第二十一話 嘆く枯れ木たち
夜が明けきらぬうちに、フィリアたちは静かに町長の屋敷を出た。
繁華街に着く頃には、朝日が顔を覗かせていた。朝の光は澄んでいるのに、路地に漂うのは湿りの気配ではなく、乾いた土の匂いだった。
煉瓦の壁に沿って店先が並ぶ。
空になった籠を抱えた商人、干からびた野菜を数える老女、井戸端で空の桶を見つめる子ども──どの顔もやつれていて、フィリアたちを見つめる瞳には声に出さない祈りの色があった。
広い大通りを抜けると、街の入り口を出たところにテルミナの広場が現れた。
中央には小麦の束を抱く美しい女神の彫像。風に曝され白っぽく粉をふいたその表情は、豊穣を約束していたはずの微笑みをどこか失っているように見える。
像の足元には、色褪せた布が結ばれた乾いた花束が積まれていた。噴水は底までひび割れ、ただ冷たい影を落としている。
『……静かすぎるわ。テルミナの気配も感じられない……』
肩にとまったクロリスが小さく囁く。
フィリアは彫像を見上げ、そっと胸に手を当てた。
(テルミナ様……わたしは、必ずこの地を──)
言葉にならない願いを胸の奥で結ぼうとした、そのときだった。
ぎち、と乾いた音が広場の縁で軋んだ。
次の瞬間、広場を囲む枯れ木の梢が一斉に揺れる。風はないのに、黒ずんだ枝が生き物のようにひくりと身をよじった。
「……嫌な気配です。フィリア様、私から離れないでください」
右手で杖を構えたテオドールの低い声に、フィリアは頷いてメイスを握り直す。
枯れ木の根元に繋がる地面のひびがわずかに広がり、枯れた根が蛇のようにうねって顔を出す。
枝の先端は棘となり、石畳を引っ掻いて黒ずんだ土埃を散らした。
「フィリア様、下がっていてください!」
言葉が終わるより早く、一本の黒い枝が鞭のようにしなって突き出された。
フィリアは体を捻って避けようとしたが──魔物の蠢きで足場が揺れ、わずかにバランスを崩す。
『──フィリア!』
クロリスが叫んだ。
強い腕が肩を掴み、ぐっと胸元へ引き寄せられる。
淡い灰色の外套越しに伝わる硬い胸板、その向こうで蔓が空を裂く鋭い音が響いた。
「……っ」
耳元で短い呻き。黒い枝の一撃がテオドールの背を掠め、外套の背が斜めに裂けた。
「クレイさん……!」
「怪我はありませんか?」
すぐ耳元で落ち着いた声。見上げると、澄んだ水色の瞳がまっすぐ覗き込んでくる。
「……だ、大丈夫です」
そう答えながらも、胸の鼓動は早鐘を打つ。それが恐怖のせいなのか、フィリアにはわからなかった──
テオドールは腕を離すと、フィリアの前に出た。
「フィリア様は、私の後ろに──」
金の飾りを戴く長い杖を石畳に突くと、彼の周囲に淡い風が立ち上る。舞い上がる粉塵が押し返され、最前の枝が風の刃でばっさりと断たれた。
『フィリア、来るわ!』
クロリスが小さな手をかざし、薄桃色の光を花片のように散らす。
ひとひらが触れた黒い枝は一瞬だけ動きを鈍らせ、フィリアはその隙にメイスで根の先端を叩き折った。乾いた悲鳴のような音が、地面の下から上がる。
(……泣いている?)
