第一話 精霊師の少女
【第一章のあらすじ】
静かな村で暮らす精霊師の少女フィリアは、神殿からの依頼で青年神官テオドールと出会う。
失われつつある精霊たちの声を探すため、二人と妖精一匹の旅が始まる──。
初めて見る景色、交わす言葉、小さな出来事の積み重ねが、ゆっくりと心を変えていく。
春風とともに、その道は水の都ネレイダへと続いていく……。
その村は、やわらかい風と花の香りに守られていた──
穏やかな陽光が差し込む、深い森の中。アルティシア大陸の西の果て、森に抱かれた小さな村グラーデ。
そこは古くから、精霊たちに愛され、守られてきた土地だった。
「フィリアちゃん! この間の薬草、よく効いたよ! いつもありがとうね!」
小さな子どもをおぶった、気風の良い女性が塀の向こうを駆けてくる少女──フィリアへと声を掛ける。
「それは良かったです! こちらこそいつもありがとうございます。ぜひまたお願いしますね!」
立ち止まって笑顔を返したのは、ゆるやかに波打つ栗色の髪と、澄んだ翡翠色の大きな瞳を持つ愛らしい少女だった。
『ね、言ったとおり効いたでしょ?』
いつの間にか現れてフィリアに囁いたのは、緑色の蝶──否、緑色の髪と蝶のような羽を持つ妖精だった。小さな体に瑞々しい若葉の衣を纏っている。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
フィリアが耳元で囁いた妖精にお礼を告げると、女性がきょとんとした表情を浮かべる。
「……あら? ……フィリアちゃん、また見えないお客さん?」
「ええ、ちょっとだけ」
フィリアは笑って肩をすくめた。
その周りを楽しそうに飛び回っている小さな妖精の姿も声も、村の人々には見えないし、聴こえない。
フィリアは女性にお辞儀をしてまた駆け出すと、森の方へと向かっていく。
少し走ると見えてきたのは、森の入り口にある茶色の屋根の可愛らしい家。
家をぐるりと囲む、木で作られた低い塀の中には、美しい春の花々やハーブ類が豊かに茂っている。
「ただいま! ……って、誰も、いないけど……」
『わたしがいるでしょう?』
フィリアの言葉に、不思議な響きの愛らしい声が響く。
茶色のドアを閉めてひとり立ち尽くしていたフィリアの眼前に、ふわりと淡い光が灯る。
光の中から姿を現したのは、少女の手のひらに乗るくらいの大きさで、背中には透き通る薄紫の蝶のような羽を持つ妖精だった。
薄桃色や淡い紫の花びらのドレスを纏い、波打つ金色の長い髪には、小さなスミレの花冠が飾られている。
少女を見つめる紫水晶の瞳は、窓から差し込むやわらかな光を受けて淡くきらめき、まるで夜明け前の星空のようだった。
「クロリス……ありがとう、あなたがいるわね」
『そうよ! わたしは、あなたが生まれたときからずっとそばにいるんですからね』
そう言って、花のように可憐な妖精──クロリスは少女の手のひらの上に乗って、胸を張ってみせた。
くすりと笑うフィリアに、クロリスも微笑み返す。
「おばあちゃんもいなくなって、もう二年が経つのよね……」
そう呟いたフィリアは、どことなくがらんとしている家の中を見回す。
本棚の上には、花瓶の横に小さな絵が飾ってある。描いてあるのは、笑顔の幼い少女とまだ若い男女、そして中年頃の優しそうな女性……。
フィリアは、憂いを帯びた瞳でその絵を見つめていた。
『フィリアも十七歳になるんだから、そろそろ番を探す年よね……』
「番って!? ……まだ、早いわ」
フィリアは少し頬を染めて、クロリスから視線を逸らした。
『早くないわよ! 人間はそのくらいで番を見つけて、しばらくしたら結婚するでしょ?』
「番って言わないでよ……仕方ないでしょ、そういうの、よくわからないんだもの……」
小さい声で呟くように言ったフィリアに、クロリスは笑いかけた。
『恋って、すごく素敵なものよ』
「……そうなの?」
そんな会話をしながら、フィリアはハーブティーを淹れ始める。
小さな木製のテーブルには、フィリアが使うらしい花柄のティーカップと、ままごと用だろうか、ひどく可愛らしいサイズのカップが並んでいる。
フィリアはふたつのカップにハーブティーをそっと注ぎ、隣に並べた小皿に小さなビスケットを乗せる。
その様子を眺めていたクロリスはそっとテーブルに降り立つと、カップのそばに近付いた。
『フィリア、ありがとう』
