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005:ペストム・リンバーンと帝国

■第一章:存在の密度 静寂の剣士、ペストム・リンバーン

1.消失した喧騒

 アーンレイム帝国の版図はんとの果て。未だ帝国が支配を及ぼしていない未知の領域を探索するため、冒険者たちは最前線の街にあるギルドで暮らしている。


 冒険者ギルドは、常に喧騒の中にある。

 一億の民が「完成された秩序」を謳歌するこの国において、冒険者とは「未知」という名の最高の資源を命懸けで持ち帰る、いわば帝国の平穏とは真逆のベクトルに生きる者たちだ。


 ブラスダイヤモンド(プラチナ級)の、帝国においては中位に位置するヴァルディアント(剣士)やヴァイレント(斥候)たちが、自らの武勲を大声で笑い飛ばしている。傍らではマグナート(魔術士)たちが、最新の魔導理論や魔術回路の最適化について四苦八苦しながら議論を交わす。

 そこには、帝国特有の「満たされた喜び」と、健全な熱気が満ちていた。


 だが。


 低いブーツの音が聞こえた。

 カツ……カツ……と、淡々とした足音。


 その音が入り口で響いた瞬間、波が引くようにギルドの喧騒が凍りついた。大笑いしていた戦士が杯を止め、談笑していた受付嬢が息を呑む。物理的な衝撃ではない。ただ、その場に流れていた空気の「質」が、根底から書き換えられたのだ。


 現れたのは、一人の男。


 背は高くはない。飾りのない灰色の外套。腰に差した剣も、つばの欠けた古びたロングソード。髪はきっちり結わず、その銀髪は無造作に肩へと落ちている。

 誰が見ても“そこいらに居るただの剣士”だ。


 だが、彼の一歩が、空気そのものを静かに切り裂いていた。


 歩くだけで、音が消える。熱気が遠のき、視界が澄む。視線が意図せず、彼の背に吸い寄せられる。

 それは“威圧”ではない。“存在の密度”が違うのだ。


 ギルドの書記官が、震える声で呟いた。


「……白銀紅玉シルバールビー……帝国ただ一人の……静寂の剣士、ペストム・リンバーン様だ……」


2.「必要」なだけの言葉

 ペストムは周囲の視線に一瞥もくれず、真っ直ぐに受付カウンターへと歩んだ。彼の周囲数メートルだけは、真空のような静寂が支配している。


「……依頼を」


 ペストムが口を開いた。低く、だが驚くほど透明に響く声。帝国民が享受する「豊穣な文化」とは対照的な、贅肉を一切削ぎ落とした音節。


「は、はい! お待ちしておりました!」  受付の女性は、震える手で黒い革表紙のファイルを差し出した。 「魔獣群発地域『虹の滝』。その深部付近で確認された魔素の異常流動。……調査、および原因の排除。難易度は測定不能ですが……」


 ペストムは、その書類に視線を落とした。わずか数秒。彼は情報のすべてを読み取ったわけではない。ただ、直感的に「世界の歪み」という本質だけを掴み取った。


「……受ける」


「承知いたしました。装備の点検、および補助要員の選出は……」


「……不要だ。足手まといになる」


 短く、それだけ告げると、ペストムは踵を返した。必要以上の説明も、社交辞令も、決意の表明すらもない。彼は、ただ「やるべきこと」を、その重さの分だけ口にする。


3.完成と未完成の間

 ペストムがギルドを出ていくと、止まっていた時間が再び動き出した。


「おい、見たかよ……あの剣。あんなボロで、どうやって『魔素の嵐』を斬るんだ?」 「馬鹿。あれが『錬気術』を極めた男だぞ。余分な重さも、余分な鋭さも捨てた結果が、あの姿なんだ。……あの鉄屑は、彼自身の気を受け止めるためだけの器なんだよ」


 ギルドの片隅で、若き冒険者たちが憧れと恐怖の混じった声で囁き合う。アーンレイム帝国という「完成された楽園」において、ペストム・リンバーンは異質な存在だった。


 彼は、贅沢な食事を求めない。過度な名声を求めない。ただ、帝国という巨大な均衡が崩れかけた場所へ行き、静かにその歪みを正す。


「完成されてしまったものは、それを超える形を持ちえない」


 帝国の知性たちが定義したその前提を、ペストムはたった一振りの剣で肯定し続けている。彼の歩みは、完成を拒む「静かなる抗い」そのものだった。


 灰色の外套が、午後の陽光の中に消えていく。  カツ、カツ、と響く足音だけが、人々の耳の奥に「理解が遠のいていく音」のような残響を刻んでいた。


■第二章:静寂の剣士 ペストム・リンバーン


過去編:静寂を纏う者の原点


1.「餓える者のいない国」で、ただ一人飢えていた子供 。

 アーンレイム帝国は、建国以来、「餓える者は一人も出さない」という理念を徹底していた。それは単なる理想ではなく、完成された行政システムと、潤沢な次元倉庫の資源によって裏打ちされた「絶対的な現実」である。


孤児は必ず聖導院や孤児院に保護され、教育と食事を等しく与えられる。街の片隅で凍える者など、本来ならこの国の法理が許さないはずだった。


だが、ペストム・リンバーンだけは違った。


彼は帝国歴302年、王国周辺部の小さなギルド都市ラーダに生まれた。 両親が姿を消したその日、帝国の網は正しく機能し、都市役人が彼を保護するために手を差し伸べた。


しかし、その瞬間。


少年の体から、“音のない衝撃波”があふれ、周囲の人々を吹き飛ばした。


それは悲鳴ですらなかった。恐怖に怯えた幼い感情が、形を持たない暴力的な「錬気(生命力)」と化して暴走したのだ。幸い、都市の防護結界が余波を抑え込んだが、現場にいた役人たちは恐怖に戦慄した。


市当局は、冷徹なまでの合理性で判断を下した。「この子は、既存の施設では管理不能である。孤児院の中で暮らせば、他の子どもを傷つけてしまう」緊急事態として例外的に「皇帝府」に直接指示を仰ぐことになった。皇帝府に上がって来たこの「異常な」報告は、帝国の意思決定の最深部である「王団密議院」から、初代選帝王たち11人のもとへと渡っていった。


帝国の完璧な福祉制度が、初めて「例外」を弾き出した。誰も彼を憎んではいなかったが、誰も彼の手を握ることはできなかった。


そしてペストムは。


街の片隅、廃屋の影。誰にも触れず、誰にも触れられず、孤独に生きる道を選んだ。


餓えぬはずの国で、なぜか一人だけ飢えていた。物理的なパンが足りなかったわけではない。市役人が彼の存在を知った後は、誰にも知られない方法で、あるいは彼が暴走せぬよう遠巻きに、食料を与え続けていた。


それでも、彼は息を殺して生きていた。 彼が路地裏でじっと動かずにいた理由は、ただ一つ。


「自分が感情を乱すと、周囲が傷つく」


それを幼いながらに痛いほど理解していた彼は、自らを封じ込めた。 泣くことも、怒ることも、笑うことすらも。感情を殺し、意識をなぎの状態に保たなければ、己の中に眠る「怪物」が再び誰かを傷つけてしまう。


“普通の孤児”でいることすら許されなかった少年。帝国の繁栄という眩い光の影で、彼は音のない闇の中に、その身を沈め続けていた。 それが、「静寂の剣士」が歩み始めた最初の、そして最も過酷な一歩だった。


■第三章:静寂の剣士 ペストム・リンバーン


過去編:静寂を纏う者の原点


1.静寂の始まり「音を消す少年」

幼少期のペストムは、言葉より先に“気配を消す”術を覚えた。それは敵を欺く影魔術の類ではない。自分という存在が世界に及ぼす影響を、限りなくゼロに押し殺すためだ。


街の食堂の裏に「供給物として置かれたパンとスープ」を見つけては喰らい、誰も居なくなったことを確認しては水を飲み、夜は屋根裏や荷物小屋の影で暮らした。もう物理的に飢えては居なかったが、心はひどく孤独だった。


彼の周囲は、不自然なほどに静かだった。


足音が消え、呼吸音が消え、やがて生存の気配すらも消える。それは類まれな才能などではなく、己への恐怖から生まれた“無意識の錬気暴発”の結果だった。


街の冒険者たちは、物陰に佇む少年に気づくたび、気味悪そうに噂した。


「あの子は……“音がない”」 「幽霊のように……そこにいるのに、ふとした瞬間に気づけなくなる」


ペストム自身も、自分が“異常”であることを深く理解していた。誰にも近寄られないよう、誰一人傷つけないよう、彼は自らの意思でさらに深く“音を殺して”いった。


2.ナユタ・タカミクラとの出会い  帝国歴307年。その日、一人の旅の剣士がラーダの街を訪れた。


名をナユタ・タカミクラ。その正体は、11人の初代選帝王の一人、ヒューイ・ミツルギ・アウラスツラ。表舞台から姿を消して久しいが、今も帝国最強の一角を担いながら、“剣聖”という呼び名を拒み続け、身分を隠して放浪を続ける変り種だ。


ナユタは、街の裏路地で“音を失った少年”を、スウェックによる事前調査の報告をもとに見つけ出した。


薄汚れた服で膝を抱え、目を閉じ、呼吸を殺す。まるで世界という巨大な機構から自分という歯車を切り離すようにして座る少年。


ナユタはその傍らに一歩踏み出すと、感嘆の声を漏らした。


「……自我を閉ざして錬気を封じる、か。教えられて出来るものじゃない。お前、天性の『気術』の化け物だな」


ペストムは顔を上げ、感情の読み取れない無機質な目で男を見た。その底にある孤独に、ナユタは幼い頃の自分を重ねた。「ひとつ聞かせろ。なぜ誰にも助けを求めない?」


少年は、掠れた声で答えた。


「……僕が居ると……音が消えて……周りが倒れる」


「それが怖いか?」


「……うん。だから、ひとりでいる」


その答えを聴き、ナユタは静かに、だが確かな確信を持って頷いた。


「いい。なら俺が教えてやる。“気”を、剣に変える方法を。人を傷つけないための、お前だけの剣をな」


ペストムは、驚きに目を見開いた。


「……教えて、くれるの……?」


「ああ。俺は“誰にも壊されなかった強さ”を持ってる。だから、お前の暴走なんざ怖くない」


この瞬間、少年の止まっていた時間が動き出した。帝国の秩序からも、孤独の闇からも見放されていたペストムの人生が、一振りの剣という「救い」に向かって大きく舵を切ったのである。


■第四章:静寂の剣士 ペストム・リンバーン


過去編:静寂を纏う者の原点


1.「静寂」を教えた師  ナユタ・タカミクラは、帝国の誰よりも“気”と“剣”の本質を知る男だった。彼はペストムを弟子に取り、ただ一つの、しかし深淵なる技術を教え始めた。


静気流剣せいきりゅうけん


それは、感情を溶かし、剣に気を流す術。帝国の基礎的な錬気術を源流としながらも、ペストムが持つ膨大な「気」と、極限の精神制御を要求する剣術である。


剣を振るとき、猛るような怒りも、高揚する喜びも不要。ただ静かに、ただ淡々と、己の生命力を一点に「形」として落としていく。


ナユタは、修行の合間にこう説いた。


「感情を無理に殺すんじゃない。底へ沈めろ。“湖面”は静かでも、底で生きていればそれでいい。お前の暴走は、お前の心が豊かすぎる証拠だ」


ペストムは師の言葉を魂に刻み、必死に食らいついた。暴走し、周囲を破壊するだけだった彼の錬気は、静気流剣という器を得て、次第に鋭利で静謐な「力」へと研ぎ澄まされていった。


数年が経ち、ラーダの街で彼はもはや“不気味な音の消えた少年”の話は聞かれなくなった。


代わりに現れたのは、淡々と、だが確かな存在感を纏って“静かに歩く若き剣士”。


かつて人々を吹き飛ばしたその錬気は、今や一振りの剣に収まり、彼を世界に繋ぎ止めるためのくさびとなっていた。


■第五章:静寂の剣士 ペストム・リンバーン


過去編:二人の神話に拾われた少年


1.「最強」たちの邂逅と、拾われた怪物  帝国歴306年。ラーダの裏路地で膝を抱えていた少年を見つけたのは、放浪の剣士ナユタ・タカミクラ(初代選帝王の一人、ヒューイ・ミツルギ・アウラスツラ)だけではなかった。


 ヒューイの傍らには、漆黒の装束を纏い、存在そのものが闇に溶け込んだ男、スウェック・スピンダームがいた。


「俺にかかれば人探し程度は1日もかからない、が……面白い奴を見つけたな、ヒューイ」


 スウェックの声は、影の中から響くようだった。ヒューイが少年の「天性の気」を見抜いたのに対し、隠密と殺気の極致に立つスウェックは、少年が周囲の音と存在を無意識に「消し去っている」異常性に目をつけた。


 当初、二人はこの少年を「最強の斥候」として育てるべきだと考えた。だが、少年の内側に渦巻く錬気の量は、単なる隠密の枠に収まるものではなかった。


「この『気』は、閉じ込めておける量じゃない。……剣を持たせることにする。スウェック、お前の技術わざも少し混ぜてやれ。死なない程度にな」


 ヒューイの提案により、少年の教育は帝国史上最も贅沢で、最も過酷な二人の選帝王による共同作業となった。


2.静寂の剣技体系 殺界と静気流

 ペストムは、ヒューイから「静気流剣」を学び、荒れ狂う錬気を「静かな湖面」へと変える術を習得した。しかし、それだけでは彼の異常な才能は完成しなかった。


 スウェックは少年に「瞬気術」と「影魔法」、そして己の「殺界」の下位互換である「影気」を叩き込んだ。


「殺気とは放つものではない。内側に圧縮し、己の存在を『消す』技術だ」


 スウェックの教えにより、ペストムの静寂はさらに深化した。彼の歩みは「音が消える」だけでなく、周囲の自分に対する「存在認知」そのものを極端に低下させる、不可視の気配へと変質していったのだ。


 ヒューイの「澄み渡る静寂」と、スウェックの「闇の静寂」。二つの相反する静寂が混ざり合い、ペストム・リンバーンという唯一無二の剣士が形作られていった。


3.冒険者登録と、鍔の欠けた剣  10年の修行期間を経て二人から「目録」を貰い、一人前と判断された彼は、冒険者として登録に行くことになった。その直前、ナユタはペストムに告げた。 「お前は既に強い。今ですらブラスダイヤモンド(プラチナ)ランク以上だろう」


 成長したペストムは、ナユタに見送られ、ブラストパーズ(シルバー)の冒険者として登録された。ナユタから手渡されたのは、つばの欠けた古びたロングソード。


「そのボロい見た目の剣で十分だ。剣の芯には魔力回路が刻印されている。お前の『気』を十分に流せるだろう。……若すぎるお前の実力を隠すための剣であることを忘れるな。お前なら不安はないが、錬気術を見せびらかすことの無いようにな」


 初陣において、対峙した魔獣は首を落とされるその瞬間まで、死神が隣に立っていることにさえ気づけなかった。剣をわずかに覆う錬気、彼のそれは鋭すぎてシルバートパース(ミスリル)ランクの剣士ですら驚愕するほどだった。 「錬気を極限まで凝縮しているのか? その剣、ただの“古い剣”じゃないな」


 パーティーを組まされた冒険者たちは、当初、無口なペストムに不満を漏らした。「おい、もっと喋れよ! どこにいるか分からねえぞ!」

 だが、戦場に出れば誰もが戦慄した。気づけば敵がすべて倒されている。「速すぎる、強すぎる……お前、本当に人間か?」

 ペストムは聞こえないように呟く。「人間だ、恐らくな……」

 実際、自分という存在がどれほどの異質なのか、彼自身にも正解はわからなかった。


4.白銀紅玉シルバールビーへの到達

 戦いを重ねるほどに、ペストムの“気”は神域へと近づいていった。“封印”していた「錬気術」「躁気術」「瞬気術」「影魔法」も徐々に使い出す。冒険者になって5年を掛け、彼はついに自らの全力を十全に制御し、出せるようになった。


 魔獣も、その上位種の覚醒魔獣も、南部の深層域に潜む古の怪物すらも、彼の前では一合も取れなかった。気配がなく、音もなく、呼吸すら消える。仲間たちは畏怖を込めて語った。

「ペストムが歩き出すと、世界が“静か”になる」


 彼は階級を驚異的な速度で駆け上がり、ついに前人未到のランク、白銀紅玉シルバールビーに到達した。北大陸のオリハルコン級すら凌駕する、現在の帝国唯一の階梯。


 初代選帝王不在となった現代の帝国において、冒険者ギルドは彼を「唯一の深層域対応者」として、国家の最終防衛線に認定した。


5.静寂の本当の意味

 彼の静寂は、単なる力の副産物ではない。


 それは、他人を傷つけないために音を消し続けた少年の、孤独な習慣。

 それは、二人の師が与えた、「人を傷つけないための剣」という名の救い。


「……俺はただ、静かに生きたいだけだ」


 帝国最強と呼ばれても、彼は名声に興味を示さない。ギルドの冒険者たちが道を空け、空気が凍りつくのは、彼の「存在の密度」が周囲の気配を飲み込んでしまうからだ。


 選帝王たちが歴史の表舞台から去った後、帝国に残されたのが、ただ一人の「最強」である静かな剣士だった。


「俺の力は、師匠たちが拾ってくれたからある。……俺は、今は“静寂の剣士”でいい」


 今日も彼は、鍔の欠けた剣を帯び、音が消えた街を淡々と歩いていく。その背中は、かつて自分を拾い上げてくれた二人の偉大な背中を、静かに追い続けているようだった。


■第六章:継承の重みと、測りきれぬ価値

1.鉄屑の真実

 ペストムが腰に下げているのは、誰の目にも使い古された“ただの鉄屑”にしか見えない。しかし、その剣の本質は外装にはなかった。

 剣の芯には、かつて初代選帝王の一人、ピアッツアが設計し組み込んだ、極めて精緻な「魔力回路」が走っている。それは流れる錬気を一滴も漏らさず、最適化された破壊力へと変換する特上品。帝都の最高級工房を叩いても、これほどの代物はまず手に入らない。


