表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

003:とある冒険者のアーンレイム生活

登場人物:シルバーランク冒険者5名

剣士:ガウェイン

斥候:ジーン

魔術士:カミーユ

弓士:テオ

治癒士:エレナ


■第一章:遠い国からの冒険者達

北大陸のルミアトリア王国から険しい山脈を越え、トヴァール王国の東端へと辿り着いた五人は、困惑の中にいた。 シルバーランクパーティー『昼のひるのとばり』リーダーの重剣士ガウェインを筆頭に、五人の精鋭は、トヴァール王国の関所を抜け、山脈を背にした広大な平原を前に立ち止まった。


「……ここが、国境なのか?」


ガウェインが呟く。目の前には、ただ穏やかな草原が広がっている。緻密に敷き詰められた石畳の街道が幅50mもあり、トヴァール王国と港国の”違い”を見せつけるように東へと続いていた。そこには、北大陸の常識である「拒絶の壁」も、鋭い槍を向ける衛兵もいない。ただ、地平線の先に、陽炎に揺れる小さな街の影が見えるだけだ。


「地図によれば、あそこが交易都市アリムス。港国への入り口の街だ」 斥候のジーンが、周囲の魔素マナを測りながら眉をひそめた。「……妙だ。魔力の乱れが全くない。風までが計算されているように静かすぎる」


魔術師のカミーユも、足元の土を杖で突いた。「ええ。トヴァール側はあんなに魔素が荒れていたのに、この平地に入った途端、まるで凪の海だわ」 彼女たちは気づいていなかった。その足元、数メートルの地中には、帝国の静かな平和の象徴である「魔素安定化装置」が数キロ間隔で埋設され、この土地のことわりを完璧に支配していることに。


●偽装された安らぎ

一行がアリムスへ向かって歩き始めると、前方から数台の馬車がやってきた。

「なんだ、馬車か。北大陸最高の文明国と言っても、移動手段は俺たちと変わらないんだな」 弓士のテオが少し安堵したように息を吐いた。


だが、すれ違う馬車を見たガウェインは、奇妙な違和感を覚えた。 その馬車は、北大陸のボロい荷車とは比較にならないほど滑らかに動き、車輪の軋み一つ聞こえない。御者台に座る「人間」は、彫りの深い、見上げるほど体格の良い男たちだったが、その瞳には北大陸の労働者が持つ「飢え」や「疲労」が微塵もなかった。


「……おい、見たか。あの馬車の馬、国の馬より二回り以上大きかったぞ」 ガウェインの指摘に、治癒士のエレナが頷く。「ええ。それに、あの御者たちの服だけど、粗末な麻に見えるけれど、汚れ一つなくて、織り目が信じられないほど精緻だわ」


●交易都市アリムスの「檻」

二キロほど進むと、一行は最初の目的地、小規模交易都市アリムスに到達した。 街を囲む低い壁は、どこか形式的なものに見えたが、門を潜る際、ガウェインたちは透明な膜を通り抜けるような、奇妙な感覚に襲われた。


「ようこそ、アリムスへ」 受付にいた職員は、驚くほど整った顔立ちで、事務的な微笑を浮かべた。 「ルミアトリアからの冒険者様ですね。入国規則に基づき、これより三日間、この都市に滞在していただきます。その間、港国内部への移動は固く禁じられています」


「三日も? 一体何のために」ガウェインが不審そうに尋ねる。「手続きと『適応及び管理』のためです。こちらが滞在中の食券と、宿泊施設のチケットになります」


渡されたのは、金属とも石ともつかない、鈍い光を放つプレートだった。


●絶望的なまでの「普通」

アリムスでの滞在は、彼らにとって拷問のような「静寂」だった。 街の食堂に入れば、北大陸の王侯貴族が祝宴で口にするような質の高いパンと肉が、端金はしたがねで、しかも「自動」に近い手際で供される。 宿屋の風呂には、薪を燃やす煙もなしに、常に適温の湯が溢れている。


「ねえ、カミーユ。この街、おかしいわ」 二日目の夜、エレナが震える声で言った。「どこにもゴミがないの。夜になっても、松明の煙すら上がらない。なのに、窓の外は魔法の灯火で昼間のように明るい・・・」


カミーユは窓の外、南の地平線を見つめていた。 「あの先に、この国の中心『ミーリン』があるはずよ。ここがただの『入り口の小都市』だとしたら、その奥には一体、何があるというの?」


彼らはまだ知らない。 このアリムスという街自体が、北大陸の人間の「精神的ショック」を和らげるための緩衝地帯であり、この三日間で彼らの持ち物、魔力、そして思想のすべてが、目に見えない複数の視線によって完全に監視対象とされていることを。


「シルバーランク、北の大陸では『英雄の卵』だった俺たちが、ここではただの『客』か」 ガウェインは、北大陸の名匠が鍛えた自慢の剣を眺めた。この三日間で、街の鍛冶屋が作っている「農具」の方が、自分の剣よりも優れた方法で作られていることに気づいてしまったのだ。


「三日だ。三日経ったら、本当の帝国が見える。……覚悟を決めておけよ」


三日目の朝。 アリムスの東門が開かれた。その先に続く道は、トヴァール王国まで続いていた草原とは一変し、完璧に管理された「帝国の静寂」が支配する未知の領域へと続いていた。


そして、南の大陸の管理者たちが、北からの「迷い込んだノイズ」を迎え入れる準備を整えていた。


■第二章:見えない壁の向こう側

アリムスでの三日間は、緩やかな「毒」のように『昼の帳』の面々の心を浸食していった。 飢えも寒さもない。だが、常に誰かに見られているような、それでいて誰も自分たちに関心を持っていないような、奇妙な疎外感。


「北大陸の冒険者、『昼の帳』の皆さん。三日間の滞在期間が終了しました。これより先、港国指定の『駅馬車』にて次なる都市へと移動していただきます」


窓口の職員は、初日と全く同じ、寸分違わぬ角度の微笑みで告げた。 彼らの情報は、この三日間のうちにアリムス地下に張り巡らされた魔導回路を通じ、南端のミーリンにある「入国管理局」へと送信されていた。しかし、ここで彼らが「拒絶」されることはない。帝国にとって、北大陸のシルバーランクなど、良し悪しを判断するまでもない「微細なサンプル」に過ぎないからだ。


■ 巨大な虚飾、駅馬車

アリムスの南門に用意されていたのは、北大陸の王族が使うパレード用馬車よりも一回り大きな、重厚な木造の馬車だった。 「……駅馬車、か。ここからは徒歩は許されないというわけだな」 ガウェインは、使い込まれた愛剣の鞘を鳴らしながら乗り込んだ。


馬車には「帝国馬」と呼ばれる、これまた見上げるほど屈強な馬が繋がれている。「馬車なんて、北大陸でも乗ったことがあるわ。何が違うのかしら」 少し投げやりな口調でカミーユが座席に腰を下ろした瞬間、彼女の表情が凍りついた。


座席の革の質感、そして乗り込んだ瞬間に感じた「揺れのなさ」。 「……嘘でしょう? この馬車、接合部に一切の遊びがないわ。それにこの床……振動を吸収する魔法陣が、木目に見えるように偽装されて彫り込まれている」


御者が鞭を鳴らすと、馬車は動き出した。 だが、その加速はあまりに滑らかだった。窓の外を流れる景色は、草原から、美しく区画整理された果樹園へと変わっていく。


●徒歩の時代の終焉

街道には、彼らが乗る駅馬車以外にも、数多くの馬車が行き交っていた。 個人用の小型馬車、大量の物資を積んだ大型貨物馬車。驚くべきことに、そのどれもが一定の速度を保ち、等間隔で整然と走り続けている。


