006:冒険者達の呟き
■第一章:剣士 ―― 鋼の残響、届かぬ火花
1.未明のルーチン
ファイセリウス王国の朝は、硬質な金属音から始まる。
造りは精緻だが、まだ不完全さの残るギルド都市に借りている宿舎。シャーラック・デルホアンは、まだ太陽が地平線を割る前から、共有の鍛錬場で木剣を振っていた。
シュッ、という鋭い風切り音。
一見、古風な素振りに見えるが、彼の意識は肉体の内側にあった。『回路の起動。流れを右肩から前腕へ……流速を一定に。散らすな。剣尖に留めろ……』彼の呼吸に合わせて、木剣の表面が微かに陽炎のように揺らぐ。帝国の基礎教育で叩き込まれる「錬気術」の初歩だ。
シャーラックは、ブラスダイヤモンド(プラチナランク相当)。
帝国の冒険者人口の中でも上位に数えられる精鋭であり、街の新人たちからは「辺境の守護者」と羨望の眼差しを向けられる存在だ。だが、当の本人は、自らの指先に溜まる魔素の「もたつき」に、苛立ちを隠せずにいた。
2.パーティーの「軸」
朝食後、彼は所属パーティー『夜霧の迷い人』の面々と合流した。
「おはよう、シャーラック。今日も朝から熱心ね。おかげで私たちの武器の寿命が延びるわ」 軽装鎧に身を包んだ治癒士の女性が笑う。
剣士の役割は、単なる攻撃ではない。
前衛で敵を引きつけ、攻撃を「点」で受け流し、後方の魔術士が詠唱を終えるまでの「時間」を稼ぐこと。パーティーの生存権は、彼の持つ一枚の盾と一本の剣、そして維持し続けなければならない錬気防御(装甲)の精度に懸かっている。
「……当然だ。俺が崩れれば、お前たちの命はない。それが剣士の役割だ」
無愛想な返事。だが、その背中にはブラスダイヤモンドとしての矜持が漲っていた。彼らは今日、都市近郊の丘陵地帯で発生した「甲殻大トカゲ」の群れの排除に向かう。
3.日常という名の戦場
戦場において、シャーラックは「精密機械」と化す。
大トカゲの硬質な尾が空気を裂いて襲いかかる。シャーラックは盾を掲げ、衝突の瞬間にだけ、盾の表面に錬気を集中させた。
ガギィィィン! と金属音が響く。
重い衝撃。だが、シャーラックの足元は一歩も退かない。錬気術によって物理的な質量差をねじ伏せ、衝撃を地面へと逃がしている。
「今だ、撃て!」
彼の合図と共に、後方から魔術士の一条の炎が放たれる。
剣士は前衛で「耐え」、隙を見て「断つ」。
帝国の戦理に基づいた、極めて合理的で無駄のない戦い。怪我人はゼロ。
完璧な勝利のはずだった。
4.届かない「あと一寸」
夕暮れ。ギルドへの報告を終えたシャーラックは、武器屋の暖簾をくぐっていた。
主人が、古びた、しかし手入れの行き届いたバスタードソードを差し出す。
「直ったぜ、シャーラック。だがな……こいつの魔導回路、もうガタがきてる。あんたの錬気出力に鋼が耐えきれなくなってるんだ」
シャーラックは剣を手に取り、その重みを確認した。
(回路が焼き付きかけている……)帝国製の武器には、魔力の伝導率を高める「魔術回路」が刻まれている。だが、プラチナランクの限界に達しつつある彼の出力に対して、普及品の回路では負荷が大きすぎるのだ。
「もっと……もっと精密で、高密度な魔術回路が施された剣があれば……」
彼は独り言のように呟いた。
もし、もっと質の良い剣があれば。もし、自分の錬気の精度が「流体」ではなく「結晶」の域に達していれば。
今の戦闘でも、盾で受ける必要さえなく、回避するか剣でさばき、一太刀でトカゲの甲殻ごと断ち切れたはずだという確信がある。
「親父、もっといい剣はないのか。シルバートパーズ級が使うような、特注のやつだ」
「ハッ、無茶言うな。あんなのは『最上級』の道具だ。あんたがもっと出世するか、それとも……歴史に残るような『剣聖』の秘宝でも見つけてくるんだな」
5.渇望という名の光
宿舎への帰り道、シャーラックは自分の掌をじっと見つめた。
今の自分は、人としての「努力」の最高到達点に近いところにいる。ブラスダイヤモンド――これ以上の強さは、もはや才能や運、あるいは未知の理論が必要になるのかもしれない。
それでも、胸の奥で燻る火は消えない。「まだ、先があるはずだ」
彼はまだ、未来に来る死神のような教官たちの存在も知らない。
ただ、純粋に「もっと強く、もっと速く、もっと鋭くありたい」という剣士としての本能的な渇望だけが、彼を突き動かしている。
明日もまた、彼は未明から剣を振るだろう。
いつか、自分の錬気が鋼の限界を越え、目指すべき「あの先」に届くことを信じて。
■第二章:守護士たるもの ―― 境界線の重み
1.辺境都市の「盾」
フィラッカ王国西端。魔素が渦巻く未踏の原生林から、わずか三十キロに位置する辺境都市「カストルム」。ここは、帝国の平穏と、魔素の影響で変異した魔獣たちが蠢く危険地帯との「境界」である。空気は常に微かな魔力を帯び、人々は安全の中にも緊張感を少し感じる。
この都市の冒険者ギルドに籍を置くブラスルビー(北大陸ランクでゴールド相当)の守護士、ビリタ・ガーランドは、重厚な甲冑を一枚ずつ丁寧に装着していた。彼が所属するパーティー『鋼の翼』にとって、この都市は絶え間ない実戦の場だ。
「ビリタ、装備のチェックは終わったか? 今日は原生林の境界付近に出た『重殻獣』の排除だ。不安定な魔素のせいで、あいつらの甲殻は通常より硬いぞ」
リーダーの剣士が声をかける。ビリタは無言で頷き、身の丈ほどもある大盾を軽々と持ち上げた。
2.「計算」と「衝撃」
都市から徒歩で数時間。空気が重く、皮膚を刺すような魔素の濃い森の入り口で、その魔獣は現れた。
重殻獣。不安定な魔素を吸って巨大化したその巨体は、重厚な馬車のような質量で突進してくる。
「来たぞ、散れ! ビリタ、受けろ!」
リーダーの叫びと同時に、ビリタは一歩前へ踏み込み、大盾を地面に突き刺した。
ビリタの体内の魔素が盾へと流れ込み、盾の縁から大地へと魔導の楔を打ち込む。激突の瞬間、金属がひしゃげるような凄まじい音が響いた。
普通なら腕の骨が砕け、盾ごと吹き飛ばされる衝撃。だが、ビリタの盾は微動だにしない。彼は自身の錬気を「防御」と「衝撃分散」に完全に振り分け、足から大地に逃がしていた。
『……腕の筋肉に負荷があるな。まあ問題無い、このくらいは耐えられる』
ビリタの頭の中にあるのは、熱い闘志ではなく、冷徹な算定だ。自分がこの場を動けば、後ろで魔法を練る仲間に衝撃が届く。その守護すべき責任の重さを、守護士として彼は決して許さない。
3.ブラスルビーの渇望
戦闘が終わり、重殻獣の巨体が崩れ落ちる。
仲間たちは勝利に沸くが、ビリタは一人、盾の表面に刻まれた数ミリの凹みを見つめていた。
『少しばかり、足りなかったか』
衝撃は逃がしたが、敵の爪先がわずかに盾の防御膜を貫通していた。
今の自分はブラスルビー。すでに「気術」の門を潜り、常人を遥かに超えた強者だ。だが、この不安定な魔素が漂う辺境で戦うほど、彼はある「不満」に突き当たる。
現在の帝国の理論に基づいた錬気防御は、物理的な装甲のみではなく錬気術にも依存している。盾が壊れれば、あるいは盾の隙間を突かれれば、純粋な錬気術で防ぐしかなくなる。
「もっと広範囲に、空間そのものを固定するような錬気ができれば……」
彼は、かつての建国神話に登場する「盤石王」の伝説を思い出す。盾など持たずとも、一歩踏み出すだけで味方全員に不可視の城壁を張ったというお伽噺だ。
4.「より良い鋼」への希求
都市へと戻る馬車の中、ビリタはギルドから配給された「魔導理論」と「応用錬気術上巻」の教本を捲っていた。
今の彼の悩みは、装備の重量と防御範囲のジレンマだ。
「ビリタ、また難しい顔して。今日も完璧だったじゃない」
パーティーの斥候が明るく声をかけるが、ビリタは小さく首を振った。
「……いや。俺の盾はまだ重すぎる。守護士なら、重さに頼らず、理で守るべきだ」
もっと精密な魔術回路が刻まれた特注の大盾。魔素の伝導率を極限まで高めた「帝国の技術」のコーティング。それがあれば、今日の衝撃も、盾に傷を負わせることなく無効化できたはずだった。
「どこかの工房に、衝撃を百パーセント熱に変換して相殺するような、そんな盾は売っていないのか……」
ビリタの呟きは、実直な彼なりの、高みへの熱烈な片想いだった。