 対照的に、彼の身体を包む鋼と革の複合鎧は、どこにでも売っている市販品だ。ペストムにとって、身を守るための防具は消耗品でしかなく、自らの「気」で構築する防御障壁こそが真の鎧だった。


 だが、腰のポーチだけは例外である。

 一見すれば質素な革袋だが、その正体は「マジックバッグ」。内部空間が千倍以上に拡張された特級品だ。彼は冒険者として活動を始めた初期、生存のために「必要」だと判断し、三千アルクル(約三億円)という巨額を投じて帝都から取り寄せた。


 その中には、市場でもかなり高価で取引されるエクスポーションや一般市場にはまず出回らないエリクサー、そして死者をも蘇らせかねない伝説の「ハイエリクサー」が静かに詰められている。ペストムの稼ぎは、単独で二千アルクルを超える超級魔獣の討伐や、数十人規模のクランが挑む「クランレイド級」の依頼ばかりだ。莫大な報酬を、彼は贅沢のためではなく、自らの「静寂」を維持するための備えへと淡々と注ぎ込んでいた。


2.ユイウスとの対話

 ある日の朝、ギルドの掲示板の前で、一人の男がペストムに声をかけた。名はユイウス・ウォクター。帝国内でも最強の実力者として知られるシルバートパース(北大陸ミスリル相当)の剣士である。


「……ペストム、前から思ってたんだが、そろそろその剣、買い換えたほうが良いんじゃないか?」


 ユイウスは、ペストムが帯びている鍔の欠けた剣を指差した。白銀紅玉という最高位にありながら、身なりに構わない彼への、同業者としての純粋な助言だった。

 それに対し、ペストムは掲示板を見ながら答える。


「これ以上の剣は、帝都でも売っていない。それに……これは、師匠に貰った大切な剣だ」


「帝都でも買えないだと? そのボロがか?」


「……一人前の冒険者になれば、新しい剣を貰える約束になっている」


 ペストムの淡々とした言葉に、ユイウスは思わず絶句した。シルバートパースという高みに至ったユイウスには理解できる。この男が嘘をつく理由がないこと。そして、この「鉄屑」に、自分の全財産を叩いても届かないほどの価値が秘められている可能性に。


「そうか、悪かったな。……帝都でも買えない剣。それを超える『新しい剣』か。一体、どんな値が付くんだか想像もつかねぇよ」


3.「一人前」という名の神話

 ユイウスはふと、足を止めてペストムの背中を凝視した。


「おい、待て……お前は今、シルバールビー(オリハルコン)だろう? 『一人前』になって新しい剣を貰うってことは、その上のランクを指してるのか?」


 シルバールビーの上。それはシルバーダイヤモンド(アダマンタイト)。帝国の歴史上、北大陸で最強と呼ばれた最初期の王達11人の中でさえ数える程しか到達者がおらず、現代では「存在しない」とさえ言われている領域だ。ユイウスの額に嫌な汗が流れる。


「一人前の冒険者がシルバーダイヤモンドだと……? お前の言うその『師匠』ってのは、どれほどの化け物なんだ? 誰なんだよ」


 北大陸の基準で言えば、それはオリハルコンのさらに三つ上、もはや「名目上」でしかない神域。かつて山を切り裂き、戦場そのものを支配したという伝説の剣聖、初代選帝王ヒューイ・ミツルギ・アウラスツラのような「人外」でなければ、そんな言葉は吐けない。


 ペストムは少しだけ視線を伏せ、記憶の底にある灰色の空を思い出した。


「わからない……本当の名前は、知らないんだ」


 ただ、自分を拾い、静寂を教えてくれた人。ペストムにとって、帝国のランクや北大陸の称号など、師の隣に立つための目安でしかなかった。シルバーダイヤモンドに到達して初めて、自分はようやく師と同じ地平に立てる。その時初めて「弟子」を卒業し、一人の剣士として認められる。


 ユイウスは、遠ざかっていくペストムの背中を、もはや別の世界の住人を見るような目で見送った。  周囲の音が消えていく。「最強」と呼ばれながら、なお「自分はまだ未熟だ」と言わんばかりのあの歩み。


「名前も知らない師匠、か。……全くだ、この帝国は完成されてるなんて誰が言ったんだよ」


 ユイウスの呟きは、ペストムが連れてきた静寂の中に、音もなく吸い込まれて消えた。


■第七章:虹の滝ー概念を喰らう魔素ー

1.境界線の風景

 帝都から遠く離れた南東の果て。王国の辺境の更に奥にある、まだ名も無い場所。

発見者の報告から「虹色の七重の滝」と仮に名付けられたその場所は、本来ならば帝国の観光資源の一つに数えられるべき絶景の地であった。七層に重なる巨大な滝が、巻き上がる飛沫しぶきに永遠の虹を架け続ける。

 しかし、現在そこにあるのは、色彩を失った「虚無」の風景だった。


 ペストムが現地に降り立ったとき、最初に出迎えたのは死の静寂だった。彼の「静寂」とは違う、生命の活動そのものが強制的に停止させられたような、不自然な空白。


「……魔素が、途絶えている」


 ペストムは淡々と呟いた。

 帝国の魔導理論において、魔素マナとは循環するエネルギーである。だが、この地に漂う魔素は、まるで意志を持つ酸のように周囲の環境を「浸食」し、無に帰していた。


 彼は腰のマジックバッグから、小さな魔導計器を取り出した。針は振り切れ、直後に内部の回路が焼き切れる。帝国の最高技術をもってしても、この場の異常は計測不能。ギルドが「難易度測定不能」とした理由を、ペストムは肌で理解した。ここは、帝国の「完成されたことわり」が通用しない、バグの発生源だ。


2.鉄屑の共鳴

 一歩、滝の深部へ踏み込む。その瞬間、ペストムの腰にある「古めかしい剣」が微かに震えた。見た目はボロだが、中身は選帝王ピアッツアの手による超精密な魔力回路の結晶。その回路が、周囲の異常な魔素に反応し、持ち主に警鐘を鳴らしていた。


「……来るか」


 ペストムは抜刀しなかった。ただ、右手をつかに添えた。その直後、虚空から「音」が消えた。彼自身の静寂ではなく、空間そのものが削り取られる音だ。


 現れたのは、魔獣ですらなかった。それは、半透明の泥のような、不定形の質量。虹の滝から溢れ出すはずの豊かな魔素を喰らい、肥大化した純粋な魔素で出来た「猛威の泥」名も付けられない形の無い存在。


 魔素の触手のように伸び、ペストムを襲う。それは物理的な攻撃ではなく、接触した対象の「存在そのもの」を分解する概念的な浸食だった。


3.静気流剣・一閃

 ペストムは動かない。スウェックから学んだ「瞬気術」により、彼の意識は加速し、泥の動きは停止した記録映像のように遅滞する。彼は内側に渦巻く膨大な錬気を、ヒューイ直伝の「静気流」によって一点へと圧縮した。


 カツッ、と一度だけ足音が響く。


 瞬間。

 ペストムは抜剣し、振り抜き、そして納剣していた。


 あまりの速さに、周囲の空気さえ振動する暇がない。剣の芯にある魔力回路を通り、ペストムの純粋な「静かなる気」が、泥の中心部を正確に貫き破壊した。


 概念を喰らう怪物が、逆に「静寂」に喰われ、霧散していく。泥の背後にあった滝が、一瞬だけ左右に割れた。剣風ではなく、放たれた「気」の密度が、数万トンの水圧を押し止めたのだ。


4.深淵の覗き窓

 怪物を排除した跡地。滝の裏側に、不自然な「亀裂」が走っていた。それは北大陸の連中が「ゲート」と呼ぶものに似ていたが、より不吉で、より深い。


 ペストムはその亀裂を見つめ、初めてわずかに眉を寄せた。その裂け目の向こう側から、自分と同じ「音を消す」性質を持つ、強烈な視線を感じたからだ。


「……師匠たちが言っていた『外』の残滓か」


 ペストムは、マジックバッグから一本のハイエリクサーを取り出し、念のために手の中に転がした。

 この任務、ただの「異常流動の調査」では終わらない。帝国という完成された揺り籠を、外側から壊そうとする何かが、この滝の裏で息を潜めている。


■第八章:審議の四十五日 ―― 嵐を待つ静寂

1.沈黙の帰還

 「虹の滝」での一件から数日後。ギルドの扉を潜るペストムの足音は、いつもと変わらず淡々としていた。しかし、彼が受付に置いた「破損した魔導計器」と、簡潔すぎる報告書の内容は、ギルド上層部を震撼させるに十分なものだった。


「……計測不能。魔素の断絶を確認。……および、未知の不定形存在を排除」


 報告を受けた支部長は、焼き切れた計器を見て顔を青くした。帝国の「完成された技術」が物理的に破壊されたという事実は、そのまま帝国のことわりが通用しない領域の存在を意味するからだ。


「……ペストム様。これは当支部だけで判断できる規模ではありません。帝都の本部、および全域のギルドへ記録を照会し、正式な危険度評価レーティングを行います」


 ペストムはただ短く「わかった」とだけ答え、その場を後にした。


2.帝国総出の「過去視」

 それから、帝国全土の冒険者ギルドは未曾有の狂騒に包まれた。一億の民が記録してきた膨大なデータベース。数千年前の古文書から、昨日の新米冒険者の探索ログに至るまで、魔導司書たちが総出で「虹の滝」に類する現象を検索し始めたのだ。


 それは、帝国の知性が総力を挙げて「バグ」の正体を突き止めようとする、巨大な演算作業であった。


 評価が下るまで、予定期間は一か月、四十五日。あまりにも長すぎる「待機」の宣告。しかし、その背後にあるのは、帝国が初めて味わう「得体の知れない恐怖」に対する慎重さであった。


3.繰り返される日常という名の修行

 ギルドが騒然とする中、ペストムだけは平穏の中にいた。師匠たちから「目録」を貰ったあの日から、彼は一日たりとも欠かさず、自身の錬気を研ぎ澄まし続けている。


 彼は待機期間中の「繋ぎ」として、超級魔獣の駆逐や「クランレイド級」の依頼を淡々とこなした。 「……まだ、遅い」

 魔獣を斬った感触を剣を通じて反芻する。滝の裏で感じたあの視線に対し、今の自分の静寂で足りるのか。マジックバッグのパンを噛み締めながら、彼はただ、自分の中の「湖面」をより深く沈めることだけに集中した。


4.四十五日目の評価

 四十五日目の朝。帝都から全ギルド一致の最終評価が下った。


『虹の滝:事象分類【特異点】推定危険度:SSS+以上、事実上の最高難易度を超える分類』


 ギルド内が静まり返る。それは現役の冒険者では対応不可能な、かつての選帝王たちが直接介入すべき「世界の崩壊」を意味する宣告だった。


5.師弟の境界線

 ペストムが「その地」へ再び向かおうと街の結界門を出たとき、不自然なほどに空気の密度が変わった。

 歩みを止める。前方の枯れた大樹の影に、馴染み深い、だが今のペストムでさえ直前まで察知できなかった「完璧な気配」が佇んでいた。


「おい。お前にはまだ早い。自分の実力を見定めておけと言ったはずだが」


 声をかけてきたのは、師であるナユタだった。

「師匠……お久しぶりです」

 ペストムは軽く会釈をして立ち止まる。帝国において、握手や抱擁といった接触は家族間ですら稀だ。それは「他人の領域を侵さない」という帝国の冷徹な秩序の表れだが、二人の間に流れるのは、言葉以上に重い「静寂の共有」だった。


「早い……ですか。ギルドの評価はSSS+以上。私のランクで対応可能な限界値です。私は、任務を全うするだけです」


「数値に踊らされるなと言ったはずだ、ペストム。帝国が定義するSSS+は、あくまで『この世界のことわり』で測れる限界だ。だが、あの滝の裏にあるのは理の範疇にない。……お前でもこれは無理だ。やめとけ。こいつはギルドの放置案件にする。俺たちで処理する」


 ナユタの言葉は、助言ではなく「決定」の響きを持っていた。ペストムは無機質な瞳を師に向けた。


「放置……ですか。そうなれば、帝国の南東部から『概念の壊死』が広がります。それを見過ごせと?」


「そうだ。ある程度の欠損は、帝国というシステムが自己修復する。だが、お前という『個』が失われる損失は、俺にとっては修復不能だ」


「師匠は……ギルドの上層部の方でしたか? それとも、評議会の息がかかった方ですか?」


 その問いに、ナユタは少しだけ可笑しそうに口角を上げた。彼は懐から古びた酒瓶を取り出し、一口煽ってから、まるで今日の天気を語るような軽さで言った。

「いや、お前にだけは教えようか。お前なら、誰にも言わんだろうしな。……俺はヒューイ・ミツルギ・アウラスツラ。初代選帝王の一人だ」


 風が止まった。ペストムの記憶にある歴史書の挿絵、神話の筆頭に記された名。

「ヒューイ……というと、あの? 選帝王の……」

「ああそうだ。ガキの頃の俺を今の俺が見たら、あまりの変わりように驚くだろうがな。だから誰にも言うなよ。面倒はごめんだ」


「……承知いたしました」


 驚愕すらも沈黙の底へ沈め、ペストムは深く首を垂れた。だが、その直後、食い下がるように言葉を続けた。

「ヒューイ様……であれば、なおさら納得がいきません。あなたは『俺たちで処理する』と言った。それは、あなただけではなく、他の選帝王たちも動くということですか?」


「話が早いな。そうだ。この件は『俺たちの世代』の不始末だ。シルバールビーが一人で首を突っ込んで、命を捨てていい案件じゃない」


「……私は、死ぬつもりはありません。準備はしたつもりです」


「準備だと?」

ヒューイの視線が、ペストムの腰の「鉄屑」に、そしてマジックバッグへと落ちた。


「ピアッツァの回路に、スウェックの影気。確かに、帝国の冒険者としてはこれ以上ない備えだ。だが、ペストム。あの滝の奥にいた『視線』の主を覚えているか? あれは、お前の技術を食って進化する。お前が『静寂』であればあるほど、相手はさらに深い『無』を持ってくる」


 ヒューイは一歩、ペストムに歩み寄った。その瞬間、ペストムの周囲の音が完全に消失した。彼自身の能力によるものではない。ヒューイが放つ「本物の神話」による空間制圧。


「お前はまだ、自分という存在がどれほど貴重な『存在』か分かっていない。スウェックが殺気を教え、俺が剣を教えたのは、お前を英雄にするためじゃない。お前が……お前として、静かに生き延びるためだ。だから、行かせるわけにはいかん」


 師弟の間に、かつてないほど濃密な静寂が横たわった。ペストムは悟った。師は自分を守るために、自らの正体を明かしてまで「壁」になろうとしているのだと。


「……それでも。私は、師匠が守ろうとしたこの帝国が削られていくのを、黙って見ていることはできません」


 ペストムが静かに柄に手をかけた。それは師への反逆ではなく、自分が「弟子」から「一人前の剣士」へと進もうとする、最も無謀で、最も誠実な意志の表明だった。


■第九章:神話の顕現 「不足」を知るための遠征

1.静かなる反逆

 師の正体が、神話の頂点に座す「ヒューイ・ミツルギ・アウラスツラ」であると知っても、ペストムの決意は揺らがなかった。むしろ、その名を聞いたからこそ、彼は自らの指先に流れる錬気に、これまで以上の重みを載せた。


「……ヒューイ様。あなたが守ろうとしたこの世界を、私は黙って見捨てられません。私の『静寂』がどこまで通用するのか、証明させてください」


 ペストムがゆっくりと腰の「鉄屑」古めかしいロングソードの柄を握る。その瞬間、彼の周囲数メートルの光が屈折し、音が完全に根絶された。弟子としての敬意を込めた、生涯で一度きりの、師への抜刀。


 ヒューイはそれを受け、深い溜息をついた。その溜息さえも、ペストムの静寂を霧散させるほどの密度を持っていた。


「……『帝国を守る』、か。その言葉、お前が口にすると随分と重いな。わかった。ならば見せてやる。お前が目指し、そして絶望すべき、本当の帝国の『強さ』をな。あと今の俺はヒューイじゃない。ここからがヒューイだ」