「おい、ジーン。あそこを見てみろ」 テオが窓の外を指差した。 街道の脇に、徒歩で歩いている者が一人もいないのだ。


「ここでは『歩く』という行為自体が、娯楽か、あるいは異常事態なのかもしれないな」 ジーンが苦々しく呟く。 北大陸において、街道を歩くのは庶民の日常であり、馬車に乗れるのは富裕層か、成功した冒険者だけだ。だが、この国では「移動」は既に制度として提供されており、自分の足で道を歩む必要など、誰も感じていないようだった。


●「管理」という名の静寂

馬車が次の街を目指して加速する中、ガウェインは御者台に座る御者の背中を見つめていた。 その男もまた、アリムスで見かけた者たちと同様、恐ろしくがっしりとした体格をしていた。だが、彼は馬の手綱を引くことすら、片手で退屈そうにこなしている。


ガウェインたちはまだ知らない。その御者が、自分たち五人を片手で捻り潰せる実力を持つ「人間化ベアロン」であることを。そして、馬車という形態自体が、彼らの文明の常識に合わせた「親切なカモフラージュ」であることを。


「ねえ、ガウェイン」 エレナが不安げに袖を引いた。「アリムスの人たちは、私たちのことを一度も『シルバーランクの冒険者』とは呼ばなかったわ。ただの『北大陸の冒険者』って……」


「……ああ、分かっている」 ガウェインは拳を握りしめた。 アリムスでの「審査」は、彼らの実力を評価するためのものではなかった。ただ、この高度に完成された社会という歯車の中に、彼らという「小石」を投げ込んだ際、どの程度の摩擦が起きるかを測定しただけなのだ。


馬車は、次なる中継都市トルトへと向けて、一切の揺れもなく滑るように走り続ける。 窓の外には、地中に埋め込まれた魔素安定化装置によって、雑草一つさえも植え揃えられたような「美しすぎる自然」がどこまでも続いていた。


「俺たちが英雄かどうか、この国の連中に分からせてやる。……まずは、次の街のギルドだ」


ガウェインの決意とは裏腹に、駅馬車の車輪は、帝国の完璧な設計に基づいたリズムで、淡々と大地を刻んでいった。


■第三章:刻印される「個」と巨大都市の波

アリムスを出発した駅馬車は、北大陸の感覚では考えられないほど平坦な道を、一切の速度低下なく走り続けた。 揺れのない車内で八時間が経過した頃、窓の外に信じられない光景が広がった。


「……海? いや、それ以上に何だ、あの建物の群れは」


リーダーのガウェインが声を裏返らせた。 進行方向の右手には、数キロメートルにわたって巨大なクレーンや金属製の倉庫が立ち並ぶ貨物専用港アレルン。そして左手には、地平線を埋め尽くすほどの白い石造りの巨塔群――300万人都市アレルンが姿を現したのだ。


北大陸で最大の王都ですら人口は数十万。300万という数字は、もはや一つの小国家の全人口に匹敵する。それが「一つの街」として眼前に存在している事実に、斥候のジーンは双眼鏡を握る手を震わせた。


●帝国の「鍵」:国民証

駅馬車はアレルン中央広場にある巨大な白亜の施設に滑り込んだ。 そこで一行を待っていたのは、アリムスよりもさらに洗練された、だが血の通わない事務作業だった。


「これより、北大陸からの新規入国者に対し、『港国国民証』の発行を行います。お一人ずつ、こちらへ」


冷徹なほどに清潔な小部屋へ一人ずつ呼び出された。 ガウェインたちが体験したのは、北大陸の魔術儀式ですら類を見ない「計測」だった。指先に針を刺され、瞳の奥を光で撫で回され、指の紋様を写し取られる。


「これで完了です。このカードは、あなたの指紋、虹彩、そして血に刻まれた固有情報と紐付けられています」


渡されたのは、薄く透明な輝きを放つ結晶体のカードだった。


「忠告しておきます。この港国において、この証を持たない者は『存在しない』も同然です。宿屋、食堂、公共の乗り物、すべてのサービスはこのカードの提示によって決済・承認されます。紛失すれば、あなたは空腹を満たすことも、夜露を凌ぐこともできなくなります。絶対に身から離さないように」


ガウェインはそのカードを握りしめ、言いようのない恐怖を覚えた。 北大陸では、名もなき冒険者として生きる自由があった。だが、ここでは「個」が完全に特定され、帝国の巨大な台帳の一行として刻まれなければ、生きることすら許されないのだ。


●連続する「巨大」の奔流

アレルンを後にした一行は、ふたたび駅馬車で南へと向かった。 そこから先の景色は、北大陸の冒険者たちにとって、プライドを削り取る砥石のようなものだった。


数時間後に到着したのは、中規模都市トルテア。 「中規模だと……? ここだけでも我が国の王都より広いぞ……」 人口50万人の活気ある街並みを通り過ぎる。


さらに進めば、100万都市クトラン。 そこでは巨大な魔導噴水が天高く舞い上がり、見たこともないほど煌びやかな服を着た市民たちが、当然のように平和を享受していた。


さらにその先には、同じく100万都市アレッカ。 街道を行き交う馬車の数は増え、物資の流れはもはや大河のようだった。 五人の冒険者は、次々と現れる巨大都市を通過するたびに、口数が少なくなっていった。北大陸で「シルバーランク」と言えば、冒険者としては一人前と言われる程の実力者だ。だが、この巨大な人の海を前にして、自分たちがどれほどちっぽけな存在かを見せつけられていた。


■移住者の終着点、ミーリン港

そして、旅の始まりから数日が経過した頃。 ついに彼らは、最南端の巨大都市「ミーリン」の外縁へと到達した。


目の前に広がるのは、移住者のための巨大な受け入れ拠点、ミーリン港である。 人口400万人を擁する首都ミーリンの威容が、遥か南の海を背にそびえ立っていた。


「……ガウェイン、見ろよ」 弓士のテオが、呆然と指を差した。 ミーリン港の広場には、彼らと同じように北大陸からやってきたであろう移住者たちが、溢れんばかりにひしめき合っていた。だが、その誰もが、港国の提供する「贅沢な配給」を手に、腑抜けたような表情で街を眺めている。


「ここが……俺たちの目的地、ミーリンか」


ガウェインは、首から下げた『国民証』を握りしめた。 アリムスからアレルン、そしていくつもの巨大都市を経て辿り着いたこの場所で、彼らはまだ「何一つ」成し遂げていない。ただ、帝国の巨大なシステムに乗り、提示されたカードで飯を食い、眠っただけだ。


「……ジーン。この街の『冒険者ギルド』を探す。……俺たちは、ここで配給を待つだけの『移住者』になりに来たんじゃない」


ガウェインの目は、絶望の波に呑まれながらも、まだ戦士の光を失っていなかった。 しかし、彼らが踏み出すミーリンの街並みは、400万人の「平和」という名の質量をもって、シルバーランクの冒険者たちを静かに押し潰そうとしていた。


■第四章:摩滅する自負と十日間の黙示録

アリムスから始まった「港国縦断」の旅は、十日の月日をかけて『昼の帳』の五人の精神をじわじわと、かつ徹底的に削り取っていった。


北大陸において、「シルバーランク」という称号は特別な意味を持つ。それは、運や才能だけで生き残ってきた若者が、真に「実力者」として認められた証だ。魔獣の首を掲げれば村人が歓喜し、衛兵隊長が敬意を払う。彼ら自身、「俺たちは強い、何でもできる」という根拠のある自負を持っていた。


