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精霊樹の眠る場所で、君を想う  作者: 星谷明里
第五章 風車の谷リュンデル ―止まった風と灯される願い―
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第二十六話 失われた風と祈り

※ 今回は長めのお話です。

 東の谷へ近づくにつれて、空気の匂いが変わっていった。


 草地は途中から途切れ、石や土の地肌があらわになる。低木は風に耐えるよう身を縮め、葉の裏を見せたまま固く沈黙していた。

 なのに──この地の風は吹いていない。耳に届くのは靴裏で砕ける固まった土の音と、遠くで崩れ落ちる砂礫の囁きだけだった。


 やがて視界に入ってきたのは、谷の斜面に点在するいくつもの風車。薄茶の羽根は黒い影を落として動かず、軋む音ひとつ立てない。羽根の根元には風を受けるための帆布が巻き付けられたまま硬くこわばり、陽に焼けて色を失っている。


『……風が、眠ってる……』


 クロリスの紫水晶の瞳が揺れる。

 フィリアは胸の前で両手を重ねて立ち止まり、その背後で足を止めたテオドールは、谷に面した断崖と風車の並びを静かに見渡した。


「これが、リュンデル……風車の村」


 口にした名は、ひどく乾いて聞こえた。


* * *


 村の入口へ向かうと、人影がまばらに行き交っているのが見えた。

 荷車を押す男は音を立てないように歩き、家々の軒先では薄い布が干されているが、風がないから揺れもしない。子どもたちの笑い声はなく、犬でさえあくびを噛み殺している。

 皆、そうやつれてはいないものの、表情は暗く沈んでいた。


「……お客さんかい」


 痩せた体を粗末な外套で包んだ老職人が、風向計の矢羽根を外していた手を止めてこちらを見た。瞳は優しいが、長い不安で疲れている。


「はい。わたしは精霊師のフローレンスで、こちらは中央神殿の神官クレイです……リュンデルに、何が起きたのかを調べに参りました」


「遅くなってしまい、申し訳ありません」と二人が深く頭を下げると、老人は目を瞬き、胸のあたりで布帽子をぎゅっと握りしめた。


「精霊師様……神官様……。春の終わりから風が弱くなって、夏にはとうとう止まっちまいましてねえ……風車が回らねえと粉が引けねえ。井戸も深いんで、風汲みの櫓が止まると水を上げるのも骨だ。村の者は、谷の奥で見つかる鉱石を少しばかり磨いて商いしてますが……先は見えません」


 老人の言葉に、通りがかりの女が抱えた籠を抱き直しながら足を止めた。籠の中には磨かれた小さな石と、風車を象った真鍮の飾りがいくつか入っている。それらの品は、どれも手が覚えている仕事の丁寧さを宿していたが、売れ行きはあまり芳しくないのだろう。女は唇をきゅっと結んだまま会釈し、また早足で去っていった。


 別の若い男が、帆布を肩に担いで近づいてきた。羽根へ張るはずのそれは丸められ、紐で固く結ばれている。


「春先までは、まだ何とか回ってたんだ……けど、暑くなってきたら嘘みたいに風が途切れて、帆を張っても羽根が重くなるばかりで……。理由はわからねえが、アエリオス様が怒っちまったのかと思って……毎月の風祭りも、怖くて、やめちまった」


 男の声は、どこか自分を責める響きを帯びていた。


『……風の精霊、アエリオス』


 クロリスがフィリアの肩で囁く。フィリアは小さく頷き、村の奥──断崖の上に立つ大きな風車へと視線を上げた。風車の基部には簡素な社があるという。そこが、村の祈りの場所なのだ。


「その場所へ、案内していただけますか」


 フィリアがそう言うと、老人は少し迷ってから頷いた。


「案内します……俺たち怖くて……何もできねえから……」


* * *


 断崖に寄り添うように築かれた道は狭く、足元の砂礫がさらさらと鳴る。

 テオドールが先に立って足場を確かめ、フィリアが滑りやすい段差に差しかかるたび、手を差し出した。彼の掌は乾いていて、指先は温かい。その温度に触れるたび、フィリアの胸は少し落ち着いた。