2.集いし神話の影

 ヒューイが指をパチンと鳴らした。

 その合図と共に、街道の空気が一変した。空間が物理的に押し広げられ、そこにあるはずのない「影」と「光」が次々と具現化していく。


 まず現れたのは、ペストムのもう一人の師、スウェック・スピンダーム。

 彼は影から染み出すように現れ、弟子の覚悟を冷ややかな、だがどこか楽しげな目で見つめた。

 続いて、豪奢な杖を携え、周囲の魔素を絶対服従させるジェマーヌ・ピーノ・ニスサラム。

 ペストムの太刀に魔力回路を刻んだ張本人、ピアッツア・バルトスラスト。

 絶対的な物理障壁を無造作に展開するゼクサンドラ・インカブル。

 存在そのものが天災に等しいグィン・ヘトハナヴ。

 そして、帝国のあらゆる理を書き換える「秩序の体現者」サウエ・クメム。


 帝国を創り、今なお陰から支え続ける七人の選帝王。ペストム一人を「教育」するためだけに、この世界のバランスを崩しかねない戦略兵器たちが一堂に会したのだ。


「待たせたね、ヒューイ。……あらら、あの子が噂の? 少しばかり『気』が立ちすぎているね」

サウエが慈悲深い、だが残酷なほどに圧倒的な微笑みをペストムに向けた。


3.圧倒という名の教え

 「虹の滝」へ向かう道中、ペストムは地獄を、あるいは神域を垣間見ることになった。

 道中に現れる上級魔獣。ペストムが手間をかけて仕留めるはずの怪物を、ピアッツアが放つ一筋の閃光が「存在しなかったこと」にした。

 行く手を阻む空間の歪みを、サウエが指先一つで、まるで古い紙を伸ばすように修正していく。


 彼らが歩くたびに、世界が再定義されていく。

 ペストムがこれまで「最強」と自負し、磨き上げてきた技術は、この者たちの前では「赤子の手習い」ですらなかった。


「……これが、初代選帝王」

 ペストムは言葉を失った。自分の「静寂」は、ただ音を消しているだけに過ぎない。だが、彼らは「世界そのもの」を沈黙させ、定義し直している。


4.虹の滝、再訪 結末のその先

 再び訪れた「虹の滝」。かつてペストムを戦慄させた「概念を喰らう魔素」と、亀裂の向こう側の視線。

 しかし、七人の選帝王がそこに立った瞬間、異層の化け物は攻撃すら許されなかった。


 ヒューイがただ一歩、前に出る。

「見ておけ、ペストム。これがお前の『不足』だ。お前はまだ、自分という刃を研ぐことしか考えていない。……本当の強さは、その刃で何を『斬る』かにある」


 ヒューイがその腰に挿した「ちっぽけなショートソード」を抜く。

「千刃構築」と言い、見えない無数の刃が「空間」を切り刻んだ。

 その瞬間、滝全体を覆っていた「虚無」が恐怖に震え、一気に霧散した。


「ピアッツア、サウエ。掃除してくれるか。こいつが夜眠れなくなると困る」


 ペストムが見据えていた「絶望の淵」は、選帝王たちにとっては「少しばかり散らかった部屋の掃除」に過ぎなかった。

 圧倒的な力。神話の暴力。

 ペストムは悟った。自分が「あれを何とかできる」というランクに到達したと思い上がっていたことを。師匠がなぜ「まだ早い」と言ったのか。


 彼に足りなかったのは、単なる力ではない。

 この絶対的な安定、帝国を支える「理の重さ」そのものだったのだ。


「……参りました」

 ペストムは静かに膝をついた。その瞳には、敗北感ではなく、遥か高みを見据えた新たな「静かなる炎」が宿っていた。


■第十章:神話の行軍 絶望の先にある日常

1.「外」への足跡

 虹の滝の「掃除」を終えた七人の選帝王たちは、足を止めることはなかった。ヒューイを先頭に、彼らは帝国の理が完全に途絶えた未踏域へと平然と踏み込んでいく。ペストムは、ただその後ろ姿を追いかけることしかできなかった。


 そこは、地図にも載っていない、名もなき原生林と断崖の地。

 突如、森の影から巨大な影が躍り出た。全長25メートルを超える、古代の捕食者「グラム・ドワリン」。その羽ばたき一つで嵐を呼び、一帯の生態系を支配するはずの化け物だ。

 ペストムが条件反射で抜刀しようとした、その刹那。


「……遅いな、ペストム」


 横を歩いていたスウェックが、一歩も動かずに呟いた。

 次の瞬間、グラム・ドワリンの巨体は声も上げられずに空中で停止し、無数の赤い線がその表皮を走った。直後、それはサイコロ状の小間切れとなって地面に降り注いだ。

 スウェックが何をしたのか。シルバールビーのペストムの眼でさえ、その抜刀はおろか、糸のような影気の軌跡すらも追えなかった。

 スウェックの両腰の「異様な形の短剣」は抜かれたことも気付かずにコートの下の鞘へ収められた。


2.平伏する蛮族

 さらに数時間を進むと、屈強な肉体を誇る亜人種「ベアロン」の集落に突き当たった。彼らは帝国の秩序を拒み、その怪力で侵入者を屠ることで知られる誇り高い狩猟民族だ。

 集落の戦士たちが咆哮を上げ、武器を手に飛び出してきた。


 だが、彼らは七人のうちの一人、ピアッツア・バルトスラストと目が合った瞬間、その動きを凍らせた。

 ピアッツアが放つのは威圧ではない。彼が「彼らの主であり、絶対忠誠を捧げるべき神」である数十万年前に確定された事実。

「……お前たち、何をするつもりだい?」ピアッツアが短く、事務的に告げる。

 すると、先ほどまで猛り狂っていたベアロンたちは、その場に平伏し、震えながら道を開けた。彼らにとってピアッツアは、「本能的な絶対的支配者」であり「神」に他ならなかった。


3.選帝王の休息

 日は沈み、周囲は完全な闇に包まれた。二つ目のベアロンの集落に辿り着いた際、ピアッツアが足を止めた。

 「ヒューイ。このあたりで一度、休息を挟むべきだ。ペストムの精神疲労が閾値を超えかけている」


 その提案により、一行はベアロンの集落を占拠……もとい、彼らの最上の寝床を借りて夜を明かすことになった。

 ペストムは、神話の住人たちが「眠る」という光景にすら衝撃を受けた。彼らは焚き火を囲み、まるで古い友人同士のように他愛もない話をしながら、マジックバッグから取り出した食事を口にしている。


「食え、ペストム。明日はもっと動くぞ」

 ヒューイから投げ渡された干し肉を、ペストムは震える手で受け取った。

「俺たちにとっては懐かしい味だ。北大陸ではこういう物を冒険の時に喰ってたもんだよ」

 彼らが最強である理由は、単なる魔力量や技術だけではない。この異常な状況、帝国外縁の深層域という地獄において、呼吸をするように「日常」を維持できる精神の強度。それがペストムには決定的に欠けていた。


4.十八時間の蹂躙

 翌朝、日の出とともに地獄の第ニ幕が上がった。

 ピアッツアの指示により、一行はそこから丸18時間、周囲の魔獣を「狩り尽くす」ことに決めた。


「練習だ。ペストム、お前は右翼の漏れた奴だけを叩け。中心には近づくな」

 ジェマーヌは守護魔術士として敵の行く手、逃げる方向に巨大な、巨大ということすら陳腐に想える魔法の盾を作り出す。

 ゼクサンドラは治癒士でありながら戦局を分析し、指示を出す。同時にペストムのかすり傷すらも癒していく。


 ペストムは、その凄まじい破壊の余波から漏れてくる「漏れ滓」のような魔獣を相手にするだけで精一杯だった。

 10時間、15時間……。

 さすがのペストムも連戦の疲労で感覚が麻痺し、腕が上がらなくなる。だが、目の前の七人は、呼吸一つ乱さずに淡々と「作業」を続けている。サウエに至っては、魔獣を屠りながら、壊れた世界の理を修復する「秩序の演算」を同時並行でこなしていた。


 18時間が経過した頃、周囲数キロメートルから生命の気配が消失していた。

 ペストムは剣を杖代わりにし、荒い息を吐きながら膝をついた。


「どうだ、ペストム。お前が目指していた『最強』の正体は」

 ヒューイが、涼しい顔で覗き込んできた。


「……私の知る『最強』という言葉では……足りません」

 ペストムの答えに、七人は顔を見合わせ、初めて満足げな笑みを浮かべた。


「そうか。なら、ここからが本当の修行だ」  ヒューイの手が、弟子の肩を叩く。その重みは、ペストムが背負うべき「次代の帝国」の重みそのものだった。


■第十一章:シルバーダイヤモンド ―― 人理を超えた契約

1.死線の淵で見た曙光

 18時間の蹂躙が終わり、周囲の魔獣が絶滅した静寂の中で、ペストムは自らの限界を悟っていた。

 指先一つ動かすのにも、魂を削るような労力が必要だった。視界は霞み、あれほどに鋭かった「静寂」の気も、今は風前の灯火のように揺れている。


「立てるか、ペストム。死にかけているが、まだ心は折れていないようだな」

 ゼクサンドラが歩み寄り、無造作に手をかざした。

 瞬間、ペストムの全身を黄金の粒子が包み込む。筋肉の断裂、神経の摩耗、そして枯渇していた錬気までもが、まるで時を巻き戻したかのように完璧に修復されていく。

「……これが、治癒術……」

「いいえ。これは『最適化』よ。壊れたものを直すのではなく、あるべき姿に戻しただけ」

 ゼクサンドラは事も無げに言い放ち、再び分析表に視線を戻した。


2.「シルバーダイヤモンド」の真実

 サウエ・クメムが、静かにペストムの前に立った。

 彼女が手に持っていたのは、ギルドが発行するような金属プレートではない。透き通るような輝きを放ちながら、周囲の空間を歪めるほどに高密度な「情報の結晶体」だった。


「ペストム・リンバーン。あなたは今、シルバールビーという『人間の限界』を見せたね、そして私たちの『神話の日常』を知ったと思うの」

 サウエの声は、個人の意思を超えた世界の裁定のように響く。

「冒険者ギルドが定めるランクは、ここから先は存在しないの。なぜなら、これより上の力は『冒険』という枠組みでは管理しきれないから、国家の存亡に直結する秩序そのものなのよ」


 サウエは結晶体をペストムの胸元へと差し出した。


「これを受け取りなさい。階級は、シルバーダイヤモンド(アダマンタイト)。でもね、これは単なる強さの証明ではないの。わたしたち初代選帝王直轄、帝国最深部との『再契約』を意味するのね。これは国家機密だよ、誰にも見せない約束ね。貴方は今まで通り冒険者ギルドではシルバールビー。でも私たちは貴方にこれをあげる」


 ペストムがその結晶に触れた瞬間、脳内に膨大な情報が流れ込んできた。

 それは帝国の真の成り立ち、選帝王たちが維持してきた世界の裏側、そして自分が「音を消す少年」として生まれた理由の一端。


「シルバーダイヤモンドに到達した者は、もはや『冒険者』ではない。帝国の『歯車』であり、同時に理を外れた『守護者』だ」


3.新しい剣、新しい使命

 ヒューイが歩み寄り、ペストムが杖代わりにしていた「鉄屑ロングソード」を手に取った。

「ピアッツア、もういいだろう。こいつの器は、今日この瞬間に広がった」


 ピアッツアが頷き、指先でロングソードの刀身をなぞった。

 すると、長年使い古されたはずの「鉄屑」が、内側から脈動し始めた。表面のサビや欠けが剥がれ落ち、中から現れたのは、星霜を閉じ込めたような深い蒼光を放つ「真の姿」今朝出来上がったかのような完成された美しい太刀。


「お前が『一人前』になったら渡すと約束していた新しい剣、いや太刀だ。……そうだな、本来の性能を解放したと言ったほうが正しいか。これまではお前の暴走を抑えるための封印(サビや欠け、形状すらも)を施していたが、今のお前なら、この魔力回路のすべてを回しきれるはずだ」


 手渡された太刀は、驚くほど軽かった。素材がミスリル、いや、名も知らない金属に変わっている。

 だが、その一振りに込められた「密度」は、先ほどの18時間の戦闘で見た選帝王たちの力に通じる、絶大な重みを秘めていた。


4.神話の弟子として

 ペストムは、新しく生まれ変わった太刀を静かに新しく作り直された鞘へ納めた。

 かつて孤独に路地裏で息を潜めていた少年は、もういない。

 目の前には、自分を拾い、鍛え、そして世界の理を見せてくれた七人の師がいる。


「……感謝いたします、師匠。……いえ、初代選帝王の皆様」

 ペストムは深く、深く頭を下げた。


「いい礼だ。だがな、ペストム。シルバーダイヤモンドはゴールじゃない。そこからようやく、俺たちの背中が『遠くに見える』場所に立っただけだ」

「ヒューイがゴールドルビーのルクシディウムで、ジュマーヌがゴールドトパーズのエリオナイト。わたしはゴールドダイヤモンドのセラフィシオン、ピアッツアはシルバーダイヤモンドのアダマンタイト。他は貴方と同じ、おそろいだね。みんなは自分で止めてるの、シルバールビー、オリハルコンランクでね。でも本当は全員ゴールドなのよ?面白いでしょ?」

「ランクを上げてる俺が馬鹿みたいじゃないかよ、止めとけばよかったか?」

 ヒューイが笑いながら、再び街道へと歩き出す。


「さあ、帰るぞ。帝都の連中も、お前が『神話』の仲間入りをしたと聞けば腰を抜かすだろうよ。まあ、国家機密だから言えないんだけどな。お前はシルバールビーの剣士を続けろ。ただし、俺達から『王団密議院』を通して『厄介な依頼』を頼むかもしれないんで、まあ頑張れ」


 沈まぬ虹の滝を背に、八人の影が帝国へと向かう。

 ペストム・リンバーンの足音からは、もはや「孤独」の響きは消えていた。そこにあるのは、帝国という巨大な意思を背負って歩む、静かな、だが誰よりも確かな「守護者」の足跡だった。


■第十二章:静寂の帰還 剥がれ落ちた険

1.馴染みの喧騒、見知らぬ空気

 「虹の滝」での神話的事象、そして選帝王たちとの「外」への行軍を経て、ペストム・リンバーンは再び冒険者ギルドの門を潜った。

 カツ……カツ……。

 響く足音に、ギルドの喧騒がいつものように凍りつく。しかし、その凍りつき方は以前とは微妙に異なっていた。これまでは「正体不明の化け物」への本能的な恐怖だったが、今の彼から漂うのは、より深く、透明で、どこまでも穏やかな静謐さだった。


 ペストムは真っ直ぐに受付カウンターへと向かった。

 そこには、かつて彼が来るたびに顔を強張らせ、震える手で書類を処理していた受付嬢が、今日もおっかなびっくり待機していた。


「……ただいま戻った。報告を」


 ペストムが口を開いた瞬間、受付嬢は目を丸くした。

 いつもなら「報告だ」の一言で済ませ、視線すら合わせなかった男が、ほんの少しだけ、だが確実に言葉を紡いでいた。


2.「険」の消失と変化

「あ……お、おかえりなさいませ、ペストム様! 無事のご帰還、何よりです!」

 彼女は驚きながらも、預かっていた資料を受け取る。その際、彼女はふとペストムの顔を凝視してしまった。以前の彼を包んでいた、触れるものすべてを切り裂くような鋭すぎる「険」が、綺麗に剥がれ落ちていたからだ。


「あの……ペストム様。何か、あったのですか? その……」

「……何か、とは?」

「いえ、その。以前よりも、こう……お顔立ちが柔らかくなられたというか。少し、お話ししやすくなった気がして」


 ペストムは自らの頬に手を当てた。自覚はない。

 ただ、あの十八時間に及ぶ神話の蹂躙、そして世界の理を指先で弄ぶ七人の選帝王たちの「日常」を目の当たりにしたことで、彼の中にあった「最強でいなければならない」という力みが消失していた。

 頂点を知り、自らの「不足」を明確に受け入れたことが、皮肉にも彼を真の静寂へと導いていた。


3.蒼き太刀と隠された結晶

「……少し、景色が変わって見えただけだ、多分な」

 そう答えたペストムの腰には、あの「鉄屑」だったはずのロングソードに変わって太刀がある。サビや欠けという名の封印やその形すら解かれ、星霜を閉じ込めたような蒼光を放つその刀身は、今朝打ち上がったばかりのような完璧な美しさを纏っていた。

 だが見えるのは美しくなった柄と鍔、新しくなった鞘だけだ。


「その剣、前と違いますね、新調されたのですか?」

「いや。師匠が……本来の姿に戻してくれたんだ。見るか?」

ペストムはその蒼く輝く刀身をそっと見せた。

「見たことも無い金属ですね。片刃の剣?見たことが無いです。でも、お似合いですよ」

そう言われ、ペストムは誇らしくなったが、ゆっくりとその刃を鞘に収めた。


 受付嬢は、彼がふと見せたわずかな表情の緩みに、思わず顔を赤らめた。

 ペストムの懐には、サウエから手渡された「シルバーダイヤモンド」の結晶体が静かに収まっている。これは国家機密であり、誰にも見せてはならない約束だ。ギルドの台帳上、彼は今も「シルバールビーの剣士」に過ぎない。

 だが、その内実は、王団密議院から直接特命が下る「帝国の守護者」へと塗り替えられていた。


4.「一人前」への歩み

 ギルド内が、以前とは違う意味でざわつき始める。「おい、あのペストムが受付嬢と世間話をしてるぞ」「剣が変わったな、やっと新しいのを買ったのか?」

 ペストムはそれらの声を、以前のように拒絶することなく、ただ心地よい背景音として聞き流していた。


「……次の依頼はあるか? ランクに見合うものでなくていい。……少し、この剣、太刀だったか……に慣れておきたい」


 その言葉に、受付嬢は弾けるような笑顔で答えた。

「はい! たくさんあります! 選び放題ですよ、ペストム様!」


 彼は依然として静かだった。だが、その静寂はもはや孤独ではなく、帝国という世界を慈しむための穏やかな響きに変わっていた。

「神の御業」を目の当たりにし、限界を知った青年は、いま再び、一人の冒険者として歩み出す。


『あの方々の背中は、まだ遠いけれど……。俺は、俺の静寂を全うしよう』


 ペストム・リンバーン。  帝国の「光」を影で支える、シルバーダイヤモンドの称号を秘めた若き剣士の、新しい日常が始まった。


■第十三章:黒い封筒 侵食の予兆

1.ギルド長の呼び出し

 ギルドでの穏やかな日常が戻って数日。依頼を受けようとしていたペストムは、受付嬢ではなく、険しい表情をしたギルド長本人から手招きを受けた。

「ペストム、奥へ来てくれ。……重要案件だ」

 通されたギルド長室の机の上には、一通の封筒が置かれていた。漆黒の紙に、黄金色に輝く「皇帝の魔法封」。それは触れた者の魔力波形を読み取り、特定の個人ペストム・リンバーン以外が封を開けようとすれば、内容ごと消滅する最高機密の書状だった。


