第九話 枯れ果てた泉
夕陽が湖面を黄金色に染め、南の空をかすかに朱く染めていた。
湖の南端に広がる街──ネレイダが、ゆるやかな曲線を描く湖畔の向こうに姿を現す。
白い塔が夕陽を受けてきらめき、石橋と水路が網の目のように絡み合い、湖風がその屋根や尖塔を撫でている。
「……綺麗……」
フィリアは足を止め、息を呑んだ。
春の柔らかな風が頬を撫で、湖面が夕陽を跳ね返してきらきらと輝く。
しかし、その美しさの奥に、どこか沈んだ影が潜んでいるような気配があった。
『……おかしいわ。水の音が、ほとんどしない』
肩から飛び立ったクロリスが街の上空をひと巡りして戻ってくる。
羽の端がわずかに震えている。
『噴水も水路も、ほとんど干上がってる……』
クロリスは胸に手を当て、そっと目を伏せた。
その胸の奥には、湖で助けた水の妖精が眠っている。
透明な水の花びらのような翅は閉じられ、呼吸は浅く、かすかな鼓動だけが生命を伝えていた。
クロリスの内なる花の空間が、彼女を守る唯一の揺りかごになっている。
『この街の空気は乾きすぎてる……水の精気がほとんどないから、この子はまだ目を覚ませないの』
クロリスの声音には、焦りと不安が滲んでいた。
「……必ず助けましょう。絶対に」
フィリアはそっとクロリスの胸に手を重ね、そう誓った。
その瞳の奥に、決意の光が宿る。
* * *
城門をくぐると、石畳の街路が夕暮れ色に染まっていた。
本来なら、窓辺から料理の香りや人々の笑い声が溢れるはずの時間──だが、そこにはどこか張り詰めた沈黙があった。
桶や水瓶を抱えた人々が、重い足取りで遠くの井戸へと向かっていく。
道端では、小さな子どもが空の水瓶を抱えて母を待ち、魚屋の台には湖で獲れたはずの魚が数えるほどしか並んでいない。
「……どうして、水が……?」
問いかけるように呟いたフィリアの耳に、近くの会話が届く。
「このままじゃ、水の女神祭もできやしない……」
「でも、女神様が一番つらいだろうよ」
「……泉がこんなに枯れるなんて、生まれて初めてだ」
聞こえてくる言葉の端々に、女神への信頼と、深い憂いが滲んでいる。
この街の人々は、自分たちの生活よりも、女神エルヴィーラを心配しているのだ。
胸の奥に、いやなざわめきが広がる。
「急ぎましょう」
テオドールが短く告げ、三人は足を早めた。
* * *
やがて辿り着いたのは、水の女神エルヴィーラを祀る“水の女神の泉”だった。
白い大理石の縁に刻まれた波の文様と、柔らかな微笑みをたたえた美しい女神の彫像。
しかし、その足元には、一滴の水もなかった。
乾いた底には風に運ばれた枯葉が積もり、かつて水が流れていたはずの水路も干上がってひび割れている。
空気は乾ききり、石肌からは、かつてあった冷ややかな湿り気の気配すら消えていた。
『……エルヴィーラ……』
クロリスがそっと泉に近づく。
フィリアも膝をつき、静かに呼びかけた。
「女神様……聴こえますか……?」
その瞬間、水面がないはずの泉の中央に、かすかな光が揺らめいた。
そこに、淡い人影のようなものが浮かび上がる。
淡く透き通る水色の髪と、白く長い衣の裾──けれど、その輪郭は揺れ、ひどく薄い。
『……ぁ……』
掠れた声が、かろうじて耳に届く。
けれど言葉は途切れ、風に溶けるように消えていった。
フィリアは思わず手を伸ばすが、光は弱まり、消えていく。
「そんな……」
胸の奥に痛みが走る。
弱っている精霊からも同じような気配を感じたことがある──力が尽きかけているときの、あの冷たく弱い波動。
『水脈が……閉じかけてる。それに地脈も乱れてるわ』
クロリスの顔が険しくなる。
『このままだと、あと少しで完全に……』
「原因は?」
低く問うテオドールに、クロリスは首を横に振った。
『詳しくはわからない……でも、普通の自然の枯渇じゃない……何かが、この地の流れを塞いでる』
「……必ず助けます……必ず」
フィリアの声は震えていたが、その瞳は真っ直ぐだった。
すると、ほんの一瞬だけ、泉の底で青白い光が瞬いた気がした。
「急ぎましょう」
テオドールの声が、夕暮れの冷えた空気を切り裂く。
暮れゆく空の下、静かな街に鐘の音がひとつ響いた。
水の都を覆う乾いた風が、これから待ち受ける試練を告げているようだった。
次回は、第十話「精霊と心を重ねて」です。
水の都の危機に、フィリアが精霊師としてクロリスと心を重ねます──