5.結び ―― 境界を支える者
カストルムの夜。魔素の揺らぎが空を淡く光らせる中、ビリタは兵舎の裏で再び盾の手入れを始める。
ブラスルビーという地位に安住する気はさらさらない。いつか、自分の後ろに立つ者が「死」という言葉すら忘れるほどの、絶対的な安全圏を作り出すこと。それが、この辺境を支える守護士が抱く、静かなる野望だった。
彼はまだ知らない。自らの技術を疑い、さらなる「効率」を求めるそのストイックな精神こそが、帝国の目指す「熟成」の種であることを。
■第三章:魔術士 ―― 記述される火、数式の限界
1.学術都市の「光」
フォイツ王国、辺境都市「テオリア」。
魔素の海へと歩いて半日もかからない場所に建設された「冒険者のための都市」。100年前の前線はここからさらに帝国側へ数十キロ以上行った場所にある「シラルカ」だった。この都市の空気は、原生林から流れ込む不安定な魔素と、それを観測・制御しようとする魔導塔の波動が混じり合い、特有のピリついた感覚をもたらしている。
この街のギルドに所属するブラスダイヤモンド(北大陸魔術士でプラチナ相当)、メイアーナ・フォスラスは、研究室の机に積み上がった魔導書を閉じ、自身の「杖」を手に取った。
彼女の所属パーティー『真理の探求者』は、辺境に湧き出る魔素溜まりの調査と、それに伴う魔獣の排除を生業としている。
「メイアーナ、また数式の最適化か? あんまり根詰めると、実戦で頭が回らなくなるぞ」
リーダーの剣士が苦笑しながら声をかける。
「……効率が悪いのよ。今の私の展開速度では、魔素の揺らぎが激しい場所で術式が解けてしまう。もっと、一息に結果を確定させたいのに」
2.「記述」と「摩擦」
都市近郊、魔素の影響で結晶化した洞窟。
現れたのは、全身が鉱石で覆われた「結晶魔獣」だ。物理攻撃が通りにくい強敵に対し、メイアーナの魔法が期待される。
「全員、下がって! 二十秒、ラインを維持して!」
メイアーナは杖を掲げ、体内に構築した魔術回路に魔素を循環させる。
「流熱数解――集え、構造を成せ」
彼女がやっているのは、単なる呪文の詠唱ではない。大気中の不安定な魔素を計算によって掴み、強制的に「火」の構造へと書き換える作業だ。
だが、辺境特有の不安定な魔素は、彼女の計算に微かな「摩擦」を生じさせる。
『……くっ、数式が滑る! 重ねて記述、強制固定!』
彼女は歯を食いしばり、体内の魔力を無理やり注ぎ込んでエラーを押し潰した。
次の瞬間、杖の先から放たれた極低温の炎が、結晶魔獣の心臓を正確に貫き、粉砕した。
「ふう……。討伐完了。でも、今の展開……コンマ三秒遅れたわ」
勝利の喜びよりも先に、メイアーナの口を突いて出たのは、自身の計算能力への不満だった。
3.ブラスダイヤモンドの渇望
戦闘後のキャンプ地。メイアーナは煤けたローブを払いながら、ギルドから貸与された最新の「魔術回路論・中級」を読み耽っていた。
『あと少し……あと少しだけ、この杖の回路が精密なら。あるいは、私の体の魔術回路が、この不安定な魔素のノイズを瞬時に『項』として組み込めれば……』
今の彼女はブラスダイヤモンド。帝国が推奨する「理論に基づいた魔法」を使いこなし、北大陸の魔術士が一生をかけて到達する「プラチナ」の領域に片足を突っ込んでいる。
しかし、理屈を知っているからこそ、自分の「肉体と精神の処理速度」が、帝国の理想とする「純粋な事象の固定」に届いていないことが、もどかしくてならない。
「ねえ、リーダー。帝都の工房には、魔力伝導率が今の三倍はある、流体金属?液体金属?の刻印の杖が本当にあるのかしら?」
「さあな。だが、そういうのはシルバートパーズ級のバケモノたちが使うもんじゃないのか?魔術回路の刻まれた道具は精密になるほどバカ高くなるからな」
「……そうね。でも、それがあれば。もっと美しい数式で、世界を記述できるはずなのに」
4.「より深い理」への希求
テオリアへ戻る路。メイアーナは沈む夕日を見つめながら、指先で空中に小さな術式を描き続けていた。
今の彼女の悩みは、魔法を放つ際の「詠唱(思考の補助)」をどこまで削れるか、という点にある。
(理論上、完璧な回路があれば、思考した瞬間に結果は出るはず。……私の修行が足りないのか、それとも、この杖の限界なのか)
かつての神話に語られる「極衛」のような軍師級魔術士は、戦場全体を記述し、敵の魔法を瞬時に「零」に書き換えたという。
それは、今のメイアーナにとっては、あまりに遠く、しかし確かに存在する「数学的な極致」だった。
5.深淵を覗く瞳
学術都市の夜。メイアーナは自室の灯りの下で、自身の杖に刻まれた回路をルーペで点検する。 ブラスゴールドという地位に満足する術士など、フォイツにはいない。
いつか、この不安定な世界のすべてを、一文字の誤差もなく「式」として定義し、制御すること。それが、理論の国の魔術士が抱く、狂おしいほどの情熱だった。
彼女はまだ知らない。
「もっと精密な回路を、もっと速い処理を」と願い、自身の精神を数式に近づけようとするその渇望こそが、帝国の求める「新生」への第一歩であることを。
■第四章:斥候 ―― 消失の境界、届かぬ「無」
1.影の街の「残像」
リカッツ王国、辺境都市「シャウフォール」。
ここは断崖絶壁に築かれた街であり、立ち込める霧と複雑な地形が、原生林から流れ込む不安定な魔素を「溜まり」として留めてしまう場所だ。
この街のギルドに所属するブラスダイヤモンド(北大陸でプラチナ相当)、ニルス・ヴェッカーは、誰に気づかれることもなくギルドの屋根の上に立っていた。
彼が所属するパーティー『残響』において、ニルスの役割は「パーティーの眼」であり、同時に「敵の眼を潰すこと」にある。
「ニルス、そこにいるんだろ。時間だ、出るぞ」
階下でリーダーが声をかける。ニルスは返事をする代わりに、音もなく地上へ降り立った。
2.「加速」と「残響」
都市から十数キロ、魔素の乱気流が発生している「鳴き砂の谷」。
そこに潜むのは、周囲の風景を歪ませて姿を隠す「ドアラングラン」だ。斥候の索敵能力がなければ、パーティーは気づかぬうちにバラバラに切り刻まれる。
「……右、岩の影。三。来る」
ニルスが短く告げると同時に、空間が歪み、巨大な鎌が襲いかかった。
「おっと……」
ニルスが魔素を足元から爆発的に放出する。次の瞬間、彼の体は「三つの残像」を残して消失した。鎌に似た魔物の腕は空を切り、実体であるニルスはすでに魔獣の真上に位置していた。
『……くそ、魔素が重い。加速の「ノイズ」が消しきれない!』 ニルスは空中で歯を食いしばる。瞬気術による高速移動は、帝国の理論によれば「音と熱を最小限に抑えるべき」ものだ。しかし、この不安定な大気の中では、どうしても自分の移動が「風の音」を残してしまう。
彼は逆手に持った短剣で魔獣の関節を断ち切り、再び霧の中へと消えた。
3.ブラスダイヤモンドの苦悩
戦闘が終わり、安全圏まで撤退したキャンプ地。ニルスは愛用の短剣を無造作に回しながら、自身の「気配」を確認していた。
『まだ「存在」が漏れている。……俺が動くと、空気が揺れる。これじゃ、ただの「速いだけの獲物」だ』
今の彼はブラスダイヤモンド。瞬気術と躁気術の初歩を組み合わせ、物理的な速度では常人を遥かに凌駕している。
だが、彼が求めるのは、かつての伝説に語られる「殺界」のような領域だ。気配を消すのではなく「存在そのものを世界から切り離す」ような、絶対的な無。
「リーダー。ギルドに『影魔法を増幅する黒染めのコート』の入荷予定はないのか?」
「ニルス、お前……あれは一国に数着あるかどうかの特級品だぞ。ブラスランクが手を出せる金額じゃない」
「……わかってる。でも、この短剣の回路も、俺の瞬動の負荷に耐えられなくなってきてるんだ。もっと吸い付くような、影の一部になれるような刃がなきゃ……」
4.「無」への片想い
シャドウフォールへ戻る道中、ニルスは仲間の歩く音さえも耳障りに感じていた。
彼の悩みは、瞬気術の「出力」と「隠密」の矛盾にある。
(理論上、魔素の振動を完全に打ち消せば、視覚からも感知からも消えるはずだ。……俺の体内回路の配置が悪いのか? それとも、この安物のブーツがノイズを出しているのか?)
