.王女の近侍・教育係の反応――理解不能と、静かな恐怖
帝国からの返答を最も身近で接した近侍や教育係たちにとって、その内容は理解の範疇を超えた悪夢であった。彼らが生涯をかけて守り、支えてきた「王族」という存在の定義そのものが、無機質な事務文書によって解体されたからである。
血統が統治の根拠ではない。
王すら「皇帝に庇護される民の一人」に過ぎない。
王位とは「選ばれる役職」であり、所有物ではない。
長年、王女の傍らで帝王学を説いてきた老教育係は、震える手で密かに記録を残した。
「この国――アーンレイム帝国では、王冠は祝福ではない。王であることは役割であり、義務であり、そして何よりも『失格しうるもの』なのだ」
彼らが最も恐れたのは、帝国が王女を拒絶することではなかった。王女が帝国の思想に染まり”ほぼ無いであろう可能性”である、帰国後に「王権の絶対性」を疑い始めること。そして何より、王女が「王族であることを誇らなくなること」であった。
その恐怖は、現実のものとなる。王女の瞳から選民意識が消え、代わりに未知の秩序に対する深い納得が宿るのを見た時、近侍たちは言葉を失った。主君が「納得してしまった」という事実こそが、彼らにとって最大の敗北であった。
2.北大陸強国・王家中枢の反応――外交的敗北の自覚
ルミアトリア王国の国王、宰相、そして貴族院はこの返答を極めて重く受け止めた。公式には「帝国の高度な統治思想に敬意を表する」という声明を出したものの、非公式の会合では重苦しい沈黙が支配した。
「この婚姻は、同盟には繋がらん」
宰相は、卓上に広げられた「条件」を指して断言した。
「血縁による影響力の行使は不可能だ。帝国は王家という存在そのものを、特権階級として見ていない。彼らにとって、我々の王家は商人の家系や学者の家系と同列なのだ」
これは敗北宣言であった。武力や経済力での衝突ではなく、より高次の「思想の階層」における敗北である。北大陸が誇る千年の歴史も高貴な血も、帝国のシステムの前では一つの「変数」にまで矮小化される。
帝国は婚姻すら支配の道具にしない。その圧倒的な「無関心」と「公平さ」こそが、北大陸の支配者たちにとって最大の脅威であった。
3.北大陸全体の変化――侵食の始まり
この一件は、ルミアトリア一国に留まらず、北大陸全体の空気をも変え始めた。
これまで「神に選ばれた血」として君臨してきた諸国の王族たちは、南に座す巨大な影を意識せざるを得なくなった。自分たちが絶対だと信じていた統治の根拠が、海を隔てた先では「効率と適性」という冷徹な基準で計られているという事実に。
「帝国は王女を、一人の人間として検討した」
その噂は、北大陸の冒険者や下層階級の間にも、密かな熱を持って広がっていった。それは支配層にとっては「秩序の崩壊」への序曲であり、虐げられた者たちにとっては「別の可能性」への光でもあった。
■第六章:北大陸諸国全体への波及――静かな恐慌と、模倣の始まり
1.流布される「帝国の真実」と疑念の種
ルミアトリア王国の婚姻申請に対する帝国の返答は、やがて内容を歪められながらも、北大陸全土へと流布していった。その情報は、物理的な侵略よりもはるかに深刻な動揺を諸国の支配層に与えた。
「帝国では、王の血は意味を持たないらしい」
「王位は世襲ではなく、適性で選ばれるらしい」
「皇帝ですら、何もしないことこそが理想とされる治世があるらしい」
これらの一端が伝わるたびに、北大陸で起きたのは暴動や革命ではなかった。それは、より根深く、静かな「疑念」であった。人々は自らの社会の根底にあるもの――血統の絶対性、世襲の正当性――を疑い始めたのである。
王とは何か。血統とは何か。自分たちの社会は、南の巨大な帝国に比べて、あまりに非合理的で前時代的なのではないか。そんな問いが、一部の若い貴族や学者の間で密かに囁かれ始めた。
彼らは僅かに伝え聞く帝国の制度を熱心に研究し、模倣を試みようとした。しかし、研究を進めるほどに、彼らは絶望的な結論に突き当たることになる。
「真似はできない。なぜなら、あれは単なる制度ではなく、数百年かけて積み重ねられた『信頼』と、それを支える圧倒的な『余力』の結果だからだ」
2.密議院の評価と初代選帝王の冷徹な視点
北大陸に広がるこの混乱を、帝都の密議院は完全に予測し、冷徹に観察していた。彼らにとって、他国の価値観が揺らぐことは「計算通り」の事象に過ぎない。密議院による公式の内部評価は、驚くほど簡潔であった。
・王女:可塑性あり。教育対象として有望。
・王家:思想的適応不可。現状維持。
・北大陸:精神的未熟。まだ500年は同じ場所に留まる。
ある初代選帝王は、滞在している地方都市の宿で、私的な記録にこう書き残した。
「血を捨てられぬ者は、血に縛られ続ける。我々はそれを否定しない。ただ、帝国の未来には不要だ」
彼らにとって、北大陸の王たちが必死に守ろうとしている「特権」や「歴史」は、進化の過程で脱ぎ捨てるべき古い殻のようなものに見えていた。
3.沈黙する帝国と破壊される価値観
この婚姻騒動がもたらした結論は、四つの異なる意味を持って確定した。
王女にとっては、自らの依って立つ「人生観の解体」。
王家にとっては、血統の権威が通じない「外交的敗北」。
北大陸にとっては、自国の社会構造を疑い始める「価値観の亀裂」。
そして帝国にとっては、淡々と秩序を維持するだけの「いつもの対応」。
最も残酷だったのは、帝国側の誰も、北大陸に対して怒りも敵意も抱いていないことだった。帝国は常に穏やかで、合理的で、誠実であった。しかし、その誠実さこそが、相手の信じてきた世界を根底から壊してしまう。
アーンレイム港国へ向かう準備を始めた王女の耳には、もはや故郷の喧騒は届いていなかった。彼女が見据えているのは、海を隔てた先にある、感情を排した完成された秩序であった。
■第七章:境界を越えた衝撃
ルミアトリア王国の第一王女は、三十日の月日をかけて南大陸の玄関口へと辿り着いた。
北大陸の険しい山脈を越え、かつて帝国歴150年に救済と割譲の歴史を刻んだトヴァール王国を経由する旅路。護衛の騎士たちは「帝国の属領など、所詮は辺境の港町に過ぎない」と、己の王国の栄華を信じて疑わなかった。
しかし、トヴァール王国の関所を抜け、アーンレイム港国へと続く幅50メートルの石畳の街道に足を踏み入れた瞬間、その傲慢は静かに打ち砕かれた。
1.アリムスの「静謐なる監獄」
一行が最初に足を踏み入れたのは、小規模交易都市アリムスであった。
「三日間、この都市に滞在していただきます。これは適応と管理のための手続きです」
窓口の職員は、王女に対しても一切の特別扱いをせず、事務的な微笑みと共に「港国国民証」の元となるプレートを差し出した。
アリムスでの滞在は、王女にとって屈辱よりも困惑の連続であった。
道にゴミはなく、夜は松明の煙代わりに魔法の灯火が街を昼のように照らす。宿の食事は、ルミアトリアの宮廷で祝宴に出されるものより質が高く、それが「当然の権利」として供される。
護衛の騎士たちが、街の鍛冶屋が作る農具の強度に驚愕し、自分たちの名剣が「豪華に装飾されているだけの無骨な道具」に見えると震える中、王女は窓の外を見つめていた。
「……これは、もてなしではない。私たちがこの国の『無機質な正しさ』に耐えられるか、測定されているのだわ」
2.巨大都市アレルンの蹂躙
アリムスを後にし、駅馬車という名の「揺れなき鉄の揺り籠」に揺られ八時間。王女の視界に、北大陸のどの王都をも矮小化する巨影が現れた。
三百万人都市、アレルン。
全長300メートル級の輸送船が日常の風景として八隻も並び、さらにその奥には500メートルから800メートル級の、動く島のような巨大船が数隻も整然と接岸している。 「……あれは、神の造形か」
護衛の騎士の一人が、槍を取り落とした。
北大陸で最大の王都ですら人口は百万を超えない。一国家の全人口に匹敵する人々が、一つの都市に、それも完璧な管理の下で呼吸している。王女は、自分がこれまで守り、背負ってきた「王国」という概念が、帝国の「一地方都市」にすら及ばない極小の存在であることを突きつけられた。
