第十話 精霊と心を重ねて
干上がった泉の前に立ち尽くすフィリア。
水の女神エルヴィーラの姿は、薄氷のように脆く、消え入りそうだった。
このままでは、ほんの少しの風にも溶けてしまいそうなほど──。
「……必ず助けます」
フィリアの声は震えていたが、その翡翠色の瞳は真っ直ぐだった。
クロリスが彼女の肩に降り立ち、静かに頷く。
『フィリア……私、本来の姿になるわ』
「本来の……?」
クロリスの身体が淡く光を帯びる。花の香りがふわりと漂い、周囲の空気がやわらかく変わった。
光の中から現れたのは、ゆるやかに波打つ金色の長い髪、紫水晶の瞳を持つ美しい女性。頭にはスミレの花冠が咲き、裾の長い白い衣には花咲く蔓が優しく巻き付いている。
『花と植物の精霊──これが、私の本当の姿よ』
その声は、若葉を揺らす春風のようにやわらかく、しかし芯のある響きを持っていた。
妖精の姿しか見たことがなかったフィリアは、呆然とその姿を見つめている。
(ずっと、花の妖精だと思ってた……クロリスは、精霊でもあったのね)
クロリスは両手を泉にかざし、目を閉じる。
『……ネレイダの地脈は……やっぱり、この土地だけでなく、遠くまで乱れているわ……何か黒いものが感じられるの……私の力だけでは足りないわ』
彼女は視線をフィリアに向ける。
『フィリア、シルヴィア様に力を借りましょう』
フィリアは真っ直ぐな瞳で頷き、クロリスと共に膝をついた。
二人は深く息を吸い込み、心の奥でシルヴィアを呼ぶ。
──懐かしい森の香りが、ふいに鼻腔をくすぐった。
湖面のように静かな意識の底から、やわらかな声が響く。
『……フィリア、クロリス……よく呼んでくれましたね』
空間に淡い緑の光が満ち、泉の周囲に小さな花々が一斉に開く。
その光は遠くグラーデの森と繋がり、大樹の葉擦れの音や小鳥のさえずりまでが微かに聞こえてきた。
『エルヴィーラを……ネレイダの地を救うため、森の精霊たちも力を貸しましょう』
シルヴィアの声がそう告げた瞬間、地面が静かに脈動し始める。
クロリスが足元の大地に両手を触れると、その手のひらから花蔓がするすると伸び、地面の奥へと根を下ろす。
その根は光を帯び、まるで水脈を探すように地中を走っていく。ネレイダ全体の地面が淡い緑色の光を放ち始める。
やがて──
遠くから低い轟きが近づき、水が勢いよく流れる音が泉の底から響き出した。
干上がっていた水路に、一筋の水が流れ込み、やがてそれは小川となり、噴水へ、広場へ、街中へと広がっていく。
「水だ! 水が戻ってきた!」
街のあちこちから歓声と泣き声が上がる。
水路や噴水から溢れた水が乾いていた石畳を濡らし、反射した茜色の淡い光が家々の壁をきらきらと駆けた。
子どもたちの笑い声と水音が、街中にこだました。桶を抱えた子どもたちが駆け出し、噴水に飛び込んではしゃいでいる。
その姿を見て嬉しそうに笑い合う大人たちの姿。
「この水音がまた聴けるなんて……」
年老いた漁師は両手で水をすくい、顔にかけて笑った。
水の気で満ち溢れたネレイダの街に、人々の笑顔と笑い声が広がった。
そして、泉の底からも水が溢れ出すと同時に、クロリスの胸元が淡く光を帯びた。
『……もう、大丈夫ね』
クロリスがそっと手を広げると、掌の上に小さな水の雫が浮かび、その中から透き通るトンボのような羽を持つ妖精が現れた。
まだ身体は頼りなく揺れていたが、その瞳は澄んだ水面のように輝いている。
「助かったのね……本当に良かった」
フィリアが微笑みかけると、妖精は小さな声で『ありがとう』と囁き、泉へと舞い降りた。
その小さな足が水面に触れた瞬間、波紋が広がり、妖精の羽が淡く光る。
それはまるで、ネレイダに戻ってきた水そのものが喜んでいるかのようだった。
水の妖精は嬉しそうに微笑むとエルヴィーラの彫像の周りをくるくると飛び回り、湖の方へと飛んでいった。
水路を満たした透明な水が、泉の女神像の足元からも勢いよく溢れ出してあたりの石畳を濡らした。
噴水の彫像から溢れ出した水が夕陽を受けて金と水色の粒となり、水飛沫を上げて空中で淡く弾けた。
泉に透明な水が満ちると、そこから水色の髪の女性──水の精霊エルヴィーラがゆっくりと姿を現した。
さきほどまで掠れていた声が、今は美しく澄んでいる。
『……本当にありがとう、フィリア、クロリス……そして、あなたも……』
