第三十六話 精霊樹の眠る場所で、君を想う
エピローグ前の最終話。長文になります。
⚠ 最終話のため、ネタバレがあります。初めての方や序盤から読まれる方はご注意ください。
* * *
✧ 初めての方へ ✧
まずはプロローグからお読みいただけます。
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精霊樹は、淡い緑の光を優しく放っていた。まるで、ふたりを見守るかのように──
「この身体はもう……駄目みたいですね……」
そう言って儚く微笑んだテオドールに、フィリアが激しく首を振る。その瞳からは、大粒の涙がいくつも零れ落ちている。
「そんなこと……言わないで……」
「フィリア……」
泣きながら縋り付くフィリアに、テオドールは笑いかけた。
「私は……フィリアのおかげで、人として生きる喜びを知りました……最後に……あなたを守ることができて、本当に良かった……」
澄んだ水色の瞳に、凍えそうな風の中でも青々としている精霊樹の葉が映し出される。
「でも、叶うなら……もっと、あなたのそばにいたかったんです……」
「あなたの故郷の森も、見てみたかった……」と悲しげに笑うテオドールに、フィリアの涙が溢れる。
「じゃあ、一緒に帰りましょう……テオが来てくれたら、わたし、すごく幸せです……」
涙を零しながら微笑むフィリアの頬に、テオドールがそっと触れる。
「……あなたを……ひとりにしてしまいますね……許してください……私も……人であれば、良かったのに……」
テオドールの瞳から、涙が一筋零れた。
翡翠の瞳からも、いくつも涙が零れ落ちる。
その胸に、旅の景色が一気に蘇った。
初めての野営の焚き火で見た横顔、湖畔で飲んだスープの香り、泉に落ちて笑い合ったときの彼の笑顔。火傷をしたときの心配そうな表情に、初めて抱き締められたときの温もり……。
すべてが、もう二度と訪れない──そう思うだけで、息が詰まった。
涙が溢れ続けて、テオドールの顔が霞む。
「フィリア、笑ってください……あなたの笑顔が、私は大好きなんです……」
テオドールはフィリアの頬を伝う涙を、震える指でそっと拭った。
「これが……このあなたへの想いが、きっと、愛する……ということなんですね……全部、フィリアが教えてくれたものだ」
「テオ……」と泣きじゃくるフィリアに、微笑むテオドール。
「この名前、嫌いだったんです……勝手に“神の贈り物”と名付けられて、“失敗作”と呼ばれて……だけど、あなたに名前を呼んでもらえるのは、嬉しかった……あのとき、造られて良かったと……初めて思えたんです」
そう言って笑ったテオドールが、胸元のポケットへ震える手を伸ばす。
「フィリア、これをあなたに……もっと早くに、渡したかったのですが……」とテオドールは取り出したものを差し出す。
フィリアが受け取ろうとすると、テオドールが彼女の左手を取った。震える指で、その薬指に触れる。
「これって……」
フィリアの左手の薬指には、細い白金色の指輪が輝いていた。精霊樹の葉の紋様が繊細に刻まれた中央に煌めくのは、透き通るアクアマリンの石。
それはまるで、テオドールの瞳のような澄んだ水色。そして、彼の胸元に輝いているのは、小さな翡翠の付いたペンダント──
フィリアは、ネレイダの祭りの露店で見かけた、宝石を選び合う恋人たちの姿を思い出した。
──お互いの瞳の──魂の、色……。
(あのとき、見ていたの……? テオは、覚えていてくれたんだ……)
「テオ……」
翡翠色の瞳がまた滲んで、涙がいくつも頬を伝う。
「……そばにいられないくせに、こんなものを渡して、すみません……でも、この指輪を付けているあなたが見たくて……」
瞳を伏せて笑ったテオドールに、フィリアは何度も首を振った。
「嬉しいです……ずっと、外しませんから……」
泣きながら微笑んだフィリアに、テオドールが嬉しそうに笑った。
「ありがとう……愛しています、フィリア……」
いつになく優しい眼差しで、テオドールは微笑んだ。その頬を涙が伝い、そのまま、静かに白い瞼が閉じられていく──
「テオ! わたしも、愛してます……初めてなんです。こんな気持ち……わたしをひとりにしないで……!」
握っていた彼の手から、少しずつ温もりが消えていく。
薬指に嵌められたばかりの、指輪の感触がひどく冷たく感じる。
それが、もう彼に触れることができない証のようで、胸が締め付けられた。
「いや……テオ、いかないで……!」
フィリアの涙で滲む視界の中、最後に見えたのは彼の微笑みだった。
テオドールの体が淡い緑色の光の粒子を放ったかと思うと、細かな土になって冷たい風に溶けていく。フィリアの手の平に残った土も、精霊樹の根元へと零れ落ちて……。
「テオ……!」
その光景を見ていられず、目蓋をきつく閉じて涙を流すフィリア。
その体を、不意に温かい何かが包み込んだ。まるで、彼の温もりのような──
(──テオ?)