3.ミーリン、絶望の先の「個」
十日の旅を経て、一行は最南端の巨大都市、人口四百万人を擁する「ミーリン」へと到達した。 そこで王女が行ったのは、高貴な血筋の証明ではなく、指紋、虹彩、そして血に刻まれた固有情報の登録であった。
「王女様、このカード(国民証)がない者は、この国では『存在しない』も同然なのです」
管理官の声は冷徹だった。北大陸では、名声と血統が身分を証明した。だがここでは、帝国の巨大な台帳の一行として刻まれなければ、食事を摂ることすら許されない。
王女は、渡された身分証に映る自分の顔を見つめた。
そこにあるのは、王冠を失い、血統の重圧からも解放された、ただの一人の「人間」の顔であった。周囲を見渡せば、北大陸で英雄と呼ばれたプラチナランクの冒険者たちが、帝国の圧倒的な「豊かさ」という名の暴力に自尊心を削られ、震えながら、あるいは安堵しながら帝国のシステムに飲み込まれていく。
「私は、何を持ってここへ来たのか」
以前、自問した問いの答えが、ミーリンの喧騒の中で形を成し始めていた。
圧倒的な文明の質量、理解を超えた技術、そして個を完全に特定する冷徹な秩序。
王女は、自分が「王女」としてこの国を変えることなど不可能だと悟った。できるのは、この完璧な秩序の一部として、一から自分を再構築することだけなのだ。
■第八章:鉄の宮殿と白亜の洗礼
アーンレイム港国、最南端のミーリン港。そこには王女の一行八十名のためだけに用意された、全長三百メートルの巨大船が横付けされていた。その横には、五千人の移住者を飲み込む全長四百メートル級の超巨大客船が、動く山脈のように鎮座している。
1.揺り籠の中の瓦解
船内に足を踏み入れた瞬間、王女のこれまでの人生は、その価値を失った。
そこに広がるのは「贅沢」ではない。「管理された完璧」である。
蛇口を捻れば清冽な水が溢れ、室温は常に春の昼下がりのように一定に保たれている。供されるのは、北大陸の王宮でも見たことがない色鮮やかな果実と、雑味を一切排除した極上の酒。船の動力が生むはずの振動や波の揺れすらも、帝国の魔導技術によって「無」へと変換されていた。
「……これは船ではないわ。海に浮く帝国の領土そのものだわ」
侍女たちが清潔な寝具の感触に涙し、騎士たちが船内の「風呂」に満ちる湯の熱量に絶望する中、王女は悟った。自分たちが命懸けで守ってきた「豊かさ」とは、帝国の日常における最低水準ですらなかったのだと。
2.「秩序」を形にした巨大建築
二十五日の航海を経て、船はついに帝国本土のミーリン港へと接岸した。
タラップを降りた王女たちの前にそびえ立っていたのは、陽光を反射して輝く白亜の巨大な建造物であった。それは、権威を誇示する精緻な金銀の彫刻を持たない。代わりに、見る者を圧倒するのは、計算し尽くされた対称性と機能美が放つ、静かな「品位」であった。豪奢ではない。しかし、石材の一枚一枚に至るまでが寸分の狂いなく積まれたその威容に、案内役の官僚は淡々と告げた。
「あれは、ただの『移民管理事務所』です」
事務所の前には長蛇の列ができていた。北大陸の貴族も亡命王族も平民も、分け隔てなく一列に並んでいる。帝国の秩序という天秤の上では、北の階級など何の意味も持たず、ただ「入国者」という記号として処理される。その光景は、どんな軍勢よりも恐ろしい「合理的な平等の暴力」であった。
3.貴賓室の沈黙と「支度金」の真実
王女の一行だけは列から外され、二階の「貴賓室」へと誘導された。大使や領事にのみ開かれるその空間は、やはり大理石と間接的な灯火が織りなす圧倒的な静謐によって支配されている。
そこで王女が行ったのは、港国で渡されていた「港国国民証」の返却であった。それと引き換えに、帝国の正規の身分証明書、解説用の小冊子、そしてずっしりと重い革袋が差し出された。
「第一王女殿下、および同行者の皆様。これにより『検疫』と『登録』を完了とします」
事務官は、革袋の中身を確認するように続けた。
「一人につき、一アルクル小金貨十枚と、一セス小銀貨百枚を支給します。これは帝国一般労働者の約二カ月分の給与に相当し、帝都の『一アム食堂』を利用すれば、移住者が一年の間、働かずに生活できるだけの生活費です」
事務官は、王女が北大陸から持ち込んできた贅沢な装飾が施された金貨が入っているであろう箱、それを一瞥して静かに微笑んだ。
「……もちろん。殿下が持参されたそれら『本物の金貨』と比較すれば、国が支給するこれは、単なる小銭に過ぎませんが」
王女はその言葉に、心臓を直接握られたような感覚を覚えた。
自分たちが国の権威を見せつけるために渡された「箱いっぱいの財産」として持ち込んだ金貨すら、帝国にとっては「驚くようなものではない」程度の価値としてしか分類されていない。一方で、支給された「小銭」さえあれば、この楽園のような国で一年は生きていける。
手に残る硬貨の冷たさと、秩序ある美しさに満ちた貴賓室の静寂。事務所を出れば、そこから先は言葉も通じぬ、文字も読めぬ、未知の世界が広がっている。王女は握りしめた革袋の重みを、これから始まる「人間としての再教育」への、あまりに過酷な対価として感じていた。
■第九章:天の階梯と雲上の都
1.宿場町という名の「巨大都市」
港湾都市ミーリンを後にし、帝都へと続く街道を進む王女の一行を待っていたのは、さらなる常識の瓦解であった。
道中、幾度か立ち寄ることになった「宿場町」。北大陸において宿場町とは、数軒の旅籠と馬小屋が並ぶ程度の集落を指す。しかし、王女の眼前に現れたのは、城壁こそないものの、ルミアトリア王国の王都を優に超える広がりを持つ「巨大な居住区」であった。
数十万人規模が暮らしているであろうその規模の街が、帝都への道すがらに「ただの宿場」として幾つも点在している。幅五十メートルを超える石畳の国道を、巨大な貨物馬車が音もなく整然と行き交い、街路には塵一つ落ちていない。
「……これが、ただの宿場だというの? 私たちの国は、この街ひとつにすら敵わないというのね」
王女は、馬車の窓から見える「帝国の日常」という名の暴力的な文明に、ただ立ち尽くすしかなかった。
2.「箱」の静寂と見えない上昇
裾野の巨大都市へと辿り着いた一行は、そこで馬車を降りるよう命じられた。案内されたのは、断崖に埋め込まれた巨大な白亜の施設――「駅」である。
そこで王女たちは、窓一つない閉鎖された「金属の箱」へと押し込められた。 「これから帝都アーンレイムへ移動します。動かないようにお願いします」
扉が閉まり、不気味なほどの静寂が訪れた。馬の嘶きも、車輪の軋みも、風の音すらもしない。ただ、足の裏に微かな浮遊感を覚えるだけだ。
護衛の騎士たちが剣の柄に手をかけ、侍女たちが不安に身を寄せ合う中、王女は時計の針を見つめていた。一分、二分……そして十分。
北大陸であれば、標高千五百メートルの台地を登るには、険しい山道を数日かけて馬を死なせながら進むのが常識だ。だが、その十分の間、彼女たちは「何も」感じなかった。
3.絶句する世界の頂点
音もなく扉が開いた。
溢れ出したのは、熱帯の蒸せ返る空気ではなく、肌を心地よく撫でる、水晶のように透き通った涼やかな風であった。
一歩外へ踏み出した王女の視界に、世界のすべてが飛び込んできた。
そこは、雲を見下ろす「天空の楽園」であった。
千五百メートルの絶壁の上に広がる帝都アーンレイム。陽光を反射して輝く運河が街を網の目のように巡り、その水面に映るのは、天を突くのではなく、天と調和するように建ち並ぶ白亜の巨塔群。
街全体が高度な魔導技術によって気候を制御され、四季を無視して咲き乱れる鮮やかな花々が、冷涼な空気の中に甘い香りを振りまいている。
何より彼女を絶句させたのは、眼下に広がる「高度」であった。
今しがたまで自分たちがいた巨大な宿場町や、あの巨大船がひしめいていた港が、まるでおもちゃの模型のように遥か下方の霞の中に沈んでいる。
自分たちは、この十分間で、神の領域へと引き上げられたのだ。