 辿り着いた精霊の風車は、風のない空に向かって聳えていた。

 根元の石垣に囲まれた小さな社の前には、色褪せた布が結ばれ、割れた土器の皿には干からびた香草の残りがわずかにある。風鈴は錆びて音を失い、紐はほつれている。


 祈りの痕跡は確かにそこにあった。けれど、時を止められたように、すべてが静止している。


「アエリオス様……」


 フィリアは社の前に膝をつき、両手を胸に重ねた。そっと瞼を閉じ、この谷の空気と大地の脈動に耳を澄ませる。クロリスも精霊の姿へと移ろい、薄紫の翅を震わせながら、地へ掌を当てた。


(アエリオス様……)


 ──心の中で呼びかけた次の瞬間、胸の奥に冷たい穴が空いたような感覚が走った。


 風が吹き抜けるはずの空間が、どこまでも無音に閉ざされている。

 鳴るはずの涼やかな音が、古くから聴いてきたあの歌が、どこかで引き裂かれて戻ってこない──誰かが、ひどく寂しそうに、遠くに佇んでいる。


 その感情が流れ込んできて、息が詰まった。フィリアの頬に、熱い雫がひとつ流れる。視界が揺れて、地面が涙で滲んだ。


『……フィリア』


 クロリスがそっと頬に寄り添う。翅の端が涙を掬うように触れ、あたたかい。


 後ろから、テオドールの掌が背にそっと添えられた。


「……大丈夫」


 フィリアは息を整え、もう一度、土の奥へ意識を沈める。


 そこで、彼女はそれを感じた。谷の深く──あの、禍々しい黒いものの気配がするのを……。


『ここにも、あの黒いのがいるみたいね……』


 クロリスが地面に鋭い視線を向ける。

 大地に手を付けなくてもわかる──地脈の流れが通るはずの道に、黒いものが絡みつき、この谷の風の通り道を塞いでいる。

 やはり、精霊が怒っているのではない……精霊に力を送る地脈が、塞がれているだけだ。


 感じた寂しさは、アエリオスのものだろう。自分の声が届かない、腕が動かない。谷の人々の嘆きや祈りに応えたくても、何も出来ない。

 そして、風が止んだのは精霊の怒りだと誤解され、風を慕う祭りが──自分へ向けられていた笑顔が畏れへと変わり、大好きだった歌が……すべてが、失われてしまった。

 アエリオスを包んでいるのは、どうしようもない孤独だった。


 フィリアは拳を握った。溢れ出す想いが口の奥で形を取る。


「アエリオス様……わたしたちは、必ず──」


 言葉の先を、風のない空が飲み込んだ。


* * *


 村の集会場は、風車の羽根を模した梁が天井に走る木造りの建物だった。

 人々は不安と希望を胸に集まり、フィリアとテオドールはその前に立った。


「わたしたちは、原因を見つけました……風が止まったのは、アエリオス様が怒ったからではありません。地脈に巣食う黒いものが、風の道を──地脈を塞いでいるんです」


 フィリアの声は静かだが、はっきりと響いた。

 皆、黙ってその声に耳を傾けている。


「この谷の風が止まったのは、この地の精霊の力の源である地脈が塞がれてしまったから……だから、アエリオス様は風を起こせなくなったんです」


 その言葉に、一斉にざわめきが広がる。アエリオスの怒りが原因だと思い込んでいた村人たちは、皆動揺していた。


「風祭りを──精霊への祈りをやめる必要はありません。皆さんの想いは、道を開く力になります……風を呼ぶ歌も、布を結ぶ手も、皆さんと精霊を繋ぐ大切なものなんです」


 前列の女の人が両手を口元に当てて嗚咽をこらえた。「ごめんなさい……」と泣き崩れる声が一人分、二人と重なっていく。


「わたしたちが、何か失礼をしたからだと思って……。アエリオス様に、顔向けできなくて……」


 女性の言葉に、老人が涙で潤んだ目をこすった。


「……わしら、怖かったんじゃ……祀り方を間違えたかと。風祭りを続けることが……止まってしまった精霊の風車を見るのが、怖くて……」


 フィリアは一人ひとりの顔を見渡し、ゆっくりと首を振った。罪悪感から涙を浮かべる村人たちを見つめて、静かに言葉を紡いでいく。


「アエリオス様は、怒っていません……わたしが感じたのは、無力感と、寂しさでした……この谷に、風を吹かせることができない……皆さんの祈りが届かない……その寂しさです」


