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精霊樹の眠る場所で、君を想う  作者: 星谷明里
第三章 森の村エルデン ―怒れる精霊と結ばれる絆―
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第十五話 怒れる火の精霊

 魔物との激しい戦闘を終えた一行は、息を整えながら森の奥へと歩を進めていた。

 焼けた匂いがまだ鼻に残り、汗ばむ肌に籠った熱が離れない──


 祠へ続く山道は、夜明けのうちに一度燃えたのだろう、ところどころ黒く煤けていた。踏みしめる土はまだ温かく、焦げた樹皮が指先で砕ける。

 森の息は荒く、熱の籠った風が、奥からゆっくりと押し寄せてくる。


『……ここは、わたしにはやっぱりきついわね』


 フィリアの肩にいたクロリスが小さく呟いた。薄紫の羽が熱気に揺れ、頬に汗が滲む。


「無理はしないで……祠はもうすぐみたいよ」


 杉とナラの木が開け、岩肌に穿たれた洞口が現れた。

 その奥には、煤に黒ずんだ祭壇と、円環の炎を象った古い石盤。供えられたはずの薪は灰になり、香の匂いだけがかすかに残っている。


 フィリアは跪くと、胸の前でそっと手を組む。


「……火の精霊カレナ様。グラーデ村のフィリア・フローレンスと申します。お話がしたくて参りました」


 その呼びかけに、祠の奥で空気が低く唸った。

 次いで──

 ごう、と炎が巻き上がる。地面のひび割れから火が噴き、洞の天井を舐めるように赤い渦を作った。

 渦の中心に現れたのは、褐色の肌に背中まで流れる紅蓮の髪。黒曜石のような角飾りに火の衣を纏う女性の姿の精霊だった。

 溶岩のように燃える赤褐色の瞳が、フィリアたちを見つめる。


『──返せ……わたしの森を……』


 響きは言葉というより、熱そのものだった。炎の波とともに、怒りが肌を焼く。


『汚した……わたしの、火を……森を、返せ……』


 カレナの周囲で舞い踊る火の衣が乱れ、洞穴内の温度が一気に跳ね上がる。

 クロリスが顔を歪めた。


『──っ……!』

「クロリス、大丈夫?」

「二人とも、下がってください」


 テオドールがフィリアの前に出た。杖を斜めに構え、短い詠唱もなく風を起こす。

 薄刃のような気流が炎の奔流を受け流し、熱の向きを逸らす。だが、風は同時に炎を煽る刃でもある。祠の入口近くで、乾いた草がぱちりと音を立てた。


(風では、火を押し返すことしかできないのね……)


 フィリアの頬を熱が刺す。

 カレナの瞳は怒りに赤く燃え、言葉は断片しか届かなかった。

 炎の裾がひと振り地を叩くと、燃えた空気が弾け、テオドールの外套が舞い上がった。


「──危ない!」


 クロリスが反射的にフィリアの前に飛び出し、若葉の蔓を伸ばして炎の矢を絡め取る。だが、火は蔓を瞬く間に黒く焦がした。クロリスの体がぴくりと震える。


『まだ平気……でも、長くは持たないわ……』


 テオドールは杖を両手で握ると力を込めた。

 風の密度を変え、酸素を奪うように渦を締め上げて火勢を落とす。が、次の瞬間、炎の床が爆ぜ、熱が刃のように押し寄せた。

 押し寄せる紅蓮の炎に、白い膝が地を打つ。風の盾で何とか防いではいるが、その額には汗が滲み、唇は乾いていた。

 その様子を見て、フィリアの胸がぎゅっと縮む。


(──このままじゃ……)