『いただきます』とその脇にちょこんと座ると、妖精には大きなビスケットに齧りついた。
『それで、今日は何があったの?』
ビスケットを頬張りながらそう言って、小さなカップでハーブティーを啜るクロリス。
一呼吸おいて、フィリアが「そうだった!」と声を上げた。
「神殿から依頼が来たのよ! ……何でも、精霊に纏わる土地で異常現象が起きていて、その調査と解決のために精霊師として力を貸して欲しいって……わたし、中央神殿に──アルセナに行くことにしたわ」
『そう、決めたのね…』
「だって、おばあちゃんなら絶対に行くでしょう? わたしも、困っている人たちを……精霊たちを放ってはおけないわ」
(わたしも、立派な精霊師だったおばあちゃんみたいに、たくさんの人や、精霊たちの役に立ちたい……)
その翡翠色の瞳には、強い決意が宿っていた──
フィリアの視線を辿って、クロリスも本棚の上の絵を見つめる。
『そうね……オリーブもわたしたちのこと、大切にしてくれてたものね』
クロリスの言葉に、フィリアは柔らかく笑みを浮かべた。
『それで、いつ出発するの?』
「すぐに返事を出したから、一週間後には神殿から迎えが来ると思うわ」
『アルセナは随分遠いわよね……じゃあ、わたしもシルヴィアさまにご挨拶してくるわ!』
そう言って、クロリスはカップをそっと置いて立ち上がった。
「えっ……もしかして、クロリスも一緒に来てくれるの?」
『当たり前でしょう? フィリアのことは、わたしが守ってあげないと』
「もう、子どもじゃないわ……」
『まだまだ、わたしからしたら子どもよ! 旅の支度も急がなきゃね!』
『旅の装いはどうしようかしら……』と小首を傾げるクロリス。
「でも……シルヴィア様は、何て仰るか……」
『大丈夫よ! シルヴィアさまは、フィリアが生まれるずっとずーっと昔から、この森とグラーデの村を守ってきてくださったお方だもの……フィリアのことも、きっと応援してくださるわ』
『じゃあ、行ってくるわね』と微笑んで、クロリスは開いた窓辺に向かってふわりと飛び上がると姿を消した。
「ありがとう、クロリス……わたしも、シルヴィア様や村の皆にご挨拶しないといけないわね……」
窓辺に向かってそう呟いたフィリアは、静かに玄関の扉を開いた。
* * *
──その日の夕暮れ、村人たちへの挨拶を終えたフィリアは、森の奥にある美しい大樹の元を訪れていた。
淡い光に包まれた大樹の根元に立っていたのは、銀色の髪の美しい女性だった。
絹糸のような長い髪は淡い風に揺れ、その背にある朝露を透かした白い蝶のような羽が、夕陽を透かして淡く煌めいていた。
『……ごきげんよう、フィリア。クロリスから聞いています……もうすぐ、旅立つのですね』
静かに微笑む彼女は、森の精霊たちの長、グラーデ森の大樹の精霊シルヴィア。古くからこの地で、森と村の調和を長く見守ってきた。
「はい……中央神殿からの依頼で、精霊たちの異変を調べに行ってきます」
そう答えたフィリアに、シルヴィアはそっと右手を伸ばし、額に触れる。
『あなたの旅が、精霊たちにとって癒しの風となりますように……どうか、心の声を見失わぬようにね』
透き通る声が、柔らかなそよ風のようにあたりに広がる。
フィリアは小さく頷くと、シルヴィアの手に自分の手を重ねた。
「……行ってきます。必ず、無事に帰ってきますね」
『ええ。あなたは、森が愛する子……どこにいても、その声は届くでしょう……困ったときは、いつでも頼って良いのですよ』
シルヴィアがそう言って微笑むと、柔らかな風がそっと吹き抜け、大樹の葉を優しく揺らした。
大樹の葉擦れの音が、まるで見えない精霊たちの祝福の歌のように響いていた。
* * *
──そして、一週間後……。
『……あら? 誰か、来たみたいよ』
クロリスの声にフィリアが玄関を振り返ったそのとき─
静かな朝に、扉を叩く音が響いた──それは、新たな旅の始まりを告げる合図だった。
開いた扉の向こうに立っていたのは、神殿の白い外套に身を包んだ若い女性の神官だった。
優しげな目元に、わずかに緊張を滲ませながら深く一礼する。
「フィリア・フローレンス様ですね。中央神殿より、お迎えに参りました」
その声は、まだ静かな朝の空気を震わせた。
次回は、第二話「神官との出会い」
招かれたアルセナの中央神殿で依頼を受けるフィリア。そして、彼女にとって運命の出会いが──