第三十二話 精霊の森へ
季節は、いつしか冬へと移り変わっていた。
吐く息は白く、枯れ草を覆う霜が陽を受けてきらめいている。凛とした冷気が辺りを満たし、街道の先には濃く茂る深緑の森が横たわっていた。
けれどその一方で、隣を歩むはずのテオドールの背中は遠く、距離を感じてしまう。
昨夜まではあんなに近くにいたのに……その変化に、フィリアの胸は小さくざわめいていた。
「……テオ?」
呼びかけても、彼は少し歩調を早めただけで、振り返ることはなかった。
フィリアは胸の奥に小さな棘を覚え、思わず足を止める。
『フィリア、大丈夫?』
クロリスが心配そうに覗き込む。フィリアは微笑んで頷いたが、その表情には戸惑いが隠せなかった。
* * *
精霊の森に辿り着いた一行は、その聖域へと静かに足を踏み入れる。
樹々が枝を寄せ合い、差し込む光は淡い緑を帯びて揺らめいている。冷たい空気の中に、不思議な清らかさがあった。
だが、踏み込んだ森は、まるで時の流れを閉ざしたように静まり返っていた。 枝葉を渡るはずの小鳥の声も、地を駆ける小動物の気配もない。
ただ冷え切った風が幹の隙間をすり抜ける音だけが響き、自然豊かな聖域であるはずの地はどこか異様に沈んでいた。
フィリアは胸の奥をひやりと撫でられるような感覚に思わず肩を震わせる。
──精霊たちの森なのに、どうして、こんなに……。
答えのない問いが、心の中でじわりと広がっていった。
『精霊の気配がしないわ……』
クロリスがぶるりと羽を縮こませた。フィリアも、冬のせいだけではない“寒さ”に身を震わせる。
視線の先で、遠くなってしまった背中が不意に止まり、思わず声を掛ける。
「……テオ?」
少し離れて先頭を歩いていたテオドールが、木々の間で立ち尽くしている。頭に手を当てたかと思うと、ぐらりとその体が傾いた。
「テオ……!」
慌てて駆け寄ったフィリアがその体を支える。だが彼の力は抜け、次の瞬間には倒れ込んでいた。フィリアの力では支えきれず、そのまま地面へと崩れ落ちる。
白い瞼は閉じられて、冷や汗がこめかみを伝い、呼吸も浅い。
『テオドール!? しっかりして!』
飛んできたクロリスが、羽音を立てて慌てる。
フィリアは震える手で彼の頬に触れた。温もりはかすかにある──けれど、恐ろしいほど冷たい。
──どうして? この森のせいなの?
「お願い……目を開けて……!」
フィリアの声は、凍える森に吸い込まれていった。
* * *
──闇。
意識が浮上した時、テオドールは暗い石造りの回廊に立っていた。
背後からは冷たい視線。振り返れば、複数の神官たちが取り囲み、忌々しげに睨みつけていた。
「何と醜い……!」
「これほど汚らわしいものが、精霊樹様の楔になどなれるものか」
「こんなもの、神殿に置いておけぬ。早く処分せよ……」
言葉は次々と突き刺さり、胸を締め付ける。
その瞳は氷のように冷たく、吐き捨てるような声音には憐れみすらない。
──悲しい。
──悔しい。
それは自分の感情ではない。だが確かに、誰かの絶望と憎悪が心に流れ込んでくる。
まるで、他人の記憶を無理やり覗かされているかのようだった。
(これは……一体……? こんな記憶、私は知らない……)
思考が渦を巻く。名もない声が闇の奥で木霊する。
『捨てられた……醜いと……身勝手に生み出され、誰にも望まれず……』
どこからか響いたその声に、テオドールは息を呑んだ。彼は、身動きもできないまま、足元の暗闇に呑み込まれていった。
* * *
「テオ……! お願い、目を開けて!」
涙声が耳に届き、テオドールはうっすらと瞼を開いた。
視界に映ったのは、涙を滲ませて必死に覗き込むフィリアの姿だった。
「……フィリア……?」
掠れた声で名を呼ぶと、彼女は安堵したように微笑んだ。翡翠の瞳が涙が零れ落ちる。
(フィリア……泣かせてしまった……)
瞳を伏せて、上体を起こそうとするテオドール。おずおずと伸ばされたフィリアの手をそっと制した。
「大丈夫です。……少し疲れただけですから」
テオドールは微笑んでみせたが、その声には以前のような淡白さが混じっていた。
フィリアは手を握ったまま離さずにいたが──やがて、彼はそっと指をほどいた。
「……もう、平気ですから」
明らかな拒絶ではない。だが確かに、距離を置くような眼差しや仕草。
フィリアの胸が痛んだ。昨夜までの彼の温もりが、幻のように遠のいていくように感じた。
* * *
その夜。
焚き火の揺らめきを前にしても、フィリアの胸には落ち着かぬ想いが広がっていた。
何かを隠しているような彼の瞳──触れようとすると拒むように逸らされる横顔。
(……どうして……? 何があったの……?)
ふと、ミルディナの町長の言葉が蘇る。
──精霊樹に愛された女性から生まれた、特別な存在。そして、癒しの力を持つ、“精霊樹の化身”の伝承。
(まさか……テオが……?)
そんなはずはない……。けれど、この森に入ってからの彼の変化、先ほどの倒れ方──全てが疑念を呼び覚ましていた。
夜空には、凍てつく冬の星々が冴え冴えと瞬いていた。 けれどその美しさも、彼女の胸を満たす不安を拭うことはできない。
焚き火の向こうでいつも見守ってくれていた彼は、今は背を向け、言葉少なに横たわっている。
すぐそばにいるのに、遠くへ行ってしまったような距離感。胸の奥にじわじわと広がる寂しさを抱きしめながら、フィリアは凍りつく空気を吸い込み、涙の滲む瞳で瞬く星を仰いだ。
それは、答えを求める祈りにも似ていた。
こうして、一行の旅路は精霊の森という聖域の中で、思わぬすれ違いと不安を抱えたまま進み始めた──
──近づいたと思えば、遠ざかってしまう心。
森の静寂の中、互いの想いはすれ違い、届かぬままに揺れ動く。
次回、第三十三話「すれ違う想い」
迷いの先にある答えを、まだ二人は知らない。