だが、この十日間、港国の巨大都市群を駅馬車で通り過ぎる中で、彼らが突きつけられたのは「無視」という名の冷徹な現実だった。


■ 都市アレルンの静寂なる否定

最初の巨大都市アレルンで、ガウェインは自尊心を取り戻そうと、国民証の発行を待つ間に街の警備兵らしき男に声をかけた。 「俺たちは北のシルバーランクだ。何かこの街で、俺たちの手を貸すべき問題クエストはないか?」


返ってきたのは、軽蔑ですらない「困惑」の表情だった。 「シルバー……? すまないが、我々の業務に外部の手は必要ない。不審者がいれば自動防衛システムが検知するし、力仕事なら専用の重機がある。君たちは、支給された食事でも楽しんで、大人しく観光していることだ」


男の目は、ガウェインを「戦士」としてではなく、せいぜい「行儀の悪い迷子」を見るような色をしていた。北大陸なら国家戦力として扱われ始めるゴールドランクですら、この街では「少し体格の良い市民」程度の認識にしかならないのではないか。ガウェインは拳を握りしめたが、振り上げる相手すら見つからなかった。


●クトランの贅沢、アレッカの倦怠

旅の五日目、100万都市クトランに到着した頃、一行の雰囲気は重く沈んでいた。 「……見てよ、あの魔導噴水」 魔術師のカミーユが、力なく呟いた。広場で天高く吹き上がる水の芸術。それに使われている魔力制御の精密さは、北大陸の宮廷魔導師が一生をかけて到達する「極致」を遥かに凌駕していた。


「私たちが必死に覚えた攻撃魔法より、あの噴水を維持する維持術式の方がよっぽど高度だわ。……私の魔法なんて、ここでは大道芸にもならない」


七日目、さらに南のアレッカに辿り着いた時、彼らはある光景を目撃した。 街の建築現場で、数人の屈強な男たちが、北大陸なら「ミスリル級の英雄」が全力で振るうような巨大な石材を、鼻歌まじりに軽々と運んでいたのだ。 「……ジーン。あれ、ただの作業員だよな?」 「ああ。だが、あいつらの筋肉の付き方、体の使い方は……俺たちが死線を越えて手に入れた『身体強化』の境地に、素の状態で達している」


彼らは、北大陸なら「国家の切り札」とされるプラチナランクや、伝説のミスリルランクすら、この国では「高度に教育された一般市民」の層に埋もれてしまうのではないかという、底知れぬ恐怖に囚われ始めた。


■ ミーリン港、十日目の終着

旅の十日目。 ようやく辿り着いた移住者用ミーリン港は、熱気と、それ以上に深い「諦念」に包まれていた。 駅馬車を降りた五人の目に飛び込んできたのは、北大陸の各地から逃げてきた、あるいは夢を抱いてやってきた数多の人間たちだ。彼らの多くは、帝国の圧倒的な豊かさに毒され、配給される食事と清潔な寝床に満足し、自分たちがかつて何者であったかを忘れたような目をしていた。


「……ガウェイン、あそこ」 斥候のジーンが、ギルドらしき建物の入り口を指差した。 そこには、北大陸で見慣れた「剣と盾」の紋章が刻まれている。だが、その掲示板に貼られている依頼内容は、彼らの理解を越えていた。


【緊急依頼:区画12の魔導配管の詰まり解消】 推奨ランク:ブロンズ以上。 報酬:30セス(6万円)。


「魔導配管の掃除……? それがブロンズの仕事か?それで30セス、銀貨30枚だと?」 ガウェインが愕然として立ち尽くす。 北大陸のブロンズと言えば、家畜を襲う狼を追い払うのが精一杯の駆け出しだ。だが、この国では「都市の高度な維持システム」に触れることが、冒険者の登竜門となっている。


「昼の帳」の五人は、自分たちのシルバーランクのプレートを握りしめた。 北大陸では、それは「実力者の証」であり、誇りだった。 だが、このミーリンにおいて、その銀色の輝きは、誰の目にも留まらない。道ゆく人々にとって、彼らは「古びた装備を身につけ、何故か殺気立っている、少し面倒な移住者」でしかなかった。


「……行くぞ」 ガウェインが、重い扉を押し開けた。 「無視されるのが我慢ならないなら、分からせてやるしかない。……この国に、俺たちの席があるのかどうかをな」


400万人が住まう巨大首都ミーリンの喧騒の中、北大陸の「元・英雄候補」たちは、初めて自分たちが「底辺」にいることを自覚しながら、ギルドの受付へと歩みを進めた。


■第五章:不可視の天秤と一ヶ月の試練

首都ミーリンの地に降り立った『昼の帳』を待っていたのは、煌びやかな歓迎ではなく、冷徹なまでの「秩序」の通告だった。


一行は、指定された「移民管理事務所」へと出頭を命じられる。そこで彼らを迎えたのは、窓一つない機能的な部屋と、表情を完璧に律した一人の管理官だった。


「これより、あなた方に注意事項を伝達します」


管理官は、五人の指紋と虹彩をスキャンした『国民証』を手元に置きながら、淡々と言葉を継いだ。


「ここミーリンにおいて、あなた方は常に『観測』されています。何を食し、どのような仕事に就き、街の景観を汚さぬか。あるいは、道端の落とし物を拾った際、それを着服せずに届け出る知性があるか。我々が求めているのは、武力ではありません。この高度な秩序を維持し得る、『知的な市民』としての資質です」


ガウェインが思わず問い返す。 「観測……? つまり、誰かが俺たちを四六時中見張っているというのか?」


「それは秘密事項ですが」管理官は氷のような微笑を浮かべた。「港国の監視団は、常に正しき者の味方です。もし、不適合と判断されれば……すなわち、公共の福祉を乱し、知性に欠ける行動が続けば、即刻トヴァール王国へと強制追放となります。猶予も再審査もありません」


五人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。北大陸の戦場での殺気とは違う、逃げ場のない、数千の目に見つめられているような底知れぬ圧迫感。 だが、同時に提示されたのは、彼らが夢見たことのないような「希望」でもあった。


「もし一ヶ月……四十五日間の滞在期間中、良好な評価を維持できれば、正式な居住権と、技能に応じた職務への道が開かれます。この国では、真実、知性ある者には相応の報いがあるのです」


●四十五日間の沈黙の試験

事務所を後にした五人は、ミーリンの喧騒の中に身を投じた。 彼らが持っていた北大陸各国の金貨や銀貨は、そのまま通貨交換所で「セス小銀貨」へと両替が可能だった。当面、仕事をしなくても生活に困ることはない。しかし、彼らは一歩歩くごとに、自分たちが「試されている」ことを痛感した。


「ガウェイン、あそこ……」 斥候のジーンが、路地裏の影を顎で示した。誰もいないはずの角に、微かな魔力の揺らぎがある。隠密を得意とする彼でさえ、その存在を正確に捉えきれない。これが噂の「監視団」の目なのか。


テオが、うっかり街路樹の枝に触れようとして、慌てて手を引っ込めた。「街を汚すな、か……。北の大陸じゃ、泥だらけで歩くのが当たり前だったのにな」


彼らは、かつてないほど「自律」を強いられた。 誰に言われるでもなく、食事の後はテーブルを磨き、落とした硬貨があれば周囲に持ち主を確認し、市民同士の些細な諍いにも、剣ではなく言葉で対処しようと努めた。


それは、シルバーランクの冒険者という「野生」を捨て、帝国の「市民」へと生まれ変わるための、苦痛を伴う変容だった。


●恐怖の先の景色

滞在から二十日が過ぎた頃、魔術師のカミーユがぽつりと漏らした。 「ねえ……不思議じゃない? 私たち、あんなに怖がっていたのに。この街は、世界で一番静かで、美しいわ。……誰も私たちを襲おうとしない。裏切ろうともしない」