エルヴィーラはテオドールを見やった。
そして、集まった街の人々に視線を向ける。
『ネレイダの人々……苦しい中でもわたくしのことを案じてくれてありがとう……心から感謝します』
広場に集まった人々は、泣きながら「女神様!」と手を伸ばす。
エルヴィーラは微笑み、街全体を包むように淡い青色を帯びた光──水の加護を広げた。
やがて彼女は再びテオドールに視線を向ける。
『あなたから、精霊樹様の気配がします……加護を受けているのですか?』
エルヴィーラの問いかけに、『やっぱり、何か不思議な感じがしてたのよね』とテオドールを見ながらクロリスが頷く。
驚いたフィリアがテオドールを見ると、彼は淡々と答えた。
「精霊樹を祀る神殿の神官ですから」
その言葉に、エルヴィーラは『そうですか……』と静かに微笑んだ。
『わたくしもこの街も、あなた方に救われました……今後、必要なときはわたくしを呼んでください。力を貸しましょう……』
そう言ってふわりと微笑んだエルヴィーラの姿が、すっと泉の水へと消えていく。
そのとき、息を切らせて町長が駆け寄ってきた。
「なんとお礼を言えば……! どうぞ私の屋敷までおいでください。このネレイダにゆっくり滞在していただき、謝礼を──」
「わたしたちは神殿の依頼で来ておりますので、受け取れません……それに、すぐに発たなければいけませんし」
フィリアは静かに首を振る。
「それならば!」と町長は続けた。
「水の女神祭を明日開催します。今年はできないと諦めていたのですが、あなた方のおかげで開催できます……せめて参加して楽しんでいってください!」
そうして三人は、町長から用意された宿へと向かった。
暮れゆく空の下、石畳に映る灯りと水面の揺らめきが、初夏の夜の訪れを告げていた。
* * *
『へぇ……良い部屋を用意してもらったわね』
クロリスは窓辺に降り立ち、外の景色を眺めていた。湖面を渡ってきた風に薄紫に透き通る羽がゆっくりと揺れ、夕陽を弾いて煌めいた。
案内された宿は湖畔に面した三階建ての石造りで、窓からは水面が金色に染まる夕景が広がっていた。
通された部屋は宿の端にある角部屋で、出窓からはそれぞれ湖と広場の景色が見える。
木の梁と白い壁の内装が温かく、窓際には小さな丸テーブルと椅子が置かれている。
湖からの風が、薄いレースのカーテンをやわらかく揺らしていた。
フィリアは広場側の窓辺に立ち、薄暗くなり始めた街で祭りの準備をしている人々の姿を眺める。
灯りを下げた屋台の骨組みが並び、子どもたちが小さな旗を掲げて駆け回っている。
まだ水が戻ってすぐだというのに、その笑顔はどれも眩しかった。
「……明日には、もっと賑やかになるのでしょうね」
振り返ると、ベッド脇に腰を下ろしたテオドールが静かに頷いた。
「この街の人々は、強いですね」
その声音には、どこか安堵が混じっている。
フィリアは少し迷った末、そっと問いかける。
「……エルヴィーラ様が言ってたこと、本当なんですか? 精霊樹の加護があるなんて、すごいですね」
テオドールは一瞬だけ間を置き、穏やかに微笑んだ。
「明日はフィリア様が楽しみにされていた祭りです。今夜はゆっくり休みましょう」
それ以上は答えず、けれど柔らかな視線だけをフィリアに向けた。
クロリスは窓辺から外を見やり、にっこりと微笑んだ。
『楽しみね! 明日のお祭りには、湖畔の花を髪に飾りましょう。フィリアの分も、朝から摘んできてあげるわ』
「湖畔の花……きっと綺麗ね」
フィリアが頬を緩めると、クロリスは『夜が明けたら摘みにいくわ』と楽しげに羽を震わせた。
『花はどうしようかしら……編んだ髪を小花で飾るか、わたしとお揃いも良いわよね……』
その様子に、テオドールも小さく笑みを浮かべる。
「フィリア様は、花冠も似合いそうですね」
「えっ……」と戸惑うフィリアの頬が、ほんのりと熱を帯びた。
窓の外、湖面に灯りがひとつ、またひとつと映り込み、波に揺らめく。
その景色を二人並んで眺めていると、胸の奥の緊張が少しずつほどけていくようだった。
窓の外からは、人々の笑い声と、広場の噴水と水路を流れる水音が、夜の静けさの中にも絶えず響いていた。
次回は、第十一話「水の女神祭」です。
水の都のお祭りで、フィリアとテオドール、ふたりの距離が──?
ぜひフィリアと一緒に楽しんでいただけると嬉しいです!