 彼女は跪いて両手を胸に重ね、静かに目を伏せた。

 美しい湖面を渡る涼やかな風と、指先をくすぐった冷たく清らかな水の感触──ネレイダで感じた清らかな気の流れを、心の底に探る。


「……エルヴィーラ様。どうか、お力を貸してください!」


 フィリアが強く念じると、燻る祠の石床に、透明な水の輪が現れた。

 その輪は静かに立ち上がり、清らかな水柱となって揺れる。

 澄んだ水柱の中から、淡い水色の髪を持つ女性が、朝靄のような涼気とともに姿を現した。


『フィリア、あなたの呼び声、届きましたよ……』


 水の精霊エルヴィーラはフィリアたちに淡く微笑むと、燃え盛る炎の渦へと近付いていく。

 その周囲の空気がひんやりと冷え、熱の刃がわずかに鈍った。


『カレナ……あなたの炎は、怒りだけで燃えているわけではないはず……この森を温め、育て、守ってきた炎。どうか、わたくしの声を聴いて……』


 エルヴィーラはその白い両手を広げ、薄い水膜を張るように炎の渦を包み込んだ。

 じゅっ、と音がして、あたりの温度が一段落ちる。

 カレナの燃える赤い瞳に、一瞬、深い朱の陰が差した。


『……地が……汚された。気の流れが……濁った。わたしの赤い焔が、黒く濁って……』


 断片だけが、熱の海から浮かんでくる。言葉の端に、確かな痛みと哀しみが混じっていた。


 フィリアは進み出て、祠の黒ずんだ床に再び膝をついた。


「……カレナ様、わたしたちが……この森の気の流れを、元へ戻します……だから、もう悲しまないでください」


 フィリアに寄り添っていたクロリスが、ふわりと宙に浮く。

 妖精の姿が淡く光に溶け、金糸の髪と紫水晶の瞳を持つ女性──花と植物の精霊としての本来の姿に変わった。

 纏う白い衣の裾から、若葉の蔓が生まれ、足元の焦土にそっと触れる。


『……エルヴィーラ、協力して。まずは、この地の熱を鎮めたいの』

『ええ、任せて……』


 緑と水──二柱の精霊の気が重なった瞬間、祠の空気が一瞬にして変わった。

 エルヴィーラの手からは、霧雨のような細かな水が生まれ、燃え滾っていた炎の輪郭を柔らかく撫でる。

 大地に両手をついたクロリスの掌からは、見えないほど細い根が糸のように伸び、焦げた地表の下を探っていく。


 テオドールは、フィリアを庇うようにクロリスたちの背に位置を取り、風で熱と煙の向きを制御しながら、炎が外へ逃げないよう流れを囲う。

 呼吸を整え、杖の石突きで地を軽く叩くと、空気の層がもう一枚、森を守るように祠の外に薄く張られた。


 やがて、クロリスが瞳を薄く開いて息を吸う。


『……見つけたわ……黒いもので地脈が詰まって、熱が逃げ場を失ってる』


 蔓の根が一点に集まり、柔らかく地を押す。

 エルヴィーラの清らかな水が渦を作り、そこへ流れ込むように導く。


 どこから聴こえたのか、ぱき、と乾いた音が響いた。

 目に見えない何かの詰まりがほぐれ、地下の温い気がゆっくり動き出す。

 祠の床のひび割れに細い緑がのぞき、焼け焦げた表皮の隙間からは糸のような新芽が顔を出し始めた。


 やわらかな水に包まれて、あたりを焦がしていたカレナの炎が、少しずつ落ち着いていく。怒りにざわめいていた熱が、徐々に“燃えるための呼吸”へと戻っていく。


 祠の中で荒れ狂っていた炎の渦が次第に小さくなり、わずかに呼吸を整えるように脈打った。紅蓮一色だった光の中に、朱や金の柔らかな層が差し込み、カレナの瞳にもその色が映る。