治癒士のエレナも頷く。 「ええ。最初は『監視』だと思って震えていたけれど……これは『守られている』ということでもあるのね。秩序の中にいる限り、私たちは誰からも傷つけられない」


恐怖は、次第に深い敬畏へと変わっていった。 一国の王ですら成し遂げられなかった「完璧な平和」が、このミーリンには、数千の監視の目と徹底した調査によって実現されている。


「……あと、二十五日か」 ガウェインは、慣れない「知性的な生活」に戸惑いながらも、窓から見えるミーリンの夜景を見つめた。 「シルバーランクとしてのプライドなんて、もうどうでもいい。……俺は、この国の一員になりたい。この『正しさ』の一部になってみたいんだ」


北大陸の英雄候補だった五人は、かつての荒々しい覇気を脱ぎ捨て、洗練された静寂を身にまとい始めていた。 彼らが「試されている」ことを自覚したその時から、本当の移住への歩みが始まったのだ。


四十五日目の朝、彼らにどのような審判が下るのか。 帝国の巨大な天秤は、静かに彼らの魂の重さを量り続けていた。


■第六章:審判の日と、新たなる身分

運命の四十五日目が訪れた。 ミーリンの街で過ごした日々は、彼らから北大陸特有の「粗野な荒々しさ」を洗い流していた。歩き方、視線の配り方、他人との接し方。五人は意識せずとも、この国の静謐な空気に見合う立ち振る舞いを身につけていた。


再び呼び出された、あの窓のない移民管理事務所。 五人を迎えたのは、四十五日前と同じ、氷のように整った顔立ちの管理官だった。


「ガウェイン、ジーン、カミーユ、エレナ、テオ。……以上五名」


管理官は手元にある、彼らの「記録」の紙束を確認していた。そこには、彼らがいつ、どこで、何を選び、どう行動したかが、膨大なデータとして刻まれていた。 息を呑む五人を前に、管理官の唇がわずかに弧を描いた。


「一切の問題無し。それどころか、あなた方の振る舞いは新参者としては極めて模範的な市民の姿でした。観察からも、秩序への高い適応性が報告されています」


その言葉と共に、五人は安堵のため息をついた。


「おめでとうございます。あなた方に南大陸への渡航許可……すなわち、アーンレイム帝国本土への移住権を付与します。北の大陸では『南の楽園』ですか、そう呼ばれている場所へのチケットです」


●「無意識の秩序」という戸惑い

「楽園……」テオが震える声で繰り返した。 だが、管理官の次の一言が、彼らの喜びを困惑へと変えた。


「ただし、一つ忠告しておきます。ここ港国ミーリンは、あくまで帝国の『玄関口』に過ぎません。本土はここよりも遥かに洗練されており、そこにはもはや『監視』という概念すら存在しません。なぜなら、秩序が空気のように無意識を支配しており、その調和の中でこそ、真の自由を享受できるからです。あなた方がこれまで意識して守ってきた規律が、本土では『呼吸』と同じように当たり前のこととなります」


「監視がないのに……秩序がある?」 ジーンが眉をひそめる。監視によって守られる平和をようやく理解し始めたばかりの彼らにとって、その一歩先の概念は、もはや哲学的な難問に聞こえた。


■ 巨大なる鉄の城、出航の朝

翌朝。 五人は最小限の荷物をまとめ、ミーリンの巨大な港へと向かった。 そこには、自分たちと同じように「選別」を勝ち抜いた5000人の移住者たちが整然と列をなしていた。北大陸の戦士、職人、学者……かつては各々の土地で名声を馳せたであろう者たちが、皆一様に、期待と緊張が入り混じった静かな表情で海を見つめている。


そして、彼らの目の前に現れたのは、もはや「船」という概念を超越した巨大な鉄の城だった。


「……あれに、乗るのか?」 ガウェインが仰ぎ見たのは、全長400メートルを超える巨大客船『アイギス』。 北大陸の木造船しか知らない彼らにとって、その滑らかで継ぎ目のない金属の外装と、海面に浮かぶ巨大な山のような質量は、魔法という言葉ですら説明のつかない「神業」に見えた。


「信じられない……。あんな鉄の塊が、どうして沈まないの……?」 カミーユの魔術師としての知性が、あまりの規格外な光景に思考停止を告げていた。


●思考の果て、未知なる帝都へ

タラップを上り、船内へ足を踏み入れる。 そこは豪華絢爛というよりも、機能美と静謐さに満ちた空間だった。 皆が息を殺しているように静かに歩き、船内案内員により各船室へと振り分けられていく。


巨大客船が静かに、そして力強く港を離れていく。 遠ざかるミーリンの白い巨塔群を、五人は甲板から黙って見つめていた。


「シルバーランク、か」 ガウェインが、腰に下げたままの銀色のプレートを指でなぞった。 「北の大陸じゃ、これ一枚で食っていけた。だが……」


「ええ。これからは『冒険者』じゃなくて、『市民』としての戦いが始まるのね」 エレナが、穏やかな海風に髪をなびかせながら言った。


北大陸で「英雄の卵」と呼ばれた五人は、自分たちの矮小さを知った。 だが、同時に、この理解の及ばないほど巨大で洗練された文明の一員になるという、未知の興奮が彼らの胸を叩いていた。


船は加速する。 思考が追いつかぬまま、彼らは世界の真理が眠る場所――アーンレイム帝国本土へと、運ばれていく。


■第七章:希望という名の揺り籠

巨大客船『アイギス』がミーリンの港を離れてから、二十五日間の航海が始まった。 この二十五日間は、『昼の帳』の五人にとって、これまでの人生で培ってきた常識をすべて洗い流し、帝国の住人として魂を塗り替えるための「洗礼」の期間となった。


●支配された空間、理解を超えた快適

「この船の中は、もう港国じゃない。……アーンレイム帝国そのものだわ」 魔術師のカミーユが、自室のテラスで海風を受けながら呟いた。


船内での生活は、驚きという言葉では足りなかった。手元の「港国国民証」をかざすだけで、あらゆるサービスが無料で提供される。食堂で出されるのは、見たこともないほど彩り豊かな、しかし決して華美ではない、洗練の極致を行く料理の数々。口にするたび、北大陸のどの宮廷料理も、ただの「味の濃い粗食」に思えてくる。


さらに彼らを困惑させたのは、船内の「環境」だった。 船は赤道を通過しているはずだった。外壁を触れば火傷しそうなほど陽光が降り注いでいるというのに、一歩船内に入れば、室温は常に春の陽だまりのように完璧にコントロールされている。 「……理解できない。どんな大規模な冷房結界を維持すれば、この巨大な鉄の塊を冷やし続けられるんだ?」 カミーユの問いに答えられる者はいない。ただ、誰もが清潔で広大な大浴場で一日の汚れを落とし、極上の寝具で深く眠り、明日への活力を得る。その「秩序が支配する自由」の心地よさに、五人はいつしか、この船が理解できないという恐怖よりも、この先に待つ「帝国」への絶対的な信頼を抱くようになっていた。


●語られる「楽園」の断片

5000人の移住者たちが集う広場では、日々、新しい友情が生まれ、断片的な帝国の情報が交換されていた。


「聞いたか? 帝国には『貴族』という階級が存在しないらしい。いるのは皇帝陛下と十一人の王のみ。あとは皆、国家に所属する『公務員』や『官僚』という者たちが運営しているそうだ」 「農民だって『農業技術職員』という国家の職員なんだと。年収は北大陸の貴族並み……。信じられるか? 泥を捏ねていた男が、一国の領主と同じ生活をしているんだぞ」


失業がない。自由に職を選べる。飢餓も、病気も、戦争もない。 そんなお伽話のような「期待」が船内に溢れる一方で、北大陸で修羅場を潜ってきた『昼の帳』の面々には、別の「不安」も膨らんでいた。