彼は、指先で自分の首筋に流れるであろう「魔素の回路」をなぞる。もっと緻密に、もっと静かに。
彼にとって、最高の斥候とは「誰にも知られず、そこに居ないかのようにすべてを終える者」だ。
5.影に潜む野心
街の喧騒から離れた路地裏。ニルスは壁に背を預け、自分の心拍音すらも術式で抑えようと試みる。
ブラスダイヤモンドという称号は、彼にとって「まだ不完全である」という証明に過ぎない。 いつか、光すらも追い越せず、影すらも置き去りにする「真の無」に到達すること。それが、リカッツが、斥候が抱く、凍てつくような渇望だった。
彼はまだ知らない。
「自分という存在を完全に消し去りたい」と願うその極限の探求心が、帝国の想定する「空間機動の極致」へと繋がっていることを。
■第五章:錬金術士 ―― 霊薬の純度、未踏の製法
1.研究室の「静寂」
リシタート王国、辺境都市「アムリティア」。魔素の濃い原生林から約35kmに位置するこの街は、希少な薬草や魔石の集積地でもある。
その一角、九人の混成パーティー『水面の風』が拠点とする建物に、リルトン・ハイザックの研究室はある。
室内には蒸留器が唸り、複雑な魔導回路が刻まれた釜が淡い光を放っている。
リルトンは、錬金術士の第四階位である「アトルマージ」の称号を持ち、ランクはシルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)。
この辺境において、彼以上の調合技術を持つ者は存在しない。それは傲慢ではなく、彼が積み上げてきた「理論」と「結果」が証明する事実であった。
「……よし、抽出完了。不純物の混入……は、許容範囲内だ」
彼はミスリルの匙で一滴の液体を掬う。それは傷だけでなく、欠損すら繋ぎ止めるという霊薬「エリクサー」の試作品だった。
2.「目利き」と「現実」
リルトンの日常は、膨大な調合と、それ以上の「選別」に費やされる。
ギルドの市場で仕入れた素材や、仲間の斥候アンバーが持ち帰った短剣のメンテナンス。アンバーが愛用する「双牙の刃」の表面に、リルトンは極細の魔導針で回路の拡張を施していく。
「アンバー、この刃の回路はもう限界だ。今の君の瞬気術の負荷に耐えるには、剣そのものをもっと上等な金属へ変える必要がある。このまま回路を修正拡張し続けるとしても、ギルド市場に出回る魔石の質では、その成功率は五割が限界だ」
リルトンほどの技量があっても、素材の不安定さは天敵だった。特に最高位の霊薬「ハイエリクサー」ともなれば、魔石の純度が少しでも揺らげば、数日間の労働が瞬時に煤へと変わる。
「リルトン、あんたの作る薬は高いが、死ぬよりはマシだ。金貨ならいくらでも積むよ」
そう言って笑う高ランク冒険者たちの言葉は嘘ではない。彼の作る「魔素毒中和剤」や「魔導触媒」は、辺境での生存率を劇的に引き上げる、命の対価だった。
3.「金」よりも「真理」
リルトンは、余った薬品を一般市場に流せば、今以上の富を築けることを知っている。
しかし、彼を突き動かすのは金銭欲ではない。
錬気術を学び、自身の精神を研ぎ澄まし、魔導理論によって事象の変換を数理的に理解した。その果てに彼が見据えるのは、未だ誰も辿り着いていない「至高の霊薬」の完成である。
『……誰かの冒険を成功させるのは、あくまで副産物に過ぎない。錬金術士の本分は、この世界の構成を理解し、再定義することだ』
彼はたまに、危険の少ない採集任務に同行する。
最前線の土を手に取り、その地の魔素量を測定し、名もなき草木の組成を解析する。その一歩一歩が、新しい「式」の発見に繋がると信じているからだ。
4.届かぬ「神域」
夜、リルトンは手入れを終えたアンバーの短剣を眺めながら、ふと帝国の伝説を思い出す。 無から有を生み出し、空間そのものを素材として錬成したという「創質の祖」の物語。
(……あの領域は、本当に存在するのか? 物質の等価交換を超え、概念から薬を紡ぎ出すなど、今の私の理論では解が導き出せない)
今の自分は、錬金術士としての頂点にいる。これ以上の先は、もはや技術の積み上げだけでは届かない「神話の領域」に思えた。
だが、その「解けない問い」こそが、リルトンの心に消えない火を灯し続けている。
5.結び ―― 瓶の中に詰めた希望
朝が来る。リルトンは完成した数本の小瓶を、仲間たちのために鞄へ詰める。
「ハイポーションに、魔素毒中和剤……今日はこれで問題ない。さあ、今日も命を繋ぎ止めてこい。私に次の『素材』を持ち帰るためにな」
不敵な笑みを浮かべ、彼は再び釜へと向き合う。
彼はまだ知らない。
自分よりも優秀な者は居ないという自負と、それでもなお至高を求めるその飽くなき探求心こそが、やがて帝国の技術体系をさらに一段階、引き上げる楔となることを。
■第六章:弓士 ―― 制圧の空、断ち切られた距離
1.境界都市の「天網」
シャギアン王国、辺境都市ルナシオン。原生林の境界から約40km。精霊のささやきが風に混じるこの都市で、冒険者ギルドに所属するブラスダイヤモンド(北大陸プラチナ相当)の弓士、カイト・セラムは、愛弓の弦を張り替えていた。
彼の弓は、しなやかな魔導木に精密な魔法回路が彫り込まれた代物だ。
「カイト、出発だ。今日は原生林から溢れ出した『バラムレグ(六本足の巨体を持つ剛毛の魔獣)』の群れを叩く。前衛が囲まれる前に、数を減らしてくれ」
リーダーの合図に、カイトは無言で背負った弓を握り直す。彼の腰に矢筒はない。上位の帝国弓士にとって、矢とは背負うものではなく、その場で「紡ぐ」ものだからだ。
2.「生成」と「爆裂」
都市から歩いて一日の荒野。土煙の向こうから、地響きと共にバラムレグの群れが突進してくる。その巨体は、一頭で馬車を押し潰すほどの質量がある。
「矢殻生成……」
カイトが弦を引き絞ると同時に、指先に集まった錬気が半透明の矢として実体化する。補給の心配も、矢切れの恐怖もない。カイトにとって戦場とは、周囲や自身の魔素が続く限り続く「射撃場」であった。
「三矢連撃」
カイトの体が微かにぶれ、瞬時に三本の矢が放たれた。矢は空気を切り裂き、バラムレグの強固な毛皮を易々と貫通する。
さらに、彼は次の一射に膨大な錬気を注ぎ込み、圧縮した。
「爆裂」
放たれた矢が群れの中心で閃光を放ち、暴発した。物理的な破片ではなく、純粋な錬気の波動が魔獣たちの足並みを粉砕し、突撃を強制停止させる。『……計算通り。だが、今の爆発、魔素の消費が予定より少し多い。回路の伝導効率に僅かなラグがあるな』
カイトは着弾を確認しながら、冷徹に自身の内側の「エラー」を数え上げていた。
3.ミスリルという「絶壁」
戦闘後の静寂の中、カイトは自分の弓をまじまじと見つめた。
今の自分はブラスダイヤモンド。一党の要であり、彼がいるだけで前衛は背後を気にせず攻めに集中できる。だが、彼は知っている。自分が今使っている「強化合金と魔導木の複合弓」では、これ以上の精密制御は不可能であることを。
『……もう少し精密な魔術回路を組み込めば、錬気を鍛えれば、伝え聞くミスリルの弓とはどのような物だろうか』
北大陸で伝説的に語られる、鋼の十倍の強度を持ち、なおかつ合金のように軽い「奇跡の金属」。1kgで1000アルクル(1億円)という、今の彼には素材だけなら買えない額ではない。しかしそれを武器の形にするだけで素材の価格を遥かに凌駕する。
しかも、ミスリルへの魔術回路の刻印技術は鋼や合金、魔木のそれとは全く違う。魔素が流れやすいということは、すなわち魔術回路を刻もうとすると「道具が滑る」ことになる。どんな熟練職人でも、不可能ではないが、可能でもない。
魔術回路を刻まれていないミスリル弓なぞただの伝導効率が高いだけの軽い弓に過ぎない。
そして、最も重要で落胆すべきことは、ミスリル製の武具などどう探しても見つからない、噂だけ、オークションにも出ない。「師が引退するときに最も優秀な弟子に継ぐ」物だという伝説に近い噂。
