第二十五話 穏やかな旅路
【第五章のあらすじ】
風が止まった谷で、失われた祈りを探す旅。
風の精霊の心を解き放つため、二人は人と精霊の絆を辿っていく。
寒くなり始めた季節。穏やかなひと時の中で、胸に芽生えた想いが少しずつ形を帯びる──
その旅立ちの日、風車の谷は風を失っていた──
穏やかな朝日に照らされるミルディナの大地。少しひんやりとした空気が、肌に心地良い。
この地を優しく包んでいた雨上がりの匂いは落ち着き、もうやわらかな土の香りに変わっていた。
テルミナの広場で町長や人々に見送られ、フィリアたちはゆっくりと歩き出す。
街の入り口や広場を飾る色とりどりの布飾りが風に揺れ、人々の笑顔に満ちた豊穣祭の名残が煌めくたび、フィリアの胸の奥が温かくなった。
「本当にありがとうございました、精霊師様、神官様!」
「またいつでもいらしてくださいね!」
帽子を振る農夫、微笑んで腕の中の赤子をあやす母親──まだやつれてはいるものの、どの笑顔も眩しく輝いている。
たくさんの温かな想いに包まれ、フィリアとテオドールは深々と頭を下げた。
頭を上げたフィリアの肩の上で、クロリスも小さく手を振る。
『じゃあ、行きましょうか。次の目的地、リュンデルへ!』
晴れやかなその声に、フィリアは花のように笑い、テオドールは微笑で応え、荷を軽く持ち直した。
* * *
街道を少し進んだところで、クロリスが羽をひらりと揺らした。
『ねぇ、馬車を使えば楽なのに……どうして徒歩なの?』
『わたしは飛べるから良いけど……』と呟いたクロリスは、フィリアへと気遣う視線を向けた。
その視線を受けて、フィリアも遠慮がちにテオドールを伺う。
ふたりの視線に、テオドールが穏やかに口を開く。
「今までの地もそうですが……リュンデルでも“異常”が起きているせいで、馬が近づくと必ず怯えるそうです……特に、精霊の地では、獣のほうが敏感ですから……」
「じゃあ、やっぱり歩くしかないんですね」
「ええ。……ですが、これからはフィリアの歩調に合わせてゆっくり行きましょう」
そう言って、テオドールは自然な仕草でフィリアの荷をひょいと受け取った。
「テオドール、もうだいぶ元気になったので、大丈夫です──」
「重いものは任せてください。無理はしない……約束です」
その優しい瞳に真剣さが混じる。
フィリアは胸の奥がきゅっとなるのを感じながら、素直に頷いた。
* * *
秋の陽射しは柔らかく、道端には薄紫の小花が点々と咲いている。
クロリスは花から花へと舞い、フィリアはその後ろ姿を目で追いながら歩いた。道の脇の林では、小鳥が囀り、葉がさらさらと歌う。
「休憩にしましょう。あちらの木陰が良さそうです」
テオドールが先に足場を確かめ、滑りやすい石を取り除いてくれる。フィリアが腰を下ろすと、小さな包みが目の前に差し出された。
「ミルディナで頂いた焼き栗です。冷めても甘いですよ」
「わぁ……! おいしい……」
栗の皮をむくテオドールの指先を、ひやりとした秋風が撫でる。
フィリアが栗を口に運ぶのを眺めながらそっと風を弱めると、ほんのりと温かい空気があたりを包み込んだ。
『相変わらず気が利くのね、テオドールは』
「クロリスさん……」
『褒めてるのよ?』
クロリスの悪戯めいた瞳に、伏し目がちに口元を緩めたテオドール。
フィリアの小さな笑い声が、木々の間にやわらかく溶けていった。
* * *
日が傾き、空の端に茜が差し始めたころ、小川のせせらぎが耳に届いた。
「ここで野営にしましょう。水が澄んでいて、風も穏やかです」
テントの代わりに簡易の雨避け布を張り、火床を石で囲む。テオドールの手際は相変わらず無駄がなく、火はすぐに心地よい音を立てた。
フィリアは拾い集めた小枝を重ねながら、ふと見上げる。薄闇に、銀色の糸のような月が浮かんでいた。
『ねぇ見て、フィリア……あの草花、夜になると花を閉じるタイプね。可愛いわ』
「ほんと……」
湯が沸く小さな音が響くと、テオドールが荷から小さな包みを取り出した。
並べた木彫りのカップに細かな茶葉を入れると、沸いたばかりの湯をそっと注ぎ入れる。
クロリス用に求めた子ども用の小さなカップにも、同じように茶葉とお湯を注いだ。
「それは……」
「──これは、街で買っておいたものです」
テオドールが差し出したのは、温かなハーブティー。
『わぁ……久しぶりだわ!』
クロリスが小さなカップの隣にふわりと舞い降りると、嬉しそうにその湯気に顔を寄せる。
「寒くなってきたので、これで温まるかと思って……」
テオドールの言葉に、フィリアの胸の奥がふわっと温かくほどけた。
「ありがとう、テオドール……いただきます」