「これを受け取れるのは、今の帝国では君だけだ……いや、正確には君にしか開けられない術式が組まれている」

 ギルド長が緊張で唾を呑み込む。ペストムがそっと指を触れると、魔法封は彼の錬気に反応してサラサラと粒子となって崩れ、封が解かれた。


2.厄介な依頼

 中には、王団密議院の名で記された「厄介な依頼」の詳細があった。


対象区域: 南部辺境『虚空の洞窟』。


現状: 周辺探索中のシルバートパーズ級パーティ(5名)が1週間未帰還。


難易度: 表面上はSSS(トパーズ級)だが、本件はSSS+に指定。


特記事項: 単なる救出にあらず。洞窟内部で発生している「未知の干渉」の正体を突き止め、排除せよ。


 シルバートパーズといえば、帝国の冒険者の中でも最上位層。5人も揃えば軍隊並みの戦力を持ち、通常なら難度SSSの洞窟で不覚を取ることは考えにくい。


「20人以上のトパーズ級を揃えてようやく成し遂げられるレベルの調査か……。ヒューイ様が言っていたのはこれのことか」

 ペストムは呟いた。通常のギルド依頼なら、これは「クランレイド級」として数十人で挑む案件だ。それを単独ソロで、しかも「救出」まで含めて完遂せよという。

 洞窟という環境では、大人数での作戦は困難。しかし他のシルバートパーズでは同様の危険が有る。

 そのためにペストムに出された依頼だった。


3.洞窟への足跡

 数日後、ペストムは『虚空の洞窟』の入り口に立っていた。

 本来ならば淀んだ魔素が流れているはずの場所だが、虹の滝で感じたあの「不自然な静寂」が、洞窟の奥から微かに漂っている。


「……いるな」

 ペストムの腰にある蒼き太刀が、鞘の中でかすかに共鳴した。

 彼は深く息を吸い込み、自身を深い「静寂」へと沈める。以前よりも遥かに高い密度。シルバーダイヤモンドとしての初任務が、静かに始まった。


4.深淵の光

 洞窟内を進むにつれ、戦いの痕跡が色濃くなった。岩壁には激しい魔法の焦げ跡や、剣戟の跡。そして、シルバートパーズ級の冒険者が残したであろう、壊れた装備の残骸。

 だが、奇妙なことに「血の跡」がない。


「殺されていないのか。……それとも、流す血すら奪われたか」

 ペストムがさらに深部、最下層へ辿り着いたとき、彼の視界に「異様な光景」が飛び込んできた。

 5人の冒険者たちが、巨大なまゆのような半透明の物質に包まれ、壁に固定されていた。そしてその中央には、虹の滝で見た「猛威の泥」よりもさらに洗練された、人型に近い輪郭を持つ「影」が佇んでいた。


 影はペストムを認めると、まるで意思を持っているかのように、音もなくその長い腕を鎌のように変化させた。


「……お前が、あの時の『視線』の主か」

 ペストムはゆっくりと太刀を抜いた。暗闇の中で、蒼い刀身が鋭い曙光を放つ。


「あの方々の背中は遠い。だが、この程度の『澱み』なら……俺一人で十分だ」


 次の瞬間、洞窟の暗闇が、ペストムの放つ圧倒的な「静寂の一閃」によって切り裂かれた。


■第十四章:侵食の個体 蒼き静寂の断罪

1.「神話」に削られし者

 洞窟の最深部、五人の冒険者を繭に閉じ込めた「人型の影」は、ゆらりと身を揺らした。

 この存在は、本来なら帝国全土を揺るがす災厄の種となるはずだった。しかし、先日「虹の滝」において七人の選帝王による一方的な蹂躙――彼らに言わせれば「掃除」――を受けたことで、その存在密度の八割以上を喪失している。


 だが、残った二割。それだけであっても、シルバートパーズ(ミスリル級)五人を無力化し、救出にシルバートパーズ級20人以上を要すると算出されるほどには、依然として強力で、異質な「外」の怪物だった。


「……お前か。あの滝の奥で、俺を覗いていたのは」


 ペストムが問う。影は答えない。ただ、空間を削り取るような不快なノイズを響かせ、鎌状に変異させた腕を振り上げた。一閃。

 影が動いたのではない。影の周囲の空間そのものがペストムに向かって「倒れ込んできた」のだ。


2.静寂の一閃

 かつてのペストムなら、この初撃を凌ぐために錬気を全開にし、余裕を失っていただろう。シルバールビーという階位は広い。なりたての者であれば、今のこの一撃で魂ごと砕かれていてもおかしくはない。


 だが、今のペストムは違う。彼は右足をわずかに引き、重心を沈めた。カツッ、と乾いた音が洞窟に響く。


「……静気流・一式『水面』」


 抜刀。 鞘から解き放たれた蒼き太刀が、暗闇の中に鮮烈な軌跡を描いた。

 ピアッツアが組み込んだ特級魔力回路が、ペストムの純粋な錬気を吸い込み、最適化された破壊の力へと変換する。


 影の鎌と、蒼い刃が交差する。火花は散らない。ただ、影が繰り出した「空間の崩落」を、ペストムの刃がそのまま「平らにならして」しまった。ヒューイの教えである、概念を固定し、理を斬る技術。


「ギ、ギギ……ッ!」

 影が初めて苦悶のノイズを上げた。その体躯を、蒼い錬気が内側から焼き切っていく。


3.シルバーダイヤモンドの片鱗

 影は焦燥したように、閉じ込めていた冒険者たちから魔素を強制的に吸い上げ、自身を巨大化させようと試みた。洞窟全体の空気が、怪物の咆哮に震える。


 しかし、ペストムの静寂は揺るがない。彼は左手を太刀の背に添え、眼を閉じた。


『視る必要はない。師匠たちのあの蹂躙に比べれば、この動きは……止まっているに等しい』


 心眼で観る。空間を一度に「観察」する。それは彼に、この世界の「綻び」を視覚化させる力を与えていた。影の核――魔素が集中する急所が、赤黒い光を放って浮き彫りになる。


「……終わりだ」


 ペストムが踏み込む。瞬気術。音を超え、光を置き去りにする移動。影が鎌を振り下ろすよりも早く、ペストムは怪物の懐へと滑り込んでいた。


「静気流・極位『深淵沈黙』」


 蒼い閃光が爆発した。それは破壊の奔流ではなく、対象の「存在理由」を否定し、強制的に無へと帰す静かなる処刑。影は叫ぶ間もなく、その輪郭を蒼い光の塵へと変え、洞窟の闇の中に霧散していった。


4.救出と安堵

 怪物の消滅とともに、壁に張り付いていた半透明の繭が溶け落ちた。ペストムは即座に駆け寄り、五人の生存を確認する。

 「……生きているな。魔素を吸われたが、命に別状はない」


 彼はマジックバッグから、予備のエクスポーションを取り出し冒険者たちの口に含ませる。しかし目を覚まさない。次に彼はエリクサーを取り出す。北大陸ならミスリルランクパーティーの最後の切り札とされるような貴重な霊薬だが、ここアーンレイムではさして高価ではない、たったの30アルクル(300万円)だ。彼は動けない冒険者たちの口に含ませる。すると、リーダー格の男がうっすらと目を開けた。

 よかった、これで効かないならハイエリクサーを使うしかないがそんなもの自分用一人分しか持っていない。しかしエリクサーを必要とする程度には疲弊していた証拠だった。


「……あんた、は……」

「冒険者だ。……立てるか? 街へ帰るぞ」


 ペストムの言葉には、以前のような冷たさはなかった。

 自らの太刀をゆっくりと鞘に収める。蒼い輝きが隠され、再び美しい柄と鍔だけが残る。


 シルバーダイヤモンドとしての初任務。

 それは、帝国の「理」を守り抜いたという、確かな手応えとともに完了した。


■第十五章:黄金の祝宴 継承の刃と「死金」の解放

1.二本目の沈黙

 洞窟からの救出劇を終え、負傷した冒険者たちを無事に送り届けたペストムを、一人の男が街道の片隅で待っていた。

 師、ヒューイ・ミツルギ・アウラスツラである。


「初任務、無事に終わったようだな。シルバーダイヤモンド(特務)としての初仕事への祝いだ。受け取れ」

 ヒューイは手元にあった包みをペストムに放り投げた。中には、今腰に差している太刀と同じ蒼き魔力回路を宿した、一回り短い「刀」が収められていた。ピアッツアがこの日のために打ち上げた、二本で一対として完成させるための半身。


「感謝いたします」

 ペストムは新しく授かった刀を左腰に差し、その重みを噛み締めた。


2.「死金しにがね」への説教

「ところでペストム。お前、今どれくらい貯め込んでいる?」

「……十万アルクル(百億円)ほどですが」

 淡々と答えるペストムに、ヒューイは鼻で笑った。


「十万だぁ!? お前、一人で抱えて死ぬ気か? 確かにシルバールビーなら10年で稼げる額だが、溜め込むだけじゃただの金属だ。特にお前みたいな『シルバーダイヤモンド』の力を持つ者が金を回さないのは、帝国の循環を止める罪だぞ。……よし、今日はお前の奢りだ。ギルドの『暇なブラス共』を全員連れて、浪漫亭で最高級の宴をやるぞ」


「……浪漫亭、ですか」

 ペストムは少しだけ考えた。この街を含め、周辺の街の中でも最高級の店だ。通常のランチでも5セス(1万円)で最高級の酒に魔獣肉、北の海から”特別輸送”される希少な魔魚を並べれば、一人一晩で30アルクル(300万円)は飛ぶ極端な店だ。


3.階級の壁と「浪漫亭」の狂騒

 帝国冒険者ギルドにおいて、最上位のシルバートパーズやブラスダイヤモンドたちは、年間数千アルクルの余剰所得を持つ。彼らにとっての30アルクルは「安くはないが、いつでも行ける」額だ。

 しかし、ギルドの八割を占める最下層、ブラスルビーたちの年間の手残り(諸経費を引いた貯蓄)は、せいぜい400アルクル程度。生活には困らないが、一晩で年収の一割弱を吹き飛ばす「浪漫亭」は、彼らにとって一生に数回あるかないかの贅沢だった。


 二人がギルドへ戻り、ナユタ(ヒューイ)が「浪漫亭の最高コースをペストムの奢りだ!」と叫ぶと、現場にいた約七十名のブラスルビーやブラストパーズたちが文字通り色めき立った。


「浪漫亭の30アルクルコースを……全員分だと!?」

「いいのか、ペストムさん! シルバートパーズでもそんな真似しねえぞ!」


4.七十名の「黄金の夜」

 浪漫亭の貸切フロアは、異様な熱気に包まれた。

 ブラスルビーたちが普段はエクスポーション代やエリクサー代を惜しんで食べる、1食20アム(1000円)程度の安飯とは違う、本物の「美食」が次々と運ばれる。


 滴るほど脂の乗った最高級魔獣肉。口の中で魔力が弾ける北海の魔魚。

 ペストムの隣では、ナユタが安酒ではなく、一本5アルクルは下らない100年物の銘酒を煽りながら、連れてきた連中に武勇伝を語っている。


「……これだけで、二千百アルクル(約二億一千万円)ですか」

ペストムが計算を口にすると、ナユタは愉快そうに笑った。

「お前の貯蓄からすればたったの2%だ。だが、見ろよ。この七十人が明日からどれだけ死に物狂いで働くか。お前が放出した金が、こいつらの命の輝きに変わったんだよ」

「それに、今日お前に渡した業物にアイツが作り直した太刀、そいつらには値段が付かないんだよ。わかるか?1億アルクルでも買えない代物だ」


 救出された冒険者たちも、この夜だけは恐怖を忘れ、涙を流して肉を頬張っている。

 ペストムは、自らが「死金」として抱え込んでいたものが、誰かの救いや、街の活気に変換される瞬間を初めて目の当たりにした。


「……悪くありませんね」

ペストムが酒を一口含む。その顔からは、かつての刺すような険が完全に消えていた。

 十万アルクルのうちの、わずかな「循環」。 だが、その夜の熱狂は、ペストム・リンバーンという男が、帝国の「理」だけでなく「心」の一部を担い始めた証でもあった。


■第十六章:千刃の鼓動 振らずに斬る理

1.祝宴の余韻と、二本の「覚悟」

 二千百アルクルが一夜にして消えた狂騒の翌朝。

 帝国の街がまだ眠りの中にあった頃、ペストムはすでにギルド裏の練武場に立っていた。昨夜、ヒューイから授かった二本目の「刀」の重みを確かめる。ピアッツァが打ち上げたその刃は、太刀と同じ蒼き魔力回路を宿し、存在自体が一種の奇跡のようだった。


「……一億アルクルでも、買えない価値」


 ヒューイの言葉が耳に残る。十万アルクルの貯蓄など、この二振りの輝きに比べれば路傍の石に等しい。だが、同時にペストムは、この二振りを同時に御することの絶望的なまでの難易度を感じ取っていた。


2.師の「宿題」と二刀の真実

「おい。二日酔いで寝てるかと思ったが、相変わらずだな」

 木影から現れたのは、ヒューイだった。


「その刀、お前に渡したはいいがな……勘違いするなよ。それは『二刀流で戦え』という意味じゃない。それは『命の予備』だ。お前が太刀を折られるような事態、あるいは太刀を振るえぬ窮地に陥った時のためのな。二本の刃を完璧に同調させて振るう『十字斬り』なんて芸当、今の、いやこれからの数十年のお前でも不可能だと思え」


 ヒューイは近くに落ちていた枯れ枝を拾い、それを太刀に見立てて構えた。


「お前がこれから目指すべきは、二刀の器用さじゃない。太刀一本で世界を黙らせる、真の『錬気術』だ。……俺が北大陸で『千刃構築』と呼んでいた術を見せてやる。よく見ておけ」


3.「千刃構築」 振らずに斬る神域

 ヒューイが構えた。木の枝は微動だにしない。

 だが、次の瞬間、練武場を取り囲んでいた頑強な石壁に、無数の「線」が刻まれた。


 パキパキパキッ! と、乾いた音が千回重なり、石壁が細かな礫となって崩れ落ちる。ヒューイは、一度も枝を振っていない。


「……これが、千刃構築」

「そうだ。錬気術の本質は、刀身に気を通すことにある。だが、その先がある。刀身を『軸』にし、そこから無数の見えない『気の刃』を空間に多重構築するんだ。……剣を振る必要はない。意識がそこにあれば、気は刃となり、一振り……いや、構えるだけで一千の魔物を細切れにする」


 ペストムは戦慄した。伝説として語り継がれる「振らずに千の首を飛ばした」というヒューイの武勇伝。それは誇張でも何でもなく、物理的な質量と速度を置き去りにした「ことわり」の体現だった。


4.太刀の理 防御と両手の同調

 呆然とするペストムに、ヒューイはさらに厳しい言葉を重ねる。


「いいか、ペストム。この世界において、太刀や刀という『長い片刃の剣』は不思議な存在だ。通常の騎士のように盾で防ぐことはしない。この細い刀身で敵の猛攻をいなし、防御し、そのまま攻撃へと転ずる。攻防一体こそがその本質だ」


 ヒューイはペストムに太刀を構えさせた。

「その軽さなら片手でも振れるだろう。だが、基本は両手で扱え。片手から流す錬気より、両手で包み込むように流す錬気の方が、理論的には同調させやすい。気を一本の線として刀身に繋げ、その密度を高めるんだ」


5.十日の徹底修行 宿る「十」の刃

 その日から、ペストムの地獄のような修行が始まった。

 ヒューイは、ペストムに二本目の刀を抜くことを禁じた。左腰の刀はあくまで「命の予備」として封じ、両手で太刀の柄を握らせる。


「太刀の魔力回路と、お前の錬気を完全に同期させろ。腕で振るな、気で空間を切り取れ!」


 ペストムの太刀は驚くほど軽い。だが、ヒューイが求めるのは「軽さ」を利用したスピードではない。両手から送り込む錬気を、刀身の回路内で一つの巨大なうねりに変える作業だ。


「……気が、散る」

 集中が途切れるたび、刀身から溢れた錬気が霧散する。一本の刃に、もう一本の「見えない刃」を重ねる。精神を剃刀の刃の上で走らせるような極限の精密さが要求された。


 三日目、一本の「影の刃」が顕現した。

 七日目、五本の刃が重なる。空気を斬る音が、複数の重なりとなって不協和音を奏でる。


 そして十日目。滝のような汗を流し、極限まで研ぎ澄まされたペストムが、両手でしっかりと太刀を構えた。

 瞬間。

 前方の巨石が、一つの音とともに、十の断層となって滑り落ちた。

「……十、ですか」

「十分だ。一から十へ至る壁は、千へ至る壁よりも高い。……お前は今、その入り口を跨いだぞ」


 ヒューイは満足げに頷くと、懐から「黒い封筒」を取り出した。


「さて、修行の成果を試す場が用意された。王団密議院からの依頼だ。……北大陸の大氷原で、封印されていたはずの『魔獣王』が動き出した。数千の魔獣を相手に、お前のその『十の刃』がどこまで通用するか。……俺と一緒に行くぞ。お前が主役だ、俺も斬るがお前の手柄にしろ、”剣聖ヒューイ”はもうこの世界に居ないんだからな。俺の代理だ」