目蓋をそっと開くと、フィリアを淡い緑色の光が優しく包みこんでいた──だが、すぐにふわりと宙に溶けて消えてしまう。
フィリアの手のひらに残されたのは、彼が纏っていた白い神官の装束の温もりと、翡翠の石が嵌め込まれた銀色のペンダントだけだった。
かすかに残る土も、冷たい風に吹かれて全て消えていく……。
精霊樹の青い葉をざわざわと揺らして、凍えそうに冷たい風がフィリアを包んだ。だが、寒さは感じなかった。
彼女の心だけが、凍えていた。
* * *
彼の温もりが消えた世界で、彼女はまだ、その名を呼び続けていた──
冷たい風が止んだ。
残された静寂の中、フィリアは膝をついたまま、地面に残る冷たい土の感触だけを握りしめていた。
彼が嵌めてくれた指輪と、彼に贈った翡翠のペンダントが、その温もりの代わりにそこにあった。
──確かに、彼はここにいたのに……。
まだ少しだけ温かい神官の装束を抱きしめると、嗚咽をこらえきれず、声が漏れる。
「……テオ……」
そのとき、頭上から、水面に光が落ちるような気配が広がった。
見上げると、精霊樹の幹に淡く緑を帯びた光が満ちていく。
目の前に葉がひとひら、ゆっくりと音もなく落ち、そこには、人の形をした光が立っていた。
『──フィリア』
あたたかな大地を思わせるような、優しくも落ち着いた声が響いた。
現れたのは、この地を護る精霊樹の主だった。
女性とも男性ともつかない美しい容姿に、長い髪は銀糸のように揺れ、瞳は深い湖底を思わせる澄んだ青緑。
その一歩ごとに、傷ついた根元の土が静かに脈動していく。
「……あなたが……精霊樹の……」
フィリアが涙で霞む目を瞬かせると、涙が頰をつたった。
『あの子は……私の土から生み出された、神殿に造られた“器”だが、その魂は確かに育っていた……君と過ごした日々が、あの子の心を人として満たした……』
その言葉に、フィリアの胸が締めつけられる。
思い出すのは、ペンダントを贈ったときの嬉しそうな笑顔、微睡みから目覚めた時に、こちらを見つめていた優しい眼差し。そして、指輪を嵌めたときに、微笑んだ彼の瞳から零れた涙──全てがもう、決して触れられないものになってしまった。
『……失われたものは、永遠に消えるわけではない』
低く響く声が、葉の間を抜ける冷たい風に溶けていく。
『その心は……君が芽吹かせたあの子の想いは、枯れはしない……』
フィリアは静かに息を呑んだ。
その言葉の意味を問おうとしたが、口を開く前に光は淡くほどけ、精霊の姿は木漏れ日の粒子に溶けるように消えていった。
残されたのは、静かに揺れる枝葉と、胸の奥で微かに灯る温もりだけ。
それが希望なのか、ただの慰めなのかは、フィリアには分からなかった。
* * *
淡い光が消え、再び森の静寂が戻る。
風が枝葉を揺らし、わずかな音を立てて通り過ぎていく。
フィリアはその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
「……テオ……」
声に出すたび、胸の奥から何かが溢れ、涙は止まらなかった。
温もりを失った指先には、指輪の感触だけが残り、手の中には彼に贈ったはずのペンダントがある。
それを握りしめれば、さっきまで彼が隣にいた証が蘇るのに──
思い出すたび、もっと苦しくなった。
いつの間にか姿を現していたクロリスは、何も言わず、ただフィリアの肩に寄り添っていた。
小さな羽がそっと頬を撫でる。その温もりが、かえってフィリアの涙を誘った。
どれほど泣いていたのか分からない。
空はすでに暮れかけ、精霊樹の葉は夕陽に照らされて金色に輝いていた。
その輝きはあまりにも静かで、フィリアの痛みには何ひとつ答えをくれなかった。
「……帰らなきゃ」
掠れた声でそう呟くと、フィリアは力なく立ち上がった。
手も足元もまだ震えている。けれど、神殿へ戻らなければならない。あの人が守ってくれた命と、この想いを抱えて──。
* * *
精霊の森を抜け、しばらく歩き続けたフィリア。その胸元には、翡翠の石が付いた銀色のペンダントが揺れている。
フィリアもクロリスも、一言も話さなかった。
まだひんやりとした空気の中で、その肩に寄り添う小さな妖精の存在だけが、フィリアに温もりを伝えていた。