「カイト、お疲れ。お前の爆裂矢のおかげで、一度も盾を叩かれずに済んだよ」
前衛の守護士が笑いながら寄ってくるが、カイトの視線は遠くの空を向いていた。
「……いや。今の俺では、あと十メートル先での爆発を制御できない。距離という安全地帯を完全に否定するには、まだ道具も、俺の練度も足りない」
4.「全域制圧」への渇望
ルナシオンへ戻る道すがら、カイトは歩きながらも指先で小さな錬気の矢を作り、消す訓練を繰り返していた。
彼の理想は、視界に入る全ての敵を、一歩も動かさずに、一射も外さず、同時に制圧することだ。
『理論上、躁気術を極めれば、放った後の矢を十本同時に別々の方向へ曲げられるはずだ。……でも、今の俺の体内回路では、三本が限界か』
高位の弓士にとって、弓はもはや武器ではなく、空間を規定するための計算機に近い。
もっと精密な魔法回路。もっと魔力伝導の良い素材。そして、それらを使いこなすための錬気、深い魔導理論の理解。
5.結び ―― 蒼穹を射抜く意志
都市の門が見えてくる頃、カイトは心に決めていた。
次の大規模な討伐依頼で報酬を積み立て、いつか必ず、拡張ではなく全くの新規で「完成された魔術回路」を刻まれた特注の弓を手に入れることを。
ブラスダイヤモンドという現状に甘んじることは、弓士としての死を意味する。
彼はまだ知らない。
「距離を無意味にする」というその傲慢なまでの挑戦心が、帝国の戦略体系において、魔術士と並ぶ「戦術級個体」へと誰かを変貌させていくことを。
■第七章:弓士 ―― 星流の果て、静霧の彼方
1.静寂を破る「赤」
北大陸の最北、極寒の風が吹き荒れるフェルナード草原が生んだ俊足の民――フェルナード族。その血を引くレイシル・フィオネートは、アーンレイム帝国辺境都市の城壁の上で、重い沈黙の中にいた。
彼女はシルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)。北大陸ではプラチナランクでさえ英雄と呼ばれたが、帝国においては噂に聞くシルバールビーのペストムのような「本物の強者」ではない。高度な理論と装備を操るエリートではあるが、肉体の強さは気術で強化しようとも人間の高みを少々超える程度でしかない。拳士や守護士と違い、一歩間違えれば命を落とす「弓の熟練者」に過ぎない。
数日前から、ギルドの定時調査によって魔素の異常な濁流が報告されていた。
「レイシル、報告が上がって来たわ。予測よりも早い」
パーティー『星流の湖』の魔術士ティナト・ラーマンが、顔を強張らせて城壁に駆け上がる。 「南西三十六キロ、原生林の奥地。魔素の濁流が臨界を突破した。這い出してきたのは……超級魔獣『グレンダ・ドム』。冗談じゃない、シルバートパーズでも死人が出る案件よ。複数パーティーのクランレイドを結成……してる暇がないわ」
「……わかってる。ギルドからの『緊急防衛要請』ね。行きましょう」
レイシルの指先が、全財産二万アルクル(二十億円)を投じて手に入れたミスリル製の長弓『フォルティラン』の弦を弾く。その表情に余裕はない。
ミスリル製、その危険性は「事実上持ち主を選ぶ」という残酷な「性能」
全財産二万アルクルを投じて”使用する権利を帝国から「特別に」与えられた”ミスリル長弓『フォルティラン』を握りしめる。通常、ミスリル製の武器は”買えない”この弓は「所有者を選ぶ」。未熟な者が引けば、その魔導回路は使用者の体を魔素の在庫として焼き、命を吸い尽くす。レイシルにとって、これは武器ではなく「死と隣り合わせの契約」だった。
2.「戦術」としての強行軍
城壁を蹴り、レイシルたちは荒野を疾走した。
【瞬気術】を帝国の理論で最適化しているとはいえ、超級魔獣を相手にする緊張感が魔素の消費を早める。数十分後、彼女は先行して観測を続けていた斥候の伏せている丘へと辿り着いた。
「レイシルか! 早かったな……だが、あいつはもうそこまで来ている。ティナトはまだのようだな」
斥候のマーティスは観測望遠鏡に齧りつき、震える声で遠くを覗く。
「見たところ、あそこらあたりだな。魔素が濃すぎて観測が出来ない。足止め程度に大火力の魔法を予測位置へ叩き込むしかないぞ。別のパーティーの奴らを待ってる間に安全圏に入り込まれる可能性がある。出来るか?マイア」
マーティスはマイアに聞くが、この距離で超級魔獣仕留められる魔法など伝説の中にしかない。
「間に合うのか?これ……」
「無理ね、大規模魔法になると距離が稼げない、威力が散るわ。そもそも魔法一つでどうにかなる相手じゃない。近くまで行かないと、出来るだけ多くの人数で」
マイアは冷静に答える。
このクラスの魔獣になると、前衛や中衛が押しとどめ、削り、後衛の「威力重視の魔法」か「弓士の爆裂式を多重に組み込んだ『錬気の矢』」で魔獣の『核』を破壊して仕留める。それ位には脅威をもたらす相手である。
「弓なんかじゃ届くわけもないし、どうしよう」
レイシルも他のメンバーが来るまでの間、手の出しようがない。
3.「弓士」の定義、あるいは「絶壁」
通常、帝国における弓士の有効射程は、気術による加速を加えても数百メートル。一キロを超えれば風の抵抗と魔素のノイズによって殺傷力は激減する。ましてや、山のような外殻を誇る超級魔獣『グレンダ・ドム』を、豆粒にしか見えない距離から仕留めるなど、戦術論の枠外だった。
「……いいえ、私なら届かせられる」
レイシルが低く呟き、ミスリル製の長弓『フォルティラン』を掲げた。
その弓身の奥に刻まれた液体金属の回路が、彼女の覚悟に応えるように青白く発光する。
「レイシル、正気!? 確かにその弓は『銘入りの本物』だけど、だからこそ危険って知ってるでしょう?!この距離で超級の装甲を抜くには、どれだけの錬気を弓と矢に充填しなきゃいけないと思ってるのよ!」
魔術士マイアが叫ぶ。魔法の威力は「構築された術式の質量」に依存するが、弓士の威力は「矢という一点にどれだけの密度で錬気を詰め込めるか」という圧縮率に依存する。この距離で超級を抜く一射は、下手をすればレイシルの全魔素を一度に使い果たし、身体が壊れ、再起不能にする可能性の高い賭けだ。
4.「神木の矢」と因果の逆転
レイシルは答えず、腰に差した「神木の矢」の一本を引き抜いた。矢じりにミスリルを使い精緻な魔術回路が組み込まれた、そしてアルネシアの神木の枝を芯材としたその矢は、単なる武器ではない。一本で三回分の冒険報酬に匹敵する価値を持つ、精霊と技術の結晶だ。
「マーティス、もう一度観測を。三秒でいい、核の『揺らぎ』を見つけて。それ以上は私の精神も体も持たない」
レイシルは弓を最大まで引き絞る。
ミスリルの強靭なしなりが、彼女の腕の骨を軋ませる。鋼の十倍の強度を持つこの弓だからこそ、超級魔獣を討ち抜くための「絶大な初速」に耐えられるのだ。
しかしその”性能”は持ち主のリミッターを外し「武器の生贄」にしてしまう。
「……っ、見えた! 外殻の三番目の節! 魔素が逆流してる一点がある!」
マーティスの叫びと同時に、レイシルの意識が世界から切り離された。
「【錬気術・極点圧縮】――【躁気術・爆裂】」
放たれた矢は、もはや実体を持たない「光の杭」だった。
音速の壁を幾重にも突き破り、三キロ先の空気を焦がしながら、矢はグレンダ・ドムの巨体へと吸い込まれる。
5.クランレイドの代替、一撃の代償
直後、地平線の彼方で「太陽が生まれた」かのような閃光が爆発した。
超級魔獣。本来なら数パーティー、数十人の熟練者が死力を尽くし、数時間をかけて削り落とす「災害」。それが、内側から膨れ上がる核の崩壊膨張によって、まるで爆発する巨塔のように崩れ去っていく。
「……あ……」
マーティスが呆然と望遠鏡を落とす。