 ”剣聖”そのヒューイが嫌う言葉にヒューイ自身が呆れた顔をした。

「北大陸には正式に冒険者は送れないからな。国家災害級の場合は俺達が行くことになっている。こっそりと……だが」


 ペストムは、十の刃を宿した太刀を鞘に納め、まだ抜くことを許されない「二本目」の柄に指を触れた。まだあの方の背中は見えない。だが、自らの中に「振らずに斬る」神話の種火が宿ったことを、彼は確信していた。


■第十七章:次元の彼方へ 極北の魔獣王

1.禁忌の起動

 修行の余韻が残る練武場。ヒューイが懐から取り出したのは、黒い封筒だけではなかった。

 鈍い輝きを放つ、歪な形状の紫色の水晶「次元結晶」。

 かつて世界を混乱に陥れたとして、帝国の法ですら厳重に禁じられた「転移魔法」を封じ込めた魔導遺物である。


「これを……使うのですか」

「緊急事態だからな。北大陸の氷河が崩れ、数万年封印されていた『魔獣王』が目覚めちまった。通常の手段じゃ間に合わん」


 ヒューイが結晶を握りつぶす。

 瞬間、周囲の空間がガラスのようにひび割れ、二人を飲み込んだ。重力も感覚も消失した刹那、ペストムの視界に飛び込んできたのは、見渡す限りの白銀の世界だった。


2.北の大氷原

 肌を刺すような極寒。帝国の温かな気候とは対極にある、死の沈黙が支配する土地。

 かつてヒューイが「剣聖」と呼ばれ、神話を刻んだ北大陸。その北端にある大氷原には、今、地響きのような唸り声が響き渡っていた。


「……あそこだ」

 ヒューイが指差す先、氷の地平線から、山と見紛うばかりの巨大な影が立ち上がっていた。古の魔獣王。その周囲には、王の目覚めに呼応するように地中から這い出した数千の魔獣が、雲霞のごとくひしめき合っている。


「いいかペストム。俺は裏で動く。お前がその十の刃で道を切り開き、魔獣王の喉元を喰いちぎれ。今日、この地で魔獣王を討つのは、剣聖の亡霊じゃなく……帝国の『シルバールビー』、ペストム・リンバーンだ」


3.十の刃、戦場に舞う

 ペストムは無言で頷き、両手で太刀の柄を握りしめた。

 十日の修行で培った、両手からの同調。

 押し寄せる数千の魔獣を前に、彼は一歩も引かずに踏み込んだ。


「……静気流・双絶――『十刃じゅうじん構築』」


 抜刀。

 一度の振りに、十の断罪が宿る。

 空間を切り裂く蒼い光の線が、先頭を駆ける魔獣たちの肉体を、物理法則を無視した角度で細切れに変えていく。  一振りで十。二振りで二十。

 太刀を「振って斬る」のではない。構えた刀身を軸に、意思が空間に刻んだ刃が、ペストムの周囲数メートルを絶対不可侵の「静寂域」へと変えていた。


4.魔獣王の咆哮

 手下の魔獣を屠られ、魔獣王が怒りの咆哮を上げた。

 その衝撃波だけで氷河が裂け、並の剣士なら鼓膜どころか五臓六腑を粉砕されるほどの圧力。

 だが、ペストムは太刀を盾のように掲げ、その刀身に全錬気を流し込んだ。


「……通さない」


 盾を持たぬ太刀使いの防御。それは衝撃を受け止めるのではなく、錬気の刃で「衝撃波そのものを斬り分ける」防御。

 裂かれた風がペストムの左右を通り過ぎていく。


「ヒューイ様……見ていてください」


 ペストムの瞳が、巨獣の急所を見据えた。

 背後に控える「師」という絶対的な安心感。そして、自身の内に宿った「十の刃」という新たな力。

 極北の氷原に、かつて剣聖が刻んだ静寂よりもなお深い、新たな「神話」の産声が響こうとしていた。


■第十八章:神話の継承 氷壁の決戦

1.絶望の白銀

 北大陸北辺、氷河の防衛線。

 そこには、この大陸が持ちうる最高戦力が集結していた。北大陸冒険者ギルド最高位の「ミスリル」ランクが1名、それに続く「プラチナ」5名、「ゴールド」8名。さらに後方にはシルバーランク40名と、国家の威信をかけた騎士団が陣を敷いていた。


 だが、彼らの表情に希望はない。

 眼前に立ち塞がる「魔獣王」と、その配下数千の魔獣。

 ミスリルランクの剣士が、震える声で吐き捨てた。

「……無理だ。あれは人間の手に負える代物じゃない。防衛線を捨て、撤退するしかないのか……」


 その時だった。

 彼らの頭上の空間が、ガラスが割れるような音を立てて歪んだ。


2.異層からの闖入者

 ひび割れた空間から、二人の人影が降り立つ。

 一人は、古びた外套を羽織った正体不明の男。

 そしてもう一人は、腰に二振りの刀を差し、透き通るような静寂を纏った青年ペストム・リンバーン。


「な、何だ!? 転移魔法だと……? 禁忌のはずだぞ!」

 騎士団や冒険者たちが驚愕に目を見開く中、ペストムは彼らに視線すら向けず、ただ真っ直ぐに魔獣の群れへと歩き出した。


「おい、死ぬ気か! 戻れ!」

 プラチナランクの冒険者が叫ぶが、ペストムは止まらない。

 背後でヒューイが短く告げる。

「……行け、ペストム。掃除の時間だ」


3.十刃構築の蹂躙

 数千の魔獣が、侵入者であるペストムを喰らい尽くそうと一斉に跳躍した。

 北大陸の精鋭たちが「終わった」と確信した瞬間、戦場から「音」が消えた。


 ペストムが両手で太刀を握り、真横に一閃。

「静気流・双絶――『十刃じゅうじん構築』」


 目に見える刀身の軌跡は一本。だが、空間を切り裂いたのは十の断罪。

 先頭の魔獣数十匹が、接触すら許されずに空中で「スライス状」に解体された。

 一歩踏み込むごとに、十の魔獣が沈黙する。

 振るわず、ただ構えたまま通り過ぎるだけで、見えない刃が周囲を切り刻んでいく。


「な……何だ、あれは……。剣を振っていないぞ!?」

「一撃で十匹……いや、一振りごとに死の空白が生まれている……!」

 ミスリルランクの剣士ですら、その理を理解できずに戦慄した。


4.魔獣王、沈黙

 ついに、ペストムは魔獣王の足元へ到達した。

 山のような巨躯が振り下ろされる。それは地形を変えるほどの質量攻撃。

 だが、ペストムの背後でヒューイが指先をわずかに動かした。ヒューイの「補助」――それは、魔獣王が放つ魔力の指向性をわずかに逸らし、ペストムの「十刃」が最も通りやすいように空間の密度を調整する精密作業。


「……これで、終わりだ」


 ペストムが跳躍する。

 両手で握りしめた蒼き太刀に、全錬気を流し込む。

 空間に十の青白い線が走り、それが魔獣王の喉元で一本の「線」へと収束した。


 ――ズ、ゥン。


 絶叫すら上げられなかった。

 魔獣王の巨大な首が、十の断層に切り分けられながら、ゆっくりと氷河の上に崩れ落ちた。

 残された千に満たない魔獣は、王の死と、目の前の青年の底知れぬ「静寂」に恐怖し、散り散りに逃げ出していく。


5.神話の代理人

 静まり返った氷原。

 返り血一つ浴びていないペストムが、太刀を鞘に収める。カチリ、という澄んだ音が、呆然と立ち尽くす北大陸の精鋭たちの耳に響いた。


 二人は騎士団長と思われる人物のところへ歩き。

「終わったぞ。残りの魔獣はお前たちが何とかしろ」

 と言いながら通り過ぎようとした。


「……あんた、一体何者なんだ……」

 騎士団長が震える声で問う。

 ペストムは一瞬、背後のヒューイを振り返ったが、ヒューイは首を振って姿を隠した。


「……アーンレイム帝国の、ただの冒険者だ。シルバールビーのな」


 その言葉を残し、ペストムは再び現れた次元の亀裂へと消えていった。

 北大陸の強者たちは、自分たちが一生をかけて辿り着こうとした高みを、息を乱すこともなく踏み越えていった「帝国の若者」の後姿を、ただ神話の目撃者のように見送るしかなかった。


■第十九章:凱旋と波紋 帝国の影、大陸の光

1.静寂なる帰還

 極北の氷原を揺るがした神話的決戦から数刻。アーンレイム帝国の練武場に、再び「次元結晶」のひび割れた光が走り、二人の男が音もなく降り立った。

 ペストムは、自身の太刀を握っていた右手の震えを止めるように、ゆっくりと拳を握り締めた。

「十刃構築」の反動は、ゼクサンドラの最適化を受けた体であっても、魂の摩耗として残っている。   「……終わりましたね」

「ああ。だがなペストム、ここからが本当の『仕事』だ。俺たちの戦場は、剣を振る場所だけじゃない」  ヒューイは、役目を終えてただの石ころと化した次元結晶を無造作に放り捨てた。その視線はすでに、ここから数千キロ離れた北大陸の「混乱」を見据えていた。


2.北大陸の激震

 その頃、北大陸では未曾有の混乱が渦巻いていた。

 魔獣王のむくろを前に、騎士団と冒険者たちは、目撃した光景を言葉にする術を持たなかった。


「……ありえない。あんな若者が、たった一人で魔獣王を、それも『振らずに』切り裂くだと?」

「転移魔術だ。間違いなく、禁忌の術で現れ、消えていった……」


 北大陸の酒場、ギルド、そして王宮の回廊。至る所で、不確かな噂が猛烈な勢いで増殖していく。 「帝国の白書によれば、シルバールビーという階級は北大陸のオリハルコンランクに相当するという……。だが、帝国にさえ一人しかいないはずのその化け物が、なぜ現れた?」 「そもそもオリハルコンなんて、『伝説の11人』が消えて以来、この大陸では神話の存在だ。なぜ帝国はそれを動かした?」 「どうやって帰ったんだ。まさか、大陸間の距離を瞬時に跨ぐ禁忌の転移を、日常のように使いこなしているのか……?」


3.網のネットワーク

 しかし、北大陸の住人たちが知らない事実があった。

 この混乱を冷静に、かつ緻密に記録し、帝都へと送り届けている「眼」が存在することだ。


 北大陸冒険者ギルド。そこに所属する冒険者のうち、約五百名は帝国の密偵だった。彼らは実力こそ「ミスリル」に匹敵しながら、身分を「シルバー級」に偽装し、大陸各地に溶け込んでいる。さらに、商人、職人、御者に至るまで、大陸全土に散らばる千人以上の工作員。

彼らが発する情報の断片は、王団密議院の演算機によって集約され、リアルタイムで「成果」として形を成していく。


「――北大陸全土、パニック状態。帝国の武威に対する畏怖、閾値を超過。魔獣王残党の活動、一時沈黙。……計画通りだね」


 密議院の奥底で、サウエ・クメムが淡々と報告書を閉じる。ペストムの「お披露目」は、北大陸の勢力均衡を強制的に帝国側へ傾かせる、極めて高度な心理戦でもあったのだ。


4.波紋の先にある日常

 数日後。帝都のギルドへ顔を出したペストムは、いつも通り受付カウンターへと向かった。

 北大陸を救った英雄の面影など微塵も出さず、彼はただの一人の”帝国最強”の冒険者として振舞う。


「あ、ペストム様! おかえりなさい。……なんだか、また一段と雰囲気が変わりましたね?」

 受付嬢が、頬を染めながら声をかける。ペストムは少しだけ視線を泳がせ、短く答えた。


「……少し、遠出をしていただけだ。……依頼の、報告を」


 その時、ギルドの掲示板を囲んでいた冒険者たちが、北大陸から届いた「号外」にどよめきを上げていた。

「おい、見たか! 北大陸でオリハルコン級の化け物が現れて、魔獣王を瞬殺したらしいぜ!」

「帝国から行ったらしいぞ。一体、誰なんだ……?オリハルコン級で魔獣王を倒せるとしたらペストム位じゃないか?」


 その喧騒を背に、ペストムはそっと左腰の「二本目の刀」に手を添えた。自分が救った大陸の騒ぎも、帝国が張り巡らせた策謀も、今の彼には遠い出来事のように感じられた。

 ただ一つ、確かなのは、あの極寒の地で十の刃を構築した瞬間の、あの静寂。

「……次は、十一本目だ」


 誰にも聞こえない呟き。伝説は北大陸で独り歩きを始め、当の主役は、次なる高みを目指して再び「静寂」の中へと消えていく。帝国の影が、世界を音もなく支配し始めていた。


■第二十章:伝説の背中 溢れ出す静寂

1.情報の濁流

 北大陸全土を揺るがした「魔獣王討伐」の噂は、帝国が放った千五百名以上の密偵たちの手により、精査・加工された形で帝都へとなだれ込んでいた。


「おい、号外だ! 北大陸で伝説のオリハルコンが降臨したってよ!」

「バカ言え、北大陸のオリハルコンなんて神話の『11人』が最後だろ。今は存在しねえはずだ」

「でも、帝国から転移してきたって目撃証言が山ほどあるんだ! しかも若者一人で魔獣王を細切れにしたって……」


 ギルド内は、北大陸のどの酒場よりも騒がしかった。

「何故、帝国が助けた?」

「どうやって帰った?」

「禁忌の転移術を使ったのは誰だ?」飛び交う憶測は、もはや制御不能なレベルに達している。


2.些細な「違和感」

 そんな喧騒の真っ只中、ペストムはいつものように受付カウンターへと歩み寄った。

 彼は努めて冷静だった。表情も変えず、呼吸も整え、左腰に増えた二本目の刀も外套の下に隠している。


「……報告だ。近隣のフォレストウルフ掃討、完了した」


 差し出された証明の魔石を、いつもの受付嬢が受け取ろうとした――その時、彼女の手が止まった。 「……え?」

「……どうした」

「いえ、その。ペストム様、今日はなんだか……その、『音』がしなさすぎます」


 彼女の指摘に、ペストムの心臓が一拍跳ねた。

「十刃構築」を会得した後のペストムは、無意識のうちに周囲の空間から自身の音を「消しすぎて」いた。歩く音も、衣擦れの音も、呼吸音すらも。

 あまりの「静寂」の深さに、魔導感応力のない一般人の彼女でさえ、本能的な違和感を覚えたのだ。


3.迫りくる正体

「あ、あの! もしかしてペストム様、その……」

 受付嬢が身を乗り出す。ギルド内の何人かのベテラン冒険者(シルバー級に偽装した密偵たち)の視線が、一斉にペストムに突き刺さった。彼らは知っている。北大陸で魔獣王を斬った「オリハルコン」もまた、異常な静寂を纏っていたことを。


「その、新しい鞘……! もしかして、北大陸の噂に出てくる……」


 ペストムの背中に冷や汗が流れる。「国家機密だ」とサウエに釘を刺されている。ここで正体が露見すれば、選帝王たちの計画に支障が出る。


「……噂の、何だ」

「北大陸の特産品、『銀雪の鞘』じゃないですか!? 最近、北大陸の商人が帝国に売るために買い漁ってるって噂の! やっぱりペストム様、こっそり美食巡りの遠征とかされてるんですか!?」


 受付嬢の勘違いに、ペストムは一瞬呆然としたが、即座に乗った。

「……ああ。……肉が、美味かった」

「やっぱり! 意外と食いしん坊なんですね、ふふっ」


 周囲の密偵たちが、ズッコケそうになるのを堪えて視線を外す。

『……あんな下手な誤魔化しがあるか……。だが、あの静寂の深さ、間違いなく”彼”だ』

密偵たちは、無言のまま互いに目配せし、報告書に「対象、カムフラージュを継続中。周囲は気づかず」と追記することを決めた。


4.「教える側」への予感

 なんとかギルドを脱出したペストムを、路地裏でヒューイが待っていた。彼は壁に背を預け、肩を揺らして笑っている。


「『肉が美味かった』だぁ? お前、嘘の才能は絶望的だな。あんな下手な誤魔化しがあるかよ」

「……不本意です。ですが、あの場を収めるにはそれしか思いつきませんでした」

「まあ、密偵連中も苦笑いしてたがな。……まあいい。遊びはここまでだ。サウエから連絡があったぞ」


 ヒューイはニヤリと笑い、ペストムの肩を軽く叩いた。

「サウエの奴、こんなことを言ってたぜ。『ペストムも、もう少し気楽に考えてもいいんじゃない? 次からは教わるほうじゃなく、教えるほうに回るとか、シルバートパーズを育ててシルバールビーを量産するとかするといいのになあ』ってよ」


 ペストムは虚を突かれたように目を見開いた。

 自分はまだ、師たちの背中を追う一人の若輩だと思っていた。だが、選帝王たちはすでに、ペストムが「次の世代」を導く、帝国の柱石となる未来を見据えている。


「俺たちがいつまでも手取り足取り教えるわけにはいかないからな。お前が育てたシルバールビーの軍団……。くくっ、想像しただけで他国が泣いて逃げ出しそうだ。まずはその『十刃』、後輩たちに叩き込んでやる準備でもしておけよ」