「……ああ」
王女の唇から、言葉にならない溜息が漏れた。
そこには、自分を否定し続けてきた「冷徹な帝国」の、真の意味での美しさと傲慢さが結晶化していた。この雲上の絶景を前にして、もはや「王女」という過去の肩書きを口にできる者など、一行の中に誰一人として残ってはいなかった。
彼女は、ただ一人の無力な人間として、帝国の心臓部に立ち尽くしていた。
■第十章:名に宿る思想
標高一千五百メートルの台地、雲上の帝都に足を踏み入れた王女の一行は、用意された「王の妃候補」のための宿舎へと案内された。そこは宿舎という言葉を拒絶するほど、静謐な品位と洗練された機能が調和した、一国の大使館にも匹敵する巨大な邸宅であった。
その夜、王女は一つ、旅の間中ずっと心に引っかかっていた疑問を口にした。
「なぜ、北の港も南の港も同じ『ミーリン』と呼ぶのかしら。そしてなぜ、この巨大な帝都は、国名と同じ『アーンレイム』という名で呼ばれているの?」
侍従が、邸宅を管理する帝国行政部の上級官僚にその問いを投げた。現れた官僚は、感情を抑えた知的な微笑みを浮かべ、北の大陸の「場所を区別する」という常識を根底から解体する、帝国の言語思想を語り始めた。
1.「ミーリン」とは地名ではない
「王女殿下。まず、ミーリンについてお答えしましょう。北大陸の方々は、そこを固有の場所を示す『地名』だとお考えになりますが、我々にとってミーリンは地名ではなく、機能名なのです」
官僚の説明によれば、ミーリン(Miirin)とはセリアン語の古層に由来する概念語であり、「外と内が切り替わる境界」あるいは「秩序を変換する場所」を指す。
帝国にとって港とは、単なる交易の場ではない。国境、検疫、情報検閲、物流制御、そして「人の流れを再定義する」ための巨大な思想装置そのものである。
「北大陸にある港も、今しがた殿下が降り立たれた南の港も、帝国の秩序が世界と接触する際の『役割』は完全に同一です。帝国の思想では、役割が同じなら、名前も同じでよい。地名で区別する必要などないのです。目的地を理解せぬ者に、その門を潜る資格はありませんから」
2.帝都「アーンレイム」という状態
次いで官僚は、窓の外に広がる眩いばかりの帝都の灯を指し示した。
「そして、この帝都がなぜ『アーンレイム』なのか。それは、ここが帝国の首都だからではなく、ここが帝国そのものだからです」
通常の国家であれば、土地や人の集合体が「国」であり、その政治的中枢が「首都」として区別される。しかし、この国においてアーンレイム(Arn-Reim)とは「統治が行われている状態」を指す。
皇帝が存在し、行政府が稼働し、帝国の理が判断を下している場所。その空間そのものをアーンレイムと呼ぶ。
「仮にこの都市が物理的に別の場所へ移動したとしても、そこがアーンレイムであり続けます。名前は場所を識別するものではなく、思想の状態を示すもの。我々にとって、帝国が思考している場所そのものが、アーンレイムなのです」
3.名による分断を拒む意志
官僚の語る言葉には、名前を増やすことを嫌う帝国の厳格な合理性が宿っていた。
名前を増やすことは、意識に区別と分断を生む。
「ミーリンは帝国が世界に触れる指先であり、アーンレイムは帝国が思考している脳なのです。指先と脳に個別の地名を付けて区別する理由など、どこにもございません」
王女は、夜の帳に包まれた帝都の美しさを見つめながら、背筋に走る戦慄を抑えることができなかった。
この国では、言葉ひとつ、名前ひとつに至るまでが、巨大な秩序の一部として統制されている。自分がいま立っているこの場所は、単なる都市ではない。一つの巨大な「思考する生命体」の内部なのだ。
自らの持ち込んだ金貨が「小銭」であったように、自らが拠り所にしていた「言葉」さえも、帝国の思想という海の前では、あまりに未熟で不正確な音の羅列に過ぎなかった。
■第十一章:武器なき平和と届いた袋
帝都アーンレイムに到着してから四十五日が経過した。この「一ヶ月」の間に、王女一行の装いは劇的な変化を遂げていた。
1.鉄の殻を脱ぎ捨てた騎士たち
初日、ルミアトリア王国の誇りであるフルプレートに身を包み、槍を掲げて行進した騎士たちは、街の人々の視線に耐えられなかった。通り過ぎる子供たちは、まるでお伽話のなかから飛び出してきた滑稽な怪物を見るような、純粋で無垢な好奇の視線を向けてくる。
この街には、甲冑を纏う国民など一人もいない。それどころか、腰に剣を提げている者さえ稀で、武力はもはや「生活」から切り離された遠い概念のように見えた。
二日目以降、護衛の騎士たちは屈辱に顔を赤らめながらも、重苦しい鉄の殻を脱ぎ捨てた。今や彼らは、帝国の仕立て屋で誂えた上質な平服を纏い、武器を隠し持つのさえ躊躇われるような軽装で王女の背後に立っている。
「……我々の剣は、この平和を汚す無骨な鉄塊でしかなかったようです」
騎士隊長の言葉は自嘲に満ちていたが、防具のない体で歩く帝都の風は、驚くほど穏やかで安全だった。
2.紛失した「ルミアトリアの富」
ある日の午後。広場のベンチで休憩を終えたのち、数十分ほど歩いたところで一人の侍従が悲鳴に近い声を上げた。
「……ございません! 持ち込んだ予備の金、ルミアトリア金貨二百枚が入ったあの袋が!」
一行に緊張が走った。それは支給された「支度金」などではない。本国から持参した、精緻な装飾が施された金貨二百枚。北大陸であれば、小国家の城一つを数年維持できるほどの莫大な富である。
北大陸の常識では、これほどの金を人混みで落とせば、数秒後には誰かの懐に入り、その誰かの酒代か博打場で消え、二度と戻ってくることはない。ましてや、異国人の落とした金だ。
「最後に金を出したあの店まで戻りましょう!」
侍従が絶望に顔を歪め、駆け出そうとしたその時だった。
「待って! これ、落としたよ!」
背後から駆け寄ってきたのは、十歳にも満たない一人の少年だった。母親が穏やかな微笑みを湛えて後ろで見守っている。少年の小さな手には、ずっしりと重い、見覚えのある刺繍の革袋がしっかりと握られていた。
3.「当然」という名の衝撃
侍従が震える手で袋を受け取り、中身を確認する。
紐は解かれた形跡すらなく、二百枚の金貨は、一枚の欠落もなく、かつての輝きのままそこに収まっていた。
「……ありがとう、坊や。礼を……礼をさせてくれ。この中から好きなだけ取っていい」
侍従が必死に金貨を差し出そうとすると、少年は不思議そうに小首を傾げ、母親は優しく首を振った。
「当然のことをしただけですから。そんなにたくさんの金貨を一人で持っていても、この国では使い道に困るだけでしょう?銀貨のほうが使いやすいですよ」
親子が去っていく後ろ姿を、王女は言葉を失って見送った。
母国なら、これだけの金があれば人は豹変し、殺し合いすら起きるだろう。しかし、このアーンレイム帝国においては、圧倒的な豊かさと高度な知性が、犯罪という選択肢そのものを「非合理的で無意味なもの」へと変えさせている。
金貨二百枚という「北の富」ですら、この国の子供にとっては「持ち主に返すべき忘れ物」以上の価値を持たなかったのだ。
王女は、自らの手にある国民証を強く握りしめた。
武力でも経済でもない。この、名もなき親子の振る舞いに凝縮された「文明の質」こそが、北大陸が決して到達できない帝国の真の正体なのだと、彼女は震える魂で理解した。
■第十二章:融解する境界と黄金の猶予
帝都アーンレイムに降り立ってから四十五日。王女の一行を支配していた緊張感は、この街の穏やかな空気と、暴力的なまでの安全性の前に、音を立てて融解していった。
1.消失した「壁」
かつては重厚な甲冑で王女を囲んでいた騎士たちは、今や仕立ての良い上着を纏い、ある者は書店の書棚に没頭し、ある者は異国のスパイス香る店で市民と談笑している。侍従たちもまた、当初の悲壮感はどこへやら、帝国の正確な事務能力に感銘を受けながら、自らの休暇を謳歌し始めていた。
四十五日目の朝、王女はわずか一人の侍女だけを連れ、軽やかな足取りで帝都の街角へと消えた。