マイアの広域魔法でも、近接職の決死の特攻でも届かなかった「結末」が、たった一本の矢によって強制的に引き寄せられた。
だが、その代償は小さくない。
レイシルは膝をつき、激しく咳き込んだ。ミスリルの弓身は無傷だが、それを扱った彼女の肉体は過負荷で悲鳴を上げている。鼻と耳、眼窩から垂れる血が、彼女が「超人」ではなく、ただ無理をして理をねじ曲げた「人間」であることを物語っていた。
「勝ったのね……クランレイド無しで、超級を……」
マイアが駆け寄る。レイシルは蒼白な顔で、しかし満足げに、フォルティランの冷たい感触を確かめた。
「……まだ、弓と矢に頼りすぎているわ。本当の英雄なら、普通の矢でも同じことができたはずよ。しかも体はズタズタ。あ……多分これ、死ぬ……ハイエリクサーもってる?忘れてきちゃ……た……の」
ミスリルの武器は持ち主を選ぶ。入手は困難だが、それでも偶然入手できることはある。国宝でもなければ、美術館に飾られるような芸術品でもない。ただ”主人を選ぶ”かのように弱者を壊す。
6.強制再定義
意識が遠のくレイシルの視界に、焦燥に駆られたマーティスの顔が割り込んだ。
「馬鹿野郎、忘れただと!? 死んだらギルドの死亡記録が汚れるんだよ!」
彼は迷いなくポーチから小瓶を取り出した。ブラスダイヤモンドなら常備して当然、ブラスルビー級でもパーティーの必須装備である一本500アルクルは下らない霊薬。ハイエリクサーが、レイシルの口内に流し込まれる。
その瞬間、全身を白光が突き抜けた。
砕けた骨が元の位置へと吸い寄せられ、焼き切れた腱が超高速で編み直されていく。それは慈悲深い治癒などではない。
「損傷した事実」を強制的に「無傷の記録」で塗り潰す治療を超える暴力だった。
数秒後、レイシルは荒い呼吸と共に跳ね起きた。
衣服は血に塗れているが、その下の肌は陶器のように滑らかなままだ。つい先ほどまで死の淵にいた形跡はどこにもない。だが、脳に焼き付いた「肉体が崩壊する感覚」だけが、現実との乖離を起こして彼女を震わせていた。
7.「不壊の理」と「器の限界」
超級魔獣『グレンダ・ドム』の消滅を確認したギルドの回収班が到着した頃、現場には重苦しい沈黙が流れていた。
「……見たか。ミスリルが、レイシルの命を『燃料』として計算したのを」
マーティスが震える手で、精神安定用の属性石を弄る。その石の冷たさだけが、高位の冒険者の昂ぶりを鎮める唯一の手段だった。
ミスリル製の武器は、絶対破壊不能である。小傷すらつかぬその強靭な金属素材と回路は、出力の過負荷を自身の歪みとして受け入れることを拒み、すべてを使用者の肉体へと逆流させる。 「本来、ミスリル武器はシルバールビー(オリハルコンランク)が少し無理をして性能を引き出し、適格者がようやく適合する武器だ。トパーズ級のお前が耐えられる道理がない。道具が壊れないから、代わりに人間が壊れるんだ」
二万アルクルという巨額を投じて手に入れたミスリル。だが、どれほど富を積もうとも、この不壊の理は所有者を「主人」とは認めない。それは、死ぬことさえ許されない「修復」の苦痛を前提に、自らを兵器の一部として捧げ続ける地獄の門出だった。
8.不完全な帰還
翌日。レイシルは傷一つない体で、地方都市にある帝立工房院の地下「魔導工廠」の扉を叩いた。
そこには、主人の命を吸い尽くそうとした「不壊の弓」フォルティランが、点検用の魔導陣の上に鎮座していた。
「……来たか、死に損ない」
帝国最高位の工匠、バルカスが、精緻な魔導鏡を覗き込みながら声をかける。
帝都であれば超級魔導炉によるホログラム投影が可能だが、この地方都市では、出力された膨大な「回路走査記録」の紙束と、魔導鏡を通した直接視認が限界だった。
「全快した気分はどうだ? 治癒士どもが、お前の細胞を隅々まで『元の位置』に押し戻してくれたぞ。……だが、こいつの中身は、お前のようにはいかないな」
バルカスは魔導鏡から目を離し、レイシルに一枚の羊皮紙を突きつけた。そこには、魔導鏡が捉えたフォルティランの内部回路の「残響」が転写されている。絶対不壊のミスリル回路には微かな傷も存在しないが、その完璧な青い幾何学模様の奥に、回路に残された可視化出来る無理の痕跡が、明らかに”語られて”いた。そのミスリルの弓は戦闘の記録を残していたのだ。
「見ろ、レイシル。これがフォルティランの『記憶』だ。お前があの一射を放った瞬間、こいつがお前をどう認識していたか……その痕跡だ」
レイシルは、その戦闘の記録が魔法回路の分岐として形を成していることに気づき、戦慄した。弓はレイシルを、ただの「不十分な予備の伝導体」として回路の一部に組み込んで成長していたのだ。
9.修復と対話 ―― 回路が語る主人の資格
「こいつはお前を『主』とは思っていないよ」
バルカスの淡々とした言葉が、工房の湿った空気の中で響いた。
「その体は、ただの、一度きりの高負荷に耐えるための『消耗品』だ。ミスリル回路の不滅を支えるために、お前の肉体を焼き切ることを、こいつは『効率的』だと判断した。それが、フォルティランから見たお前の定義だ」
レイシルは、鏡のように滑らかな自分の右腕を見た。
ハイエリクサーによって抹消された痛み。しかし、この羊皮紙に刻まれた「無理の痕跡」こそが、あの一瞬、自分が確かに存在し、そして弓に食い潰された証だった。
「……どうすれば、こいつを黙らせられますか」
レイシルの声には、静かな怒りが混じっていた。
「黙らせる? ほう」
バルカスは、初めて魔導鏡から顔を上げ、彼女を真っ直ぐに見た。
「ミスリルという不壊の理を、力で従わせようっていうのか。……いいだろう。なら、まずはその弓の『設計思想』を知れ。そして、お前自身の魔素を、弓の回路を上回る『密度』にまで練り上げるんだ。道具に食われるのは、お前という存在がまだ、この冷徹な理よりも『薄い』からだ」
バルカスは、工房の出口を顎で示した。
「外で、一人待ってるぞ。今回の一射を、お前とは別の視点から見ていた奴だ」
重厚な扉の向こう。廊下の薄明かりの中に、壁に背を預けて立つ影があった。その腰には、見たことの無い形状の鞘、緩やかな曲線を持つ太刀。シルバールビーの到達者、ペストム・リンバーンが、レイシルを待っていた。
■第八章:治癒士 ―― 逆流する命、因果の拒絶
1.聖域の「観測者」
リシタート王国、冒険者の街「サリュート」。そこから魔の森へと続く道の向こう側。
ブラスダイヤモンド(北大陸プラチナ相当)の治癒士、エルナ・ストレイトは、最後衛の定位置から戦場を冷徹に見つめていた。
彼女が所属するパーティー『不落の盾』は、現在、都市から三十キロ離れた地点で変異種と交戦中だ。エルナが持つ役割は、仲間の傷に涙することではない。秒単位で変化する戦況を俯瞰し、パーティーの「継戦能力」を管理する、冷徹な統括者である。
「……前衛、盾が削れたわね。でも、まだいい」彼女の瞳に焦りはない。治癒士は、擦り傷一つで魔法を無駄撃ちしたりはしない。魔素の枯渇こそが全滅を招く最大の要因だと知っているからだ。
2.「損壊」への即応
突如、前衛の剣士が魔獣の強打を浴び、不自然な角度で腕を弾かれた。
鈍い破砕音が空気を震わせる。
「腕、骨折。――修復開始」
エルナの判断は一瞬だった。戦闘継続に支障が出る致命的な「損壊」を確認したその瞬間、彼女は温存していた魔力を解放する。治癒士にとって、傷とは「痛み」ではなく、戦闘システムに生じた「致命的なバグ」に過ぎない。
「治癒開始、骨折の治療」
彼女の手から放たれる光は、複雑な因果を飛び越える。
ぐにゃりと曲がっていた剣士の腕が、バキバキと音を立てて「正しいカタチ」へと瞬時に矯正され、皮膚の裂傷が吸い付くように閉じる
「処置完了。……アルイヌ、そのまま。動けるなら治さないわよ」
出血していても、命に別条がなく、敵を倒す動きが阻害されていないなら、エルナは動かない。彼女が管理しているのは「命」そのものであり、その命が「敗北」へと転じないための最低限の均衡だった。