●冒険者としての、新たな壁

港国で耳にした噂は、彼らの戦士としてのプライドを粉々に砕くものだった。 帝国周縁部の未開拓地では、北大陸で最強とされるミスリルランクが数千人も活動しているという。そこは魔素が異常に濃く、シルバーランクなどは足を踏み入れることすら推奨されない「死地」だ。


「……錬気術、魔術回路、瞬気術、操気術。聞いたことはあるが、それがゴールドになるための『最低限の資質』だなんてな」 ガウェインが、自分の太い腕を眺めながら苦笑した。 北大陸では「自分たちは強い」と自負していた。だが、ここでは自分たちは再び「初心者」に戻るのだ。帝国流の冒険者になるには数年を要し、多くの者はその過程で商人や職人に転職するという。


「でも、ガウェイン」 斥候のジーンが、国民証を見つめながら静かに言った。 「ここじゃ、生き抜くために必死になる必要がない。道は無限にあって、それは奪い取るものじゃなく、国から『与え続けられる』ものなんだ」


●漂白される過去、押し寄せる安らぎ

かつては明日の食事のために、命を懸けて魔獣と戦った。仲間が傷つけば薬代に悩み、冬が来れば凍死の影に怯えた。 その「生き抜くのが精一杯だった過去」と比較して、今、自分たちを包んでいるのは、とてつもない、暴力的なまでの安心感だった。


帝国へ渡った者は、決して帰ってこない。 その理由を、彼らは肌で理解し始めていた。この圧倒的な秩序と、未来への保証。これを一度知ってしまえば、もはやあの泥と血にまみれた北の大陸へ戻る理由など、どこにもないのだ。


「上手くやっていけるだろうか……」 テオの呟きに、ガウェインが力強く答えた。 「ああ。戦う必要がなくなったなら、別の生き方を見つけるまでだ。この国には、それを受け入れるだけの度量がある」


二十五日目の朝。 水平線の向こうから輝く大陸の影が姿を現した。 アーンレイム帝国。 そこは、北大陸のシルバーランクたちが、もはや冒険者としてではなく、一人の「人間」としての誇りを取り戻すための、最後の約束の地。


巨大客船『アイギス』は、五人の、そして5000人の期待と不安を乗せて、静かに、しかし確実に「楽園」へと接岸しようとしていた。


■第八章:上陸、白亜の帝国と「完全」なる洗礼

二十五日の航海を経て、巨大客船『アイギス』はついに帝国の懐へと滑り込んだ。 甲板にいたガウェインたちは、眼前に広がる光景に、もはや驚く気力すら奪われていた。


そこは、出発した港国の港と同じ名を持つ「ミーリン港」。しかし、規模があまりにも違いすぎた。 「……400メートル級が八隻。港国では驚愕だった巨大船が、ここではただの『風景』に過ぎないのか」 さらに隣接する「ミアリカ=ベルナ港湾都市」に目を向ければ、500メートル、果ては800メートルを超える、動く島のような超巨大輸送船が十数隻も整然と並んでいる。人口など想像もつかない。ただ圧倒的な「文明の質量」がそこにあった。


■ 白亜の宮殿と「平等」という名の圧力

移住者たちは、港にそびえ立つ白亜の宮殿「移民管理事務所」へと誘導された。 月に二度しか使われないというその贅沢な建物内には、二十もの受付窓口が並び、数千人の移住者が粛々と飲み込まれていく。「並べ。ここでは王も冒険者も、ただの入植者だ」 ガウェインは、豪華な服を着た他国の元王族らしき男が、自分たちと同じ様に大人しく順番を待っているのを見て、帝国の底知れぬ「平等の力」を肌で感じた。


■ 可視化される魂、魔力測定の衝撃

順番が来ると、冒険者ギルドの証明書よりも先に、健康状態と「魔力暴走危険度」の検査が行われた。 そこで五人は、帝国製の標準魔道具である「魔力測定器」を見て目を丸くした。


「……魔力が、可視化されている……?」 カミーユが震える声で呟いた。北大陸では、魔力測定といえば魔法職が簡単な術を発動させ、その輝きや速度を熟練者が感覚で測るものだった。剣士や斥候に至っては、「魔法が使えないなら魔力など関係ない」と放置されるのが常識だ。


しかし、帝国の測定器は違った。剣士であるガウェインの体内に眠る、本人さえ意識していない微細な魔力の流れまでを精密なグラフとして映し出したのである。 「剣士であっても、魔力の特性によっては治癒魔法や強化魔法の適正がある。個人を高める方向性は無限だ。この検査は、君たちの『帝国での職業特性』を見抜くためのものだよ」 事務的な、しかし丁寧な説明。それは「持てる才能を余さず社会に組み込む」という、帝国の徹底した合理性の象徴だった。


●完璧なる言語、磨かれた「公務員」

そして、ガウェインはある決定的な事実に気づき、戦慄した。 「……おい、さっきから会話が、一言の淀みもなく通じている」


北大陸は広大だ。東西南北で言語も文字も異なり、冒険者はカタコトの共通語と「絵」で描かれた看板やメニューを頼りに、不便を承知で旅をする。それが当たり前だった。 しかし、この窓口は違う。二十の窓口は「言語別」に分けられ、担当者は移住者の母国語を、まるでお互い同じ村で育ったかのような完璧な発音と語彙で操っていた。


「あの、失礼ですが……あなたも北大陸のご出身ですか?」 カミーユが思わず窓口の女性に問いかけた。返ってきたのは、穏やかで誇らしげな微笑だった。


「いいえ。私は帝国生まれの帝国育ちです。この入植管理職に就くために、学校で数年間、皆さんの地域の言語と文化を専門に学びました」


「語学」すらも、帝国にとっては完璧に制御された「技術」の一つに過ぎないのだ。 自分たちが命懸けで国境を越え、異文化に戸惑いながら生きてきた苦労が、この国では「教育を受けた公務員の基礎教養」として処理されている。


「……道は無限にあり、それはつかみ取るものではなく、与え続けられるもの」 船内で聞いた言葉が、ガウェインの脳裏に蘇った。 完璧な秩序、完璧な教育、完璧な技術。 かつて北大陸で、剣一本で「自分の道」を切り開こうとしていたシルバーランクの戦士たちは、今、帝国の巨大な掌の上で、優しく、そして逃れようのないほど完璧に「管理」され始めていることを悟った。


恐怖はなかった。あるのは、とてつもない安心感と、それを上回る「自分たちは何者になれるのか」という強烈な期待だった。


■第九章:言語の迷宮と眩暈の支度金

入植検査を終えた五人を待っていたのは、支援という名の「規格外の洗礼」だった。


窓口で「港国国民証」と引き換えに渡されたのは、10枚の1アルクル小金貨(100万円相当)と、100枚の1セス小銀貨(20万円相当)。そして一冊の手帳と帝国の身分証明書だ。


「……おい、これ、本物の金貨か?」


リーダーのガウェインの手が震えていた。シルバーランクの彼らにとって、この合計10枚のアルクル小金貨と、100枚の1セス小銀貨という金額は、北大陸で一年間、命を削るような難度の高い依頼を受け続け、血反吐を吐いて魔獣を討伐し続けてようやく手に入る「大金」だ。 それが、ただ入国しただけの「移民」に無償で手渡される。五人は喜びよりも先に、あまりの不気味さに軽い眩暈めまいを覚えた。


「罠か……? あるいは、これほどの大金を一瞬で使い果たすほど、この国の物価は狂っているのか?」 斥候のジーンが疑いの眼差しで金貨を睨む。だが、手帳の記述がその疑念をさらに奇妙な方向へと突き動かした。


