第十三話 森に囲まれた村
【第三章のあらすじ】
深い森に囲まれた村エルデンを訪れた一行は、怒りに燃える火の精霊カレナと対峙する。
迫りくる魔物の脅威、そして精霊の心を鎮めるための試練。
炎のように熱く、時に優しい絆が生まれる──夏の終わりの物語。
その炎は森を焦がし、精霊の囁きを焼き尽くそうとしていた──
西の街道を進むほどに、世界はゆっくりと緑の奥へ沈んでいった。
両脇に立つブナやナラの木が枝を張り、陽は葉の層を透けて柔らかな斑に変わる。
湿った土の匂いに、砕いた若葉の青い香り、遠くでは小さな沢のせせらぎが微かに応える。
『……この森、精霊の気配が濃いわね。芽吹きも、実りも、眠りも、ぜんぶ層になってる』
フィリアの肩で小さく揺れるクロリスが、好奇心と警戒の混じった声を落とす。
「やっぱり豊かな森なんだ……」
『ええ、でも……どこか熱っぽいの……呼吸が浅くなるときの、あの感じ』
先を歩くテオドールは答えず、風向きを確かめるように一度だけ顔を上げた。鼻先を掠める焦げた匂い──かすかだが、確かに感じられた。
道端には藍色の小さな花が群れて咲いていた。クロリスがふわりと舞い降り、花先に触れて囁く。
『こんにちは……大丈夫、怖くないわ。根っこは湿ってるから、ここはまだ平気』
花弁が微かに揺れ、フィリアは思わず笑みをこぼす。
歩を進めれば、枯葉の下で動くヤマネが顔を出し、頭上では栗鼠が枝を走り抜けた。豊かさと、背後に貼りつく熱気とが、同じ膜の内側で揺れている。
やがて樹間がひらけ、小川に掛かった木橋を渡ると、視界がふっと明るくなった。
川沿いに木造の家々が肩を寄せる──森の村エルデンだ。
苔に覆われた屋根、木枠の窓、軒先には干し草と編み籠。川では女性たちが洗濯板を鳴らし、子どもたちは膝まで水に浸かって小魚を追っている。
焚き火の上では鉄鍋がことこと鳴り、ローリエに似た香りが流れた。
だが、のどかな景色の、そのさらに奥。森の奥に、細い煙が一本、まっすぐ立ち昇っている。
「……あれは?」
フィリアが指差すと、川から上がってきた若い男性が肩の桶を直しながら答えた。
「また森で火が出てるんです。すぐ消えるんですが、ここ数日は立て続けで……。村長の所へ行くなら、広場の奥の集会所ですよ」
礼を告げ、一行は村の中心へと向かう。
道の途中、木彫りの鳥や火打ち石、耐火用の厚手の麻布を扱う商店が目に入る。毎夏の備えが、暮らしの一部になっているのが見て取れた。
* * *
集会所の扉を開けると、乾いた木の香りがふわりと満ちた。壁には古い火の紋様の布、梁には大きな松明が括られている。
テオドールとフィリアが名乗って挨拶をすると、初老の村長が迎え出て、深い皺に疲れと不安を刻んだ笑顔を作った。
「ようこそ。遠路、お越しいただきありがとうございます。……この村は代々、火の精霊カレナ様をお祀りし、夏ごとに“精霊の焚き火”を捧げてきました。火と生き、火を畏れ、火に感謝する──それがエルデンの掟でしてな……」
村長は壁に掛けられた古い絵を指す。円環の炎、その中央に燃えるような赤毛の女神が微笑む絵姿。祭礼の歌詞が横に古文字で記されている。
集会所には、村人たちが村長やフィリアたちを囲むように集まり、ざわめきには不安が混じる。腕に火傷の痕を持つ若者が、消火用の革袋を握り締めていた。
「ですが今年に入ってから、カレナ様の森で火の手が上がるようになりまして……幸い川が近く、延焼は防げておりますが、度重なると畑も林業も立ち行かない。わしらは、カレナ様のお怒りかと……」
村長の話を聞いている間にも、周囲の村人たちが小声でささやき合っていた。
「この前の火事、井戸の水までぬるくなってたんだ……」
「夜中に、森の奥が真っ赤に光ったのを見たって人もいる」
