第四話 長い旅路のはじまり
まだ朝靄の残る街路を抜け、アルセナの街が遠ざかっていく。振り返れば、白い塔と屋根が春の光に淡く輝き、賑やかな市場の声も少しずつ小さくなっていった。
「……ここから先は、街道沿いに祠や小さな村が点在しています。南のネレイダまで三日ほどの道程です」
先を歩くテオドールが、振り返らずに告げる。
「三日……! 野営を、するんですよね?」
『野宿と呼びなさい、フィリア。響きが違うわ』
肩の上で羽を揺らすクロリスのからかいに、フィリアは小さく笑った。
街を離れると、視界いっぱいに緑が広がった。丘陵の斜面には黄色や白の小花が咲き、澄んだ風が草原を渡ってくる。
遠くにはうっすらと雪をいただいた山並みが霞み、その麓を縫うように銀色の川が光っていた。
「……綺麗……」
思わず立ち止まり、フィリアは胸いっぱいに空気を吸い込む。
その横顔を、テオドールは無言で一瞥するだけだったが、水色の瞳の奥に一瞬だけやわらかな光が宿った。
しばらく歩くと、道端に小さな祠が現れた。
苔むした石の屋根と、風に削られた木の柱。供え物の皿は空で、枯れた花もすっかり色を失っている。
「……精霊の祠ですね」
足を止めたフィリアの耳に、かすかな鈴のような音が届く。祠の奥──薄闇の中に、小さな光の粒が揺れていた。
「精霊だわ……」
フィリアはその祠にそっと足を踏み入れると、静かに跪いた。
「精霊よ……どうか、その声を聴かせてください」
『…………──!』
祠の中は静まり返り、小さく淡い光が漂うだけで、返事はなかった。
「声が全く聴こえないわ……何か伝えようとはしてるみたいだけど」
『そうみたいね……どうしたのかしら』
フィリアの肩からふわりと飛び立つと、クロリスは淡い光に近づく。
『だめだわ、わたしでも話せない……すごく弱ってるわよ』
『このまま消えちゃうかも』と呟いたクロリスに、フィリアの瞳が悲しみの色に染まる。
その小さな光は、幼い頃からフィリアの傍にあった精霊たちと同じ温もりを宿していた。消えてしまうかもしれないと思うだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「何か……わたしにできることを──」
フィリアが祠の中を見回すと、古びた箒が目に入った。その箒を手に取ると、フィリアは祠の石床を掃き始める。
「……フィリア様」
祠の外で様子を見ていたテオドールが、祠の入り口からフィリアを見つめていた。
「クレイさん、ごめんなさい……少し、待ってもらえますか?」
「私も手伝います」
少し頭を屈めて祠に入ってきたテオドールは、「貸してください」とフィリアの持っていた箒で祠の掃き掃除を始めた。
『へえ……優しいじゃない。さすが神官ね』
「ありがとうございます、クレイさん」
フィリアは安堵した表情を浮かべると、テオドールへ微笑みかけた。
瞬間、テオドールの瞳の奥がわずかに揺れた。一瞬だけ、淡い驚きと別の感情が混じった色が、その瞳に宿った。
「あなたは──……いえ、早く片付けましょう」
何か言いかけたテオドールは、手際良く祠の石床を掃いていく。
フィリアは一瞬小首を傾げたが、深く考えずに祠の掃除を始めた。祭壇に置かれた皿と花瓶を手に取ると、祠の外を流れる小川へと向かう。
『わたしは花を用意するわね』
フィリアの後に続いたクロリスは、小川の野辺に咲く花々を集めていく。
フィリアが綺麗に濯いだ花瓶の隣に、花をいくつも抱えてきたクロリスがふわりと舞い降りると、少しふらつきながら、花瓶へ色とりどりの野花をそっと差し入れた。
ふたりが祠の祭壇へと戻ると、テオドールが祭壇の埃や汚れを拭っているところだった。綺麗になった小さな祭壇に、摘んできた花とアルセナで買っておいた果物を供える。
「随分綺麗になりましたね……」
「はい……本当にありがとうございます」
「いえ……」と返したテオドールは、静かにフィリアを見つめていた。
『わたしも頑張ったわよ!』と言うクロリスに、フィリアはクスリと笑ってお礼を言った。
『あ……がとう』
不意に、祠にかすかな声が響いた。
小さな祭壇の上に再び淡い光が漂っている。心なしか、祠を訪れたときよりもわずかに光が強くなっているように感じられた。
『せ……れ…じゅ……と……かない……』
「──?」
「せ……精霊樹?……何を伝えようとしているの?」
フィリアがそう問いかけたが、淡い光はふわりと宙に溶けて消えた。
精霊の声は、もう聴くことが出来なかった。
* * *
『まだ、気にしてるの……?』
クロリスが、心配そうにフィリアを見つめていた。
「だって……さっきの精霊が心配で……」
フィリアの翡翠色の瞳は翳り、その表情も声も沈んでいた。
『祠に入った時よりはかなり元気になってたわ……きっと眠ってるのよ。消えたわけじゃないから、きっと大丈夫!』
明るく声を掛けるクロリスに、フィリアは力なく頷いた。
「力を失った精霊は多い……各地の異変と、影響があるのだと思います」
テオドールの言葉に、クロリスがふと後ろを振り返る。
遥か後方、アルセナの街の向こうには、青々とした森が広がっている。それは、精霊樹を守るように抱く精霊の森──
「今日はこの辺りまでにしましょう」
テオドールが立ち止まったのは、森のそばの小道だった。近くに川があるのか、かすかなせせらぎが聴こえてくる。
フィリアは小さく息を吐き、背中の荷物を少し持ち直した。明日の朝は、この森のそばで旅人らしい一日が始まる──そんな予感がしていた。
森の向こうでは、夕暮れの山影が少しずつ色づき始めていた。
ふと振り返ると、遠くの空に淡い光が立ち昇ったように見える。それは、夕暮れの空に消える前にひときわ瞬き、まるでフィリアの旅立ちを見送るようだった。
次のお話は、第五話「初めての野営」
森のそばで野営を決める一行。星降る夜に、フィリアは故郷を思い出します。テオドールの眼差しも少しずつ柔らかくなって──