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精霊樹の眠る場所で、君を想う  作者: 星谷明里
第五章 風車の谷リュンデル ―止まった風と灯される願い―
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第二十七話 それぞれの想い

 夜が明け、谷の上空には薄い雲が広がっていた。

 風は止まったまま、重たい沈黙が石壁にまとわりつく。けれど昨日とは違って、人々の顔にはわずかな希望が宿っていた。

 風車に布を結び直した指、風鈴を磨いた掌の余韻──古くから伝わる歌が囁きとなって残り、村の空気を柔らかくしていたのだ。


 フィリアは社の前に立ち、胸の奥にあるざわめきに耳を澄ませた。

 昨夜確かめた谷底の影。あの黒い気配は、まだ眠っている──けれど、決して消えてはいない。今日、必ず向き合わなければならない。


「……フィリア、本当にやるつもりなんですね」


 背後から聞こえた低い声に振り向けば、テオドールが杖を握りしめていた。水色の瞳には迷いと決意が同居している。


「はい。このままでは、アエリオス様はずっと声を失ったままです。……黒いものを祓って、風の道を開きましょう」


 言葉に迷いはなかった。だが、胸の奥には微かな恐れがある。

 ──あの時のように、また倒れてしまったら。

 ミルディナで三柱を喚んだ日の記憶が脳裏をよぎる。意識が途絶え、目を覚ました時のテオドールの顔。クロリスから、テオドールは目覚めるまで一睡もしていなかったと聞いた。

 フィリアが目覚めてから体調が落ち着くまで、いつも心配そうに見つめていた瞳を、もう二度と曇らせたくはなかった。


 クロリスが肩に舞い降り、薄紫の翅をふるわせる。


『無茶はしないでよ……三柱も呼んだら前みたいに倒れるかもしれないわ』

「フィリア……」


 クロリスとテオドールの心配そうな声音に、フィリアは静かに微笑んだ。


「今回は、二柱にします……地を整えるテルミナ様と、水のエルヴィーラ様……あの谷底に絡む黒いものを削ぎ落とすには、この二柱の力が必要です」


 テオドールは拳を握りしばし黙って彼女を見つめた。それから、小さく息を吐いた。


「わかりました……私も全力を尽くします。決して、無理はしないと約束してください」


 フィリアは微笑んで頷き、社の前に膝をついた。両手を胸に重ね、瞼を閉じる。


(アエリオス様、今から、精霊たちの力を借ります……必ず、この谷に風を取り戻しましょう)


 そっと開かれた翡翠の瞳は、決意の光を灯していた。

 

* * *


 フィリアたちが、谷奥へ向かう階段を慎重に降りていくと、薄暗い谷底から、禍々しい黒い風が漂ってくるようだった。その気配に、クロリスとテオドールが表情を険しくする。


「フィリア、これ以上進むのは危険です」


 谷奥へ進むと、地面に墨のような黒い靄が滲む割れ目を見つけ、テオドールが立ち止まる。


(絶対に、風を取り戻す……!)


 フィリアは静かに頷いて、その場に跪いた。


「ネレイダの水の精霊エルヴィーラ様……ミルディナの地の精霊テルミナ様……どうか、この谷に風を取り戻すために力をお貸しください」


 フィリアの澄んだ声が、無風の空へと広がった。


 やがて、水の滴る音が響く。一粒の雫が落ちたかと思うと、フィリアたちの前に澄んだ泉が湧き出した。

 水は小川のように弧を描き、空へ舞い上がる。光を孕んだ飛沫が宝石のようにきらめき、その中から静かな影が姿を取る。

 透き通る水色の髪は流れる水そのもので、瞳は深い湖底を覗き込んだような静けさをたたえていた。

 一歩踏み出すたびに滴が溢れ、足元へ小さな波紋を残す。やがてその声が、谷全体に水音となって響いた。


「フィリア……また呼んでくれたのですね。この地のために水の力を貸しましょう」


 続いて、大地が震え、エルヴィーラの左側の地面に花崗岩のような光が走る。そこから深い影が立ち上がり、地の精霊テルミナが姿を現した。黄金色の豊かな髪は波打ち、優しい土色の瞳でフィリアを見下ろす。