●「一アム食堂」と「古代語」の壁

手帳によれば、帝都アーンレイムには「1アム(50円)食堂」というものが存在し、一食わずか一アムで食事ができ、宿の清掃などを手伝えば宿泊も可能だという。 「……一年間、冒険をしなくても生きていける。この金があれば、遊んで暮らせるじゃない」 カミーユが呟く。しかし、その顔はすぐに引きつった。手帳に書かれた「言語」の制約に気づいたからだ。


「帝国で使用されるのは、アルディアン語と帝国語。……表記もそれに従う、か」


手帳にはルミアトリア語による翻訳表が付いていたが、それを読めるのは魔術師のカミーユ、弓士のテオ、治癒士のエレナの三人だけ。 「なんて書いてあるんだ?」 ガウェインとジーンが身を乗り出す。だが、彼らは北大陸の戦士の例に漏れず、文字が読めない。


「ルミアトリア語で書いてあるのに……俺たちは、帝国語どころか自分の国の言葉すら読めないままだった」 ジーンが絶望に顔を伏せた。


●三千文字の絶望、セリアンの嘲笑

「使えるのは帝国語と、二千年以上前の古代語『アルディアン語』だけみたい。北大陸じゃ、演劇の台本や魔法の詠唱でしか使われないあの言葉よ」 カミーユは魔術師の嗜みとしてアルディアン語を解せたが、それでも帝国語の複雑さには寒気を覚えた。


船内で出会った同盟国レイマンス王国のセリアン族。――あらゆる言語を直感的に操り、魔力構文さえ読み解く「人外」の高知性種族――は、帝国語の恐ろしさをこう語っていたという。 「帝国語は三千種類の表意文字と、三種類の表音文字で構成されている。世界で最も完璧な暗号に近い文字体系だよ」


「表意文字が三千……? ルミアトリア語すら読めない俺たちが、それを覚えるのに何年かかるんだ?」 ガウェインは頭を抱えた。意思疎通は何とかなっても、読み書きができない。それはつまり、冒険者ギルドの「依頼クエスト」が読めないという、致命的な欠陥を意味していた。


●帝都への決意、見えない同胞たち

「稼ぐ方法が消えたわ……」 カミーユが愕然と呟く。この平和な帝国で、自分たちのような荒事に特化した者がどう生きていくべきか。 だが、彼女はすぐに自分を、そして仲間を鼓舞するように顔を上げた。


「……いいえ。よく考えて。世界中から移住者が来ているのよ。なら、帝都には絶対にルミアトリア語やイルミエン諸侯国の言葉を話せる人がいるはずだわ! 帝国に移住して帰ってきた人なんて、一人もいないんだから」


その言葉は、五人の胸に再び火を灯した。 ここを離れ、南へ三百キロ。標高一千五百メートルの台地にそびえる「天空の都アーンレイム」。 そこに行けば、自分たちより先にこの「完璧な秩序」に適応した同胞たちがいるはずだ。


「……行こう、帝都へ。悩みはそれからだ」 ガウェインは、読めないはずの手帳を力強く握りしめた。


大金を手にしてなお、自分たちが「無知な子供」であることを突きつけられた五人。 しかし、彼らの足取りは重くはなかった。一抹の不安を抱えながらも、彼らは雲の上の都へと続く、未知なる旅路へと一歩を踏み出した。


■第十章:鋼の規律と「天の柱」への道

ミアリカ=ベルナ港湾都市から帝都へと向かうため、五人は「駅」と呼ばれる巨大な広場へと向かった。 そこで彼らを待っていたのは、最新鋭の魔導機械などではなく、港国でも見慣れた「馬車」であった。


しかし、その馬車はどこか異質だった。北大陸の王族が使うような華美な金銀の装飾は一切なく、ただ実用性のみを追求したかのような無骨で巨大な造り。二頭の馬が繋がれたその馬車は、帝国という国の「本質」を物語っているようだった。 五人が手渡されたばかりの帝国身分証明を提示すると、御者は短く頷いた。 「その証明書があるなら、帝都までは無料だ。乗りな」 それは、移住者が最初に体験する帝国の特権であった。


●揺れなき進軍

馬車がゆっくりと動き出す。驚くべきは、その滑らかさだった。 「……この道路、港国の舗装よりさらに振動が少ないわ。魔法で揺れを消す必要すらない。道そのものが、完璧に水平に造られているんだわ」 魔術師のカミーユが車床を撫でながら感嘆の声を漏らす。


五千人の大移動という一大行事。街道には、彼らが乗るものと全く同じ仕様の馬車が無数に連なり、整然と南を目指していた。沿道に歓迎の旗も、物珍しそうに眺める野次馬もいない。ただ、次の「宿場」を目指して、機械的なまでに正確なリズムで車輪が回る。


数時間が経過した頃、斥候のジーンが窓越しに前方を見て声を上げた。 「え? あれが……『宿場町』だってのか?」


見えてきたのは、城壁の一枚すら存在しない、開放的な街並みだった。しかし、その規模は異常だ。十万人以上が暮らしているであろうその広がりは、北大陸の小規模国家の王都を優に超えている。 「街じゃないのか? これでただの宿場なのか?」 驚いたのは建物の高さではなく、その「広さ」だった。 五十メートルはあろうかという広大な国道。そこを、大きな箱を二つも積んだ巨大な荷馬車が、音もなくすれ違っていく。

その辿り着く先が巨大な「宿場町」この先に見えるであろう「街」の規模は想像も出来ない。


そして、道路は厳格にルール化されていた。左半分は南行き、右半分は北行き。急ぐ馬車は中央寄りを、重い荷馬車は左端を。誰が指示を出すでもなく、全ての馬車が調和を保って流れていくその光景は、北大陸の無秩序な往来を知る彼らにとって、魔法以上に不可解な「秩序」に見えた。


●巨大なる麓の街

その夜、彼らは宿場町の宿屋に落ち着いた。港国で見た建物と同様、華美ではないが気品に満ち、清潔さが徹底された宿だ。それは良い、しかしその規模の宿が数十も数並んでいる。

これがアーンレイム帝国という存在だ。もう驚きはしないだろう。

そう思いながら、

五人は言葉少なに食事を済ませ、帝国の底知れぬ規模に圧倒されながら眠りについた。


翌朝、また同じように馬車に揺られる。 そしてその日の終わり頃、ついに「それ」は姿を現した。


「……台地、じゃない。あれは……」 ガウェインが息を呑んだ。 「天空の都アーンレイム」――事前に標高千五百メートルの台地と聞かされていた。だが、目の前にあるのはそんな生易しいものではない。まるで巨大な山の頂上を、神が巨大な刃で水平に切り取ったかのような「頂上のない山」が、天を突いてそびえ立っていた。


そして、その山の麓に広がる最後の「宿場町」それは、それまで通り過ぎてきたどの街とも比較にならない規模だった。 数百万人が暮らすという帝都の下に、さらに数百万人が暮らせるであろう巨大な「裾野の都市」が形成されている。


「はあ……これも宿場町か。もう、何が普通なのか分からなくなってきたよ」 最年少のテオが、呆れたように、そして力なく笑った。


見上げる断崖の先には、まだ見ぬ帝都の光が滲んでいる。 北大陸のシルバーランクたちは、自分たちの歩んできた世界がいかに小さく、牧歌的であったかを、ただの「宿場への道」だけで思い知らされていた。