耳を澄ますと、幹の中からくぐもった嘆きが聴こえた気がした。
痛い、乾く、喉が──。言葉にもならぬ声が、枯れ木の奥で軋みになっている。
「気を付けてください!」
テオドールの声にわずか遅れて、背丈ほどもある太い根が地中から弾け出た。
彼が杖を横に払うと、風が帯のように奔って根の進路を逸らす。石畳が割れ、破片が弾け飛んだ。
フィリアは身を低くしてやり過ごし、メイスの柄を握り直す。
「クロリスお願い、力を貸して!」
『もちろん!』
クロリスの薄紫の羽が光り、そこを中心に淡い光が舞った。フィリアの足元に淡く光る輪が生まれ、ふわりと足取りが軽くなる。
フィリアは駆け出し、近い幹の根元──黒ずんで口を開いた亀裂へとメイスを全力で叩き込む。
鈍い手応え。亀裂の奥で、どろりとした黒いものが墨のように滲んで揺らいだ。
「そこです!」
テオドールが杖の石突で地を踏み鳴らし、短い祈りの言葉を紡いだ。風がその一点へ収束し、螺旋となって亀裂に突き刺さる。それは音もなく弾け、砂のように宙へ散った。
途端に、周囲の枝が糸の切れた傀儡のように力を失う。ひと揺れして、ぼとりと広場に落ちた。
しかし、終わりではなかった。
別の方角で、ぎし、と木が軋む。見れば反対側の枯れ木が、遅れて身を硬直させている。地面の下で、黒いものが這い回っているのだ。
『まだいるわ……!』
クロリスが広場の四方を見渡す。
フィリアは息を整えつつ、周り込むように走った。彼女の耳には、やはり同じ嘆きが聞こえる。
(ごめんなさい。でも──)
「……もう、苦しまなくていいから」
小さく囁き、メイスを振り下ろす。ひびの間からのぞく黒い塊を打ち、テオドールの風がそれを外へと押し流す。
それは墨のように滲むと、乾いた光の粒になってほどけ、朝の光に溶けて消えていった。
やがて、最後の一本が軋みを止める。
広場に沈黙が戻った。遠くで、煉瓦の角から覗く子どもの影がそっと顔を引っ込める。祈りの布が風に揺れて、かすかな音を立てた。
フィリアは肩で息をしながら、隣に立つテオドールを振り向いた。
裂けた外套の下、白い神官服の背も裂けている。
「クレイさん、背中が……! 早く手当てを──」
「問題ありません。浅い傷ですから」
いつも通りの静かな声。けれど、外套を直そうとした彼の指先がほんのわずかに震えたのを、フィリアは見逃さなかった。
胸の奥で、さっきから続く鼓動がまたひとつ跳ねる。
『……ふたりとも、無事で良かったわ』
クロリスが肩に寄り、フィリアの頬にそっと羽を触れさせる。その柔らかな温もりに、張り詰めていた息が抜けた。
広場の中央に歩み寄り、フィリアはテルミナの彫像を見上げた。
女神の表情は美しく微笑みを称えているのに、どこか淋しげだった。
フィリアは彫像の足元に膝をつき、両手を組む。
(さっきの黒いものは、多分表に出た一端にすぎない……この大地を枯らしているものは、もっと深いところにいるはず……)
フィリアはテルミナの像を真っ直ぐに見上げる。
(でも──きっと、届く。あなたにも、この大地にも……)
フィリアが立ち上がると、テオドールが口を開いた。
「原因は今までと同じで、地中に巣食っています……ですが、広場の周りだけではありません。おそらくは街の外、畑のほうまで……」
「……今日のうちに、調べられるところまで確かめましょう」
返事をしながら、フィリアはそっとテオドールの背中へ視線を向ける。裂けた外套が痛々しい。傷は本当に大丈夫だろうか……。
「フィリア様?」
テオドールの水色の瞳がフィリアを真っ直ぐ見つめる。
──そのとき、抱き寄せられた一瞬の温もりが蘇った。その、淡い香りも……。
「何でもありません……ただ、クレイさんの怪我が心配で……」
少し俯いてそう答えたフィリアの中では、様々な感情が胸の内で絡まり、ほどけない糸になっている。頬が、少しだけ熱かった。
フィリアは、その瞳に見つめられると、心が揺れるのを感じていた。けれどそれを言葉にできるはずもなかった──
「大丈夫ですよ。フィリア様は心配性ですね」
テオドールがフィリアを安心させるように、淡く微笑んだ。
フィリアは、それ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。
冷たい風が広場を渡った。
粉をふいた女神の頬に、朝の光が白く射す。
ひび割れた石畳の影は細く、けれど長い。そこに宿る冷たさは、まだ消えないままだ。
フィリアは強く息を吸い込んだ。
「必ず、この地を──」
言葉の先を喉の奥で結ぶ。
祈りにも似た小さな誓いは、乾いた風にほどけず、胸の奥で静かに灯り続けた。
次回、第二十二話「芽吹いた命」
枯れ果てた大地に、再び命の息吹を──
フィリアは精霊を呼び、その力で荒野に光を取り戻そうとする。
乾いた風が吹き荒ぶ中、この地に芽吹きの奇跡は訪れるのか……。




