第三十三話 すれ違う想い
吐く息は白く、冷たい風が凍りついた大地を撫でていく。
一行は、深い精霊の森を黙々と進んでいた。
冷たい空気の中でも葉を纏う木々は天を覆うように枝を広げ、淡い光が木漏れ日となって降り注いでいる。けれど、そこに宿るはずの精霊の気配はなく、森はどこか死んだように静まり返っていた。
ただ冷気だけが肌を刺し、歩みを重くする。
フィリアはテオドールを見つめた。
彼は無言のまま少し先を歩き、背中を向けたまま振り返ることはない。
少し前まで、隣に寄り添ってくれていた優しい微笑みも、ふと触れる温もりも、まるで幻のように遠ざかっていた。
「……テオ……」
小さく呼んでみる。
けれどその声は冷え切った森に吸い込まれ、彼の耳に届いた気配はない。
胸の奥にぽたりと落ちた不安は、広がる波紋のように彼女の心を揺らしていった。
(どうして……どうして、こんなに遠いの……? この間までは、いつも傍にいてくれたのに……)
心の中で呟きながらも、言葉にはできない。
フィリアは唇を噛むと、潤んだ瞳を隠し、必死に涙を堪えた。
凍える寒さの中、歩き続ける足取りがふと揺らぐたび、胸の奥の寂しさが彼女を締め付けていく。
『フィリア……』
クロリスが羽を揺らして頬に寄り添う。
その小さな体は温もりを分けるように彼女に寄り添い、心配そうな瞳を向けていた。
フィリアは微笑もうとしたが、頬が強ばり、言葉は震えていた。
「……大丈夫よ……ありがとう、クロリス」
歩みを進めながらも、フィリアの心は落ち着かなかった。
彼の背中がこんなにも遠く見えるのは初めてで、胸の奥に冷たい空洞が広がっていく。
伸ばしたい手をぎゅっと握り締め、指先に爪が食い込む。声を掛けたいのに掛けられず、言葉を飲み込むたびに喉が痛んだ。
(もし、彼に嫌われてしまったら──嫌われたから、避けられてるの……?)
不安は、冬の森よりも冷たくフィリアの心を締め付ける。
視線の先にある遠い背中を見つめる。手が届かない、この距離が余計に苦しい。
彼が自分が知らない何かを抱えているのかもしれないと思っても、それに触れられないことがこんなに辛いなんて──。
フィリアは、テオドールの背中に声を掛けたいのに掛けられなかった。どんな言葉を選んでも、彼の背中は遠くなるような気がして……。
すぐそばにいるのに、彼の心は手の届かぬ場所へ行ってしまったようだった。
翡翠の瞳は、潤んで光を帯びている。
隠そうとすればするほど、悲しさは表情の隙間から零れ落ちてしまう。
一方、先頭を歩くテオドールもまた、胸の奥で押し殺した感情に苛まれていた。
ふいに振り返ったテオドールの目が、フィリアの瞳を捉えた。
一瞬、彼の足が止まる。
滲む涙、悲しみに沈む翡翠の瞳──それは刃のように彼の胸を抉った。
(フィリア……泣かないで……)
声に出せない。
彼女を見つめることもできず、テオドールは苦しげに瞼を伏せた。
フィリアの涙を見た時、心臟を握り潰されたように胸が痛んだ。握りしめた拳が震えている。強く爪が掌に食い込む。
だが、そんな些細な痛みなど、テオドールにはどうでも良かった。
(私が……彼女を苦しめている。あの笑顔を曇らせてしまったのは、私だ……でも、もう寄り添うことはできない……)
彼女に触れたい。その涙を拭って、抱きしめたい──
けれど、彼はその衝動を必死に押し殺し、ただ遠ざかることを選ぶしかなかった。
迷いは胸の奥で渦を巻き、彼の心を一層硬く閉ざしていく。
彼女を大切に思えば思うほど、手を伸ばせなくなる。その矛盾が、彼を苦しめ続けていた。
クロリスは二人の間を見比べ、小さな胸を痛めていた。
あの夜、口にした“番”という言葉が、彼を縛ってしまったのではないか──それで、テオドールは距離を取るようになり、フィリアは胸を痛めている。
そう考えると、心が潰れそうだった。
(どうしたら、ふたりを……元に戻せるの……?)
けれど今の彼女には、ただ羽を揺らしてフィリアに寄り添い、見守ることしかできない。
沈黙は、冷え切った森にいっそうの寒さを呼び込んでいた。
吐く息の白さだけが、確かに彼らがここに生きている証のように、淡く揺れて消えていった。
* * *
冷たい風が木々を揺らし、雪混じりの白い欠片が舞い落ちる。
一行は沈黙のまま歩き続けていた。
やがて森の奥、視界を覆うように巨大な樹がそびえ立つのが見えた。
幹は何人もの大人が手を繋いでも抱えきれぬほど太く、枝葉は冬の寒さをものともせずに深緑を湛えている。
しかしその表面には黒い染みのようなものが広がり、樹皮は所々にひび割れを抱えていた。
──精霊樹。
伝承に語られた聖なる樹が、静かにそこに佇んでいた。
けれどその姿は、何かに蝕まれ、長い眠りと呪いに囚われているかのように痛々しかった。
足を止めた一行は言葉を失い、ただその異様な光景に見入るしかなかった。
そして、胸の奥に重く沈む不安を抱えたまま──彼らは、真実へと繋がる扉の前に立ったのだった。
神聖な輝きを失った精霊樹──静寂を破るように、黒き影が蠢き出す。その瞳には理性の光はなく、ただ禍々しい気配だけが漂っていた。
恐怖と困惑に包まれる一行。
そして、ある名が語られるとき──隠されていた真実が、少しずつ顔を覗かせていく。
次回、第三十四話「精霊樹」
精霊樹に巣食う影が、ふたりの行方を揺るがす──