護衛すら不要。それが、この帝都が王女に突きつけた最も残酷で、かつ甘美な「敗北」であった。誰からも襲われず、誰からも不当に貶められない。北大陸で王族を縛り付けていた「警戒」という名の枷は、ここでは何の意味も持たなかった。
2.帝国からの「解答」
その日の午後、王女の滞在する邸宅に、帝国行政部の使者が訪れた。
「王の妃候補」としての進展を待ちわびていた一行に対し、使者は一通の親書と、いくつかの重厚な箱を差し出した。
「妃候補としての処遇につきまして、帝国中央審議会よりお伝えいたします。『まだ解答が出せない。もうしばらく、時間を頂きたい』とのことです」
その回答は、北大陸の外交常識では考えられないものであった。通常、これほどの期間を待たせれば宣戦布告に近い無礼となる。しかし、使者が次に示した「誠意」の質量が、すべてを沈黙させた。
「つきましては、解答までの滞在費用として、これをお受け取りください。帝都をもうしばらく楽しんでいただきたい、との皇帝陛下からの配慮でございます」
3.箱の中の「小銭」
開かれた箱の中に収められていたのは、目も眩むような黄金の奔流であった。
1アルクル小金貨1000枚。
1セス小銀貨1万枚。
北大陸の小国家であれば、国家予算の半分にも相当するような富が、「しばらくの遊興費」として、何の手続きもなく差し出されたのである。
「……一、十、百……」
侍従の一人が震える指で金貨を数えようとしたが、あまりの数に途中で断念した。
一アム食堂なら一生暮らしても使いきれず、市井の高級店で連日宴を開いても、この黄金が尽きる光景は想像すらできない。
王女は、その黄金の山を冷めた目で見つめていた。
これは贈り物ではない。帝国にとっては、これもまた一つの「測定」なのだ。
この莫大な富を手にし、全方位の自由を与えられた時、人はどう振る舞うのか。贅沢に溺れ、堕落するのか。あるいは、この国の理を求めてさらに深く踏み込もうとするのか。
「楽しめ、と言われたのです。……そうしましょう」
王女はそう呟き、黄金の一枚を指で弾いた。
解答を保留されたまま、黄金の海に投げ出された王女と八十名の一行。
彼らはまだ知らない。この「猶予」こそが、帝国の秩序が仕掛けた最も高度な試練の始まりであることを。
■第十三章第十三章:楽園の底、絶望の平穏
手元には使い切れぬほどの黄金がある。だが、王女の胸を支配していたのは、拭い去れぬ「疑念」であった。
この完璧な秩序の裏側には、必ず犠牲になった者たちの血と涙があるはずだ。光が強ければ影もまた濃い――それが北大陸で、あるいは歴史という名の残酷な教えの中で学んだ真理だったからである。
1.見捨てられた「影」を求めて
朝、王女は一人の侍女だけを伴い、帝都の華やかな中央区画から最も離れた、地図の端にある「一番貧しい一角」へと向かった。
案内人はいない。公式な訪問でもない。汚れても構わない地味な服を纏い、王女は北大陸であればスラムが形成されているはずの場所――日雇い労働者や、行き場を失った者たちが吹き溜まるはずの「最下層」へと足を踏み入れた。
2.崩れ去った「スラム」の幻想
しかし、そこで彼女を待っていたのは、腐臭の漂う泥濘でも、飢えに震える子供たちの瞳でもなかった。
そこにあったのは、整然と並ぶ清潔な集合住宅と、陽光を浴びて洗濯物を干す主婦たちの笑い声。石畳の隅々にまで水が行き渡り、公園では老人が穏やかに鳥と戯れている。
北大陸で「貧民窟」と呼ばれるはずの場所は、この帝国においては、ただの「静かな住宅街」であった。
王女は、近くの公共施設から出てきた労働者らしき男に声をかけた。彼の衣服は質素だが、ほつれ一つなく、その肌には健康的な艶があった。
「……ここは、貧しい者たちの住処ではないのですか? 重労働に喘ぎ、明日のパンに困る者たちはどこにいるのです」
男は怪訝そうな顔をしたが、やがて王女の問いの意図を理解したのか、苦笑いを浮かべて答えた。
「ああ、お嬢さん。仕事なら明日もあるし、来年もある。十年先まで決まっているのさ。帝国の台帳から漏れない限り、腹を空かせることも、疫病に怯えることもない。それが『市民』の義務であり、権利だからな」
3.「考えずに済む」という極致
王女は、男の言葉に戦慄した。
彼ら労働者が手にしているのは、単なる富ではない。「不安からの解放」であった。
北大陸の騎士ですら、主君の機嫌を損ねれば地位を失い、戦争が起きれば命を散らし、飢饉がくれば家族を養えなくなる。誰もが「明日」という怪物に怯え、必死に剣を握っている。
だが、この帝都の最下層に住む人々は、戦争も、疫病も、飢餓も、自らの人生を脅かす脅威として「考えずに済む」生活を送っている。
それは、北大陸の王族たちが、生涯をかけて、あるいは血の河を築いてようやく手に入れようとした「究極の安寧」であった。それが、この帝国の末端では、名もなき労働者の「ただの日常」として供されている。
「……彼らは、自由ではないのかもしれない。帝国の歯車として管理されているだけなのかもしれない」
王女は震える声で侍女に囁いた。だが、その声には確信がなかった。
「けれど……歯車であることを受け入れるだけで、誰もがこの平穏を手に入れられるのだとしたら。私たちの『王家』が命を懸けて守ってきた尊厳とは、一体何だったというの?」
背後にそびえ立つ帝都の巨塔群が、王女には巨大な墓標のように見えた。北大陸のあらゆる理想と誇りを埋葬する、美しくも残酷な、完成された楽園の墓標。
王女は、持参した黄金の袋の重さを呪った。この黄金で誰かを救えると思っていた自分の傲慢さが、これほどまでに滑稽に感じられたことはなかった。
■第十四章:労働の定義、帝国の「遊び」
最下層という名の「日常」のなかに立ち尽くす王女は、さらに男の言葉に追い詰められていく。彼女が握りしめている「北大陸の常識」は、この帝国の末端に生きる者の言葉によって、まるで砂の城のように崩れ去っていった。
1.消失した「貴族」の概念
王女がふと口にした「身分にふさわしき礼節」という言葉に、男は眉をひそめて首を傾げた。 「移民の方か。……貴族、ってやつだったか? 昔の物語には出てくるが、この国にはそんなものはないんでね、正直よくわからないんだ。少なくとも、俺の仕事場にも、隣の家にも、そんな『偉そうなだけの肩書き』をぶら下げている奴はいないよ」
男の瞳に宿っているのは、侮蔑ですらない。ただの「無関心」だ。帝国の市民にとって、生まれや血統という特権は、もはや歴史の遺物。制度という神の下で、すべての人間は「機能」として等しく扱われている。
2.「働く」ということの意味
「……では、あなたは帝国の命じるまま、過酷な労働を強いられているのではないのですか?」
王女の問いに、男は今度こそ声を上げて笑った。
「強いられている? 嬢ちゃん、それは間違いだ。俺たちは自分の意志で働いているのさ。なぜかって? 来月から半年ほど、皇帝領の観光地へ家族全員で旅行に出かけるからさ」
男は誇らしげに住宅の窓を指差した。
「働くってのは、遊べるってことだ。この国じゃ、真面目に務めを果たせば、人生の半分を旅や学びに費やしたって誰も文句は言わんし、生活も揺るがない。俺たちにとって仕事は、自由を買い取るための健全な取引なのさ」
3.逆転する富の価値
王女が侍従に持たせていた、あの「金貨の袋」を一瞥し、男は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「聞いた話だがね。俺の月の稼ぎである『三百五十セス(小銀貨350枚)』もあれば、北から来た冒険者あがりの移住者なら、二年は遊んで暮らせると聞いたことがある。……北大陸ってのは、よっぽど物価が安いのか? それとも、想像もできないほど貧しいのか?」
三百五十セス。
それは帝国の平均的な労働者の月給に過ぎない。しかし、その「一ヶ月の労働」の対価が、北大陸における「二年の命」に相当するという事実。
王女は眩暈を覚えた。自分が命を賭けて、民を飢えさせぬよう守ってきたルミアトリア王国の富。その全力が、この男が半年旅行するために流す、数ヶ月分の汗よりも軽いというのか。
