第二十七話 それぞれの想い
夜が明け、谷の上空には薄い雲が広がっていた。
風は止まったまま、重たい沈黙が石壁にまとわりつく。けれど昨日とは違って、人々の顔にはわずかな希望が宿っていた。
風車に布を結び直した指、風鈴を磨いた掌の余韻──古くから伝わる歌が囁きとなって残り、村の空気を柔らかくしていたのだ。
フィリアは社の前に立ち、胸の奥にあるざわめきに耳を澄ませた。
昨夜確かめた谷底の影。あの黒い気配は、まだ眠っている──けれど、決して消えてはいない。今日、必ず向き合わなければならない。
「……フィリア、本当にやるつもりなんですね」
背後から聞こえた低い声に振り向けば、テオドールが杖を握りしめていた。水色の瞳には迷いと決意が同居している。
「はい。このままでは、アエリオス様はずっと声を失ったままです。……黒いものを祓って、風の道を開きましょう」
言葉に迷いはなかった。だが、胸の奥には微かな恐れがある。
──あの時のように、また倒れてしまったら。
ミルディナで三柱を喚んだ日の記憶が脳裏をよぎる。意識が途絶え、目を覚ました時のテオドールの顔。クロリスから、テオドールは目覚めるまで一睡もしていなかったと聞いた。
フィリアが目覚めてから体調が落ち着くまで、いつも心配そうに見つめていた瞳を、もう二度と曇らせたくはなかった。
クロリスが肩に舞い降り、薄紫の翅をふるわせる。
『無茶はしないでよ……三柱も呼んだら前みたいに倒れるかもしれないわ』
「フィリア……」
クロリスとテオドールの心配そうな声音に、フィリアは静かに微笑んだ。
「今回は、二柱にします……地を整えるテルミナ様と、水のエルヴィーラ様……あの谷底に絡む黒いものを削ぎ落とすには、この二柱の力が必要です」
テオドールは拳を握りしばし黙って彼女を見つめた。それから、小さく息を吐いた。
「わかりました……私も全力を尽くします。決して、無理はしないと約束してください」
フィリアは微笑んで頷き、社の前に膝をついた。両手を胸に重ね、瞼を閉じる。
(アエリオス様、今から、精霊たちの力を借ります……必ず、この谷に風を取り戻しましょう)
そっと開かれた翡翠の瞳は、決意の光を灯していた。
* * *
フィリアたちが、谷奥へ向かう階段を慎重に降りていくと、薄暗い谷底から、禍々しい黒い風が漂ってくるようだった。その気配に、クロリスとテオドールが表情を険しくする。
「フィリア、これ以上進むのは危険です」
谷奥へ進むと、地面に墨のような黒い靄が滲む割れ目を見つけ、テオドールが立ち止まる。
(絶対に、風を取り戻す……!)
フィリアは静かに頷いて、その場に跪いた。
「ネレイダの水の精霊エルヴィーラ様……ミルディナの地の精霊テルミナ様……どうか、この谷に風を取り戻すために力をお貸しください」
フィリアの澄んだ声が、無風の空へと広がった。
やがて、水の滴る音が響く。一粒の雫が落ちたかと思うと、フィリアたちの前に澄んだ泉が湧き出した。
水は小川のように弧を描き、空へ舞い上がる。光を孕んだ飛沫が宝石のようにきらめき、その中から静かな影が姿を取る。
透き通る水色の髪は流れる水そのもので、瞳は深い湖底を覗き込んだような静けさをたたえていた。
一歩踏み出すたびに滴が溢れ、足元へ小さな波紋を残す。やがてその声が、谷全体に水音となって響いた。
「フィリア……また呼んでくれたのですね。この地のために水の力を貸しましょう」
続いて、大地が震え、エルヴィーラの左側の地面に花崗岩のような光が走る。そこから深い影が立ち上がり、地の精霊テルミナが姿を現した。黄金色の豊かな髪は波打ち、優しい土色の瞳でフィリアを見下ろす。
「あなたの声、ミルディナの大地に届きましたよ。……私の力も貸しましょう」
クロリスもまた精霊の姿に変じ、花弁を散らすように空へ舞い上がった。三柱の精霊が揃い、風のない谷底を清らかな光が照らす。
フィリアは立ち上がり、ひび割れから滲む黒い瘴気を見つめた。
* * *
亀裂の奥からは、粘つくような黒い靄が流れ出ている。昨日よりも濃く、まるで獲物を待ち構える獣の吐息のようだった。
無数の黒い触手が絡み合い、獣の顎のように口を開き、耳を裂く唸りをあげる。
触れた岩肌は一瞬で灰色に枯れ、草が音もなく萎れていく。
フィリアの胸に冷たい重さがのしかかり、立っているだけで肺が締め付けられるようだった。
「フィリア様、気をつけてください」
テオドールが杖を構える。
「来ます……!」
黒い靄がうねり、触手のように伸びてフィリアへ襲いかかる。瞬間、クロリスの翅から花弁の光が溢れ、毒々しい闇を弾いた。
『油断しないで! 根が深いわ!』
フィリアは息を整え、精霊たちへ呼びかける。
「エルヴィーラ様、テルミナ様、お願いします!」
「ええ!」
エルヴィーラが腕を掲げると、清流が奔流となって黒い靄を包み込み、じゅっと音を立てて溶かす。
「大地よ、正しき道を開け!」
テルミナの掌が崖に触れると、石壁に光の筋が走り、詰まっていた地脈が震えて広がる。