馬車は、帝都へと登るための最後の中継地へと、静かに、そして止まることなく進んでいく。


■第十一章:静寂の箱と、雲上の楽園

翌朝、宿を後にした五人は「もう何を見ても驚かない」という覚悟を決めていた。しかし、その決意はすぐに打ち砕かれることになる。


「帝都までは保安上の理由により、馬車での進入は禁止されています。ここからは『駅』へ向かい、『箱』に乗ってください。駅までは馬車で送り届けて差し上げます」


案内されるままに到着した「駅」は、それまでの宿場町で見たどの施設よりも重厚で、冷徹なまでの機能美に満ちていた。帝国身分証明を提示すると、係官は事務的な、しかし丁寧な態度で告げた。


「ようこそ、アーンレイムへ。ではあちらの『箱』へお入りください。間もなく出発いたします」


促されるままに踏み入れたその場所は、窓もなく、出入り口が一つあるだけの閉鎖的な空間だった。先客たちが数十名、まるで瞑想でもするかのように静かに椅子に座っている。 ガウェインたちは困惑した。馬車のように馬が繋がれている様子もなく、車輪の気配すらしない。


「大丈夫だ、ここはアーンレイムだ。悪いようにはされない。気づけば着いている……そうだろう?」 隣の席では、自分に言い聞かせるように両手を握りしめ、独り言を呟く移住者がいた。五人もまた、言葉を失い、ただ押し黙ってその「動かない箱」の中で時を待った。


十分が経過しただろうか。体感では数時間にも感じられた静寂のあと、背後の扉が音もなく開かれた。


「……? 何か、試されていたのかしら?」 エレナが怯えたようにガウェインの外套を掴む。しかし、人の流れに従って「箱」を出た瞬間、彼らの脳は理解を拒絶した。


そこは、先ほどまでいた麓の駅と同じ構造をしていた。だが、「箱」から一歩外へ踏み出した瞬間、五人の視界を射抜いたのは「伝説の光景」だった。


●標高一千五百メートルの奇跡

「……嘘でしょう? 転移魔法……?」 魔術師のカミーユが、震える声で呟いた。北大陸ではお伽話の中でしか存在しないはずの神の業。それを疑わざるを得ないほど、景色は一変していた。


眼前に広がるのは、荒涼とした高地などではなかった。陽光を浴びて宝石のように輝く運河が街を巡る、光り輝く水の都、帝都アーンレイム。


赤道直下の熱帯に位置しながら、標高一千五百メートルという高度、そして卓越した魔導技術によって制御された気候は、肌をなでるような涼やかで完璧な空気を作り出していた。見上げる空には、まるで計算されたかのような美しい青がどこまでも広がり、街路には四季を無視したかのように色鮮やかな花々が咲き乱れている。


建物は、天を突くような悪趣味な高さではない。しかし、一つひとつが白亜の石で造られた、重厚かつ洗練された巨塔群。それらが美しい空中回廊によって複雑に、しかし効率的に結ばれている。


「何なんだ、この場所は……」 ガウェインは呆然と立ち尽くした。 何より彼らを圧倒したのは、行き交う人々の「姿」だった。 北大陸の王都で見かけるような、生きるために必死な焦燥感も、誰かを出し抜こうとする殺気もない。誰もが、これまで見てきたどの都市の住人よりも深く、濃密な「心の余裕」を纏っていた。


それは、完璧な秩序と、絶対的な安全、そして底知れぬ豊かさを享受する者だけが持ち得る、神々にも似た静謐な空気だった。


「……ここが、俺たちの終着点。本当のアーンレイム帝国なんだな」


ガウェインの声が、乾いた帝都の空気に吸い込まれていく。 シルバーランクという過去の栄光も、言葉の壁への不安も、この圧倒的な景色の前では一瞬だけ霧散した。五人は、自分たちが今、まさに「人間としての新しい次元」へ足を踏み入れたことを、五感すべてで悟らされていた。


■第十二章:石器時代の勇者と、帝国の「学校」

「駅」を出た五人を待っていたのは、帝都の絶景だけではなかった。


「おいおい、その呆けた顔。ルミアトリアの田舎者丸出しだぞ」


聞き覚えのある、しかしこの場所にはおよそ似つかわしくないほど「記憶にある響き」の言葉が飛んできた。振り返ったガウェインの目が、驚愕に大きく見開かれた。


「……ハンス!? お前、ハンスなのか!?」


そこに立っていたのは、二年前、ルミアトリア王国の戦場で行方不明となり、死亡したと思われていたゴールドランクの剣士、ハンスだった。かつては血と泥にまみれ、傷だらけの鎧を着ていたはずの彼は今、見たこともないほど白く清潔な「制服」に身を包み、胸には帝国公務員のバッジを誇らしげに光らせていた。


「ハンス、お前、生きていたのか……! それにその格好、一体どういうことだ?」

「落ち着けよガウェイン。俺だけじゃない、あっちの案内所にいるのは元イルミエンの副騎士団長だ。ここではな、北の『ランク』なんてのは、ただの健康診断の結果みたいなもんなんだよ」


ハンスは苦笑いしながら、流暢な――しかし、どこか知的な響きを持つルミアトリア語で続けた。


「お前たちが持ってるその手帳、読めないんだろ? 無理もない。だがな、心配するな。帝国は、お前たちのような『力自慢』が路頭に迷うほど無計画な国じゃない。ついてこい、案内してやる」


●「一アム食堂」の活気と、突きつけられた「プラチナ」

ハンスに連れられ、五人は帝都の一角にある「一アム食堂」へと足を踏み入れた。そこは北大陸の酒場のような自堕落な空気はなく、移住者たちが互いに「講習」や「訓練」の内容を真剣に語り合う、学校のような活気に満ちていた。


ハンスが食堂の壁に貼られた掲示板を指差した。そこには北大陸各語による補足が小さく添えられた「依頼票」がある。ハンスがそれを読み聞かせた。


「冒険者ギルドからの依頼」「帝国外縁部・魔素変異帯の環境調査」「条件:前衛は錬気術応用課程修了者と同等、または北大陸プラチナランク以上。 その他もそれに準ずる者であること。北大陸の討伐実績を考慮。報酬:300アルクル(成功報酬)」


「プラチナ? ……報酬300アルクル……?」 カミーユは思考を放棄した。北大陸でプラチナランクといえば、英雄の領域に足を踏み入れた一握りの強者。そして報酬は、このあいだ「1年分の大金」として渡された金貨を300枚分だ。


「ああ。プラチナは知らんが、お前たちシルバーランクには一生お目にかかれない大金だ。しかもこの依頼、毎日同じ場所に張り替えられている。帝国で冒険者をしたければ、これくらいは『当然』だとな」


ハンスは自嘲気味に笑い、続けた。

「だがな、本当にこれを受けるには帝国の『学校』に通って、帝国流の戦い方を覚えなきゃならない。剣士なら才能……いや、『気術』だな。魔法使いなら魔術回路学に応用魔法学。お前たちが持ってる大剣や魔術は、ここでは『石器時代の道具』だ。プラチナランクなんて条件は、北の人間向けのハッタリに過ぎない」


●過去の崩壊、そして「ゼロ」からの出発

ハンスが語ったのは、彼自身の苦い経験だった。

「かつてゴールドランクだった俺は、錬気術をそこそこ出来てな。自信満々でこれを受けようとした。ギルドじゃプラチナ相当って言われてたからな、けど、結果は……ギルドに居た先輩冒険者から指をさされて笑われたよ。『ブラストパース(黄銅黄玉)』つまり、北大陸でいうシルバーランクの小僧が何を言ってるんだ、ってな」


「ここじゃあ、北でオリハルコンだろうとミスリルだろうと、ブラストパースから始めるんだよ。それに実際、ゴールドの俺も帝国の冒険者としてはシルバーと同じだった。無知ってやつだ」