「……貧しい、のです。私たちは、あまりに貧しかった」
王女の唇から、絞り出すような呟きが漏れた。
物価の差ではない。文明の、そして生命の価値そのものの圧倒的な差。
労働が苦役ではなく「遊びの準備」であり、一人の平民の月給が、北の英雄の二年の人生を買い取れる世界。
王女は、自分たち一行がこれまで「王族」として誇らしげに振る舞い、帝国からの金貨に驚嘆し、甲冑を着て歩き回っていたことが、どれほど滑稽な喜劇であったかを痛感していた。
■第十五章:三十六時間の調和と「余白」の恐怖
労働者の男との対話は、王女の価値観をさらに深い場所へと引きずり込んでいった。彼女は、帝国の経済が単なる「安売り」で成り立っているのではなく、生存コストが極限まで圧縮された結果、人生の目的そのものが変質していることを知る。
1.「生存」のコスト、その圧倒的な低さ
男の話を聞くうちに、王女は帝国の物価構造を理解し始めた。
朝食を屋台で済ませれば十アス、銅貨十枚。昼に少し良い食事を摂れば一セス小銀貨一枚。夜に豪華なレストランで社交を楽しみながら贅を尽くしても、一人五セス。
決して「激安」ではない。しかし、それは人生を彩る「楽しみ」としての対価であり、北大陸のように明日の命を繋ぐために必死に掻き集めるべき「生存の糧」ではないのだ。
何より彼女を驚愕させたのは、その食事を支えるインフラの完備だった。
蛇口を捻れば清冽な水が溢れ、汚物は下水へと音もなく消える。魔導灯は街を昼のように照らし、煮炊きには魔法石のコンロ。毎日温かい風呂に入り、清潔な衣服を纏う。これら北大陸の王宮でさえ贅沢とされた生活が、この帝国の「最下層」では空気のように当然の権利として保障されている。
2.「奴隷」と呼ばれた北の日常
「……一日三十六時間のうち、労働と睡眠を除いても、俺たちには十四時間も自由な時間があるんだ。嬢ちゃん、この時間をどう潰すか悩むのが、この街の贅沢な悩みでね」
男は、どこか遠くを見るような目で、かつて移住者から聞いた話を語りだした。
「移住してきた連中から聞いたんだが、北の方じゃ、薪?を割ったり、何故か『水を汲みに行く』なんて作業があるらしいじゃないか。しかも一日の労働が十五時間以上だとか。……そんなの、俺たちからすりゃ、もう伝説の中かおとぎ話で聞く『奴隷』ってやつじゃないのか? 自分のための時間が一秒もないなんて、人間として生きてるって言えるのかね」
男は、近所にあるという巨大な共同浴場の方向を指差した。そこはただ体を洗う場所ではなく、市民たちが最新の技術や芸術について語り合う、情報交換の聖域だという。
「俺はね、その余った十四時間を使って、図書館に通ったり、大学の聴講生として講義を聴きに行ったりしている。学べば学ぶほど、帝国での生活は豊かになるからな」
3.知性の競争原理
王女は、目眩がするような衝撃を受けた。
北大陸で自分が慈しみ、守ってきた民の暮らしが、帝国の労働者からは「おとぎ話の奴隷」と同一視されている。自分たちが誇りとしてきた「勤勉さ」は、ここでは単なる「非効率な苦役」に過ぎないのだ。
この国には、剣による争いがない代わりに、圧倒的な「知性の競争」が存在していた。
物理的な生存が保障されているからこそ、人々は残された十四時間の余白をいかに知的に、創造的に過ごすかで自らの価値を証明しようとしている。学ばぬ者は、この高度に最適化された楽園のなかで、ただ退屈に殺される。
「……ここでは、知ることが『遊び』であり、同時に『生きる理由』なのね」
王女は自らの手にある国民証と、革袋の黄金を交互に見つめた。
どれほどの富を持っていても、この十四時間の自由時間を埋めるだけの知性がなければ、自分はこの国で真の意味での「国民」にはなれない。
王女は決意した。
もてなされるだけの「妃候補」としての日々はもう終わりだ。彼女は、あの労働者の男が語った「大学」の門を、自らの足で叩くことを決めた。北大陸の王女としてではなく、帝国の膨大な知恵に飢えた、一人の未熟な「生徒」として。
■第十六章:文字の壁、知性の洗礼
労働者の言葉に突き動かされた王女は、翌朝、帝都の「普通の大学」とされる『アーンレイム第三高等教育院』へと足を運んだ。そこは最高学府ではない、市民のための学び舎。しかし、そこに広がる光景は、王女が北大陸で受けた「王族教育」のプライドを、根底から粉砕するものであった。
1.覗き見る「難問」の迷宮
王女は侍女と共に、いくつもの教室の扉を静かに覗き見て回った。
ある教室では、十代半ばの少年少女たちが黒板に向かい、数学と物理学、そして魔導理論が渾然一体となった理論を論じていた。それは北大陸では「禁呪の構成」に匹敵する高度な内容だ。
数字そのものは北大陸と同じものを使っている。だが、王女にはその使い分けが理解できなかった。
帝国では「1」という数字を表すだけで、日常的に使われる「一」、公的な文書で改竄を防ぐための「壱」、概念や順序を示す「Ⅰ」など、複数の文字が文脈によって使い分けられていた。 「なぜ、同じ『ひとつ』を指すのに、これほど多くの形が必要なの……?」
数字の背後にある歴史的・法的な「格」や、計算上の「役割」を理解せぬ者には、式をなぞることすら許されないのだ。
2.三千の表意文字と「音」の迷宮
最も絶望的だったのは、帝国の言語体系そのものであった。
王女は母国での猛勉強により、帝国語での日常会話はこなせるようになっていた。だが、目の前の書物や黒板に踊る文字は、会話とは別次元の絶望を突きつけてきた。
意味を直接表す三千種類にも及ぶ「表意文字(漢字)」、そして音を補完する三種類の「表音文字(ひらがな・カタカナ・アルディアン文字)」。これらが複雑に絡み合う迷宮が、帝国の知識の入り口に立ちはだかっていた。
北大陸の文字は、音を繋げれば意味が成る単純なものだった。しかし帝国の文字は、一字一字が歴史や概念を内包し、組み合わせによって別の意味へと変貌する。
「……読めない。文章が、理解できないわ」
北大陸では「文字が読める」だけで一国の官僚になれた。だがここでは、三千の文字を使い分け、状況に応じて数字の書き方を変えることが思考の最低条件なのだ。街の掲示板ひとつ、薬の能書きひとつ、食堂のお品書きひとつ。それらすべてが、読み書きのできない王女には「閉ざされた知性の門」として立ちふさがっている。
3.教室を渡り歩く「無力な観察者」
王女は別の教室も覗いた。そこでは建築学の講義が行われていた。
学生たちが論じているのは、先見的な都市計画と、魔導による重力制御の力学計算だ。彼らが当然のように手にしているペンは、王女が触れたこともない複雑な計算を文字盤に刻み込んでいく。
さらに別の教室では、歴史学の講義が展開されていた。
地図の上に広がるのは、北大陸のどの王宮の書庫にも存在しない、数千年前からの各国の版図と文明の推移。教官が黒板に記す「法」や「倫理」という文字の深遠さに、王女は眩暈を覚えた。
かつて自分は、この大陸の王女として、民を導く立場にあると信じて疑わなかった。だが、この『高等教育院』という「普通の場所」において、自分は文字も読めず、数字の格も分からぬ、ただの「無知な赤子」に過ぎないことを、暴力的なまでの知性の集積の前に突きつけられたのだ。
「……帰りましょう。ここには、今の私が入れる隙間など、どこにもないわ」
王女は、高等教育の教室から逃げ出すように離れ、震える足で廊下を歩いた。自分を「王女」ではなく、まず「文字を学ぶ者」として定義し直さなければ、この国では息をすることさえ、誰かに許されなければ叶わないのだと悟りながら。
■第十七章:フィラッカへの遠征――二五〇〇キロの対話
帝都アーンレイムに到着してから五十八日。自らの識字能力の欠如に打ちのめされながらも、初等教育から学び直そうと決意していた王女に、停滞を許さぬ転機が訪れた。
1.フィラッカ王国からの使者
邸宅に現れたのは、帝国を構成する十一王国の一つ、フィラッカ王国の使節団であった。