3.「死」という名のシステムエラー
戦闘は終了した。全員が五体満足で帰還する。帝国において、これは「当然の結末」である。
年間死亡率〇.〇〇八%。この異常な低さを支えているのは、リルトンのような錬金術士が作る霊薬と、エルナのような治癒士による冷徹な「生存管理」だ。
だが、エルナは一人、手入れを終えたばかりの自分の掌を見つめていた。
『……今日の骨折、処置まで数秒遅れたら、剣士の防衛線が抜かれていた。私の『判断』が死を招くところだったわ』
彼女にとって、傷を治すことは仕事の半分に過ぎない。本当に恐ろしいのは、治癒が間に合わないほどの「即死」や、判断を誤った瞬間に訪れる「全滅」だ。
帝国において冒険者の死亡は、治癒士の処理能力が世界の悪意に敗北したという、決定的な「システムエラー」なのだ。
4.「不変」への片想い
医療魔導院の書庫で、エルナは自身の「状態解析」をより効率化するための教本を捲っていた。 今の彼女はブラスダイヤモンド。重度の再生術式を使いこなすが、それでも「怪我をした」という結果を見てから治すという、時間の流れからは逃れられない。
『もし……オリハルコン級の治癒士のように、負傷そのものを未発生化できれば。あるいは、死という結果すらも『起きなかったこと』に書き換えられれば』
それはもはや治癒ではなく、神の領域への侵犯だ。
だが、極稀に起こる「救助が数秒間に合わなかった事故」の報を耳にするたび、彼女の心には冷たい炎が灯る。
敗北を、物理的に不可能にしたい。
5.敗北を許さぬ意志
サリュートの夜。エルナは自身の精神を安定させるための薬剤を煽り、再び戦術ログの解析に入る。
治癒士は勝利を作らない。ただ、敗北という選択肢を世界から消し去るために存在する。
「明日、もし誰かが致命傷を負っても。私がそれを『修復』してみせる」
感情を殺したはずの彼女の瞳には、理論だけでは説明できないほどの、生への凄絶な執着が宿っていた。
6.静かなる「事後査定」
エルナ・ストレイトがその一件を知ったのは、自身のパーティー『不落の盾』の定期メンテナンスのため、サリュート市内の帝立工房院を訪れた際だった。
工房の技師たちが、前日に運び込まれた「三十キロ先の超級を仕留めたミスリル弓」の回路走査記録について、技術的な驚愕と共に囁き合っていたからだ。
「……シルバートパーズ級が、ミスリルの弓で超级を?反動で致命傷……ハイエリクサーで治癒?」
エルナの瞳に、冷徹な計算の色が宿る。ブラスダイヤモンド(プラチナ相当)の治癒士として数々の死線を踏みしめてきた彼女の経験則では、それは「撃破」という解が導き出せない、致命的なエラーを含んだ数式だった。
彼女が関心を持ったのは、その弓士の武勇ではない。「ミスリル武器による、想定外の生体損壊と、それに対するハイエリクサーの修復限界」という、実戦データとしての価値である。
7.「修復」の裏側にある残響
エルナは自身のパーティーの機材点検を終えると、点検用の魔導陣のそばで一人、自分の右腕をじっと見つめている女――レイシル・フィオネートの姿を見つけた。
ハイエリクサーを口に含んだなら、外見上は細胞の一片に至るまで「無傷」に書き換えられているはずだ。だが、エルナの眼――現役の治癒士としての観測眼は、その滑らかな肌の奥に漂う「違和感」を鋭く捉えた。
「……違和感があるでしょう。そこの弓士」
エルナの声に、レイシルが弾かれたように顔を上げた。
「……あなたは?」
「エルナ・ストレイト。パーティー『不落の盾』の治癒士よ」
エルナは歩み寄り、承諾を得るより早くレイシルの右腕を掴んだ。その握力は、対象を「個体」として完全に把握するための、治癒士特有の冷徹な強さだった。
「ハイエリクサーは結果を上書きするけれど、魂が覚えた『肉体が焼き切れる感覚』までは消してくれない。今のあなたの魔素循環、極めて不安定だわ。ミスリルに食われた記憶が、生体回路に『拒絶反応』として残っている」
8.支配への助言
レイシルは腕を引き抜こうとしたが、エルナはそれに抵抗した。
「ハイエリクサーは肉体を完全に治癒出来る。けれど、擦り切れた精神までは修復できない」
エルナにとって、目の前の弓士は「同じ都市の貴重な戦力資産」に過ぎない。その資産が自らの意志で「不壊の理」を支配しようとしているならば、同じ戦場に立つ治癒士として、管理の観点から助言を与えるのは合理的だった。
「いい? 弓があなたを壊すのなら、二度と壊れない程度まで、弓を使いこなせる段階まで自分を引き上げる事。あなたが弓を『私の器官の一部』だと定義し直すの。治癒士が自分の魔力を己の細胞として扱うように、外部の魔導回路を、自分の肉体の延長として強制認識させる。それが、オリハルコン級が踏んでいる最低限の領域って聞くから。まあブラスダイヤモンドがシルバートパーズに言うのは分不相応だと思うけれど」
エルナの冷たくも現実的な忠告を背に受け、レイシルは工廠の出口へと向かった。
■第九章:魔術士 ―― 術式の均衡、記述される「資源」
1.記述される「法則」
フォイツ王国、ギルド都市「アイゼン」。
石造りの重厚な魔導塔の一室で、シルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)の魔術士、ティナト・ラーマンは、机の上に広げた分厚い「魔術書」と対峙していた。
帝国において魔法とは、血筋や閃きではなく、徹底した「学習」の集積である。彼女の魔術書には、先人たちが数百年かけて解析した魔素物理学の術式が、びっしりと魔法処理された羊皮紙に刻まれている。
彼女の役割は、この複雑な術式を完璧に脳内の魔法回廊へ「記録」し、現実の魔素を流し込むための「型」として保持することだ。
「……空間内の余剰魔素、固定。地中からの供給路、遮断。術式構成、第三階梯へ」
彼女の手には、魔力伝導率に優れた魔木の古木と稀少金属オルフィダイトで作られた杖がある。それは「超未来的な装置」ではないが、何世代もの魔術士が磨き上げた、理論を現象へと変えるための最も洗練された「筆」だった。
2.「イメージ」と「資源」の狭間
都市から徒歩で1日程離れた荒野。数百の魔獣が防衛線へと迫っていた。
ティナトは高台から戦場を俯瞰し、脳内で「イメージ」を構築する。帝国において、魔獣をただ「消し去る」ことは無駄だとされている。可能であれば素材として残さなければならない。
肉、皮、そして何よりその核である「魔石」は、帝国の経済と文明を支える貴重な戦利品であり、資源だからだ。
一部の超級魔物はその魔石「核」を砕いて滅ぼすしかないが、今回の相手は「資源」である。
彼女は一文字の誤りもなく、厳かに「詠唱」を開始した。それは脳内の術式を現実の魔素と同期させるための必須のプロセス。体内魔素を呼び水に、杖を介して空間と地中の魔素を編み上げていく。 「核を外して、神経系のみを焼き切る――『位相干渉・炎熱鎖』」
「発動」
放たれた不可視の術式は、魔獣を焼くことも爆発させることもなく、その運動能力だけを精密に剥奪した。
次々と膝を突く魔獣の群れ。肉体は無傷、魔石も変質していない。これこそが、素材価値を最大化するシルバートパーズ級魔術士の「プロの仕事」である。
3.回廊の「過熱」と代償
静まり返った戦場の中心で、ティナトは震える手で「魔導書」を閉じた。
ただ破壊するだけの魔法より、素材を傷つけず無力化する精密な魔法の方が、脳内の「魔法回廊」と体内にある「魔術回路」への負荷は数倍に跳ね上がる。回路が熱を持ち、軽い痛みが頭を刺した。
「……空間魔素との同調率、上々。素材損壊率、ほぼゼロ。……けど、魔法回廊の熱が引かないわね」