 人々の間にざわめきが広がる。フィリアが、静かな声で続けた。


「昔から皆さんが紡いできた歌、アエリオス様は大好きだったみたいです……風が止まっているのは、黒いものが風の道を塞いでいるだけ。わたしたちが、また道を開きます。……ですから、そのあいだ、どうか呼びかけを続けてほしいんです」


 フィリアの言葉に、村人たちは皆涙を滲ませ、嗚咽がいくつも聞こえてくる。


「前みたいに賑やかじゃなくてもいい、素朴でいいんです……風鈴を磨いて、綺麗な布を結んで、歌を口ずさむ──それだけで、きっとアエリオス様の力になりますから……』


 そう言って、村人たちと同じように涙を滲ませたフィリアを見て、テオドールが一歩前へ出た。水色の瞳は落ち着いていて、言葉は柔らかい。


「神殿でも、同じ異変を各地で確認しています。黒いものは、精霊の力を借りて地脈を整えれば、必ず消えます……皆さんの信仰は、道を繋ぐ力になります。どうか、自分を責めないでください」


 集会場の後ろから、若い男の声が上がった。


「本当に……また祭りをしていいのか? アエリオス様は怒ってないのか? ……俺たち、誤解して勝手に祭りをやめたのに……」


 男の肩に、隣の婦人がそっと手を置いた。「きっと大丈夫よ」と、震える声で。


 フィリアはうなずいた。


「大丈夫です。間違うことが怖いのは、わたしも同じです……でも、怖いまま手を離してしまったら、ずっと会えないままになってしまう。……怖いなら、一緒にしましょう。わたしたちが、そばにいますから……」


 老人が顔を上げた。その瞳には、かすかな光が灯っている。


「今夜は、風鈴を磨こう。布も、新しく結び直そう……祭りの歌は、皆覚えてるだろう。のう、誰か歌ってくれるか……」


 奥に座っていた年配の女性が、涙を手で拭いながら頷いた。「あたしが歌うよ」と、掠れた声で。


 小さな笑いが、集会場を包んだ。村人たちの顔には、少しの不安と、強い覚悟が刻まれていた。


* * *


 集会所を出ると、建物の軒下に、大きな鮮やかな色の紙が纏めてあるのに気づく。


「綺麗な紙……何に使うのかしら」


 フィリアの呟きに、近くにいた村人が口を開いた。


「あれは、ランタン用の紙なんです……去年までは風があったから、秋の風祭りの夜には、皆でランタンを飛ばしていたんです。けれど、今年は風祭りもやめているから……」

「灯りが夜空を昇っていくと、精霊様に願いが届くと信じられていたんです。子どもたちも、毎年楽しみにしていたのに……」


 黙ってランタンの紙を見つめる子どもの頭を、母親がそっと撫でた。

 その様子を見て、立ち止まった村人たちは、皆淋しげな眼差しでランタンの紙を見つめている。


「そう、だったんですね……」


 フィリアが拳を静かに握りしめた。

 ──必ず、この地に風を取り戻してみせる。そう心に強く誓って……。



* * *


 その日の夕暮れ。村の人々は家々で古い風鈴の錆を落とし、布を洗った。細い指が糸を通し、結び目を作っていく。子どもたちは怖々としながらも、布の端を握って大人のまねをする。笑うと怒られると思っていたのか、最初は皆黙っていた。

 やがて、年配の女性が静かに歌い出すと、子どもたちの口からも、少しずつ歌が紡ぎ出される。

 村のあちこちから歌が聴こえ始め、家々の軒先に、磨かれた風鈴が掛けられていく──


 フィリアは社の前に立ち、社を飾る磨かれた風鈴の列を見上げた。

 風はない。けれど、村人たちの指が風鈴を揺らした涼やかな音が、空へと上がっていく。


「聴こえていますか、アエリオス様……」


 フィリアは跪いて祈りの言葉を捧げ、クロリスはその肩に寄り添っている。

 そして、フィリアたちは社の裏手へ回り、崖の亀裂をひとつひとつ見て歩く。地脈の呼吸がどこで詰まっているか、風がどこで途絶えるか、静かに確かめながら……。


 崖の影の奥、指で触れるほどの細い隙間から、わずかに黒い粉が滲み出ているのを見つけた。クロリスは眉根を寄せ、テオドールが指先で軽く払う。粉は空気に溶けるように消えたが、根は深い。テオドールは杖を握り直し、明日に備えて心を固めた。