先頭に立つのは、実務に長けた穏やかな文官たち。その後方には、儀礼用の剣を佩いた数名の屈強な武官が控えている。彼らが提示した公式な招致状には、中央に大きくフィラッカ王国の紋章が踊り、その正当性を証明し、権威を裏付けるようにアーンレイム帝国の紋章が添えられていた。
「第一王女殿下。フィラッカ王国次王、カイセート・フィラッカ様の命により、殿下を我が国へ正式に招致に参りました。陛下からも、この旅を『帝国の真姿を知る学び』とするよう、お言葉を預かっております」
2.「奇跡」を隠した八十名の旅団
招致を受け入れた王女は、ルミアトリアから同行してきた護衛、侍従、侍女ら総勢八十名を引き連れ、帝都を出発した。
王女が乗り込むのは、帝国から用意された重厚な八人乗りの四輪馬車である。広々とした車内には、王女、筆頭侍女、侍従、そして平服ながら鋭い眼光を絶やさない護衛騎士の計四名が同乗した。残りの七十六名の従者たちは、後続の馬車に分乗し、長大な列となって街道を進み始めた。
北大陸においても、空を飛ぶことや魔法による転移などは神話や伝説の領域であり、実現不可能な御業だった。帝国ほどの文明があれば、あるいは……という期待も微かにあったが、目の前に用意されたのはあくまで「地を這う」馬車であった。
王女は知る由もなかった。帝国において「空を飛ぶ」ことや「空間を繋ぐ」魔法は、すでに確立された技術である。しかしそれは、帝国を創設した初代十一人の選帝王のみが使用を許された絶対的な特権であった。彼ら選帝王たちは、偽名を使いながら帝国の中でこっそりと公務をこなし、時には市井に紛れて遊び暮らしている。彼らだけが「奇跡」を謳歌し、王女ら外来者はあえて文明を抑制された移動を強いられるのだ。
3.二五〇〇キロの「移動教室」
目的地であるフィラッカ王国までは、実に二五〇〇キロメートル。
「一日の移動距離を約五十キロメートルと設定し、途中の街での視察や休養を含め、約七十日間をかけて進みます」
文官が提示した行程は、旅というよりは一つの「遠征」であった。
出発から数週間、八十名の旅団は馬車の窓から、帝都とはまた異なる帝国の豊かさを目撃し続けた。
完璧に舗装された街道、五十キロごとに現れる宿場町、そして必ず併設されている巨大な図書館や教育施設。ある街では農業部門の管理官たちが最新の魔導農具について論文を交わし、街道沿いの子供たちは帝国文字(漢字)の難解なクイズを出し合いながら並走してくる。
どこへ行っても、文字が読めず、数字の意味が分からないのは王女だけであった。道中、彼女は同乗する侍従らと共にフィラッカの文官から帝国文字の基礎を教わったが、三千の表意文字の深淵を前に、旅路の長さと同じだけの絶望を噛み締めることになった。
4.カイセート次王の待つ「石と知の都」へ
七十日に及ぶ旅路の果て、ついに前方にフィラッカ王国の威容が現れた。
標高を上げ、峻険な岩山を切り拓いて作られたその国は、帝都の優雅さとは一線を画す、巨大な工廠と質実剛健な石造りの建築群で構成されていた。
王女は、長旅で洗練された身なりを整え直し、自らの「無知」を隠すことなく背筋を伸ばした。 七十日かけて見てきた帝国の広大さと、そこに住まう民の知性の高さ。それらを統べる十一王国の一人、カイセート・フィラッカ。
来年王位を継ぐという若き次王は、二五〇〇キロを旅してなお「文字すら読めぬ」自分に、一体何を問い、何を求めるのか。
八十名の旅団を従えた馬車の車輪が、フィラッカ王城の重厚な石畳を鳴らした。
■第十八章:鉄の都の晩餐――試される「声」
帝都アーンレイムに降り立ってから、五十八日の滞在と七十日の旅路。合わせて百二十八日目の朝、王女一行を乗せた馬車は、ついにフィラッカ王国の心臓部へと滑り込んだ。
1.「境界」なき静謐の衝撃
馬車の窓から王女が目にしたのは、果てしなく続く碁盤の目の街並みだった。直交する広い道路という線と、その線の中の面で構成されたその巨大な都市は、東西南北25キロメートルにも及ぶ広大な正方形を描いて広がっている。
だが、王女を何よりも驚かせたのは、その「あまりに低すぎる」境界線だった。
王族と行政機関が集中する中心部「都」と、一般の都市区画を隔てるのは、わずか一メートルの浅い堀と、人の腰ほどしかない低い壁だけ。北大陸の常識であれば、酔漢や暴漢が容易に越え、王宮の威厳を汚すはずの距離だ。
しかし、フィラッカの民にその意志は微塵もない。生活は豊かで、困窮者は即座に公的支援を受ける。教育によって「秩序を破るのは恥」という精神性が骨の髄まで染み渡っているこの国では、堀や壁はもはや物理的な防御ではなく、ただ「ここからは国王の住む場所である」という象徴的な線引きに過ぎなかった。
中心部の三キロメートル四方には高い建物がなく、質素ながら気品あふれる屋敷が広大な庭園の中に点在している。一方、その周囲には十五階建てに達する「不朽の塔」や巨大な図書館が整然と立ち並び、五十メートルもの幅を持つ大路を、馬車や輸送隊が渋滞することなく行き交っていた。
2.次王カイセートとの対峙
フィラッカにおいて、王族は「君臨する支配者」ではない。選帝王の理念を継ぎ、密議院の厳しい監視と教育の下で「公明正大」を体現する、いわば「国の父母」であり「調整者」であった。 その次代を担う青年、カイセート・フィラッカは、式典や外交のために設けられた巨大な宮殿の広間で、王女一行を待っていた。
「遠路はるばる、よくぞいらっしゃった。ルミアトリアの第一王女殿下」
晩餐の席に供されたのは、フィラッカの特色である精緻な加工が施された食器と、質実剛健な中に気品を宿した料理の数々。カイセートの瞳は、帝都の文官のような冷徹さとは異なり、武道と学問を修めた者特有の、静かな活力を湛えていた。
3.「恐怖」という名の正解
和やかな食事の合間、カイセートは杯を置き、静かに、しかし逃げ場のない口調で問いかけた。 「二五〇〇キロ、七十日の旅路。我らが国の土を踏み、この都の景色をその目で見て、文字が読めぬ貴方は何を感じた?」
王女は、馬車の窓から見続けた光景を反芻した。
十五歳までの義務教育、識字率ほぼ百パーセントの民、嘘を厭い、礼節を尊ぶ共通の価値観。そして、王族への絶大な信頼が生み出す「低い壁」の平和。
「……私は、恐怖を感じました」
王女の唇から漏れた言葉に、列席していたフィラッカの文官たちが微かに動揺する。だが、王女は逸らすことなくカイセートを見つめ続けた
「北の大地で、私たちが『命懸けの理想』として掲げ、多くの血を流して求めていた平和が、ここでは呼吸と同じほど当たり前に存在している。私たちが王として守ってきた誇りが、この高度な秩序の前ではあまりに未熟で、無力なものとして否定されている……。その圧倒的な格差に、私は恐怖したのです」
しばしの沈黙。カイセートは瞬きもせず王女を注視していたが、やがて満足げに口角を上げた。 「……面白い。己の無知を認め、その上で我らが帝国の秩序の本質を『恐怖』と定義したか」
カイセートは立ち上がり、自らの金杯を掲げた
「文字が読めぬことは構わぬ。知性とは、既存の情報をなぞることではなく、目の前の事象から本質を導き出す力だ。貴方のその『声』には、一国の統治者としての重みが確かに宿っている。ルミアトリアの王女よ、貴方にはこのフィラッカの知恵を貸し与える価値があるようだ」
馬車の車輪の音に明け暮れた七十日を経て、王女はついに、帝国の「理」を学ぶための真の扉を開いた。
■第十九章:月下の本音と、知の系譜
公式な晩餐の儀礼が終わり、夜の帳がさらに深まった頃。王女はカイセートに促され、王宮の広大な庭園を見下ろす静かな回廊へと連れ出された。
そこは、先ほどまでの厳しい文官たちの視線も、建前としての礼儀も届かない、夜風と月光だけが支配する場所だった。
1.仮面の剥落
月明かりの下、カイセートはふと足を止め、深く息を吐いた。そして、それまでの威風堂々とした態度をふわりと脱ぎ捨てるように表情を和らげると、欄干に背を預けた。
「……まずは、謝らせてくれ。さっきは偉そうに話して申し訳なかった。家臣たちの手前、どうしてもああいう話し方になってしまうんだ。気分を害してはいないかな?」