小さく名前を口にした途端、焚き火の紅が頬まで移った気がした。テオドールもどこか照れを隠すように小さく俯いて、カップに口を付けている。
湯気が立ちのぼり、甘い草の香りが夜気に混じる。木肌の感触は手に優しく、火の爆ぜる音と小川のせせらぎに包まれる。
『美味しいし、ホッとするわね……』
微笑むクロリスに、カップに口を付けていたフィリアが頷く。
「あの、テオドール……」
焚き火を挟んで向かい合い、フィリアはそっと声を落とす。
「ありがとう……テオドールのおかげで、心も温かくなりました……」
フィリアの言葉に、俯いてカップに口を付けるテオドールの耳がほんのわずかに紅く染まる。
(良い雰囲気ね……わたしはお邪魔かしら)
クロリスが抱えていたカップをそっと地面へ置くと、音もなく夜闇に紛れる。
しばし、言葉を交わさない時間。
火の粉が星になり、星がまた火の粉に重なる。
「フィリア」
その名を呼ばれるだけで、フィリアの胸が弾む。
「……テオドール、何ですか?」
「……歩き疲れはありませんか。……今日はよく歩きましたから」
「大丈夫です。テオドールが、ずっと気にかけてくれていたので……」
視線が合う。
火の明かりに照らされたテオドールの顔は穏やかだった──それでも、フィリアが頼りなく見えたのか、立ち上がったテオドールが外套をフィリアの肩にそっと掛ける。
「夜の森は冷えます。……寝る前に、もう少しだけ温まりましょう」
テオドールは、そのままフィリアの隣に腰を下ろした。温かな焚き火のそばで、その体は触れそうで触れない。
眠気は思いのほか早くやって来た。
焚き火と外套の温もりに包まれて、瞼が重くなっていく──
「フィリア? ……眠ってしまったんですね」
体に寄りかかる無邪気な寝顔を見つめて、テオドールが淡く微笑む。
月が雲にかすれ、遠くで梟がひと声鳴き、静けさに深みが増していく。
その中で、焚き火の赤とやわらかに漂う香草の香りだけが、ふたりをこの世界に温かく繋ぎとめていた。
* * *
夜半、ふと目を開けると、焚き火はまだ優しく燃えていた。
気付けば、毛布と外套に包まれて横になっていた。
テオドールは少し離れた場所で、木の幹にもたれて座っている。炎と月の明かりが交互にその横顔を撫で、まぶたの影が長く落ちていた。
「……起こしてしまいましたか?」
「いいえ……火を見ててくれたんですね」
「風を少し調整していただけです……寒くなるといけないので……」
いつも通りの声に、フィリアの口元が自然と緩む。
「テオドールは……優しすぎませんか?」
「そうですか? ……優しいのは、フィリアの方だと思いますよ」
「そんなことありません」
フィリアが小さく首を振った。
短い沈黙の後、彼が少しだけ笑った。
いつの間にか隣で眠っていたクロリスが寝返りを打ち、葉っぱの寝床でもぞもぞと動く音がする。
「おやすみなさい、テオドール」
「おやすみなさい……フィリア」
テオドールの優しい眼差しを見つめてから、フィリアがそっと瞼を閉じる。
彼女が眠りにつくとき、温かな風がそっとその髪を撫でた。
焚き火の炎が小さく揺れるたび、森の奥から虫の声が重なり合う。
草葉の間では夜露がきらりと光り、風にそよぐ枝葉は、月明かりを受けて淡い銀色を帯びていた。
* * *
翌朝。
小鳥たちの囀りが一斉に高まり、薄い霧が小川の上で解けてゆく。
軽く朝食をとり、支度を整えると、フィリアたちは再び北へと歩き出した。
丘陵が近づくにつれて、風車の影が遠くに見えはじめる。けれど、その羽根は回っていない。
どこか不自然な静けさが、朝の空気に薄く混じっていた。
『……風、止まってる?』
クロリスが羽をすこしだけすぼめる。
フィリアは胸の前でそっと両手を重ね、吐息を落とした。
(待っていて……わたしたちが、必ず風を取り戻すから……)
早歩きになったフィリアの隣で、テオドールが歩調を緩める。
「大丈夫です。……ゆっくり、行きましょう」
穏やかに微笑むテオドールの眼差しに、フィリアが頷く。
朝陽は高くなり、草花に宿っていた露が消えていく。
三つの影はひとつの道に重なって、風の止まった谷へと向かう。
しかし──その谷に漂う静けさは、ただ風を失ったせいだけではなかった。
見えない気配が大地の奥で息を潜め、彼らを待ち受けているように感じられた。
胸の奥に小さなざわめきを抱えながら、フィリアは歩みを止めず、ただ前を見据えた。
次回、第二十六話「失われた風と祈り」
風を失った谷に、一行は到着する。
孤独に沈む精霊の想いと、村人たちの祈りが交わるとき──
風の止まった風車の村に、再び歌と希望は灯りはじめるのか……。