彼女はすぐさま「魔素循環剤」の瓶を煽り、回廊の過熱を抑える。魔術士は守られなければ即死するほど肉体的には脆い。錬気術に回すべき魔術回路を全て魔法用へと書き換えているからだ。だが、守られてさえいれば、パーティーで膨大な富を戦場から生み出すことができる。その圧倒的な力の代償は、常に自身の肉体を内側から焼き続ける魔素の毒であった。
4.「オリハルコン」という神域
ティナトは、自分が扱う「魔導書」の、さらに先にある古い記述を思い出す。
オリハルコン、あるいは初代選帝王といった伝説の領域。彼らが振るう「重質量爆撃圧壊」のような事象改変魔法は、もはや戦場を「資源」として扱う必要がない強者の特権だ。
『……私のような冒険者には、まだ許されない領域。すべてを消し去る魔法は、資源国家である帝国においては『敗北』に等しいもの』
素材を傷つけず、資源を確保しつつ、脅威を完全に排除する。その矛盾した要求に、古めかしい魔術書と理論だけで応え続けること。それが、帝国の魔術士としての矜持だった。
5.記述される終焉
アイゼンの夜。ティナトは未だ整っていない魔導炉とそのシステム不足による闇の中。
ランプの火の下で、再び魔術書を開く。
剣士が敵を斬り、治癒士が敗北を拒絶するこの世界で、魔術士は――そのすべてが成立するための「対価」を数式として記述する。
「明日、もう一度術式の最適化を行いましょう。……一文字の誤差もなく、利益と安全を両立させるために」
静かな書斎に、万年筆が上等な魔法羊皮紙の上を走る音だけが響く。
この世界のすべてを、自らの「理論」で正しく導き続けるその日まで、彼女の学習が終わることはない。
6.理論の限界、現実の「歪み」
ティナト・ラーマンがアイゼン市内の魔導書院へと帰還した頃、荒野で無力化した魔獣の「資源回収」は、ギルドの専属解体班によって手際よく進められていた。
彼女の完璧な術式制御により、魔獣の神経系のみを焼き切った素材は、市場で最高値の評価を受けるだろう。今回の戦果だけで、パーティーの手残りには数百アルクルが積み上がる計算だ。
だが、ティナトは自室の書斎で、自身の右手の震えが止まらないのを冷徹に見つめていた。 「……空間魔素の逆流。術式の最適化が、まだほんの少し足りなかったわね」
彼女はため息をつき、ハイエリクサー……ではなく、魔術士専用の低純度安定剤を喉に流し込む。
魔術士にとって、肉体は術式を現実へ投影するための「レンズ」に過ぎない。レンズに歪みが生じれば、出力される事象もまた歪み、最悪の場合は脳内の魔法回廊ごと自己崩壊を招く。
7.「記録」と「予測」
翌朝、ティナトは書院の奥深くにある「魔導演算室」へと足を運んだ。
アイゼンの魔導演算室は帝都の超級魔導炉に直結こそしていないが、数代前の演算装置が唸りを上げ、複雑な術式のシミュレーションを可能にしている。
「……ラーマン。昨日の戦果、ギルド査定は『特級』だ。素材の鮮度が、これまでの記録を塗り替えたぞ」
管理官の声にも、ティナトの表情は動かない。
査定はどうでもいいわ。それより、第十四節の『位相干渉』の収束率を解析して。私の回廊に熱が残った。記述に、何らかの欠陥があるはずよ」
演算核が吐き出した自動記述用の上等な紙には、膨大な数式とグラフが並んでいた。
そこには、彼女の術式が魔獣の神経を焼く「刹那」の直前、空間魔素が予期せぬ「抵抗」を示した痕跡が記録されていた。
8.「神域」への羨望
ティナトは出力されたデータを指でなぞる。
「……結局、これなのね。シルバートパーズ級の出力では、空間そのものの『慣性』をねじ伏せきれない」
彼女が目指すのは、伝説に語られるオリハルコン級の術式。
彼らが振るう魔法は、もはや「資源の確保」と「敵の排除」という矛盾に悩まされることはない。精密な魔法回廊かもしくは他を圧倒する天才の勘なのか、資源として価値のある部位だけを残し、それ以外を「不要な物」にして傷を気にしない。
それは、今彼女が苦心している精密制御を、息を吸うように当然の帰結として行う領域。
「私たちがどれほど精緻に神経を焼き切っても、彼らの一瞥には及ばない。……魔法とは、残酷なまでに『知の集積』と『階梯』の物語だわ」
9.新たな記述の始まり
書院の窓から、アイゼンの街を覆う夜の静寂を見下ろす。
遠くで、夜間任務に向かう「不落の盾」のような上位パーティーの灯りが見えた。
治癒士が「死」を拒絶し、弓士が「距離と威力の反比例」に抗い、魔術士が「魔物を資源となす術」を記述する。
この帝国を支える歯車の一部として、彼女は再び万年筆を取る。
「……第十五節、供給パスの再定義。次は、熱を自身の回廊に逃がすのではなく、大気へと完全放射する式を構築しましょう」
彼女の万年筆が、魔法付与羊皮紙の上で鋭い音を立てる。
記述される数式こそが、彼女が明日を生き抜くための、唯一にして最強の「武器」であった。
■第十章:精霊術士 ―― 唱和する環境、世界との契約
1.交渉者の「沈黙」
リシタート王国、水都「アクイラン」
この都市の精霊殿の一角で、シルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)の精霊術士、エイラ・スワーノは静かに目を閉じていた。
彼女の周囲には、常人には見えない無数の「微精霊」たちが、陽だまりの塵のように舞っている。
精霊術士にとって、魔法とは術式を構築する「命令」ではない。世界そのものを構成する人格的側面――精霊との「交渉」と「契約」である。
「……聞こえるわ。土のざわめき、水の震え。機嫌は悪くないみたいね」
彼女は懐から取り出した琥珀色の媒介具をそっと撫でる。それは精霊たちと対話するための信頼の証であった。
2.「環境」を味方にする力
都市の防衛区域外、魔素の乱れによって狂暴化した魔獣の群れが、都市から森へと続く水路を伝って侵攻を試みていた。
現場に到着したエイラは、杖を振るうことも、長く複雑な詠唱をすることもない。彼女がしたのは、水面に指先を触れ、穏やかに語りかけることだった。
「【精霊契約・中位展開】……お願い、道を閉ざして」
彼女の声に応じ、水路の水が人格を持ったかのように跳ね上がった。出現したのは中位水精霊「ウルマカン」。契約に基づき、水は巨大な壁となり、さらには無数の刃となって魔獣を押し戻す。魔術士が火球を放って魔獣を「壊す」のに対し、精霊術士は周囲そのものを操作し、敵にとって「生存不能な環境」を作り出す。
エイラはさらに、土の精霊とも同期する。同時に二体の中位精霊を制御する精神負荷は跳ね上がるが、彼女は訓練された精神でその重圧を支え切る。
「足元も、少し重くしましょうか」泥濘と化した大地が魔獣の足を捕らえ、沈め、無力化していく。前衛が武器を抜く前に、戦場はすでにエイラの「友」たちによって再定義されていた。
3.契約の「代償」と「誠実」
戦闘が終了すると、精霊たちは霧が晴れるように姿を消した。
エイラの表情に疲労の色が浮かぶ。精霊術士は命令者ではない。一度でも無礼を働けば、精霊はその不誠実を永久に忘れず、二度と呼びかけに応じることはない。
「……ありがとう。約束通り、今日の私の魔素はあなたたちに」
彼女は自身が携行する「魔素循環剤」を飲み干し、回復した魔力を環境へと還元する。魔術士が魔素を「消費」する存在なら、精霊術士は魔素を「循環」させ、自然と文明のバランスを保つ緩衝材だ。帝国において、彼女たちが魔術士や召喚士よりも信頼される理由は、この共生関係にある。
4.「高位精霊」という自然災害
エイラは時折、自らの契約書に記された空白の頁を眺める。
シルバートパーズ(ミスリル級)である彼女でも、自然災害そのものである「高位精霊」との契約は、一歩間違えれば自身が飲み込まれるほどの難行だ。
『オリハルコン級の精霊術士……そんなものが成立すれば、それはもう一個人の冒険者じゃない。歩く天変地異、国の法則そのものね』
彼女がかつて見た、地平線を覆う土砂崩れや猛烈な嵐。