その語調は驚くほど穏やかで、一人の青年としての素顔が覗いていた。王女が驚きに目を見開いていると、彼は自嘲気味に笑いながら言葉を続けた。
「実は俺、現女王の次男なんだ。本来なら兄が継ぐはずだったんだが……長男は王としては不適合だと”上”つまり俺ですら知ってはいけない”場所”に判断されてね。今は『自由な錬金術士』になって、皇帝領のどこかで好き勝手やってるよ」
カイセートの視線は、遠い夜空のどこか、兄がいるであろう場所を追っているようだった。 「正直、少し羨ましいと思うこともある。王座を継ぐというのは、この完璧な秩序の一部になることだからな」
2.「知の種族」セリアンの血
カイセートは視線を戻し、王女をじっと見つめた。その瞳には、人間族でありながらどこか超然とした、深い理知の光が宿っている。
「フィラッカの王室は、少し血が特殊でね。現女王は先代王の長女だが、その母……つまり先代王妃は、『セリアン族』だった。そして俺の父である現王配も、同じくセリアンだ」
セリアン族。王女も帝都での滞在中にその名を耳にしたことがあった。
彼らは、北大陸の西・南・東に浮かぶ島々に拠点を置く「レイマンス王国」の民であり、超古代文明の遺産を継承する知の守護者。北大陸の黎明期からの歴史をすべて記録し、あらゆる文字と言語を解析する能力を持つ。帝国の初代選帝王たちに魔導理論のすべてを教えたのも、この種族の王だという。
「彼らは額に文様を浮かべ、魔力構文を『直感的に読む』ことができる。人間族の一種ではあるが、その知性はあまりに冷静で、理知的だ。……そして、寿命も人間よりずっと長い」
カイセートは自らの額を指先でなぞった。
「だから俺は……おそらくあと二百年は生きる。貴方の倍、あるいはそれ以上の時間を、この国と共に歩むことになるだろう。……貴方は、それをどう思う?」
3.二百年の重み
王女は、夜風に吹かれながら考えた。
セリアンの超古代から続く文明を受け入れ、この国は作られた。そして統治者の寿命までもが、自分の知る世界の倍以上ある。北大陸の歴史をすべて「文書」として持ち、あらゆる言語を解析できる一族の血を引く男が、二百年という歳月をかけてこの国を形作っていく。
「……二百年、ですか」
王女は、自分がこれまで「一日の生存」に汲々としていたことが、いかに短い物差しであったかを痛感した。同時に、目の前の青年が背負っている、気の遠くなるような「安定」への責任に、畏敬の念を覚えた。
「私の故郷では、王が代われば法が変わり、時代が激しく揺れ動きました。ですが、貴方が二百年、その揺るぎない理として存在し続けるのなら……。それは民にとって、この上ない安らぎになるはずです」
王女の答えを聞き、カイセートは満足そうに目を細めた。
「……貴方にそう言ってもらえると、この長い退屈にも意味があるように思えてくる」
ふたりの間に流れる時間は、静謐で深いものとなっていた。
■第二十章:器の継承と、解き放たれる言霊
静寂に包まれた回廊で、カイセートは遠い空を見つめたまま言葉を紡いだ。二百年という途方もない時間を生きる覚悟を語った彼の口から漏れたのは、意外にも、静かで切実な「自由」への渇望であった。
1.「王」という名の器
「とはいえ、だ。俺だって本音を言えば、兄のように自由を得たいと思っているんだ」
カイセートの声は夜風に溶けるように優しく、王女の隣で欄干を軽く指で叩いた。
「もし俺の次に、この国を治めるに相応しい『器』が現れたなら……その時はすぐにでも隠居して、自由になるつもりでいる。帝国には、王にも、そして皇帝にさえも、そうした自由が許されているんだ。誰かが秩序の責任者にならねばならないが、特定の個人が死ぬまでそれを背負い続ける必要はない。役割を終えれば一人の人間に戻れる、それがこの帝国の理なんだ」
王女は、その言葉の重みに息を呑んだ。北大陸において、王冠は一度被れば死ぬまで脱ぐことのできない、呪いにも似た宿命であった。しかし、この高度な文明社会では、王位すらもシステムの一部として分担され、役割を終えれば一人の人間に戻れるというのだ。
2.暴かれた「沈黙の正体」
驚きの中で、王女はふと、自分たちが交わしている会話に妙な違和感を覚えた。
あまりに自然に、あまりに深く、彼の言葉が胸に届いている。帝都で必死に覚えた帝国語の片言ではない。耳に馴染んだ、温かくも高貴な響き。
「……あ」
王女ははっとして、思わず自分の口を抑えた。
「貴方……今、私の国の言葉を話していませんか? ルミアトリアの、それも宮廷で使われる最も完璧な発音で……」
カイセートは、悪戯が見つかった子供のように、軽やかに笑った。
「気づくのが少し遅かったな。そう、ルミアトリア語だ。……それがセリアンなんだよ。俺たちにとって、音と意味の繋がりを解析し、再現するのは、貴方が呼吸をするのと同じくらい造作もないことなんだ」
王女は眩暈を覚えた。自分がこれまで絶望し、数十年かけても届かないと思っていた「言語の壁」が、目の前の青年には最初から存在していなかったのだ。自分たちが交わしている会話に妙な違和感を覚えた、その正体はこれであったのだ。
3.月下の教育者
「戸惑う必要はない。貴方のこれまでの苦労を笑うつもりもないんだ」
カイセートは真っ直ぐに王女を見つめ、優しく、しかし有無を言わせぬ響きを込めて告げた。 「帝国語、そして帝国の学術の礎たるアルディアン語。それらは俺が直接教えよう。セリアンの手法を用いれば、貴方が考えているよりもずっと早く、この世界の理を読み解けるようになるはずだ」
「私が……、貴方から、直接?」
王女は困惑し、その手を震わせた。強大な文明を築いた帝国を構成する一国の次王が、北では大国とはいえ、アーンレイム帝国とは比べるべくもない国の王女にそこまで手を貸す理由が見当たりそうもなかった。しかし、カイセートの瞳は、純粋な好奇心と、同じ「王」の重みを知る者への深い共感に燃えていた。
「そうだ。貴方はこの七十日の旅で、この国の本質を『恐怖』と見抜いた。その鋭い観察眼に見合うだけの『武器』を、俺の手で授けたいんだよ」
回廊に吹き抜ける夜風が、王女の頬を撫でた。
文字を持たぬ「無知な王女」としての自分は、今、この月光の下で静かに死に絶えようとしていた。セリアンの血を引く若き王との出会いが、彼女を帝国の真なる住人へと変貌させる――長く、そして知性に満ちた夜の始まりであった。
■第二十章ノニ:誓書と、帰らぬ旅の決意
月光の下での対話は、単なる言語の教授に留まらなかった。カイセートが提示したのは、王女の運命を根底から変える「正式な婚姻契約」の提案であった。
4.「公式」なる婚姻の誓い
翌朝、フィラッカ王宮の広間にて、カイセートは王女の護衛騎士、侍従、侍女ら総勢八十名を前にして、正式な婚姻の意思を表明した。
それは北大陸の政略結婚とは一線を画す、帝国法に基づいた厳格な「誓書」の交換であった。王女をルミアトリアから切り離し、アーンレイム帝国の国民として、そして次期フィラッカ王妃として迎え入れるという宣言である。
この重大な局面で、王女に同行してきた筆頭侍従が、震える声で真実を打ち明けた。
「……殿下、実は出発に際し、陛下(ルミアトリア王)より極秘の伝言を預かっておりました。『もし帝国で事が成れば、もはや帰国せずとも良い』と。そのための嫁入り道具の数々も、すでに北大陸の港国へ運び込まれ、保管されております」
王女は絶句した。父王は、最初から娘を「戻らぬ旅」に送り出していたのだ。それは冷酷な切り捨てではなく、滅びゆく北大陸から愛娘を救い出そうとした、王としての、そして父としての最後の慈愛であった。
5.密議院の「承認」
この異例の婚姻契約は、即座に帝都の「密議院」へと報告された。
報告は、密議院を通じて皇帝、さらには偽名を使いながら帝国を見守る初代十一人の選帝王たちにまで正しく届く。帝国最強の知性たちは、王女が七十日の旅で示した「恐怖」という名の理解と、セリアンの血を引くカイセートとの相性を精査した。
下された結論は、「認める」であった。