「……私が、教える側に、ですか」


 困惑気味のペストムを置き去りにして、ヒューイは楽しげに歩き出す。

 伝説のオリハルコン、北大陸の英雄。そんな外からの喧騒をよそに、ペストム・リンバーンの日常は、今まさに「教わる側」から「導く側」へと、緩やかに、しかし確実に変化し始めようとしていた。


■第二十一章:選帝王の「遅すぎる」おねだり ―― 帝国底上げ計画

1.サウエの「無邪気な」不満

 王団密議院の奥底、密議院も皇帝ですら知らない場所で、スチームパンク調の”自分なりのオシャレ”な姿を他の10人の選帝王に見せつけながら、サウエ・クメムは不満げに頬を膨らませていた。手元の資料には、ペストムが北大陸で魔獣王を討伐し、武名を轟かせてしまった報告書がある。


「ねえ、聞いてる? せっかく秘密でペストムをシルバーダイヤモンド(アダマンタイト級)にしてあげたのに。これじゃあ実質的にシルバールビーの席が空席になっちゃうじゃない。帝国の序列がガタガタよ」


 サウエの背後に立つヒューイとピアッツアは、苦笑するしかなかった。だが、彼女の次の言葉に、二人は言葉を失った。


「それに見てよ、この開拓スピード。このペースだと、あと二千年くらいで南大陸の五割を制覇しちゃう予定なの。……ちょっと早すぎない? 私はもっと、一万年くらいかけてのんびり変えていけばいいと思ってたのに。人間ってどうしてこう、せっかちなのかしら」


2.形而上存在の焦燥

 サウエにとって、二千年という時間は瞬きのようなものだ。しかし、彼女が「早すぎる」と漏らしたのは、単なる怠惰ではない。急激な勢力拡大は、世界の理の記述を歪め、修復不可能なバグを生む可能性がある。彼女は「一万年かけた緩やかな変容」という、およそ人間には理解できない長大なスパンでの安定を求めていた。


「サウエ……お前の時間感覚に合わせたら、帝国が完成される前に大陸が滅びるぞ」

 ヒューイのツッコミに、サウエはさらに唇を尖らせた。


「だから決めたわ。こうなったら、中間の層を厚くして、じっくり『熟成』させるのよ! ペストムには、シルバートパーズを鍛え直して『シルバールビー』に引き上げてもらいましょう。ついでに、ブラスダイヤモンドをシルバートパーズに、ブラスルビーをブラスダイヤモンドに昇格させるの。……そうね、最下級に四十万人以上いるブラストパーズ(北大陸シルバー相当)のうち、三万人くらいはブラスルビーにまで底上げして、基礎を固めてもらわなきゃ!」


3.押し寄せる「師匠」たち

 サウエの「熟成」という名のおねだりは、実質的には帝国の戦力を数倍に跳ね上げる「超・底上げ計画」だった。サウエ以外の初代選帝王たちは、その無茶な要求に悩みつつも、「ペストムに後進を鍛えさせる」という点では全会一致した。


 翌朝、ペストムがいつものように修行を始めようとすると、そこには異常な光景が広がっていた。


「よお、ペストム。今日からお前は『教官』だ。俺も手伝ってやるよ」

ニヤニヤと笑うヒューイの隣に、影からヌッと現れたスウェックが続く。

「……効率的な殺し方は、俺が教える。お前はそれを『静寂』で包んで伝えろ」


 さらに、メイド服を翻したスワトーが、一目見ただけで超級であろう弓を抱えて現れた。彼女は精霊術士だが、流石に数千数万の精霊はこの世界では「正体がバレる可能性が高い」

「音の流れを読む指導は、私がお手伝いします。……ペストム、生徒はもうギルド裏に集まっていますよ」


「ガッハッハ! 根性が足りん奴は俺が拳で叩き直してやるから安心しろ!」

最後には、タンクトップ姿のシリカードまでもが筋肉を躍動させて現れた。


4.ペストム、教官になる

 ギルド裏の広大な訓練場には、帝国内でも指折りの実力者であるはずのシルバートパーズたちが、真っ青な顔で整列していた。彼らの前には、自分たちが一生かかっても届かないはずの「初代選帝王」たちが四人も並び、その後ろに「あの」ペストムが立っている。


「……本日より、貴殿らの指導を任された、ペストム・リンバーンだ」


 ペストムは、懐のシルバーダイヤモンドの結晶が熱を持つのを感じていた。

 一万年という悠久を見据えるサウエの「熟成」計画。それは、一人の青年が「孤高の剣士」から「帝国の軍才」へと強制的に脱皮させられる、波乱の教育日誌の幕開けだった。


「……まずは、その無駄な魔力の『音』を消すことから始めてもらう。……一万年かけるつもりでな」


 ペストムの声が、静かに、しかし絶対的な圧力を持って訓練場に響き渡った。


■第二十二章:地獄の熟成 震えるシルバートパーズ

1.静寂の中の違和感

 ギルド裏の特別訓練場。そこに集められた十名のシルバートパーズたちは、帝国内でも「英雄」の呼び声高い猛者たちである。本来ならば、彼らが誰かに頭を下げることなど滅多にない。だが、今、この場を支配している空気は、彼らの喉を物理的に締め上げていた。


 整列する彼らの視線の先、ペストム・リンバーンの背後に控える四人の男女。


 一人は、完璧に着こなされたメイド服を翻す、尖り耳の美女、スワトー(偽名スリア)。

『なぜ訓練場にメイドが……? 儀礼用の演出か?』

冒険者たちは混乱した。しかし、彼女の周囲に漂う、風そのものを御するような異質な静謐さに、冗談だと言い切れる者は一人もいなかった。


 もう一人は、岩山のような筋肉を誇示するタンクトップ姿の巨漢、シリカード(偽名インガル)。

『正気か? 鎧も着けずに……防御を捨てているのか、あるいは我々の攻撃など「防ぐ必要すらない」という傲慢か?』

 あまりにも理不尽な肉体の質量に、重装剣士を自負するシルバートパーズの強者ですら気圧される。


 そして、彼らの困惑が恐怖へと変わったのは、その横に立つ男に気づいた瞬間だった。


2.「殺界」の残響

 いつからそこにいたのか。

 黒いロングコートを纏い、陽光すら吸い込むような暗闇を背負って立つ男、スウェック(偽名ドルト)。

 彼はただ静かに、微動だにせずそこにいた。だが、シルバートパーズとしての実力があればこそ、本能が警鐘を鳴らし続ける。


『……見えない。気配が、完全に消えている。いや、あそこにいるのは「人間」ではなく「死の概念」そのものか?』


 一人の冒険者が、冷や汗を流しながら隣の戦友に目配せを送った。(……おい。あの黒いコートの男と同列に並んでいる他の三人は、一体何者だ?)

 彼らは初代選帝王の姿を知らない。帝国において彼らの容姿は絶対機密であり、肖像画一枚遺されていないからだ。だが、戦士としての「勘」が告げている。目の前に並んでいるのは、人間の形をした「天災」であると。


3.困惑のギルドマスター

 四人の超人たちを背負い、ペストムは極限の緊張の中にいた。

 師匠たちが「手伝う」と言った時、これほどまでの威圧感を放つとは思わなかったのだ。

 ペストムは、自身の隣で石像のように固まっている人物に助けを求めた。


「……ギルドマスター。説明を、お願いします」


 王都辺境の地にある最強の冒険者ギルドを束ねるギルドマスターもまた、内心では絶叫していた。(知らん! 私だって何が起こっているのかわからん! 密議院から『最高優先度の訓練を実施せよ。講師はペストム。補助は……“彼ら”だ』という白紙の命令書が届いただけだ!)


 しかし、彼はプロだった。震える膝を叩き、威厳を絞り出して口を開く。


「……コホン。諸君、本日集まってもらったのは他でもない。王のお言葉……いや、帝国最高意志決定に基づいた『熟成プログラム』の開始を告げるためだ。これより十日間、諸君の全権はここにいるペストム・リンバーン、および……その後方に控える特任講師の方々に委ねられる」


 特等席で見守る四人の「講師」たちが、それぞれのやり方で冒険者たちを値踏みした。

 スワトーは優雅に一礼し、シリカードは凶悪な笑みを浮かべて拳を鳴らす。ヒューイは退屈そうに空を仰ぎ、スウェックはただ無機質な視線を向けた。


4.指導という名の「洗礼」

「……始める」

 ペストムの一言で、訓練場の気温が数度下がったように感じられた。


「諸君らはシルバートパーズ、つまり帝国の中核だ。だが、今のままでは『うるさすぎる』。魔力の循環、呼吸、心拍、そして存在。そのすべてが雑音だ。……まずは、インガル様の覇気に耐えながら、スリア様の放つ音のない矢を、ドルト様の影に怯えずに、ナユタ様の指導に従い捌いてもらう」


 冒険者たちが抗議の声を上げようとした瞬間。シリカードが軽く一歩踏み出した。


 ドォォォォォン!


 地面が爆ぜたのではない。純粋な「覇気」による重圧が、物理的な衝撃波となって訓練場全体を押し潰したのだ。シルバートパーズ十名が、一斉に膝を突き、地面に這いつくばる。


「ガッハッハ! 立て立て! 一万年かけていいと言われたが、俺はせっかちでな! まずは一分、このまま立っていられた奴から合格にしてやる!」


 ペストムは、地面に顔を埋めるエリートたちの背中を静かに見つめた。

 教官としての第一歩。それは、帝国の誇る英雄たちから「プライド」という名の雑音を、暴力的なまでの神域の力で削ぎ落とすことから始まった。


■第二十三章:神域の手加減 絶望という名の教導

1.インガルの挑発

 シリカード――偽名「インガル」の放った覇気によって、地面に這いつくばった十名のシルバートパーズたち。その中で、最も早く顔を上げたのは、最強を自負する大剣使い、アロウス・メイラートだった。

 彼は屈辱に顔を歪ませながら、震える脚で立ち上がる。


「……ふざけるな。講師だか何だか知らんが、武器も持たぬ者にここまでコケにされて黙っていられるか!」

「ガッハッハ! いい目だ、小僧。なら、とりあえずその『錬気術』でこの俺を攻撃してみろ。一歩でも動かせたら合格にしてやるぞ」


 インガルはタンクトップから覗く太い腕を組み、無防備に突っ立った。

 アロウスは咆哮し、愛剣に全錬気を流し込む。シルバートパーズ級の全力の一撃。それは巨大な魔獣の首をも容易に撥ね飛ばす破壊力を秘めていた。


「――死ねぇッ!」


 大剣がインガルの脳門を直撃する――かに見えた。

 キィィィィィィィン!

 訓練場に響いたのは、肉を斬る音ではなく、硬質な金属同士が激突したような不快な高音だった。

 アロウスの剣は、インガルの肌に触れることさえできなかった。皮膚の表面に展開された、目に見えぬほど高密度な「錬気の鎧」に完全に弾き返されたのだ。


「な……!? 俺の全力の錬気が、皮膚一枚通らないだと……?」

「次だ! まとめて来い、ヒヨコ共!」


 他の九名も次々と斬りかかるが、結果は同じだった。インガルは微動だにせず、ただ立っているだけで、帝国最高峰の剣士たちの攻撃を「無」へと帰していく。


2.スリアの見えない雨

 驚愕に打ち震える彼らに、休息は与えられなかった。

「……余所見よそみは、死を招きますよ」


 メイド服を翻したスワトー――偽名「スリア」が、優雅に弓を構えた。

 放たれたのは、不可視の魔力の転用によって”可視化”された光の矢。だが、その速度と連射性能は常理を逸していた。


 シュッ、シュシュシュッ!

 音もなく、しかし正確に。矢は冒険者たちの喉元、眉間、心臓といった急所を、紙一重の距離で掠めていく。 「なっ、なんだこの連射は!? 矢を番える(つがえる)暇すらないはずだぞ!」


 防ごうにも、矢は風の流れそのものに乗って軌道を変える。逃げ場のない「必中」の雨。冒険者たちは、インガルの防御壁に絶望し、スリアの超絶技巧に翻弄され、ただ踊らされる人形へと成り下がっていた。


3.ドルトの沈黙

 さらに、決定的な恐怖が背後から忍び寄る。

 黒いロングコートの男、スウェック――偽名「ドルト」が指を鳴らす。


 陽光の下、自分たちの足元にあるはずの「影」が、突然実体を持って立ち上がった。

「……逃げ場はない。自分の影に、殺される気分はどうだ?」


 気配が全くない。ドルトの影魔法によって作り出された分身たちは、音もなくシルバートパーズたちの背後を取り、その首筋に「影の刃」を突き立てる。

「ひっ……!」

 誰もが「死んだ」と直感した。しかし、首筋を撫でたのは冷たい感触だけで、傷一つ付いていない。


 それは、慈悲ではない。

 全力で戦う自分たちに対し、死の寸前で刃を止めるという、恐ろしい程の「手加減」。

 相手を殺すことよりも、殺さずに翻弄し続けることの方が遥かに高度な技術を要する。彼らは、自分たちが子供扱いどころか、羽虫のように扱われている事実に気づき、戦慄した。


4.地獄の先にある「理」

 その光景を見守るペストム、そしてギルドマスターもまた、冷や汗が止まらなかった。(師匠たちが本気を出せば、この訓練場どころか帝都半分が消える……。これほどまでの加減を、これほどの密度で行えるのか……)


 一時間後。立っている者は一人もおらず、シルバートパーズの猛者たちは、汗と泥にまみれて絶望の淵に沈んでいた。

 そこに、ペストムが静かに歩み寄る。


「……絶望するには早い。貴殿らの錬気術が通じなかったのは、魔力回路の使い方が『雑音』だらけだからだ」


 ペストムは太刀を両手で構えた。

「インガル様の鎧、スリア様の連射、ドルト様の消失、ナユタ様の剣技。そのすべては、究極の『効率』によって成されている。……今から、剣の魔導回路に流す気の練り上げ方、その『純化』を教える」


 ペストムが軽く太刀を振るうと、空気が震え、十の断層が重なって一つの音を奏でた。

 神域の強者たちによる「暴力的な洗礼」の後で、ペストムが示す緻密な「理」。

 絶望の底にいた冒険者たちの目に、わずかな、しかし烈烈たる渇望の光が灯る。


「……立て。寝ている暇など、我々にはないはずだ。シルバールビーの俺に対してすら一本も取れていない。10対5でそれか」


 ペストムの冷徹な、しかし確かな「教官」としての言葉が、地獄の訓練場に響き渡った。


■第二十四章:限界突破 覚醒する「鮮烈」の剣

1.「神の薬」による強制駆動

 訓練開始から36時間。ギルド裏の訓練場では、人間の生理限界を無視した光景が繰り広げられていた。本来ならば、シルバートパーズ級の強靭な肉体であっても、丸一日の不眠不休は精神の崩壊を招く。


「……そろそろ限界ですね。これ以上は効率が落ちます」

 スリア(スワトー)が優雅に指を鳴らすと、ドルト(スウェック)とインガル(シリカード)が、重厚な革袋から琥珀色に輝く小瓶を取り出した。


 それは、伝説の秘薬「エクスエリクサー」。

 錬金術師の最高峰、四次職アトルマージですら製造不可能とされる神話の霊薬だ。北大陸では存在すら知られず、この南大陸においても「創質」の権能を持つピアッツアのみがその理を再現できる、いわば「神の雫」である。


「これを飲め。疲れ切った筋肉繊維、蓄積した疲労、摩耗した精神……そのすべてを『無かったこと』にする。……さあ、地獄の続きだ」


 ペストムも流石に限界に近く、自分も飲んだ。しかし他の「講師」達は、疲れすら見せてない。


 ドルトの冷徹な言葉とともに薬を流し込まれたアロウスたちは、驚愕に目を見開いた。

 瞬時に全身を駆け抜ける万能の熱量。つい数秒前まで悲鳴を上げていたはずの肉体が、まるで生まれたてのような万全の状態へと「巻き戻る」。

 だが、それは慈悲ではない。再び完璧なコンディションで、さらなる高密度の地獄を味わうための強制再起動リブートだった。


2.フェンス越しの畏怖

 この異常な訓練の噂は、瞬く間にギルド全体へ広がっていた。

 フェンスの向こう側には、本来なら立ち入り禁止のはずの場所を覗き見ようと、数百人のブラス級冒険者たちが集まっていた。


「……おい、嘘だろ。あそこに転がってるの、シルバートパーズのアロウスさんじゃないか?」

「見てろよ、今あの人たち、何か凄まじい薬を飲まされたぞ。飲んだ瞬間に傷が消えて、そのまま平然と立ち上がってやがる……」


 ブラス級の彼らにとって、シルバートパーズは雲の上の存在だ。その英雄たちが、年若きペストムと、ふざけた格好をしながらも底知れぬ圧を放つ講師たちに、文字通り「壊されては直される」を繰り返している。

 だが、見物人の中の鋭い者は気づき始めていた。

 死を目前にした極限状態を、エクスエリクサーによって何度も「やり直す」ことで、彼らの剣筋から雑音ノイズが削ぎ落とされ、異質な純度を帯び始めていることに。


3.アロウスの「不協和音」

 訓練生の中で最も凄まじい執念を見せていたのは、大剣使いのアロウスだった。

 彼はペストムの教える「静寂」を目指そうとしていた。だが、どれだけ無駄を削ぎ落としても、彼の中にある激しい闘争心が「音」となって溢れ出してしまう。


「……クソが。消えねえ……。俺の『音』が、どうしても消えねえんだよ!」


 エクスエリクサーで肉体は癒えても、消せぬ自己への苛立ち。

 そこへ、ナユタ(ヒューイ)が退屈そうに歩み寄った。


「なあ、小僧たち。勘違いするなよ。ペストムの『静寂』はアイツの生まれ持った特質だ。誰もが同じ型にはまる必要はない。音を消せないなら、徹底的に『研ぎ澄ませ』。雑音を消すんじゃなく、すべての不協和音を一音に収束させるんだ」