あの巨大な意思と対等に交渉できる日が来るのか。エイラは静かに精神を研ぎ澄ます。
5.結び ―― 世界と共に歩む
アクイランの夕暮れ。エイラは水面に映る自分を見つめる。
剣士が敵を斬り、魔術士が戦場を定義する中で、彼女はただ、世界の声を聴き続ける。
「世界に命令するなんて、野蛮なことはしたくないわ。……世界が私を助けてくれる、それだけで十分でしょう?」
微笑む彼女の足元で、小さな風が踊る。
世界を頼り、世界と共に動く。その静かなる交渉こそが、帝国の秩序を影から支え続けている。
■第十一章:召喚士 ―― 境界の門、禁忌の対価
1.「管理対象」の孤独
アーンレイム帝国、特別指定危険区域。
シルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)の召喚士、ルミアン・アンテイレスは、荒涼とした演習場の中央に独り立っていた。
召喚士という職は、帝国の厳格な管理下にある。北大陸で使う魔法陣という儀式的な固定具を必要とせず、ただ「座標」「媒介」「対価」の三要素を揃えるだけで異界の門を抉り開くその技術は、一歩間違えれば都市を壊滅させる災害へと豹変するからだ。
「座標固定……位相層・第四階梯。媒介、白銀の契約印」
ルミアンは自身の左手に刻まれた歪な紋様を見つめる。彼女にとって召喚とは、祈りでも創造でもない。この世界に本来触れてはならない存在を、強引に現世へ引きずり出す「空間の略奪」である。
2.「二次元曲線的」な対価と威力
通常の召喚術士が運用するのは、せいぜい下級精霊石(10アルクル/100万円)程度までだ。これだけでも十分に強力な魔獣を維持できるが、召喚士たちは常に「費用対効果」という現実に直面する。
召喚体の強度は、投じる対価の価値に対して二次元曲線(放物線)的に増大する。
対価をわずかに上積みするだけで、得られる戦力は劇的に跳ね上がる。しかし、それは同時に召喚士の財政を焼き尽くす諸刃の剣でもある。
「対価投下――次元晶石」
発動。
ルミアンが掌の中の晶石を砕くと、空間が悲鳴を上げた。
彼女の年間手残りは約8000アルクル(8億円)。ブラスダイヤモンド(3000アルクル)やブラスルビー(1000アルクル)を遥かに凌駕する帝国のエリートであるがゆえに、彼女の一撃には「年収の一割」という、一国の家計を揺るがすほどの対価が平然と投じられる。
砕けた晶石の魔素が虚空へ消えた直後、空間がガラスのようにひび割れ、そこから漆黒の霧を纏った高位魔獣が這い出してきた。
3.支配という名の「綱渡り」
出現した瞬間に周囲の気温が急降下し、観測していた魔術士たちの計器が激しく警告を鳴らす。 「……静かに。私の支配下に留まりなさい」
ルミアンは自身の精神を限界まで削り、召喚体の意志をねじ伏せる。
召喚士は「支配」する立場にあるが、完全な支配など不可能だ。対価を吊り上げて呼び出した強大な存在は、召喚士自身の精神耐性を容易に食い破ろうとする。
彼女が倒れれば、この怪物は消えるか、あるいは都市を滅ぼす災厄となって野に放たれる。シルバートパーズという地位は、それほどまでに巨大なリスクを個人で管理していることの証左でもあった。
4.「時代不整合」の影
ルミアンが活動を制限される最大の理由は、この「対価と威力」の法則にある。
もし彼女が、あるいは帝国が国家予算規模の対価を捧げたとき、一体何が呼び出されるのか。理論上不可能とされる「時代不整合召喚」――既に滅んだ古の幻獣や、未来由来の概念生命。それらを呼び出すことは、世界法則そのものの破壊を意味する。
『もし、私がそれを呼ぶことができれば……管理される側ではなく、管理する側になれるのかしら』
それは禁忌の思考だ。
だが、莫大な報酬を得ながらも、その大半を「次の召喚の対価」と「自身の管理費用」に消していく生活の中で、彼女の心には冷たい渇望が沈殿していた。
5.結び ―― 触れてはならない門
演習を終え、召喚体が消えた後の静寂。
ルミアン・アンテイレスは、自身の手のひらに刻まれた契約印を見つめる。
魔術士が理論を磨き、精霊術士が世界と共鳴する中で、召喚士はただ一人、この世界が「触れてはならないもの」に莫大な金を積み、手を伸ばし続ける。
「次は、もう少し深い場所を覗き込みましょう。……対価なら、いくらでも稼いでみせるわ」
境界の門の番人。
彼女が次に、その高額な対価と引き換えに何を呼び寄せるのか。それを知るのは、深淵の底で彼女の呼びかけを待つ「異界の影」だけだった。
■第十二章:剣士 ―― 刹那の裁断、凝縮される世界
1.「圧」の体現者
アーンレイム帝国、中央練武塔・最深部。 シルバートパーズ(北大陸ミスリル級相当)の剣士、カイン・ヴォルフラムは、抜けば終わる間合いの中で、一振りの剣を構えていた。
剣士とは、帝国において戦場の「圧」そのものを担う主軸である。
魔術士が広大な空間を数式で支配し、斥候が空間自体と速度や影魔法を武器とするならば、剣士は自らの身体、武器、そして踏み込んだ一歩という「極めて限定された範囲内」に、世界の理すべてを集約させる。
「錬気、安定。――出力、固定」
カインが静かに呼気を吐くと、手にした剣の刃先が微かに青白く発光した。【錬気術】による刃の強化。単なる切れ味の向上ではない。それは武器の耐久を極限まで底上げし、一撃で岩石を割り、魔獣の強固な外殻を紙のように裂く「破壊の定義」である。
2.「瞬気」と「躁気」の境界
カインの前に、訓練用の魔導ドールが超高速で肉薄する。
だが、カインは動かない。敵の刃が首元を掠めるその刹那、彼の姿がブレた。
「瞬気術ー間合い斬り」
それは単なる移動ではない。必要な瞬間だけ時間を加速させるかのような、生存のための技術。間合いを操作し、死線をミリ単位で回避しながら、同時に迎撃のタイミングを最適化する。
「錬気術ー一閃」
カインが剣を振った。放たれたのは物理的な一撃だけではない。延長された刃は2メートル先の標的を切り裂いた。
3.一騎当千の重責
剣士は準備を必要としない。抜刀したその瞬間が、彼らにとっての最大火力発揮時である。 その即応性の高さゆえに、パーティーにおいて剣士は「前線の盾」であり、同時に「敵を屠る牙」となる。カインのようなシルバートパーズの剣士が崩れれば、後方に控える魔術士や治癒士は一瞬で蹂躙される。
『俺が止まれば、後ろが死ぬ。俺が斬れば、道が開く』
剣士は強くなるほど、仲間の重要性を理解する。
一騎当千の力を持ちながら、その力は常に、自分以外の「誰か」を守り、戦況を維持するために振るわれる。英雄であることを求められる一方で、帝国は彼らを「制御可能な最強の戦力」として、極めて冷徹な理論で育成していた。
4.「オリハルコン」という絶壁の向こう
カインは、自身の到達点を思う。災厄級魔獣を単独で討伐し、歴史にその名を刻むオリハルコン級。そして、全剣士の到達点、アダマンタイト級のゼンヴァルク。
彼らが到達した「剣聖」という概念。そこではもはや、錬気も瞬気も区別がないという。一振りで世界そのものを斬り分け、因果さえも裁断する。一瞬の判断ですべてが決まる極限の選択を、何万回と繰り返した果てに辿り着く「空白」の領域。
『まだ届かない。この一瞬の精度、この錬気の密度……まだ甘い』
カインは自身の精神を研ぎ澄ます。精神の乱れが即死に直結する剣士という職において、自己への疑念は最大の敵だ。
5.結び ―― 最も単純で、最も危険な職
夕闇の中、カインは剣を鞘に納めた。
鋭い金属音が響き、周囲の張り詰めた空気が霧散する。
「世界を斬り分けるのは、言葉でも数式でもない。この一振りの刃だ」
最も単純でありながら、最も深淵に近い職。
環境に依存せず、己の腕一本で運命を切り拓く剣士たちは、今日もまた、刹那の瞬間に己のすべてを賭けて、戦場の最前線に立ち続ける。




