第三十四話 精霊樹
⚠ 本話は最終話直前の重要な展開を含みます。
初めての方や、まだ序盤から読まれる方はご注意ください。
精霊の森を抜けて辿り着いたその場所は、フィリアの想像とは全く違っていた。
──精霊の森の奥に守られた、精霊樹……。
長きに渡りこの大陸を守ってきたと伝えられている、その神聖な姿は感じられなかった。
黒ずんだ幹からは精霊の気配は感じられず、禍々しい気が纏わりつく大樹が静かに目の前に佇んでいるだけだった。
フィリアが語りかけても精霊樹からの返事はなく、その葉を揺らすこともなかった。
まるで、眠っているかのように──
(……どうしてしまったの……? ここにも、あの黒いものが……?)
フィリアは不安げに胸元で手を握りしめる。
そのときだった、黒ずんだ精霊樹の葉が不自然に揺れ、幹の後ろから黒い影が姿を現す。
「……っ!?」
「フィリア、下がっていてください」
テオドールがフィリアを庇うように前に進み出た。
そこにいたのは、人のような──否、人型の魔物のような“黒い何か”だった。全身を覆う黒ずんだ葉がざわめくたびに、湿った腐臭のような匂いが漂った。あたりの空気が淀み、肺に冷たい泥を流し込まれるような息苦しさが広がっていく。
その“影”が一歩進み出すたびに、森全体がざわめき、逃げ場を失ったような圧迫感が覆い被さってくる。
そして、顔らしき部分の黒い葉の隙間からは赤い目が爛々と光り、こちらを見つめていた。
(怖い……どうして、精霊樹にこんな魔物が? 精霊樹の声も全く聴こえない……ううん、精霊樹だけじゃない……他の精霊たちとも話ができないわ……)
「クロリス……?」
返事がない。
気付けば、さっきまで肩に座っていたはずのクロリスも姿を消しており、フィリアの背筋を冷たい汗が流れる。
『お前たちは誰だ? 何をしに来た……お前、その服装は……神殿の……』
低く響いたその声は、ひどく枯れていた。テオドールの纏う神官装束に目を留め、憎悪に満ちた目が彼を睨みつける。
「……精霊樹に、何をしたのですか?」
テオドールは臆する様子もなく、淡々と話しかける。
『力を奪ってやった……お前たち神殿を……この世界を、滅ぼすために』
低く紡がれたその言葉に、フィリアが息を呑んだ。震える足で、テオドールの隣に進み出る。
「やめて……どうして、そんなことをするの? ……あなたは、魔物なの?」
『魔物? 違う……私は、神殿に造られた──失敗作として廃棄された、人造人間……』
刹那、テオドールの瞳が大きく揺らいだ。
(神殿が……そんなことを……?)
フィリアは、予想外の答えに声を詰まらせていた。胸の奥に冷たいものが落ちていく。
そんな理不尽が許されるのかと、怒りにも似た感情がフィリアの中で燃え上がった。けれどそれ以上に、枯れた声に滲む悲しみが痛くて、胸が締め付けられる。
フィリアは、震える声で尚も問いかける。
「神殿が造った、ホムン、クルス? ……それは何? どうして、廃棄されたの?」
『精霊樹の楔にするために、ここの土から造り出したと言われた……捨てられたのは……醜かったからだ……』
そのとき、大きな風が吹いて精霊樹を揺らした。生気の感じられない黒ずんだ葉が舞い散る中、沈黙が流れる。
「ひどい……そんな理由で、捨てるなんて……」
ぽつりと響いたフィリアの言葉に、魔物の赤い瞳が少しだけ揺らいだ。
そのとき、フィリアを背に庇うようにして、テオドールが魔物に近付いた。
「精霊樹の力を奪うのは、やめてもらえませんか?」
『お前、神殿の……お前たちが、身勝手に私を造り出し、“醜いから”と捨てた……許さない……絶対に……』
魔物の身体から伸びた黒い蔓が、テオドールに襲いかかった。
