第七話 静まりゆく水辺
【第二章のあらすじ】
湖の南端に広がる水の都ネレイダ。
その水辺にも、精霊たちの異変の影が忍び寄っていた。
傷付いた妖精との出会い、湖を脅かす魔物との戦い──そして、水の精霊エルヴィーラの声を取り戻すための、短くも濃い日々が始まる。
夏の訪れとともに、フィリアとテオドールの心にも、少しずつ変化が芽生えていく……。
その湖は静かに泣き、泉は声を失っていた──
湖沿いにネレイダへと続く街道を進んでいくと、小さな村が見えてきた。十数軒ほどの家が川沿いに寄り添うように建ち、灰色の石橋が水面に影を落としている。
屋根には乾いた葦が葺かれ、窓辺には色鮮やかな花籠が揺れていた。川面を渡る風は涼しく、遠くの湖から届く清らかな香りを含んでいる。
「少し寄って、休憩させてもらいましょう」
テオドールの提案に、フィリアは頷いた。
旅の間、温かい食事や人の声がどれほど心を慰めるか──それはグラーデの村で祖母から教わっていたし、テオドールの手料理の温かさからも身に沁みて感じていた。
橋を渡ると、小さな広場に露店がいくつも開かれていた。
籠いっぱいの干した魚、色とりどりの根菜、束ねられた香草。焼き立ての薄いパンからは香ばしい匂いが漂い、香草の青い香りと混ざって食欲をそそる。広場の中央には小さな噴水があり、子どもたちが水遊びをして笑い声を上げていた。
『たのしそう……わたしも行ってくるわ!』
クロリスがフィリアの肩からふわりと飛び立ち、噴水の上を軽やかに舞う。
水面を小さな足で弾き、透明な粒が空中に散った。それが陽の光を受けてきらきらと輝き、子どもたちの笑い声に溶けていく。
その楽しげな光景に、フィリアの口元が自然と緩んだ。テオドールは少し離れた場所から、穏やかな眼差しで二人を見守っている。
* * *
「わあ……この実、初めて見ます」
フィリアが籠に山盛りになった赤い果実を指差すと、店先の老婆が笑顔を見せた。
「川沿いの湿地で育つ果実ですよ。煮れば甘く、乾かせば旅にも持って行けます。昔はこの果実を摘むと、水の精霊が喜んで川面を光らせることもあったのに……」
老婆の声が、そこでわずかに沈んだ。
「最近はさっぱり見かけなくなってねぇ。川の水も、前より濁る日が増えたよ。そういう日は魚も網にかからないし……あんたたちも気をつけなさいな」
──また、精霊の異変。
グラーデの近くの村でも似た話を耳にしたことがある。森の澄んだ泉や、小さな精霊たちの歌声がもしも失われてしまったら……。
肩にとまったクロリスも、小さく羽根を揺らしていた。
露店の老婆に礼を告げ、果実や保存食を買い揃える。テオドールは必要な食材を迷いなく選び、店ごとに正確に支払いを済ませていく。
* * *
村を後にし、川沿いの道を歩く。木々が陽射しをやわらげ、湖からの涼しい風が頬を撫でた。道端には青や白の野花が咲き、風にそよぐたび淡い香りを漂わせる。
「村の子どもたちからも聞いたんですけど、ネレイダのお祭り、楽しそうですね」
「水の女神祭……大きなお祭りは初めてで、楽しみです」
「任務が最優先ですが……」
テオドールは前を向いたまま答える。
「……機会があれば、見られるかもしれませんね」
その声音は淡々としているのに、どこか否定しきれない柔らかさが混じっていた。フィリアは少しだけ頬を緩める。
その時、クロリスが急に羽根を止め、川辺の茂みをじっと見つめた。
『……あれ?』
導かれるまま足を運ぶと、茂みの陰で淡い水色の光がうずくまっていた。
近づくにつれ、鼓動が速くなる。音が遠のき、視界がその一点だけに絞られていく。
それは小さな妖精だった。輝きは弱く、トンボのような透き通る羽根は力なく垂れ下がっている。頬や腕には泥がつき、服の端はほつれていた。胸の上下はかすかで、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
「大丈夫……?」
フィリアがそっと両手で抱き上げると、妖精はかすかに瞬き、弱々しい声を漏らした。うっすらと青い瞳を開くと、フィリアとクロリスを見つめ、安心したかのように目蓋を閉じる。
『このままじゃ危ないわ。フィリア、私が連れて行く』
クロリスが差し出した小さな手のひらは、柔らかな光を帯びている。妖精はふわりと宙に浮かび、クロリスの胸元へと身を寄せた。次の瞬間、淡い光が彼女の体を包み、妖精の姿が見えなくなる。
『私が守るわ……ネレイダまで一緒よ』
クロリスの声は、普段より少しだけ優しかった。フィリアはほっと息をつき、前を歩くテオドールを見上げた。
水の都は、もうすぐそこだ。
次回は、第八話「魔物との遭遇」です。
フィリアたちにとって、初めての戦闘になります。