 ヒューイの言葉が、アロウスの脳内で弾けた。

 静かに、無になろうとする努力を捨てる。自分の中にある怒り、プライド、疲労、渇望――それら全ての「雑音」を、一本の線へと無理矢理押し込む。


4.覚醒 ―― 鮮烈なる開眼

 アロウスが再び大剣を構えた。

 その瞬間、彼を監視していたドルトがわずかに眉を動かす。


 アロウスの錬気は、静まりはしなかった。

 逆に、直視できないほどの輝きを放ち、周囲の空気を焼き切るような高周波の「音」を奏で始めた。それはペストムの「静寂」とは真逆の、あまりにも鮮やかで、あまりにも烈しい存在の主張。


「――おおおおおおッ!」


 アロウスが踏み込む。

 たった一撃。

 その刃は、これまで一度も触れることができなかったインガルの「錬気の鎧」を食い破り、その胸板に、一条の「光の傷」を刻みつけた。


 インガルが、初めて一歩、後ろに下がった。


「……ほう」

 インガル――シリカードが、自身の胸の傷を触り、愉快そうに喉を鳴らす。

「静寂ではなく、『鮮烈』か。いいじゃないか、小僧。お前なりの理を掴みやがったな」


5.シルバールビーへの産声

 アロウスはその場に崩れ落ちた。もはや「エクスエリクサー」すら必要ないほどの充足感が彼を満たしていた。

 己の魔力回路が、これまでとは比較にならないほど効率的に、かつ劇的に変質したことを確信していた。


 その光景を見て、刃を止めたペストムは、静かに告げた。

「……おめでとう、アロウス・メイラート。君は今、シルバールビーの”入り口”に立った」


 フェンスの外で見守っていたブラス級の冒険者たちは、今の衝撃的な一撃に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 たった三日で、神話の秘薬を浴びながら地獄を往復し、人はここまで変われるのか。

 アロウスの覚醒を皮切りに、残る九名のトパーズたちの中にも、それぞれの「理」が芽吹き始めていた。


■第二十五章:波紋の収束 ―― 帝国の新たな胎動

1.「神域」を模倣せぬ覚醒

 地獄のブートキャンプは、最終局面において「訓練」という概念を完全に超越していた。

 アロウス・メイラートが放った「鮮烈」の一撃――インガルの錬気の鎧に傷をつけたその光景は、極限まで摩耗していた他の九名のシルバートパーズたちの魂に、劇的な変化をもたらした。


 彼らは理解したのだ。ペストムが体現し、ナユタ(ヒューイ)たちが突きつけているのは「模範解答」ではない。自分たちという器の限界を叩き壊し、その破片の中から「独自のことわり」を再構築せよという、過酷なまでの問いかけであることを。


 「エクスエリクサー」を何度も流し込まれ、強制的に細胞を新陳代謝させられながら、彼らの魔力回路はもはや人間のそれではない、高密度な伝導体へと変質し始めていた。


2.「一閃」の求道者 ―― サイロン・バイタロス

 槍使いのサイロン・バイタロスは、十日間、スリア(スワトー)の「音のない矢」の雨に晒され続けてきた。必中、不可視、そして回避不能な死の軌跡。

 彼は最初、それを「目で追う」ことに固執した。だが、エクスエリクサーで意識を強制再起動されるたび、五感による把握を捨てていった。


 (視覚で追うのではない。スリア様の気の流れを、空間そのものの歪みとして捉えろ……!)


 サイロンは愛槍を構え、その先端から放射される魔力を逆流させる。これまで「突き」とは、点への攻撃だと思い込んでいた。しかし、スリアの矢の軌跡に学び、彼は気の密度を一本の極細い「線」へと凝縮させた。

 突き出した瞬間、槍の穂先が空間を滑るように加速する。それはもはや「動く」という過程を省略したかのような、点ではなく空間を貫く光の線――「一閃」。

 その穂先が、スリアの放った光の矢を正面から真っ二つに裂いたとき、彼の周囲から一切の雑音が消え失せた。


3.「重圧」の継承者 ―― スフィーア・メルティ

 一方、重甲冑を纏い、身の丈ほどの大剣を振るうスフィーア・メルティは、インガル(シリカード)の「理不尽」と戦っていた。

インガルの歩み一歩ごとに地面が沈み、その覇気だけで肺が潰れる。スフィーアはその圧倒的な質量に対抗するために、自身の魔力回路をより強固に、より厚くしようと足掻いた。


 だが、何度挑んでもインガルの肌一枚傷つけられない。

『厚くするのではない。インガル様の圧力を、自分の剣の中に『取り込む』んだ……!』


 スフィーアは、自身の足元にかかる重力とインガルの覇気を、回路を通じて大剣へと誘導し始めた。自身の重さと敵の重さを統合し、一つの特異点へと変換する。

 振り下ろされた大剣。それはもはや鋼の塊ではなく、周囲の空気を吸い込み、重力そのものを物理的な衝撃へと変える「重圧」の理を纏っていた。

 インガルがその一撃を片手で受け止めた際、訓練場の地面に巨大なクレーターが穿たれた。インガルの足首までが地面に埋まったのを見て、スフィーアは血反吐を吐きながらも、勝利にも似た笑みを浮かべた。


4.「繊細」の体現者 ―― リメイ・アテロート

 その日のその時間、女性剣士リメイ・アテロートは、最も過酷な試練の中にいた。彼女の相手は、ドルト(スウェック)の「影」。

 いつ、どこから、どのような角度で迫るか分からぬ死に通じる漆黒。彼女の神経は、エクスエリクサーの過剰摂取によって極限まで研ぎ澄まされ、もはや「自身の皮膚の感覚」すら苦痛に感じるほどになっていた。


 ドルトの影が、彼女の死角から喉元を狙う。

 リメイはその瞬間、自身の気を絹糸よりも細い数万の「糸」へと分解した。広範囲に張り巡らされたその気は、空気のわずかな振動、影が形を成す前の魔素の揺らぎを完璧に捉える。


 (見えた……。この『隙間』を通せばいいのね)


 彼女の剣筋は、もはや斬撃ですらなかった。空間に存在するあらゆる障壁、防御、影。そのわずかな「繋ぎ目」を見出し、そこへ繊細極まる気を流し込む。

 防御される前に、防御の意思そのものを通り抜ける「繊細」の理。

 ドルトのコートの裾を、彼女の細剣が音もなく切り裂いた。影から戻ったドルトが、無機質な瞳の中に初めて「感心」の色を宿した。


5.シルバールビーの産声

 十日目の朝日が昇った時、訓練場に立っていたのは、ボロボロになりながらも異様な覇気を纏った四人の男女だった。


「鮮烈」のアロウス


「精緻」のサイロン


「重圧」のスフィーア


「繊細」のリメイ


 彼らが纏う錬気からは、かつてのシルバートパーズ時代にあった「迷い」という雑音が完全に消失していた。代わりに宿ったのは、帝国の新たな礎となるべき、純化された四つの理。


 ペストムは、自身のシルバーダイヤモンドの感覚を通して、彼らの錬気術を含む身体回路が「シルバールビー」へと完全に変質したことを確認した。一人の天才の背後を追うのではなく、各々が独自の「神域」への入り口を見つけ出したのだ。


「……終了だ。貴殿らは今、真の意味で帝国を支える『シルバールビー』となった」


 ペストムのその宣言は、ただの昇格の報せではない。

 サウエ・クメムの求めた「熟成」が、歴史上類を見ない異常な速度と密度で達成されたことを示す、新たな神話の第一歩であった。

 四人の新米ルビーたちは、朝日の中で、自分たちが手にした力の重みと、それを与えた「師」たちの底知れぬ深淵を、改めて噛み締めていた。


■第二十六章:しかし「見せつけられる高み」

1.幕引きの予兆

 十日間の地獄、そしてエクスエリクサーによる強制的な再起動の果て。四人の新たな「シルバールビー」が誕生し、訓練場にはやり遂げた者たちの熱気と、一種の達成感が漂っていた。

 アロウスたちは、自らが掴んだ「理」を誇示するように、全身から純化された錬気を放っている。その姿は、確かに帝国の中核を担うに相応しい「英雄」のそれであった。


 ペストムもまた、教官としての重責を果たし、張り詰めていた気を緩めようとした。だがその時、ナユタ(ヒューイ)が、その冷徹なまでの鋭い眼差しを一同に向けた。


「……独自の理を掴んだ程度で、その先を見失うなよ。……ドルト、百ほど投げてくれ」


 その言葉に、黒いロングコートの男、ドルト(スウェック)が無言で応じた。


2.絶望的なまでの「極致」

 ドルトが懐から取り出したのは、百本の鋼のクナイ。それを彼は、まるで塵でも払うかのような無造作な動作で、一気に空へと放り投げた。

 百本のクナイが、重力に従ってバラバラの速度、バラバラの軌道で訓練場の空を舞う。風に流され、太陽の光を不規則に反射するその百の点を、視覚で捉え切ることすら通常の冒険者には不可能だ。


「これが、本物の錬気術だ。よく見ておけ。……ペストム、お前もだぞ」


 ナユタが腰のショートソードを引き抜いた――瞬間、世界から音が消えた。

 彼が踏み込んだという予備動作すら、誰も感知できなかった。ただ、ナユタの姿が「ブレた」と感じた刹那、空中にあった百本のクナイが、まるで示し合わせたかのように同時に火花を散らした。


 キン、という澄んだ音が一度だけ、まるで何かに当たったかのように響く。

 次の瞬間、空から降ってきたのは百本のクナイではない。

 中心を寸分違わず真っ二つに断ち割られ、断面が鏡のように磨き上げられた「二百枚の鉄屑」だった。


 ナユタは平然とショートソードを鞘に収める。カチリ、という納刀の音が、静まり返った訓練場にあまりにも鮮烈に響き渡った。


3.神域の残響

 それは、アロウスたちが掴んだ「鮮烈」や「重圧」といった個別の理を、根底から嘲笑うかのような圧倒的な「全能」だった。

 一点を突くのではない。圧力を操るのでもない。

 ただ、世界に存在する全てを完全に把握し、その全てに対して同時に、最適解の刃を叩き込む。魔力回路の効率を突き詰めた果てにある、錬気術の真なる究極の姿。


「……な……」  アロウスは持っていた大剣を落としそうになった。自分たちが登ったと思っていた山は、ナユタが立つ巨大な山脈の、ほんの砂利の山に過ぎなかったのだ。

 ペストムもまた、全身を貫くような衝撃に立ち尽くしていた。自分が「十刃」を会得して喜んでいたことが、どれほど子供じみたことだったか。師匠たちの深淵は、光さえ届かない暗黒の海そのものだった。


 ギルドマスターは、もはや言葉を失い、ただ口を開けて空から降る鉄屑を見つめることしかできなかった。これが、アーンレイム帝国を支え続けている「強さ」の、文字通りの片鱗なのだと。


4.騒がしき退場

「ふむ。フィラッカ王国(ヒューイの旧領地)の連中は、これで当分は大丈夫そうだな」


 ナユタは満足げに頷き、先ほどまでの神がかり的な業を見せた者とは思えないほど軽く、肩を回した。

「さて、来月はどの国の冒険者ギルドにする? アイツのノルマもあるしな」


 その問いに、タンクトップ姿のインガル(シリカード)が、凶悪な笑みを浮かべて身を乗り出した。 「ガッハッハ! 次はバリューツ(シリカードの旧領地)にしようぜ! あの国は酒が旨いし、根性のある野郎も多い。叩き甲斐があるってもんだ!」


「……私は、どこでも構いません。静かな場所であれば」

 スリア(スワトー)が優雅にメイド服を整え、ドルト(スウェック)は無言で影に沈む。


 四人の「天災」たちは、次に蹂躙する地を楽しげに議論しながら、夕暮れの雑踏の中へと消えていった。残されたのは、四人の新米シルバールビーと、憔悴し切ったペストム、そして静かに祈るギルドマスター。


「……しばらく、休みます……本当に……」


 ペストムの力ない呟きだけが、クナイの残骸が散らばる訓練場に虚しく響いた。

 帝国の「熟成」は、まだ始まったばかりである。



■第二十七章:形而上の微笑と遠き残響

1.聖域の「おしゃれ」

 王団密議院の最深部。皇帝の政務室よりも遥かに厳重に秘匿された11人の初代選帝王の部屋の一つ。サウエ・クメムの私室は、今日も今日とて時代を先取りしたような、奇妙で美しい真鍮製の歯車や数多の部品で満たされていた。


 サウエは今日、自慢の「スチームパンク調のおしゃれな服」に身を包んでいた。真鍮の歯車を模した髪飾り、何層にも重なったフリル、そして無数の計器が埋め込まれた革のコルセット。彼女にとって、この姿を見せつけることもまた、退屈な観測時間を過ごすための重要な儀式であった。


「――以上が、今回の教育プログラムの報告だ。シルバールビーが四名、その他六名もルビーの門前に立っている」


 戻ってきたヒューイが、3人は並べる大きなソファーにどっかと座り、淡々と事実を告げる。その横には、まだどこか高揚した様子のシリカード、静かにスワトーとスウェックが”自分用の椅子”に座って並んでいた。


2.「今のところ」という猶予

 報告を聞き終えたサウエは、椅子に深く腰掛け、満足そうに細い指先で自身の顎をなぞった。


「シルバールビーが四人? ふふっ、いいじゃない。ペストムも意外と教育の才能があるのね。私の見立て通りだわ」


 サウエは楽しげに、空中へとホログラムのように展開された十一王国の地図を眺める。その中の一つ、今回ペストムたちが荒らし回ったフィラッカ王国の領域が、ほんのわずかに輝きを増したように見えた。


「……まあ、一万年計画の第一歩としては、ヒューイの国は今のところこれでいっか」


 彼女の口から漏れた、あまりにも気まぐれな「今のところ」という言葉。

 それを聞いた選帝王たちは、顔を見合わせて一様に呆れた表情を浮かべた。彼女にとって、あの地獄の十日間は、壮大なチェス盤の一駒を数ミリ動かした程度の、極めて些細な「微調整」に過ぎないのだ。


3.日常となる「地獄」の予感

 サウエは椅子をくるりと回転させ、”窓の外”に広がる帝都の夜景を見つめた。


「さあ、次はバリューツだったかしら? それともファイセリウス? 定期的に叩いてあげないと、せっかくの『理』が錆びついちゃうものね」


 選帝王たちは、これから始まるであろう数千年の歳月に思いを馳せた。

 数年から数十年に一度、十一の王国を順番に巡る「死神と教官の巡回」。

 それは、大陸全土を巻き込む予測不能な天災として定着し、百年後には「この時期に姿を見せない冒険者は二流」とまで言われる日常の風景となっていく。


「……ま、ペストムには悪いが、あと数百回は付き合ってもらうさ。でも俺の国は俺のやり方で、他の奴は他のやり方で。それでいいよな」

 ヒューイが苦笑混じりに呟く。


 サウエの微笑みの裏側で、帝国の「熟成」は加速し続ける。

 一万年という悠久の果てに彼女が見据える景色は、未だ誰にも分からない。ただ一つ確かなのは、ペストム・リンバーンの望んだ「平穏な休日」は、この形而上存在の機嫌ひとつで、今後も無残に砕け散り続けるということだけだった。


■第二十八章:刻まれた戦慄 ―― 生還者たちの独白

1.「死」を反復した記憶

 フィラッカ王国の冒険者ギルド。その奥深くに厳重に保管されることとなった「極秘報告書」には、訓練に参加した十名の冒険者たちの、生々しくも凄惨な手記が綴られていた。

 彼らは帝国最高峰のシルバートパーズとして、数多の死線を越えてきた自負があった。しかし、その自負は、伝説の秘薬「エクスエリクサー」によって強制的に繋ぎ止められた十日間の地獄によって、粉々に打ち砕かれたのである。


 最も劇的な変化を遂げ、シルバールビーへと昇格したアロウス・メイラートは、震える手でこう記している。

「私はあの十日間で、一生分の『死』を体験した。肉体が限界を迎え、意識が闇に落ちる寸前、あの講師たちは琥珀色の液体を喉に流し込んでくる。エクスエリクサーを飲まされるたび、死神に『おかわり』と耳元で囁かれているような錯覚に陥った。……二度と、あのような地獄は御免だ。だが、皮肉なことに今の私は、かつては想像もできなかった『鮮烈』な理を掴んでいる。今の俺なら、山すら一刀の下に斬り伏せられる気がするのだ」


2.「神域」に触れた代償

 槍使いとして新たな境地に至ったサイロン・バイタロスの手記には、特定の一人に対する拭いきれない恐怖が刻まれていた。

「……今でも、風の音が聞こえるだけで肩が跳ねる。メイド服を纏ったあの講師スリアは、瞬き一つの隙すら与えず、必殺の矢を撃ち込んできた。あれはもはや技術ではない、天理だ。彼女の前では、大陸のどこに逃げようと無駄だということを本能が理解してしまった。あの『音のない矢』に晒され続けた結果、私の槍は空間を貫く『一閃』を得たが、その代償はあまりにも大きかった」