森に囲まれた中央神殿の白い塔が見えたとき、フィリアの足はほんの少しだけ重くなった。
胸の奥に、まだ彼の温もりの残滓と、言えない真実が絡みついている。
案内された神殿の広間では、依頼主である神官長が待っていた。
神官長が長衣の裾を揺らしながら近づくと、フィリアは深く一礼する。
「……依頼の件、完了しました」
淡々と告げる声は、驚くほど自分の声に似ていなかった。
いつもより少し低く、感情を押し殺した響き。
「各地の精霊に纏わる土地の異常現象の原因は、水脈や地脈の乱れでした……精霊たちの力を借りて無事に収束し、精霊樹も……正常な輝きを取り戻しています……」
「そうでしたか……フローレンス殿、本当にご苦労様でした。何と感謝を申し上げたら良いか……」
神官長の表情には安堵が浮かんでいる。
だが、彼は何も知らない──あの場所で、誰が、何を守って消えたのか。
そして、フィリアはそれを話すつもりもなかった。彼と、約束したから……。
「……同行していた神官は、どうしましたか?」
神官長の言葉に、フィリアは言葉を詰まらせる。
「……精霊の森で、行方不明になりました……」
そう告げて一瞬だけ視線を落とし、再び顔を上げる。フィリアには、それ以上の説明はできなかった。
「それは……! すぐに捜索させます……フローレンス殿が無事に戻ってきてくださって、本当に良かった……さぞ心細かったでしょう……」
神官長の言葉を頭の片隅で聞きながら、フィリアは立ち尽くしていた。
「すぐに、神官たちを呼んで捜索隊の手配を──」
「その必要はない」
神殿の広間に、低い声が響いた。いつから広間にいたのか、冷たい足音と共に、長い聖衣を纏った高齢の司祭がフィリアへと近付いてくる。
「フローレンス殿ですね……この度は、本当にありがとうございました」
──何て、空虚な声なの……。
フィリアはもう、聴くのをやめた。
「かつて、お祖母様には断られましたが、あなたには是非、その希少な力を神殿のために──」
そのとき、神殿がわずかに揺れて、激しい風が広間を駆け抜けた。
神殿の壁を飾る布と長い聖衣の裾が大きく翻り、体勢を崩した司祭がその場に膝をつく。
『その娘に関わることは、許さない……』
恐ろしく低く大きな声が、神殿の広間を包み込むように響いた。
「こ、この声は……?!」
神官長が、突然響いた声にあたりを見回している。
「司祭長、大変です! 精霊樹様や精霊たちが怒っていると、精霊師たちが騒いでいます!」
「何だと?!」
神殿の広間に数名の神官が飛び込んできて、司祭長と呼ばれた高齢の男性は険しい顔で話を聞き、広間を飛び出していく。
『フィリア……帰りなさい、グラーデの森へ……』
立ち尽くしていたフィリアの耳に、優しく穏やかな声が響いた。
(精霊樹様……)
フィリアは神官長に背を向けて、静かに歩き始める。
「……フローレンス殿、お待ちを! まだ、謝礼をお渡し出来ておりません!」
慌てた神官長の声に、フィリアが振り返る。
「遠慮します……各地の復興の費用に、使ってください」
「フローレンス殿……」
自分でも、驚くほど淡々とした声だった。
神官長はそれ以上は何も言わず、フィリアは一礼して神殿を後にした。
精霊樹の声が響いてから、神殿は瞬く間に慌ただしくなり、幸い引き留められることもなかった。
左手の薬指に嵌められた指輪が、かすかに冷たい感触を返してきた。
* * *
神殿を後にしたフィリアは、すぐに馬車を手配して故郷へと向かった。
道中、どのくらいの時間がかかったかは覚えていない。
気付けば、グラーデ村に続く夕暮れの街道をひとり歩いていた。西の空は淡い茜色に染まり、雲の端が金色に光っている。遠くで鳥の声がして、わずかに温かくなり始めた風が頬を撫でた。
懐かしい森の匂いが漂い始めたとき、胸の奥がきゅうと痛む。
──もう、誰も隣を歩いてくれない……。
あの静かな笑みも、穏やかな低い声も、もう聴こえない。
けれど、泣くわけにはいかない。
彼が望んだのは、笑顔でいることだったから。
フィリアは、滲んだ涙が零れないように空を仰いだ。
木々の合間から、茜色に照らされ始めた屋根が見え始める。木製や茅葺きの屋根がやわらかく光っている。
その景色は、出発の日と何も変わっていないのに、フィリアの胸に広がる色は全く違っていた。