「あなたの声、ミルディナの大地に届きましたよ。……私の力も貸しましょう」


 クロリスもまた精霊の姿に変じ、花弁を散らすように空へ舞い上がった。三柱の精霊が揃い、風のない谷底を清らかな光が照らす。


 フィリアは立ち上がり、ひび割れから滲む黒い瘴気を見つめた。


* * *


 亀裂の奥からは、粘つくような黒い靄が流れ出ている。昨日よりも濃く、まるで獲物を待ち構える獣の吐息のようだった。

 無数の黒い触手が絡み合い、獣の顎のように口を開き、耳を裂く唸りをあげる。

 触れた岩肌は一瞬で灰色に枯れ、草が音もなく萎れていく。

 フィリアの胸に冷たい重さがのしかかり、立っているだけで肺が締め付けられるようだった。


「フィリア様、気をつけてください」


 テオドールが杖を構える。


「来ます……!」


 黒い靄がうねり、触手のように伸びてフィリアへ襲いかかる。瞬間、クロリスの翅から花弁の光が溢れ、毒々しい闇を弾いた。


『油断しないで! 根が深いわ!』


 フィリアは息を整え、精霊たちへ呼びかける。


「エルヴィーラ様、テルミナ様、お願いします!」


「ええ!」


 エルヴィーラが腕を掲げると、清流が奔流となって黒い靄を包み込み、じゅっと音を立てて溶かす。


「大地よ、正しき道を開け!」


 テルミナの掌が崖に触れると、石壁に光の筋が走り、詰まっていた地脈が震えて広がる。


 谷の奥深くから、鈍い振動が足元を伝い、村人たちは顔を見合わせた。誰も谷底の様子は見えなかったが、祈る声だけが広場に満ちていた。


 靄は悲鳴のように震え、暴れ回った。触れた地面を腐らせようとするが、テオドールが祈りの言葉を唱え、風の結界で守る。


「フィリア、今です!」


 フィリアは胸に手を当て、祈りを風へと託す。


「……アエリオス様。風の道を、もう一度……!」


 その瞬間、割れ目から溢れ出していた黒い靄が裂け、崖の奥から白い光が吹き抜けた。

 長く眠らされていた風の道が開かれ、谷の底から村の上空に向かって突風が駆け上がる。


「──あっ!」


 一人の子どもが指を差した。

 最初に揺れたのは、一番小さな風車の羽根だった。

 きしりと音を鳴らし、ゆっくりと半回転する。その音に誘われるように隣の羽根も動き出し、次第に谷全体の風車へと連鎖する。


「……回った!」


 子どもたちの歓声に、母親が泣き笑いしながら抱きしめる。緊張に強張っていた村人たちの顔は安堵に和らぎ、皆涙を流していた。


 羽根の列が一斉に歌い出すように鳴り響き、家々の軒先の布が風を孕んで舞い、磨かれた風鈴が一斉に音を重ねた。

 駆け抜ける風は、乾いた石壁を撫で、草木の葉をざわめかせる。それは誰もが忘れかけていた、懐かしい匂いを運んできた。

 風車が回り始めた音に、人々の胸にはあの粉を挽いた時の甘い小麦の香りが甦った。まだ匂いはしない。けれど、また必ず戻ってくる──その確信が、涙と共に人々の心を満たしていた。


 まるで、長い眠りから村そのものが目を覚ましたかのようだった。


* * *


 黒い靄がすべて消え、谷奥に静けさが戻った。

 フィリアは胸に手を当て、深く息を吐く。


「エルヴィーラ様、テルミナ様……本当に、ありがとうございました」


 深々と頭を下げた彼女の言葉に、エルヴィーラは微笑みを浮かべ、テルミナも穏やかに頷いた。

 その姿は光とともに薄れていき、やがて静かな気配だけを残して還っていった。


 それぞれの地へと還った精霊たちの姿を見送って、フィリアたちは精霊の風車の前に戻ってきた。


『ありがとう……』


 どこからか響いたその声は、音ではなく風そのものだった。頬を撫で、涙を乾かし、耳の奥へ柔らかく入り込んでくる。

 フィリアは胸を熱くし、言葉を紡いだ。


「アエリオス様……この谷の人々は、ずっとあなたを大切に思っていました。誤解で祈りが途絶えてしまいましたが……また、皆で歌を届けてくれます。だから、どうか安心してください」


 フィリアの言葉に風が揺らぎ、頷くように社の鈴を鳴らした。

 空気に溶けるような柔らかな白い風を纏って、風の精霊アエリオスが姿を現した。透き通るような銀青の髪が靡いている。

 穏やかなその眼差しが、フィリアに注がれる。


『ありがとう……この谷に風を取り戻してくれて……村人たちにも、伝えて欲しい。私は怒ってなどいない……また歌と風鈴の音を聴かせてもらえて、嬉しかったと……』


 フィリアは涙を滲ませ、深く頭を垂れた。


「必ず伝えます……皆さん、とても喜ぶと思います」


 アエリオスの眼差しが和らぎ、穏やかな風がフィリアの髪を撫でた。


『それと──あの黒いものは西の方から来た……精霊樹様に、何かが起きているのかもしれない……』


『くれぐれも気を付けるように』と付け加えたアエリオスにフィリアが頭を下げる。


「はい……ありがとうございます」


 しっかりと頷いたフィリアを、アエリオスの優しい眼差しが見つめる。


『この谷を救ってくれて、ありがとう……』


 アエリオスは、フィリアたちに微笑みかけると、風の音を残して消えていった。


* * *


 風車が一斉に回り始める音に誘われるように、村人たちが広場へと駆け寄った。精霊の風車の羽根が軋む音はもうなく、風が布を踊らせ、風鈴を鳴らしている。


「……精霊の風車が動いてるぞ……!」

「精霊師様……アエリオス様!……ありがとうございます!」


 涙を流す老人、抱き合う母子。信じられないように空を仰ぐ若者。子どもが笑いながら布の端を掴み、風に踊らせた。


 村人たちの様子を見ていたフィリアが、アエリオスからの伝言を口にする──その言葉を聞いた途端、村人たちが次々と涙を零した。

 若者は掌で目を覆い、子どもを抱いた母親は声を詰まらせて涙をながす。


「……ずっと、恐れていたのに……」

「アエリオス様は、私たちのことを……」


 村全体を覆っていた罪悪感がほどけていき、涙と嗚咽の中に安堵の微笑みが混じり始めた。


 村人たちは、回る精霊の風車を見上げて次々と歌を紡ぎ始める。皆涙ぐんで声は震えていたが、風がそれを運び、谷に響かせる。


 フィリアはその光景を見守りながら、胸に両手を当てた。クロリスが隣で微笑み、テオドールも静かに頷く。


(アエリオス様……きっと、皆さんの声が届いていますよね)


 風は生きているかのように谷と人びとの間を駆け抜け、止まっていた時間を再び動かしていった。

次回、第二十八話「風車の谷の風祭り」

取り戻した風とともに、優しい灯りが夜空へ。

願いが天へ昇るとき、ふたりの想いもそっと近づく──

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