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精霊樹の眠る場所で、君を想う  作者: 星谷明里
第四章 豊穣の街ミルディナ ―枯れゆく大地と芽吹く命―
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第二十三話 揺らぐ光

 その名を叫ぶクロリスの悲痛な声と、石畳に杖が倒れた鈍い音が、まだ耳の奥に残っている。


 腕の中で力なく瞼を閉じる少女の重みは、温かいはずなのにひどく冷たかった。暖かい風で乾かしたばかりの柔らかな栗色の髪は、濡れた石畳に張り付き冷たくなってしまった。


 いつも微笑んでいるその翡翠の瞳は閉じられて、優しい言葉を紡ぐ唇も色を失っている。

 泣いたり、笑ったり、表情豊かなその愛らしい顔も、まるで物言わぬ人形のよう──


「フィリア、様……」


 呼び掛けても、腕の中の少女は瞼を開かなかった。ぐったりとした体が、冷たくなってきている気さえする。


 ──どうすれば、良い……?


 テオドールは、分からなかった。

 ただ、少し前までは温かかった心が、凍り付いたように冷たかった。

 その瞬間、テオドールの胸を照らしていた淡い光は姿を消し、深い闇が忍び寄ってきていた。


* * *


 枯れ果てていたこのミルディナの大地が再び芽吹き、フィリアが倒れてから三日が経とうとしていた。


『テオドール……少しは休んだほうが良いわ』


『フィリアはわたしが見ておくから……』と付け加えたクロリスに、テオドールは静かに首を振った。


 クロリスは羽を力なく落とし、町長に用意された部屋の窓辺にふわりと降り立った。

 膝を抱えて座ると、寝台に横たわるフィリアを見つめる。そして、その傍らに寄り添うテオドールへと視線を移した。


(あれから一睡もしてないなんて……フィリアが知ったら心配するわよ……)


 クロリスは、胸の内でそう呟いた。

 フィリアを見つめるテオドールは、まるで人形のようだった。

 澄んだ水色の瞳はガラス細工のように無機質で、長い睫毛が白い頬に濃い翳りを落としている。穏やかに微笑むようになっていたその顔は表情を失くし、瞳には翳りが差していた。


『フィリアが起きたら心配するわよ……少しは寝ないと……』

「フィリア様が起きた時に、そばにいたいんです……私は眠らなくても平気です」


 淡々と返してきたテオドールに、クロリスは静かにため息を吐いた。


* * *


 ──いつ、目覚めるのだろうか?


 声が聴きたい、笑顔が見たい……。


 ──もし、目覚めなかったら……?


 テオドールは、浮かんだ恐ろしい考えを打ち消すように首を振った。


 「フィリア様……」


 昏々と眠り続けるフィリアを、じっと見つめる。

 ほんのりと染まっていた頬は、血の気をなくし雪のように白いままだった。


(フィリア様……目を開けてください……でないと私は……)


 自分にこんな感情があるとは、テオドールも知らなかった。

 彼女の存在が自分にとってどれだけ大きかったのかを思い知らされる。


 彼女が倒れたのは、おそらく“高位精霊を同時に三柱喚んだことが原因”だとクロリスが言っていた。そうだとしたら、この依頼がなければ、彼女は倒れることはなかっただろう。

 各地の地脈を穢すあの忌々しい黒い塊も、このような少女ひとりに重荷を背負わせる神殿にも、憎しみが募った。


 ──だが、この依頼がなければ彼女と出会うこともなかっただろう……きっと、永遠に……。


 テオドールは、寝台に置いた拳をきつく握りしめた。


「フィリア様、目を開けてください……もうすぐ、フィリア様がお好きなお祭りがあるんです」


「ミルディナの豊穣祭ですよ」と囁くように呟いたテオドールが、フィリアの小さな手をそっと握る。


「フィリア様……」


 人形のように眠る顔を見ていられず、テオドールは顔を伏せた。


 その様子を痛ましげにクロリスが見つめている。


『──フィリア……?』


 不意に紡がれたその名に、テオドールが弾かれたように顔を上げる。


 フィリアの唇がかすかに動き、白い瞼が震えた。


「フィリア様!」


 その声に、ゆっくりと瞼が開かれた。フィリアの唇がわずかに震え、閉じられていた瞼が薄く開かれる。


「……クレイ……さん……?」


 かすかな声は風に消えそうで、それでも確かに呼ばれていた。


「フィリア様!」


 テオドールは思わず声を張り上げる。細い指先を両手で包み込むと、そこにはほんのりとしたぬくもりが残っていた。まだ冷え切ってはいない、その事実に凍っていた胸の奥がじんと熱くなる。


「良かった……フィリア様……」


 喉が詰まり、それ以上は言葉にならなかった。ただ彼女の手を握り締めて、その温もりを確かめる。


 笑ったクロリスの瞳から涙が零れた。ふわりと飛び上がるとフィリアの肩口へ飛びつく。


『フィリア……! もう、心配させないでよ……!』


 弱々しいながらも、フィリアの瞳が揺れて彼らを見つめた。けれど、その笑みはまだ淡く、すぐにまた瞼の影に隠れてしまう。

 フィリアは、再び眠りについた──


 テオドールはその様子に胸を突かれる。


(……私は、フィリア様を護れなかった……) 