森の入口まで来たとき、ふと足を止める。
翡翠色のペンダントが、胸元でひそやかに揺れている。指先で触れると、冷たいはずのそれが、わずかに温もりを返した気がした。
「……ただいま」
小さく呟いた声は、森のざわめきに溶けて消えていった。
村の灯りがともる前に、フィリアはゆっくりと歩き出した。
* * *
『おかえりなさい、フィリア……よく頑張りましたね……』
大樹の葉がそよぎ、透明な声が降りてくる。シルヴィアの声は、いつもと変わらぬ優しさを含んでいた。
「……ただいま戻りました、シルヴィア様」
フィリアが大樹の前まで来ると、シルヴィアの優しい手がふわりとその頰を包みこんだ。
「ネレイダの泉も、他の精霊たちの土地も、精霊樹も、すべてが無事に戻りました……でも……」
言葉が喉の奥で絡まる。
「彼が……テオドールが、わたしを庇って……」
唇を噛み、必死に涙を堪える。
だけど、どれだけ気丈に話そうとしても、声は震え、シルヴィアにはすべて伝わってしまう。
『……彼は、とても立派に役目を果たしましたね』
シルヴィアの声に、大樹の葉が静かに揺れる。
『ありがとう、フィリア……そして……辛いでしょう……』
「……はい」
短く答えた瞬間、フィリアの頰を涙が一筋流れた。
* * *
村に戻ったフィリアは、いつも通り明るい笑顔を見せた。
「大丈夫。慣れない旅で少し疲れただけだから!」
心配する村人やクロリスにそう言っては、笑ってみせる。
けれど、夜になると……。
ランプの灯りが揺れる自室で、彼女はようやく強張った肩を落とした。
ペンダントを胸に抱き、静かに膝を抱えて座り込む。
左手の薬指に光る指輪を見ては、涙が込み上げてくる。
──あまりに悲しくて、外してしまいたいけれど、絶対に外せない……外したくない……。
矛盾する気持ちに、頬を伝った涙が床にぽたりと落ちる。
その横で、クロリスが羽音も立てずに降り立ち、そっとフィリアの膝に腰を下ろした。
『……泣いていいのよ、フィリア……我慢しないで』
その小さな声に、堪えていた嗚咽が零れ出す。
フィリアは両手で顔を覆うと、子どものように大声で泣いた。その頭を撫でながら寄り添うクロリスも、涙をいくつも零していた。
窓の外、森の闇の向こうには、その様子を静かに見守るシルヴィアの淡い光が揺れていた。
* * *
冬が終わり、春が訪れたグラーデの村。
暖かくなった日差しに、寂しかった森の木々が若葉色に染まりはじめた。
フィリアの家の庭に咲く花々も淡く色づき、ハーブも豊かに茂り始めていた。
柔らかなそよ風に花々が揺れ、深い森の香りと甘やかな花々の香りが鼻腔をくすぐる。
フィリアは、泣き腫らした瞳で庭とその向こうの森を眺めていた。
その様子を、近くの花影に隠れてそっとクロリスが見守っていた。
──『あなたの故郷の森も見てみたかった……』
そう言った彼の言葉が、微笑みが、涙が──彼の全てをどうしても忘れられなかった。
(テオに会いたい……夢でいいから……)
翡翠色の瞳から、涙が零れる。笑顔を望んだ彼との約束は、果たせなかった。
──彼と出会ったのも、この季節だった。
初めての旅に、各地の精霊たちとの出会い。初めは少し冷たいと感じていた彼の眼差しが、いつの間にか優しくなっていて……。
今では、全てが大切な想い出になってしまった。
フィリアは、左手で胸元のペンダントに触れた。
ひんやりとした冷たさに視線を落とすと、小さな翡翠の石が煌めいた。
薬指の白金色の指輪を見つめると、また涙が溢れてくる。透き通る水色の石が目に入るたび、彼の優しい眼差しを思い出して……。
「テオ……会いたい……」
フィリアの瞳から、大粒の涙がいくつも零れる。
──そこへ、背後からそっと草を踏みしめる音が響く。
(お客さん……? どうしよう、こんな顔で……)
フィリアは慌てて袖で顔を拭った。
泣き腫らして熱くなった目元を手のひらでそっと覆うと、後ろを向いたままで少し深呼吸する。
「また、泣いていたんですか?」
──それは、聴き慣れた、でも、とても懐かしい、何よりも聴きたかった声。
(でも……まさか、そんなはず……)
「フィリア?」
その声に、フィリアが振り返る──
「どう、して………?」
(わたし、夢を見てるの……?)