彼はそれをひらりと躱すと、杖に風を纏わせて蔓を断ち切る──。
だが、またすぐに再生した蔓が襲いかかってきた。
「……フィリア、ここは危険ですから、森に戻って待っていてください!」
背中越しに掛けられたテオドールの言葉に、フィリアが首を振って口を開く。
「そんなこと、できるわけ──」
「ここにいられたら迷惑なんですよ! ……あなたは、足手まといだ……」
冷たく響いたその言葉に、フィリアの翡翠色の瞳が見開かれる。テオドールはすぐに顔を逸らして、再びフィリアに背を向ける。
──そのときだった。
『……逃がさない』
魔物がそう呟いたかと思うと、フィリア目掛けて魔物の蔓がいくつも伸ばされる。
「フィリア!」
テオドールが叫んだ。
一瞬で黒い蔓に絡め取られたフィリアが、宙に浮き上がった。その口には、声を塞ぐように黒い蔓が巻き付いている。
テオドールが地面を蹴って飛び上がると、杖を振るってその蔓を一気に断ち切っていく。
黒い蔓の戒めから解放されたフィリアの体が宙へと投げ出された。
杖を捨てたテオドールが、必死に手を伸ばす──
「──っ!」
地面に落ちたフィリアを受け止めたのは、青々とした草花の茂みだった。
「クロリス……!?」
『助けてあげられなくて、ごめんね……ここ、おかしいの……』
精霊の姿を取ったクロリスが、フィリアを庇うように立っていた。
だが、その表情はひどく苦しそうで、声も震えていた。
『手に入らないなら……』
「──!?」
魔物の蔓が、再びフィリアへと襲いかかった。黒い蔓がうねるたび、地面を這う音が耳の奥に纏わりつく。
フィリアは足が凍りついたように動かず、喉の奥からは声も出なかった。
ただ、迫りくる黒い影に飲み込まれる未来だけが、目の前に突きつけられているようで──。
『フィリア!』
クロリスが、フィリアを守るために草花の盾を造り出す。
『だめ……わたしの力じゃ……』
苦しそうなクロリスの声。
フィリアは、襲い掛かる黒い蔓に足が竦んで何も出来ず、座り込むことしか出来ない。
テオドールが杖を振るい、風の刃がいくつも放たれるも、数が多すぎて防ぎきれない──
『フィリア、逃げて──!』
叫んだクロリスが花弁を散らして姿を消すのと同時に、草花の盾を貫いた魔物の蔓が、フィリアへと伸びる。
フィリアは覚悟するように、目蓋をきつく閉じた。
(…………?)
痛みは、ない。
捕らえられても、いない。
ゆっくりと開かれた翡翠の瞳に映し出されたのは、テオドールの顔だった。
「怪我は……ありませんか?」
「テオ……?」
安堵した表情で、テオドールは微笑んだ。
「無事のようですね、良かった……」
優しい声にふと視線を落としたフィリアの喉が、ひゅっと変な音を立てた。
「テオ……胸に……」
彼の左胸を、黒い蔓が深く貫いていた。
「どう、しよう……わたしの、せいで……」
声が震え、翡翠の瞳からは大粒の涙がいくつも溢れ出す。
「フィリア……泣かないでください」
「大丈夫ですよ」と微笑むテオドールに、フィリアは泣きながら首を振る。
「だって、胸に……──えっ……?」
しかし、見開かれた翡翠の瞳に映ったのは、あまりにも静かな光景だった。
彼の纏う真っ白な神官服は、穢れひとつなく、凛としたままで──
フィリアの瞳が震えた。
(どうして……血が出ていないの……?)
理解できない現実が、彼女の胸を襲った。
確かに黒い蔓が背後から胸を貫いているのに──そこには滲むはずの血も、何も、存在していなかった。
黒き異形と刃を交えるテオドール。
ふたりの命を削るような戦いの果てに、フィリアの瞳に映るのは──
隠されてきた真実が、ついに扉を開く。
次回、第三十五話「明かされた真実」
紡がれた絆が、真実を照らし出す。