北大陸とアーンレイム帝国ではランクシステムが違う。たとえオリハルコンランクの者でもシルバー以上は「ブラストパース(黄銅黄玉)」から実績を積み上げていかなければならない。


そして「そのランク以下」は帝国には「事実上無い」

北大陸冒険者ギルドで言うアイアンランク、ブロンズランク、スチールランク、これらはブロンズトパース(青銅黄玉)、ブロンズルビー(青銅紅玉)、ブロンズダイヤモンド(青銅金剛)という正式なランクが設定されているが、これらはひとくくりに「ブロンズ」と呼ばれ、冒険者登録が出来ない。


ハンスは、ガウェインが首に「お守り」として下げている、かつての誇りであるシルバープレートを指で弾いた。カチリ、と虚しい音が響く。


「言葉を覚え、文字を読み、帝国の法を学ぶ。その先に、お前たちが夢にも見なかった『本当の強さ』がある。……やるか? ガウェイン。それとも、一年で期限が切れる一アムの飯を食って、掃除係として余生を過ごすか?」


ガウェインは、帝都の空を仰いだ。太陽が近く、空は吸い込まれるほどに青い。 「……当たり前だ。俺たちは、掃除をしに山脈を越えてきたわけじゃない」


五人の冒険者は、今、本当の意味で「ゼロ」になったことを自覚した。 石器時代の武器を携えたままでは、この楽園の住人にはなれない。だがその心には、北大陸の王ですら持てなかった、無限に広がる未来への地図が描かれ始めていた。


「ハンス、その『学校』ってのはどこにある?」

「ははっ、いい顔になったな。……まずは飯を食え。話はそれからだ」


地平線の先にある未知の力を掴むため、五人は帝国の「正しさ」という名の、長く険しい、しかし輝かしい階段を一歩ずつ登り始めた。


■第十三章:ペンを握る戦士たちと、目覚める『気』

帝都にある無数の「一アム食堂」をハンスと共に見て回り、彼らが腰を据えたのは、ルミアトリア人が集まる食堂と、その隣に併設された建物だった。そこは、移住者のための「学校」だった。驚くべきことに、その学校の教師と教本は、すべて完璧なルミアトリア語で用意されていた。


広間には、数十人の移住者が机に向かっている。北大陸では剣や槍を振るっていたはずの頑強な男たちが、眉間に皺を寄せ、子供が使うような細いペンを握って白い紙と格闘していた。


「ルミアトリア語の読み書きはできているな? 依頼票のような単なる記号ではないぞ。できていないなら、帝国語と同時に覚えるように」


教壇に立つのは、ルミアトリア王国出身の初老の男性。かつては王立図書館の司書だったという彼は、最新の帝国語テキストを自ら翻訳し、現在は「帝国上級教育担当官」という、自ら掴み取った高級国家公務員の地位に就いていた。


「帝国語の五十音を追う前に、まずはこの『アルディアン語』の26文字を完璧にしろ。帝国語の発音はこの26文字ですべて代用できる。これができないと、スキルの教本一冊すら読めないからな」


ガウェインとジーンにとって、それは魔獣との死闘よりも過酷な時間だった。 「……クソ、『A』と『R』の違いが分からねえ。指が太すぎてペンが折れそうだ」 ガウェインが唸る一方で、もともと教養のあったカミーユ、エレナ、テオの三人は、驚くべき速度で帝国語の基礎を吸収していった。


●魔術回路学の衝撃

特に魔術師のカミーユを震えさせたのは、三日目から参加した「魔導理論」の講義だった。

「北大陸の魔術は、体内の魔素を無理やり体外へ放出し、現象を固定する『放出型』。しかし、帝国ではそれは極めて効率の悪い、原始的な方法とされています」


講師が提示した図解には、人体に張り巡らされた複雑な「回路」が描かれていた。 「魔力を体外に出す前に、体内にある『魔術回路』で現象を完成させます。放つのは結果だけ。これにより、消費魔力は十分の一に抑えられ、威力は数倍になります。これに魔術回路が組み込まれた専用の杖を使えば、威力はさらに増すのです」


カミーユは自分の杖を見つめた。これまで誇りにしてきた「火球ファイアボール」が、帝国の基準では単なる「魔力の無駄遣い」であることを突きつけられたのだ。彼女は震える手で新しい教科書を開いた。そこには、これまで自分が「才能」だと思っていたものを、「技術」として再定義する理論が整然と並んでいた。


●「気」の胎動

文字に苦戦するガウェインとジーンだったが、午後の実技講習ではその才能を遺憾なく発揮した。指導員として現れたのは、ハンス。彼もまた、学びによって「帝国下級教育担当官」という国家公務員の職を勝ち取っていた。


「ガウェイン、目を閉じろ。筋肉を固めるな。体の中にある力を『魔力』と考えるんじゃない。それを『気の流れ』として捉えろ。それが気術の入り口だ」


午前は語学、午後は実技。この半年で二人の進歩は格段だった。

ハンスがガウェインの背中にそっと手を当てる。

「ここに乱れがあるぞ、掌まで流せ」

「それは自分でもなんとなくわかるんだ……が。……こうか!」


その瞬間、ガウェインは血液とは別に、熱い川のようなものが全身を駆け巡るのを感じた。

「……なんだ、これ。力が溢れるっていうより、体が軽くなる……?」


「それが『錬気術』の基礎だ。そのまま、その流れを『木剣』に集中させて、置くイメージを作れ。力は入れるな、『気』を置くだけだ」


ガウェインは言われるままに何度も繰り返した。その時、帝国辺境で採取されたという光臨木製の木剣の輪郭が、陽炎のようにぼやけた。

「『気』を乱すな。そのまま、目の前の木片に『お前の気』を置け」


ガウェインが木剣を木片に添える。気という「現象」に触れた瞬間、木片は何の抵抗もなく、あっけなく切り割れた。 「え? 俺、今、何の力も入れてないのに……」


「まずは初歩だ。お前は今、初めて自分の魔力を物理的な破壊力へと完璧に変換したんだ。北では才能と言われるが、『気』は努力の結果でもあるんだよ」 ハンスは自慢げに笑い、こう付け加えた。

「だがな、それじゃまだブラストパース(シルバー相当)だ。もっと上がある。次は自分で考えろ」


才能で開花した自分と、努力で開花させようとしているガウェイン。その上で「自ら考えさせる」ことこそが、帝国の教育の本質だった。


●迫り来る「一年」の期限

学習と訓練の日々は、驚くべき速度で過ぎていった。 かつてのシルバーランクとしての自尊心は、新しい知識を得るたびに「向上心」へと書き換えられていく。だが、安息の日々には終わりがある。


「ハンスが言ってた。一アム食堂の利用は一年の期限があるって」 ある夜、ジーンが国民証を眺めながら言った。一年。それは、帝国が移住者に「自立」を求めるまでの猶予期間だ。


言葉を覚え、帝国流の技術を身につけ、あの「プラチナランク推奨」の依頼をこなせるようにならなければ、冒険者の続きは行えない。


「教師になるってのも、良いよな。入植管理官も……いや、俺の性には合わないか」 ジーンが不意に呟いた言葉に、他の四人も考え込んだ。 「だよなあ、公務員ってのもいいけど……やっぱり俺は、冒険者の続きをやってみたい」 ガウェインは、掴みかけたこの力の使いどころを見つけたいと願っていた。


「……やってやろうじゃない。一アムの飯は旨いけど、俺はもっと旨いもんを自分の力で食いたいんだ」 ガウェインが不敵に笑う。その瞳には、帝国の「未知の強者」へと至るための、鋭い光が宿っていた。


天空の都アーンレイム。その雲上の学び舎で、「北大陸の凡人」たちは自分たちの殻を破り、真の「帝国人」へと変貌を遂げようとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