そこには、精霊樹で消えたはずの彼の姿があった。
信じられないといった表情を浮かべるフィリア。瞬きをしたその瞳から、涙が零れ落ちる。
「フィリア……ひとりにして、すみません……」
少し憂いを含んだ瞳でそう言うと、テオドールは微笑んで、ゆっくりとフィリアに近付いてくる。
「……精霊樹の主から、救った対価として、望みを叶えると言われたんです……」
「本物、なの……? 夢じゃなくて……?」
フィリアの言葉に、テオドールは「本物ですよ」と笑った。
フィリアの手をそっと握ると、自身の左胸へとそっと押しつける。
──手のひらから、微かな鼓動を感じる……。
「今の私は、心臓を貫かれたら死んでしまいます………でも、これからは、ずっと……あなたのそばにいられますよ」
「テオ………!!」
その名を呼んだフィリアの瞳から、また涙が溢れ出した。
泣きながら抱きついてきたフィリアを受け止めるテオドール。彼の腕が、フィリアの華奢な体をそっと包み込むように抱き締めた。
「フィリア……これからはずっとそばにいますから、どうか泣かないで……」
テオドールは囁くように言って、抱き締める腕に力を込めた。柔らかな栗色の髪を撫でると、そっと口付ける。
フィリアはその胸に頰を寄せる。彼の温もりと、聴こえる確かな鼓動に、閉じられた瞼から涙がいくつも零れる。
「ありがとう、テオ……もう、いなくならないで……ずっと、そばにいて……」
「はい……ずっとあなたのそばにいます。もう、ひとりにはしません……決して」
テオドールはゆっくりと体を離すと、優しく微笑んだ。
フィリアの頰を伝う涙を指でそっと拭う。
「これ、付けていてくれたんですね」
テオドールは愛しそうにフィリアの左手の薬指にそっと触れて、胸元のペンダントを見つめる。
「……ずっと、テオと一緒にいたかったんです……だから──」
フィリアが言葉の続きを紡ぐ前に、テオドールの手がフィリアの頬をそっと包み込む。
触れ合う温もりに導かれるように、水色の瞳が近づき、翡翠色の瞳が閉じられる。
春風が二人の頰をそっと撫で、花の香りが淡く漂った。
唇が触れたのは一瞬だったのに、胸の奥まで熱が広がっていく。
離れた瞬間、テオドールが小さく囁いた。
「……もう、離れません」
その言葉に見つめ合うと、テオドールは愛しそうに微笑み、フィリアの額にそっと唇を寄せた。
遠くでは小鳥がさえずり、花々が春の陽を浴びて揺れている。
もう、この胸の中が空になることはない──そう思うだけで、世界はこんなにも温かい。
これからは、泣いてばかりじゃなくて……彼と一瞬に、笑って歩いていける──
フィリアが再びその胸に頬を寄せると、彼女を包む腕の力が強くなった。その温もりに体を預けて微笑む。
二人を包む春の風が、森の奥から柔らかな香りを運んでくる。
ふたりの新しい季節が、静かに始まろうとしていた──
──再び巡り合った温もり。
涙の果てに待っていたのは、かけがえのない日常と、共に歩む未来。
傷つき、失い、そして取り戻したふたりの物語は、ここでひとつの終焉を迎える。
けれど、それは終わりではなく──新しい始まりの鐘の音。
次回、エピローグ「君を想い続ける日々」
いまここにある幸せと、未来へと続く希望の物語。