カイセートは、密議院からの認可状を手に、王女へと向き直った。
「来年、俺が正式に王位を継いだ折には、王国を挙げて結婚式を挙げよう。ただし、帝国流の『質素な式』だ。華美な装飾はないが、民に心から祝福される式にする」
6.国民としての新たな道
この瞬間、王女はもはやルミアトリアの第一王女ではなくなった。彼女はアーンレイム帝国の国民であり、未来の王妃としてこの地に根を下ろすことが決定したのだ。
カイセートは王女の背後に控える八十名の従者たちを見渡し、静かに問いかけた。
「貴公らも同様だ。王女と共にフィラッカに残るか、あるいは帝国の他の地で生きるか。あるいは……あえて死地たる北大陸へ戻るか。自由に選ぶがいい」
護衛騎士たち、そして侍女たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人、また一人と膝を突いた。 「……我らも、この王国に、この帝国に残ります。殿下……いえ、王妃様と共に」
こうして、八十名の旅団は「訪問者」から「移住者」へと変わった。
自国を捨て、過去を捨て、未知なる巨大帝国の秩序へと身を投じる。王女の手には、カイセートが教えるという「帝国語」の教科書が握られていた。
■第二十一章:去りゆく故土、受け継ぐ叡智
婚姻の誓約が交わされた翌朝、王都の空気はどこか引き締まったものへと変わっていた。王女にとって、それは単なる身分の変化ではなく、生存のルールそのものの書き換えを意味していた。
1.帝国の「王妃教育」
カイセートによる「直接教授」が始まった。
かつて帝都の私塾で絶望した三千の帝国文字が、彼の口を通すと不思議なほど滑らかに脳裏に形を結んでいく。
「帝国文字は、一字一字が独立した概念なのだよ。セリアンの視点から見れば、それは情報の断片ではなく、世界の理を記述する符号に近いんだ」
カイセートは王女の手を取り、紙の上に流麗な文字を書き連ねていく。セリアンの血を引く彼は、王女がどこで躓き、どの概念に戸惑っているのかを直感的に見抜き、最適な「音」と「意味」を繋ぎ合わせていった。
文字を「記号」として暗記するのではない。文字の裏にある、帝国という巨大なシステムが構築してきた歴史と哲学を、直接血管に流し込まれるような特異な感覚。
「無知」という名の牢獄から、彼女は急速に解き放たれようとしていた。
2.北の大地への「回収隊」
教育が進む傍ら、王宮の裏手では大規模な隊商が編成されていた。目的は、北大陸の港国に預けられた王女の「嫁入り道具」の回収である。
かつて命懸けで海を渡り、二五〇〇キロの道を歩んだ王女にとって、その回収作業は壮大な「過去の清算」に見えた。しかし、派遣されるフィラッカの輸送隊の装備を目にした時、彼女は言葉を失った。
用意されたのは、最新の魔導技術で強化された堅牢な輸送馬車と、申し訳程度のしかし一騎当千を思わせるような守備隊。彼らに下された命令は、単なる荷物の運搬ではなかった。
「……無いとは思うが、北大陸諸国への介入は最小限にとどめよ。ただし、帝国の資産(王女の荷)を脅かすもの、あるいは王女の帰還を騙って混乱を招く勢力があれば、躊躇なく『処理』せよ」
カイセートの命令は、静かだが冷酷だった。
帝国にとって、北大陸はもはや「助けるべき隣人」ではなく、自国の安寧を乱さぬよう厳重に管理・監視されるべき「混沌とした外部」に過ぎないのだ。王女は、自らの荷物を守るために、故郷の誰かが帝国の圧倒的な武力に踏み潰されるかもしれないという現実に、背筋が凍る思いがした。
3.八十名の忠誠
一方、王女と共に残ることを決めた八十名の従者たちにも、帝国国民としての試練が与えられていた。
護衛騎士たちは北大陸の荒々しい剣技を捨て、帝国の理論に基づいた武術の再教育を受け、侍女たちはフィラッカの高度な家政学と礼節を叩き込まれていく。
「私たちは、もうルミアトリアの人間ではないのですね」
ある夜、筆頭侍女が王女の髪を梳きながら、ぽつりと漏らした。
手元にある鏡に映る自分たちは、もはや滅びゆく国の亡霊ではない。帝国の巨大な歯車の一部として、新しい命を与えられた「部品」なのだ。
王女は、手元の教科書に目を落とした。
そこには「帝国」という文字が、力強く刻まれていた。
過去を捨て、故郷を管理対象へと落としめることで得られる、冷たくも完璧な平和。
彼女は、カイセートが口にした「自由」の意味を、もう一度深く考え始めていた。
■第二十二章:終章――受け継がれる秩序、拓かれる知性
一日の時間が長く、一月が四十五日もあるこの星の暦が巡り、年が変わった。
フィラッカ王国は、厳かな、しかし帝国らしい質素な熱狂に包まれていた。
1.「自由」のバトンと、秩序の重み
次王カイセートが正式に王位を継承した。
それと同時に、長年「国の父母」として義務を果たし続けてきた元女王と王配は、ついにその重責から解放された。彼らが隠居先として選んだのは、かつての威容ある王宮や屋敷に比べれば慎ましやかな、だが二人と共に屋敷で暮らす。彼らの元家臣である者達が過不足なく静かに過ごすには十分な広さの邸宅であった。
「あとは頼む。我らは、ただの二人の自由人としての人生を歩ませてもらうよ」
晴れやかな顔で去っていく先代たちの背中を見送りながら、カイセートはその肩に「秩序を守るべき王の責任」がずしりと乗るのを感じていた。そして、その重みは彼の傍らに立つ、元ルミアトリア王女――新王妃クリアート・フィラッカもまた、等しく背負うべきものであった。
2.言語の壁への挑戦
婚姻からの数ヶ月、クリアートが費やした努力は並大抵のものではなかった。
彼女には、カイセートという「特上の教師」がついていた。セリアンの血を引く彼は、北大陸の言語体系と帝国の言語の差異を自ら解析し、北大陸西部の言語の礎となった古語「アルディアン語」との対比表を、ルミアトリア語で自ら書き下ろして教え込んだのだ。
「いいか、クリアート。アルディアン語は洗練された基本言語だ。これを使いこなせれば、帝国内の図書の四割を読解できる」
その指導に応え、彼女は不可能に近いと思われた短期間でアルディアン語を自在に操るまでに至った。北大陸では高名な学者や魔術士が辞書を片手に一生を捧げるような深淵な言語を、彼女は「完成」に近い形で習得したのである。
3.帝国語という名の「暗号」
しかし、真の難関は帝国語であった。
表意文字には複数の読みがあり、発音は北大陸のそれとは根本から異なる。クリアートにとっては、それはもはや言語というより、高度に複雑化された「暗号文」を解読する作業に等しかった。 ネイティブである帝国の民にとっては、子供ですら稚拙ながらに使いこなす「当たり前」の道具。だが、異文化から来た彼女にとっては、意思疎通のための究極のハードルであった。
「まだ届かない。焦る必要はないが、諦めることも許されない」
カイセートは根気強く、彼女の手を取り、その瞳に宿る知性の火を絶やさぬよう導き続けた。 論文や哲学書を読み解くにはまだ時間がかかる。だが、彼女はもはや「無知な亡命者」ではなかった。フィラッカの王妃として、民と語り、夫と理想を分かち合うための言葉を、着実にその血肉へと変えていった。
4.完遂、そして新章へ
そして――ついにその時が訪れた。
世界で最も難関と言われる、帝国語の完全な理解。
クリアートは、複雑に絡み合う文字の連なりから、帝国の理を、哲学を、そして民の心を直接汲み取ることができるようになったのだ。
彼女が初めて、通訳も辞書も介さず、完璧な帝国語でカイセートに、そしてフィラッカの民に語りかけた時。
北大陸との断絶は、絶望の象徴ではなく、新しい世界を受け入れるための儀式となった。 王妃クリアート・フィラッカ。
彼女の歩む二百年の旅路は、いま、真の始まりを告げたのである。
物語の完了: 北大陸の王女から、帝国の王妃へ。
彼女が手に入れたのは、単なる言語ではなく「未来を創るための知性」だった。
カイセートと共に、彼女がどのようなフィラッカの未来を築いていくのか。
その物語は、帝国の悠久なる歴史の中に刻まれていくことになる。