 炎の端が、怒りではなく迷いのように震え──その揺らぎの隙間から、精霊としての声が再び響きはじめた。


『……気が流れた……わたしの、息が……焔が戻る……』


 燃え盛っていた紅蓮の髪に、夕焼けのような穏やかな色が差す。

 その炎はなお熱いが、その中心に、人の声が宿る。


『この森の気に、いつからか黒いものが混ざった……地の道を塞ぎ、わたしの焔を穢した……』


 それは、油のようにぬるりとした気配だった。土や根が持つ温かさではなく、冷たくざらつき、指先にまとわりついて離れない闇。


『それは火でも水でもなく……ただ、命を蝕むだけの色……わたしは、この森を守りたかった……けれど、怒りに呑まれた』


 カレナはその震える拳をきつく握りしめている。


『悪かった……お前たちにも、この森にも……エルデンの、村の者たちにも……』


 少し俯いたカレナの紅い瞳には、深い翳りが差している。

 その様子を見て、フィリアは静かに首を振る。


「守っている森を汚されて、怒ってしまうのは当然だと思います……でも、もう大丈夫です。村の皆さんも、カレナ様のことをとても心配されていました」


 明るく微笑んだフィリアに、カレナの紅い瞳が揺れた。


『森も大丈夫よ』


 クロリスがカレナに微笑んだ。

 両の手のひらをそっと地に付けると、黒ずんだ焦土に、白い花が一輪、ぽつりと開いた。それを合図にするように、胸元で手を組んだエルヴィーラが水の細糸を花に落とす。

 緑がほどけるように、二輪、三輪──やがて点だった花は線になり、緑の絨毯のようにあたりに広がっていく。


 祠の外では、黒くなった下草が瑞々しい若葉の色を取り戻し、焦げた株の根元からは、新しい芽が膨らんだ。

 風が、熱く焦げた匂いから、湿った土と青々とした若葉の匂いへと変わっていく。


 テオドールは、その変化をじっと見届けてから、そっと杖を下ろした。

 指先に残る熱の痺れが、ゆっくりと退く。視線の先では、フィリアが安堵の息を吐き、クロリスと目を合わせて微笑んでいた。


『皆、心から感謝する……わたしは──この森は、恩を忘れない……』


 炎の女性──カレナが、真っ直ぐにフィリアを見た。

 燃えるような瞳の奥には、優しい光が灯っている。


『お前、森と精霊に好かれているな……もし今後わたしの力が必要なら、呼べ……わたしは応える』

「カレナ様、ありがとうございます」


 笑顔のフィリアを見つめてカレナは一瞬だけ微笑むと、柔らかい眼差しをクロリスとエルヴィーラへと向けた。

 そして、カレナは舞うように火の衣を翻した。炎は細かな火の粉となって舞い上がり、祠の天井近くで星のように瞬いてから、静かにその姿を消した。


 残ったのは、温かい余熱と、新しい緑の匂い。

 祠の奥で、ぽたり、と露がひと雫落ちる音がした。


「……良かった」


 フィリアが胸に手を当てて深く息を吐くと、いつの間にか妖精の姿に戻っているクロリスが肩にとまって囁いた。


『ね、言ったでしょう。きっと、話を聞いてくれるって』


 テオドールは微笑み合う二人を無言で見やり、ほんのわずかに表情を緩めた。


「村へ戻りましょう。状況を伝えて……焚き火の祭りの準備も、きっと再開できます」


 テオドールの言葉に、エルヴィーラが静かに進み出た。


『お待ちを……その前に、この森にもう少しだけ水を巡らせます』


 エルヴィーラは祠の外へ視線を向け、流れに沿って指先を払った。

 山肌に沿って、透明な水の薄筋が走り、枯れかけていた細い沢が再び声を取り戻す。

 少し前まで燻り熱に包まれていた大地が潤いに満ち、静まり返っていた森に、再び鳥たちのさえずりが戻ってきた。


「エルヴィーラ様、助けてくださって本当にありがとうございました」

『わたくしたちは、同じ大地に根差す友……いつでも呼んでくださいね』


 フィリアはエルヴィーラに微笑むと、深々と頭を下げる。

 エルヴィーラもふわりと微笑み返すと、足元の水の輪から立ち上る水の柱に包まれた。そのまま、彼女を包みこんだ水の柱は大地へと還り、その姿は清らかな水の煌めきとともに静かに姿を消した。


 森に、風が通った。

 鳥が一声鳴き、遠くで蝉が、遅れて短く応える。

 焦げ茶の地面には、点々と新しい緑が灯り、これから先の季節を約束するように揺れた。


 歩き出す三人の背に、祠の中から淡い熱が、優しい灯火のように寄り添ってきた。


* * *


 山道を下りるころには、空の青が一段と深くなっていた。

 村の家並みの向こうで、川面が夏の光を跳ね返し、子どもたちの笑い声がふくらむ。


「きっと、もう大丈夫ですよね」


 フィリアの言葉に、クロリスが笑顔を見せる。


『今夜の空気、きっと良い匂いよ……焦げた匂いじゃなくて、森の青い匂い』


 テオドールは頷き、視線を森へ返す。


「……油断は禁物ですが、流れは整いました。村長へ報告を」


 彼らは足を揃え、川へ続く小径を下っていく。

 精霊の怒りは鎮まり、カレナの森はまた息を吹き返した。

 けれど、地のどこかに残る“黒い何か”の気配は、薄い霞のようにまだ遠くに漂っている。


 夏の終わりに向けて──焚き火の夜に、もう一度この森は、炎の前で歌うだろう。

 その日を目指して、三人は小さく歩調を早めた。

次のお話は、第十六話「新たに結ばれる絆」

エルデンの村人たちと火の精霊に新たな絆が結ばれます。その様子を見て微笑むフィリアと、柔らかな表情のテオドール。

ふたりの距離は、この旅を通して少しずつ近づいていきます。

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