 安堵と同時に、鋭い後悔が心を刺す。

 精霊を喚ぶ代償に、自分がもっと早く気付いていれば、彼女は倒れることなどなかったのではないか。

 ──だが、代償を知っていても彼女はきっとこの地を救うためにその身を犠牲にしただろう。

 代償については、クロリスもよく分かっていなかったらしい。このアルティシアは永らく平和で、今各地で起きているような状況は初めてのことらしい。

 そもそも、フィリアの祖母の代には、複数の精霊を喚ぶことなどなかったそうだから……。


「フィリア様……」


 それでも、握った手のぬくもりだけは確かにここにある。

 テオドールは唇を噛み、ただ心の中で繰り返した。

 ──どうか、彼女の笑顔が……この命の光が、消えませんように……。


* * *


「心配かけて、ごめんなさい……」


 窓辺から差し込む朝日が、フィリアの白い頬を照らしている。

 ゆっくりと起き上がった華奢な肩には、心配そうにクロリスが身を寄せていた。


「フィリア様、まだ休んでいてください」

「でも、わたしは五日も眠っていたんですよね? ……次の土地へも、急がないといけませんし……」


 フィリアは弱々しい微笑みを浮かべていた。その手を握るテオドールの手に力が入る。水色の瞳は揺らいでいた。


 その様子を見ていたクロリスが、ふわりとフィリアの頬に寄り添う。


『テオドールの言う通りよ、フィリア……無理してまた倒れたら大変でしょう? この街で、もう少しゆっくり過ごさせてもらいましょう……』


 柔らかいクロリスの声に、フィリアは視線を落とした。その瞳に翳りが差す。


「そうね……また倒れたら皆に──たくさんの人に、迷惑をかけてしまうし……でも、急がないとミルディナみたいなことが──」

『フィリア──』

「フィリア様! 違います……私たちが、心配なんです……」


 珍しく声を荒げたテオドールに、翡翠の瞳が見開かれる。クロリスも、テオドールをじっと見つめていた。


「クレイさ──」

「次のリュンデルの村は、人口も少なく、立地的にもアルセナからの援助を受けやすい……この地ほどは、ひどくなっていないはずです……」


 絞り出すような掠れた声に、フィリアは何も言えなかった。


「大きな声を出してしまい、失礼しました……少し、外の風に当たってきます……」


「フィリア様を、お願いします」とクロリスに呟くように告げると、テオドールは部屋を後にした。


* * *


「クレイさん、今朝はごめんなさい……心配してくださって、ありがとうございます」


 その声に、屋敷の庭でひとり佇んでいたテオドールが振り返る。

 高く昇った陽に照らされて、フィリアがゆっくりと歩いてきていた。


「フィリア様?! まだ出てきてはいけません」

「お医者さんから、少しだけなら良いと言われました」


 まだ力ない足取りのフィリアを、クロリスが横目で見つめる。


(言われたんじゃなく、“言わせた”んでしょ……言い出したら、聞かないんだから……)


 クロリスはため息を吐いて、フィリアの肩に寄り添っている。

 すぐにテオドールが駆け寄り、手を差し出した。その手を取ったフィリアが、ふわりと微笑む。


「わたし、食欲もあるんですよ! すぐ元気になりますから」


 フィリアの笑顔に、テオドールが目を細める。水色の瞳は、わずかに滲んでいた。


「街で、フィリア様の好きそうなものを探してきます……外は少し冷えます。部屋で休んでいてください」


 フィリアを部屋へと送り届けて寝台に横になったのを見届けてから、テオドールは街へと向かった。


* * *


 窓の外から、どこか楽しげな音が微かに響いてきた。太鼓の軽快な響きに混じって、笛や弦楽器の柔らかな音色が秋風に乗る。

 通りでは、農夫たちが笑顔で新しい木枠を運び、子どもたちが紙花を抱えて駆けていく。はしゃいだ声が風に弾け、踊りの練習を真似する小さな足音が石畳に軽やかに跳ねていた。

 軒先には色とりどりの布が掛けられ、雨上がりの空の下で鮮やかに揺れている。


「……豊穣祭の準備、始まったんですね」


 フィリアは窓の外を見つめ、胸の奥から安堵の息を漏らす。クロリスも、その羽をフィリアの頬に寄せて微笑んでいる。


「クレイさんの買ってきてくれたお菓子、とても美味しいです……お祭り、楽しみですね」


 素朴な焼き菓子を口に運びながら、フィリアが淡く微笑む。頬に浮かぶ笑みはまだ儚いが、その声色には確かに温もりが戻っていた。


 その隣で、テオドールは一瞬だけ目を細めた。

 ──まるで陽射しを受けた泉のような、優しい笑みだった。

 けれどすぐに、その表情は影を帯びる。人々の喜びのざわめきの中で、彼の胸にはまだ、揺らぐ光と影が深く残っていた──。

次回、第二十四話「命への祝福」


豊穣祭の灯に包まれ、古き伝承が静かに語られる。

命を紡ぐ祈りと、人を結ぶ“名”の温もり。

その響きが、ふたりの心をそっと近づけていく──。

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