谷の奥深くから、鈍い振動が足元を伝い、村人たちは顔を見合わせた。誰も谷底の様子は見えなかったが、祈る声だけが広場に満ちていた。
靄は悲鳴のように震え、暴れ回った。触れた地面を腐らせようとするが、テオドールが祈りの言葉を唱え、風の結界で守る。
「フィリア、今です!」
フィリアは胸に手を当て、祈りを風へと託す。
「……アエリオス様。風の道を、もう一度……!」
その瞬間、割れ目から溢れ出していた黒い靄が裂け、崖の奥から白い光が吹き抜けた。
長く眠らされていた風の道が開かれ、谷の底から村の上空に向かって突風が駆け上がる。
「──あっ!」
一人の子どもが指を差した。
最初に揺れたのは、一番小さな風車の羽根だった。
きしりと音を鳴らし、ゆっくりと半回転する。その音に誘われるように隣の羽根も動き出し、次第に谷全体の風車へと連鎖する。
「……回った!」
子どもたちの歓声に、母親が泣き笑いしながら抱きしめる。緊張に強張っていた村人たちの顔は安堵に和らぎ、皆涙を流していた。
羽根の列が一斉に歌い出すように鳴り響き、家々の軒先の布が風を孕んで舞い、磨かれた風鈴が一斉に音を重ねた。
駆け抜ける風は、乾いた石壁を撫で、草木の葉をざわめかせる。それは誰もが忘れかけていた、懐かしい匂いを運んできた。
風車が回り始めた音に、人々の胸にはあの粉を挽いた時の甘い小麦の香りが甦った。まだ匂いはしない。けれど、また必ず戻ってくる──その確信が、涙と共に人々の心を満たしていた。
まるで、長い眠りから村そのものが目を覚ましたかのようだった。
* * *
黒い靄がすべて消え、谷奥に静けさが戻った。
フィリアは胸に手を当て、深く息を吐く。
「エルヴィーラ様、テルミナ様……本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げた彼女の言葉に、エルヴィーラは微笑みを浮かべ、テルミナも穏やかに頷いた。
その姿は光とともに薄れていき、やがて静かな気配だけを残して還っていった。
それぞれの地へと還った精霊たちの姿を見送って、フィリアたちは精霊の風車の前に戻ってきた。
『ありがとう……』
どこからか響いたその声は、音ではなく風そのものだった。頬を撫で、涙を乾かし、耳の奥へ柔らかく入り込んでくる。
フィリアは胸を熱くし、言葉を紡いだ。
「アエリオス様……この谷の人々は、ずっとあなたを大切に思っていました。誤解で祈りが途絶えてしまいましたが……また、皆で歌を届けてくれます。だから、どうか安心してください」
フィリアの言葉に風が揺らぎ、頷くように社の鈴を鳴らした。
空気に溶けるような柔らかな白い風を纏って、風の精霊アエリオスが姿を現した。透き通るような銀青の髪が靡いている。
穏やかなその眼差しが、フィリアに注がれる。
『ありがとう……この谷に風を取り戻してくれて……村人たちにも、伝えて欲しい。私は怒ってなどいない……また歌と風鈴の音を聴かせてもらえて、嬉しかったと……』
フィリアは涙を滲ませ、深く頭を垂れた。
「必ず伝えます……皆さん、とても喜ぶと思います」
アエリオスの眼差しが和らぎ、穏やかな風がフィリアの髪を撫でた。
『それと──あの黒いものは西の方から来た……精霊樹様に、何かが起きているのかもしれない……』
『くれぐれも気を付けるように』と付け加えたアエリオスにフィリアが頭を下げる。
「はい……ありがとうございます」
しっかりと頷いたフィリアを、アエリオスの優しい眼差しが見つめる。
『この谷を救ってくれて、ありがとう……』
アエリオスは、フィリアたちに微笑みかけると、風の音を残して消えていった。
* * *
風車が一斉に回り始める音に誘われるように、村人たちが広場へと駆け寄った。精霊の風車の羽根が軋む音はもうなく、風が布を踊らせ、風鈴を鳴らしている。
「……精霊の風車が動いてるぞ……!」
「精霊師様……アエリオス様!……ありがとうございます!」
涙を流す老人、抱き合う母子。信じられないように空を仰ぐ若者。子どもが笑いながら布の端を掴み、風に踊らせた。
村人たちの様子を見ていたフィリアが、アエリオスからの伝言を口にする──その言葉を聞いた途端、村人たちが次々と涙を零した。
若者は掌で目を覆い、子どもを抱いた母親は声を詰まらせて涙をながす。
「……ずっと、恐れていたのに……」
「アエリオス様は、私たちのことを……」
村全体を覆っていた罪悪感がほどけていき、涙と嗚咽の中に安堵の微笑みが混じり始めた。
村人たちは、回る精霊の風車を見上げて次々と歌を紡ぎ始める。皆涙ぐんで声は震えていたが、風がそれを運び、谷に響かせる。
フィリアはその光景を見守りながら、胸に両手を当てた。クロリスが隣で微笑み、テオドールも静かに頷く。
(アエリオス様……きっと、皆さんの声が届いていますよね)
風は生きているかのように谷と人びとの間を駆け抜け、止まっていた時間を再び動かしていった。
次回、第二十八話「風車の谷の風祭り」
取り戻した風とともに、優しい灯りが夜空へ。
願いが天へ昇るとき、ふたりの想いもそっと近づく──