* * *


 夜になっても、風は止まっていた。


 けれど、村の空気は昼間よりも少し、柔らかくなっている。

 磨き上げられた風鈴は人の手で揺らされ、小さく音を重ねている。焚き火のまわりや家々からも、古くから続いた風を称える歌が聴こえてくる。

 精霊の風車に布を結ぶ村人たちの指は震えていたが、その震えは、ほんの少しずつ収まっていった。


 フィリアは社に灯された小さな灯火を見つめた。クロリスが肩にもたれて、そっと囁く。


『……皆、顔が明るくなってきたわね』

「うん……きっと、少し光が見えてきたから……」


 その後ろから、テオドールが静かに歩いてくる。


「フィリア、クロリスさん……今日のところは、このくらいにしましょう」


 その言葉には、明日への静かな決意が宿っていた。


「そうね……明日に備えないと」


 フィリアの言葉に少しだけ沈黙すると、彼は短く頷いた。

 ふたりで星のない空を見上げる。雲は厚くはない。なのに、谷は深い井戸の底のように静かで、音の行き場がない。


(黒いものは、この谷のどこに巣食っている……?)


 彼の視線が崖の暗がりに沈む。足元の土は冷たく、どこか遠くで鈍い脈動が伝わってくるような気がした。


* * *


 宿へ向かう帰り道、風車の根元で、老人がひとり布を結んでいた。指は節くれているが、結び目は確かだ。フィリアたちは静かに近づき、声を掛ける。


「お手伝いしても、いいですか?」

「おうよ。……ありがとよ」


 教えてもらいながら、一緒に結んだ布が、羽根の影で揺れた。風は、まだない。けれど、結び目は確かにそこに残る。


「去年まで、春一番の吹く朝に、ここで皆で歌ったもんだ。風に布が踊ってな、鈴が一斉に鳴ってな……」


 老人の声は遠い。フィリアが目を細め、微笑む。


「きっと、次の春は同じように風祭りができますよ……必ず」


 フィリアの言葉に、老人が涙を滲ませて笑った。その笑顔は、ほんの少しだけ、昼の笑いよりも温かかった。


* * *


 夜も更けた。焚き火は小さくなり、人々は家へ戻っていった。社の灯りも弱くなり、谷はまた静けさを取り戻す。


 フィリアは宿の石段に座り、両手を膝の上に重ねている。テオドールは少し離れたところで立ち、谷の底へ吹き下ろすはずの風の道を見つめている。クロリスは二人の間をふわりと漂い、翅の先で夜露をすくった。


 遠くの断崖の、もっと奥の、目に見えない底の方で、何かがかすかに身じろぎしたような気がした。


 音にはならない。だけど、空気が一枚、冷たく捲れる。


 フィリアは顔を上げた。胸の中で、小さなざわめきが広がる。


(早く、何とかしないと……)


「……明日、谷の奥を見に行きましょう」


 フィリアが言うと、テオドールは頷いた。水色の瞳は静かに光を宿している。


「はい……必ず、道を見つけましょう」


 クロリスが二人の肩に交互にとまり、いたずらっぽく笑う。


『大丈夫。わたしもいるわ……風が帰ってくる場所、きっと見つけられる……』


 フィリアたちはそれぞれの胸のうちに灯を抱え、短い眠りへ備えるために社をあとにした。


 夜は深い。風はまだ眠っている。


 けれど、人の結んだ布は確かにそこに揺れていた。祈りの結び目はほどけず、風鈴は静かに、風を待っている。


 そして──見えない谷の底では、黒いものが、わずかに身をくねらせた。音もなく、禍々しい気配だけを滲ませて……。


 この静けさは、ただの静けさではない。


 それでも、フィリアは歩みを止めない。彼女の決意は胸の奥で静かに灯り、明日の朝を待っていた。

次回、第二十七話「それぞれの想い」

風を失い静まり返った谷に、再び風を呼び戻す──

精霊と人の想いが重なり、止まった風車が動き出すとき、リュンデルの村は新しい光に包まれる。

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