「獣たちも変なんだよ……川の向こうまで降りてきて、夜中じゅう鳴いてる」
誰かが吐息を漏らすたび、広間の空気が一段と重くなっていく。
小さな子どもを抱いた母親は胸に手を当て、小さな祈りの言葉を呟いていた。
クロリスと視線を交わしたフィリアは、小さく頷き、そっと目を閉じた。
意識を森の奥へ伸ばすと、遠くで何かが燃える音がした。赤い光と共に、荒々しい熱が押し寄せてくる。
炎の奥には、何かが混ざり込んでいる──焦げた鉄のような、ざらつく不快な気配。
『……許さない……返せ……』
熱と共に、断片的な声が届き、やがて炎に呑まれて消えた。
フィリアは目を開け、息をつく。
「……やはり、火の精霊が怒っているようです。会話ができる状態ではなく、原因はわたしにもわかりません……でも、あの炎には……何か別のものが混ざっているように感じます」
広間に小さなため息が連鎖した。村長は拳を握り、ゆっくりとほどく。
「……わしらは掟を守っておるつもりです。焚き火の薪は清め、山の木も森の木も必要以上に伐らず……村人皆でカレナ様をお祀りしています……ですが、もう、どうしたら良いのか……」
村長は深刻な顔で呟く。
「どうか……カレナ様の御心を鎮めていただけませんか。わしらでは、もはやどうすることもできないのです」
「わかりました……明日、祠に伺います。できれば、水汲みと、濡れ布と……火消し袋の準備をお願いします……万が一に備えて」
フィリアの言葉に、村長の顔に一筋の希望が差した。
「もちろんです」
村長の声に、周囲の若者たちが力強く頷く。広間の梁に括られた松明に、夕陽が赤く差し込んだ。
こうして、翌日の祠への訪問が決まった。
外では、夕焼けが森を赤く染めていた──まるで、森そのものが静かに燃えているかのように。
* * *
集会所を出た後、村は夕餉の支度の匂いで満ちた。
軒の下では干した薬草が吊るされ、犬がのびをし、川べりでは子どもたちが木の舟を押して遊ぶ。フィリアは小さな手に袖を引かれ、掌ほどの木彫りの鳥を見せてもらった。
「お姉ちゃん、これ、火事のときに家を守ってくれる鳥なんだよ!」
「かわいい! 上手にできてるわね」とフィリアが褒めると、子どもは得意げに笑った。
フィリアたちに用意されたのは、川沿いの丸太造りの小さな宿だった。窓を開ければ涼しい風が入り、室内には素焼きの水瓶が置かれている。
卓上には村人が持たせてくれた黒パンと森の茸のスープ、香草を混ぜた白いチーズが並んだ。
「明日は、カレナの森に入り、火の精霊の祠へ向かいます……十分気を付けて進みましょう」
食卓で地図を広げながら、テオドールが淡々と確認する。フィリアは頷き、指先で山道の曲がりをなぞった。
クロリスは窓辺の鉢植えにそっと触れ、小さく息を吹きかける。鉢植えの葉がいきいきと色を増した。
「……カレナ様、すごく怒っていたけど、悲しそうでもあったの……明日は、わたしの声がちゃんと届くといいな」
『きっと届くわ……明日はわたしも、花ではなく“緑そのもの”として支える。森は、話を聞いてくれるもの……』
外では、夜の鳥が短く鳴いた。遠く、山の方角で、ほんの一瞬だけ赤い光が膨らみ、すぐ暗に沈む。
テオドールは窓外へ視線を投げ、風を読むように目を細めた。
「火は消えたようです……明日に備えて、ゆっくり休みましょう」
テオドールの言葉に、フィリアは胸元で両手を重ね、静かに目を閉じる。
(どうか、明日うまく行きますように……)
森の夜気は涼しく、しかしどこか熱の名残を含んでいる。
灯を落とした室内に、川の音が細く満ち、フィリアたちはそれぞれに明日の支度を確かめた。
──炎の向こうに手を伸ばすために。
次回は、第十四話「火の魔物」です。
花の妖精クロリスや、テオドールの操る風魔法と火属性の魔物は相性が悪く、苦戦する一行。そのときフィリアは──