 重甲冑を紙のように扱われたスフィーア・メルティも、その屈強な精神を激しく摩耗させていた。 「防御という概念が、あのタンクトップのインガルの前で死に絶えた。私の自慢の重甲冑は、彼の拳が放つ圧力の前では羽毛に等しかった。拳が空を叩くたび、内臓が無理やり入れ替えられるような衝撃に襲われ、胃の内容物をすべて吐き出した。だが、その理不尽な重圧を知ったからこそ、私は自身の剣に『重圧』を宿すことができた。強さとは、これほどまでに残酷なものなのか」


3.消えぬ影、消えぬ静寂

 最も精神的な「汚染」を危惧されていたのが、女性剣士リメイ・アテロートである。

「影のドルトの視線。それは刃よりも冷たく、魂の芯まで凍りつかせるものだった。自分の足元にある影が、意志を持って自分を殺しに来る。あの恐怖は、どれほど酒を煽っても、どれほど眠ろうとしても拭い去ることはできない。しかし、その影の刃を避けるために突き詰めた私の錬気は、かつてないほど『繊細』になった。今なら、敵の防御の綻びが、まるで光の道のように見える」


 そして、シルバールビー昇格を逃した残りの脱落者たちの感想は、さらに悲惨なものだった。

「あれを『訓練』などと呼ぶ者は、正気ではない。あれは純然たる『解体工事』だ。石材を削り、不要な部分を叩き壊すように、俺たちの存在そのものが解体された。あの四人の講師たちは、俺たちを同じ人間だとは一ミリも思っていなかっただろう。そして、一番まともに見えたペストム教官……。彼が最も『無音』で、最も底知れぬ恐怖を感じさせた。彼の背中には、講師たちと同じ色の深淵が広がっていた」


4.ブラスランクの絶望

 この手記の内容が漏れ聞こえる前から、フェンス越しに光景を目撃していたブラスランクの冒険者たちの間では、ある「共通認識」が生まれていた。


「いいか、若手。もし街に『メイドとタンクトップを連れた、無口な銀髪の剣士』が現れたら、迷わずギルドを辞めて帝都に帰れ。もしくは皇帝領のどこでもいい、そこで嵐を避けろ。あれは冒険者の鍛錬じゃない、理不尽な破壊だ」


 彼らが目にしたのは、帝国の英雄たちがボロ雑巾のように扱われ、エクスエリクサーで再定義されるという、人道を無視した「熟成」の現場だった。

 アロウスたちが手に入れた強大すぎる力と、その引き換えに失った「安らぎ」。

 帝国の冒険者たちの間に、ペストム・リンバーンという名は、畏怖と絶望を孕んだ「死神の教官」として、不朽の伝説となって刻まれていくことになったのである。


■第二十九章:ペストムの長い憂鬱と、四つの歓喜、六つの執念

1.ペストムの長い憂鬱

 地獄のブートキャンプが終わり、フィラッカ王国の街に夕闇が降りる頃。ペストム・リンバーンは、宿屋の自室で深く、重い溜息をついていた。

 ベッドの端に腰掛け、手入れを終えた二振りの太刀を見つめる。かつては孤独な修行こそが彼のすべてだったが、今は違う。自分の後ろには、師匠たちが課した「三万人の底上げ」という、天を仰ぐような巨大なノルマが居座っている。


(次はバリューツ……シリカード様の故郷か……)


 サウエが楽しげに語った「一万年計画」。その第一歩を終えただけで、ペストムの精神はすり減っていた。

 自分が強くなることと、他者を強引に引き上げることは全く別の労力を要する。しかも、補助講師という名の「天災」たちが周囲を破壊し、それを自分が「静寂」で包んで収めるという構図は、あまりにも神経を削る作業だった。 「……一万年など、持つはずがない」

 鏡に映る自分の顔は、二十歳そこそこの若者のそれではなく、数多の戦場を潜り抜けた老兵のような疲労を湛えていた。


2.四つの歓喜と、帝国への宣戦

 一方で、正式に「シルバールビー」への昇格推薦を受けた四人は、ギルド併設の酒場の隅で、未だかつてない高揚感の中にいた。

 アロウス、サイロン、スフィーア、リメイ。

 彼らの前には、これまで飲んできた安酒ではなく、ギルドマスターが秘蔵していた最高級の蒸留酒が並んでいる。


「……信じられるか。あの一閃を放った瞬間、世界のすべてが止まって見えたんだ」

 サイロンが震える手で槍の石突きを撫でる。

「ああ。地獄だったが、あのことわりを知る前にはもう戻れない」

 アロウスが答える。


 彼らが感じているのは、単なる昇格の喜びではない。自分たちが「人を超えた」という確信。そして、あの理不尽な四人の講師たちの背中に、指先だけでも触れたのではないかという、傲慢に近い歓喜だった。

「見ていろ。次の査定では、必ず奴ら(講師陣)を驚かせてやる」

 彼らの笑い声には、地獄を潜り抜けた者だけが持つ、鋭利な刃物のような光が宿っていた。


3.六人の執念 ―― 門前に残された者たち

 だが、歓喜に沸く四人の陰で、ルビーに届かなかった残りの六人は、祝杯に加わることもなく訓練場に戻っていた。

 夜の冷気が立ち込める中、彼らはエクスエリクサーの残滓で無理やり動く身体を酷使し、木刀を振り、魔力を練り続けていた。


「……あと少しだった。あと一歩で、アロウスたち側にいけたはずだ」

 一人が呪詛のように呟く。

 彼らにとって、今回の脱落は単なる不合格ではない。「神域」を垣間見てしまったがゆえに、それを持たぬ今の自分が、耐え難いほど不完全な欠陥品に思えてならないのだ。

 彼らの瞳に宿っているのは、もはや冒険者としての名声への渇望ではない。自分を解体したあの「静寂」や「重圧」を、自分のものにしなければ死んでも死にきれないという、病的なまでの執念だった。


4.恐怖を語り継ぐブラスランク

 そして、そのすべてをフェンス越しに見ていたブラスランクの冒険者たちは、酒場の反対側で身を寄せ合って震えていた。


「おい、見たかよ。あのルビーになった四人の目……あれはもう、人間の目じゃねえ」

「ああ、獲物を見る目じゃない。『理』を探してる化け物の目だ。それに、あの居残り組の六人もおかしいぜ。あんなにボロボロなのに、まだ自分を壊そうとしてやがる」


 彼らにとって、今回のブートキャンプは「英雄の誕生」ではなく、「狂気の伝染」だった。

 ペストムという静かな死神が、帝国のエリートたちを一度殺し、異形の強者として繋ぎ合わせた。その事実は、下位ランクの者たちにとって、憧れを通り越した絶対的な拒絶の対象となっていた。


「いいか、これだけは覚えておけ。ペストム教官が来る街には、絶対に行くな。あいつは……あいつは『人間』を辞めさせるためにやってくるんだ」


 それでも11王国の「シルバートパースの猛者達」は「次は自分がシルバールビーになる番だ」と地獄を覚悟しながらも、希望を持っていた。北大陸のオリハルコン。帝国でもペストムが現れる前には居なかった。そんな者が四人も誕生した。その事実と希望は揺るがない。

「今回はフィラッカ王国だった。じゃあ次は?バリューツ王国らしい」

「バリューツ王国か、あの国は拳士が多いが、守護士や剣士でもいいのか?」

「魔術士はどこに行けば……?」

そんな言葉が帝国中で囁かれていた。

「魔術士だけど私は行く!治癒士だってシルバールビーになれるんだから!」

シルバートパーズで9年も止まっているイリア・シャイオンは(リシタート王国(ゼクサンドラ系)で冒険していた)は酒の勢いなのか本音なのか、仲間の中でそう宣言した。

「来月はって言ってたんだよね、じゃあ私来月はバリューツ王国に行くから冒険は休みね。他の治癒士を臨時に入れといて」

 その結果、超精密な魔導回路を体に刻むことになる。


 フィラッカ王国の夜。

 ペストムの深い憂鬱と、選ばれし者の狂おしい歓喜、そして持たざる者の執念と恐怖。

 それらすべてを飲み込んで、アーンレイム帝国という巨大な怪物は、一万年の静かな眠りから目覚めるように、ゆっくりとその筋肉を脈動させ始めていた。


■第三十話:不倒の赤土 ―― リメイの試練と八神の影

1.バリューツ、辺境の赤き砂塵

 肉と闘争の国、バリューツ王国。その辺境に位置する冒険者の街の一つ「リアンバーン」のギルド裏訓練場は、フィラッカのそれとは比較にならないほどの殺気と熱量に包まれていた。


 今回の「熟成プログラム」の教官として教壇に立ったのは、ペストム・リンバーンではない。前回、死神たちの洗礼を受け、シルバールビーへと新生した女性剣士、リメイ・アテロートであった。彼女の細剣は、今や「繊細」の理を纏い、視認することすら困難な鋭さを帯びている。


 だが、そのリメイの背後に控える「特任講師」の面々は、もはや一つの国を滅ぼしかねない神話級の異形たちが揃い踏みしていた。


2.八名の「天災」と偽りの名

 訓練生たちは、リメイの後ろに立つ八人の異様な風体に息を呑んだ。


インガル(シリカード):不変の筋肉ダルマ。


ドルト(スウェック):沈黙を纏う黒いロングコート。


ラティオ(クオサナ):野性味溢れる革鎧の弓士。その視線はスリア(スワトー)より鋭利。


ギンナーム(ゼクサンドラ):白黒のローブを纏う女性。「奇跡」の慈悲と絶望を併せ持つ。


グルース(ウィンガム):壁そのものが歩いているかのような重装甲甲冑。


シャッスル(ジェマーヌ):軍師の如き冷徹な眼差しを持つ黒ローブの魔術士。


ローラ(サウエ):計器と歯車をガチャガチャと鳴らす、不敵な笑みのスチームパンク少女。


セントール(ピアッツア):帝国近衛兵の制服を完璧に着こなし、世界の理すら書き換えそうな静謐さを湛えた男。


 新任のギルドマスターは、密議院から届いた「絶対服従」の命令書を握りしめ、ガチガチと歯を鳴らしていた。彼は知らない。目の前に並んでいるのが、建国神話に語られるべき初代選帝王たちそのものであることを。


3.地獄の景色 ―― 五人の「再定義」

 訓練はリメイの号令と共に始まった。だが、実質的な主導権は八人の「天災」たちが握っていた。一ヶ月に及ぶ、エクスエリクサーを湯水のように使い、死を無効化しながら魂を削り出す工程。


 その果てに辿り着いた、五人の「景色」は以下の通りである。


拳士:ブラグ・トランシング

 インガルの覇気と、グルース(ウィンガム)の鉄壁を同時に叩き込まれた。

「景色だと? インガル様の拳を食らいながら、グルース様の盾を殴り続ける毎日さ。骨が粉砕されるたびに、エクスエリクサーで『無かったこと』にされる。おかげで俺の肉体は、物理法則を無視した『無敵の肉壁』へと変質したよ。今の俺を止めるには、深淵を相手にするしかないな」


治癒士:イリア・シャイオン

 ギンナーム(ゼクサンドラ)による、超精密な魔導理論と魔術回路の移植。

「ギンナーム様に何度も死を経験させられ、その度に自分の魂の綻びを縫い合わせる訓練でした。真っ白な虚無の中で、私は自分の生命を『因果』ごと逆転させる術を学びました。治癒とは慈悲ではありません。『欠陥のある現状の否定』です」


魔術士:メイアーナ・フォスラス

 シャッスル(ジェマーヌ)の多重展開と、ローラ(サウエ)の次元干渉を垣間見た。

「理屈は捨てました。シャッスル様の構築を、ローラ様が瞬時に『確定』させる。その過程で私が見たのは、魔力が現象を飛び越え、結果だけが固定される『事象の固定』。私の魔法に、もはや詠唱という雑音は不要です」


剣士:ディグ・ターム & 弓士:フィノ・トスキニアン

 ラティオ(クオサナ)の風を切り裂く矢と、ドルトの影に翻弄された。

「ラティオ様の矢は、音より先に届く。それを受け止めるために、俺は大地と一体化する『不落の起点』を見出した(ディグ)」 「ドルト様の影から逃れるため、私は意識を捨てました。今では心臓の鼓動という点だけが、闇の中でも光り輝いて見えます(フィノ)」


斥候:ロガル・メイスン

 セントール(ピアッツア)の「支配的」な気配の中で、自身の存在を究極まで薄めた。

「セントール様に見つかることは『消滅』を意味した。だから俺は、存在そのものを世界から切り離す方法を覚えた。誰にも気づかれず、死を運ぶ。それが俺のシルバールビーとしての誇りだ」


4.狂乱の産声と「教官」の成長

 一ヶ月後。訓練場に立っていた五人の新シルバールビーたちは、獣のような咆哮を上げた。

 彼らが手にしたのは、名誉ではない。神域の断片を無理やり身体に刻み込まれた、異形の強さ。


 教官を務めたリメイもまた、八人の超人たちを間近で見続けることで、自身の「繊細」がさらに研ぎ澄まされ、もはや「世界そのものの綻び」を視認できるレベルにまで到達していた。


「……合格よ。あなたたちは、今日から帝国の刃となる」


 リメイの宣言と共に、八人の「講師」たちは満足げに頷いた。

 セントールが優雅に手を挙げると、空気中の魔素が整列し、訓練場の惨状が瞬時に修復されていく。


「ふふ、いい出来ね。リメイ、あなたもよくやったわ」

 ローラ(サウエ)が真鍮のゴーグルを跳ね上げて微笑む。


 五人の新ルビーたちの歓喜と、それを見届けるリメイの成長。

 しかし、バリューツ王国の辺境ギルドマスターは、彼らが去った後の赤土を見つめ、ただ震えていた。 「……これは、冒険者じゃない。帝国は……化け物の巣窟を創ろうとしているのか……」


 サウエの微笑みの下で、帝国の「熟成」はさらに一段階、その深みを増したのであった。


■第三十一話(終章):黄金の黄昏 ―― 一万年の序奏

1.再定義された秩序

 バリューツ王国での特訓は、前回の反省を活かし四十五日間という長期間にわたって行われた。その結果、五名に加えてさらに三名、計八名の「シルバールビー」が誕生するという未曾有の快挙を成し遂げる。


 しかし、神域の技術を叩き込み続けることは、不滅の肉体を持つ初代選帝王たちにとっても、精神を摩耗させる作業であった。「さすがに疲れるな」と零すスウェックに対し、サウエとピアッツアだけは涼しい顔をしていたが、慎重な議論の末、新たな「帝国訓練暦」が制定されることとなった。


 訓練は半年に一度。そして十一王国すべてを巡り終えた後は、十年の休息期間を設ける。これは不老不死である彼らの正体を秘匿するためであり、同時に帝国が「新たな理」を咀嚼し、文化として定着させるための猶予でもあった。


2.帝国の地殻変動

 この決定に対し、帝国中の冒険者ギルドは沸き立った。

「あと半年ある。それまでに基礎を練り直し、次こそはルビーを掴む!」

 と息巻くトパーズ級もいれば、胸を撫で下ろす者もいた。また、新しく誕生したシルバールビーたちをリーダーとした混成パーティーが次々と結成され、彼らの「地獄の経験」が知識として末端まで共有され始めた。


 変化は上位陣だけに留まらない。ブラスランク(北大陸のシルバー・ゴールド相当)の者たちまでもが、「錬気術」や「魔導回路」という概念を「本当の意味」で学び直し、自己の力を効率的に運用し始めたのだ。

 研究者肌の錬金術師たちは、「戦闘など御免だが、あのエクスエリクサーの製法だけは死んでも解明してみせる」と、かつてない熱量で研究に没頭している。


 「冒険者の質」そのものが、根底から塗り替えられようとしていた。


3.十一人の祝杯 ―― 境界の先へ

 帝都の片隅、極秘に貸し切られた酒場。

 そこには、歴史の表舞台から姿を消したはずの「始まりの十一人」が集結していた。


「……ま、ひとまずの『熟成』としては成功ね」

 サウエ・クメムは、スチームパンクの意匠が凝らされたグラスを揺らし、満足げに微笑んだ。

 隣では、滅多に感情を表に出さないスウェックが、わずかに口角を上げて上質なエールを口にしている。


 話題はもはや、国内の育成にはない。彼らの視線は、地図の南端――未だ闇に包まれた「南の魔大陸」へと向けられていた。

「これだけの戦力が整えば、境界線を塗り潰すのも容易いだろう。ヒューイ、お前の国の連中も、次は実戦で鍛えてやるか?」

 シリカードが豪快に笑いながら、ヒューイの肩を叩く。

「よせ。またペストムが死んだ魚のような目になるぞ」

 ヒューイの言葉に、スワトーやゼクサンドラからも柔らかな笑みが漏れた。


4.一万年の静かな胎動

 秩序は安定し、技術は伝承された。

 彼らが創り上げたアーンレイム帝国は、もはや単なる国家ではない。一万年という長大な時間をかけて「完成」へと向かう、巨大な知的生命体のような進化を始めたのである。


 サウエは、窓の外で輝く帝都の灯りを見つめる。

 一万年という時間は、形而上存在である彼女にとっては瞬きのようなものだ。しかし、この愛すべき「せっかちな」人間たちが、その短い寿命の中で必死に理を掴もうとする姿を、彼女は心底から愛おしく感じていた。


「さあ、ゆっくりと変えていきましょう。この世界の隅々まで、私たちの『音』で満たされるまで」


 十一人のグラスが重なり合い、澄んだ音が夜の静寂に溶けていく。

 それは、帝国の黄金時代の幕開けを告げる鐘の音であり、これから数千年続く「神話の日常」への序奏であった。


 アーンレイム帝国の夜は、どこまでも深く、そして希望に満ちて輝いていた。


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