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一本の髪  作者: GL!TCHTiara
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3.嘘の味、赤い氾濫

 その声は、私の美しい静寂を、石のように打ち砕いた。


「詩織!」


 奏だった。

 私は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、振り返った。まるで、錆びついた人形が、ぎこちなく首を動かすように。私の目は、まだ、ガラスの向こう側、雨に濡れて微笑む、あの美しい肖像画に縫い付けられたままだった。


 彼は、大きな傘を投げ出すようにして、私のすぐ目の前に立っていた。その髪は雨に濡れ、いつも完璧に整えられているはずの姿は、見る影もなかった。その瞳には、私が今まで一度も見たことのない、焦りと、恐怖のような色が浮かんでいた。


「わけがわからない。とにかく、帰るぞ。話はそれからだ」


 彼は、私の冷え切った肩に、そっと手を伸ばした。

 彼の唇から、言葉が紡がれる。

 けれど、その言葉は、私の耳に届く前に、味覚へと変換された。

 それは、人工甘味料のような、後味の悪い、空虚な甘さだった。彼の心配も、優しさも、その全てが、私の舌の上で、どうしようもなく、偽物の味になった。


 全身を走る生理的な拒絶反応に、私は思わず、彼の手を強く振り払っていた。

 奏は、弾かれたように後ずさり、傷ついたというよりも、自らの理解を超えた現象を前にした子供のような、恐怖と苛立ちが混じった目で私を見た。その表情さえも、今の私には計算された演劇の一場面のようにしか見えなかった。


「……詩織? どうしたんだ、本当に。何か、言ってくれ」


 彼は必死に言葉を募らせる。けれど、私の内側からは、何の感情も、言葉も、湧き上がってはこなかった。心は、凪いだ湖面のように静まり返っている。私はただ、感情の抜け落ちた、ガラス玉のような瞳で、目の前で狼狽える男を見つめ返した。


 もう、たくさんだった。


 私は、彼に背を向けた。


 そして、彼が差し出す傘の内側の、乾いた、嘘の匂いがする安全な空間を捨て、再び、冷たい雨が降りしきる、清らかな無法地帯へと、ためらいなく一歩を踏み出す。


「待ってくれ、詩織!」


 奏が後ろで何かを叫んでいた。

 その声は、もう、私の世界には届かなかった。ただ、意味を失った雑音として、アスファルトを叩く無数の雨音の中に、溶けて消えていった。


***


 奏の姿が、その声が、雨の中に完全に溶けて見えなくなったとき、私は、ようやく一人になった。

 あてもなく、ただ、歩く。

 その歩行には、もはや、逃避という目的すらなかった。まるで、水の中を漂うように、ただ、街の光の中を、逍遥する。雨は、私の髪を、肌を、思考を、静かに洗い流していく。冷たいという感覚はない。それは、この世界の、ただの性質に過ぎなかった。


 やがて、私は、大きな交差点の前に立っていた。

 幾筋もの車の流れが、巨大な川のように、私の前を横切っていく。人々は、傘という小さな屋根の下で、足早に、それぞれの目的地へと消えていく。私だけが、この世界の、どの流れにも属さない、孤島だった。


 その時だった。

 目の前の歩行者用信号が、ちか、と無機質な音を立てて点滅し、やがて、深く、沈むような赤色に変わった。


 その瞬間、まるで魔法の合図のように、私の視界にある、ありとあらゆる「赤」が、一斉に命を吹き込まれた。


ひっきりなしに行き交う車のテールランプが引く、幾本もの赤い光線。その一本が、路面に黒く張り付いたガムを濡らし、一瞬、ぬらりとした醜い光を放って通り過ぎた。それでも、私の目には、その汚点さえもが、この巨大な絵画を構成する、必要な一点の濁りのように見えていた。


 それらの赤が、雨に濡れて黒く光るアスファルトの上に、じわりと滲み、混ざり合い、ゆっくりとその領土を広げていく。


 それは、血や、危険を思わせる、生々しい色とは、どこか異質だった。


 まるで、巨大な祭壇に、絶え間なく葡萄酒が注がれ続けるかのような、厳粛で、神聖な光景。


 この、嘘と欺瞞に満ちた夜の世界で、唯一、自らの存在を、純粋な色彩として主張する、絶対的な美だった。


 言葉も、意味も、感情も、そこにはない。

 ただ、黒いキャンバスの上を、無数の赤が、静かに氾濫していく。


 私は、その光景に、完全に没入していた。

 時間の感覚が、溶けていく。信号が、青に変わり、また、赤に戻る。そのサイクルが、何度、繰り返されただろうか。

 この、赤く美しい氾濫の中に、永遠に浸っていたいとさえ、思った。

 それは、私のための、静かで、完璧な、世界の終焉の儀式だった。


***


 どれほどの時間が、過ぎ去ったのか。

 永遠に続くかと思われた、赤の氾濫。その、絶対的な美の奔流が、ふと、その勢いを弱めた。きっかけはない。ただ、魔法が解けるように、私の意識が、少しだけ、現実の側へと引き戻されたのだ。

 厳粛な赤色は、その神性を失い、再び、ありふれた信号機や、車のテールランプの色へと分解されていく。アスファルトを支配していた氾濫は、ただの濡れた路面に変わっていた。


 私の、聖域は、終わった。

 すると、私の足が、勝手に、一歩を踏み出した。

 それは、私の意志ではなかった。まるで、見えない糸に引かれるように、身体が、定められた方向へと動き始める。夢遊病者のように、私は、ただ、その抗いがたい引力に、身を任せていた。


 見慣れたはずの帰り道が、まるで初めて見る景色のように、よそよそしく、私を拒絶している。私は、その景色の中を、ただ、歩き続けた。自分がどこへ向かっているのか、もう、考えることさえしなかった。身体が、その目的地を知っている。それで、十分だった。

 そして。

 私の足は、ある建物の前で、ぴたりと、止まった。

 ハッと、意識が覚醒する。

 目の前には、見慣れた、コンクリートの壁。エントランスの、冷たい金属の手すり。そして、集合ポストの脇に並んだ、部屋番号と、そこに記された、二人の名前。

 ああ、と、声にならない声が、喉の奥で、小さく鳴った。


 私は、戻ってきてしまったのだ。

 奏という現実を拒絶し、世界の色彩に逃避し、そして、今、再び。

 全ての元凶である、あの部屋の、あの扉の前に、引き戻されてしまった。

 まるで、どんなに遠くへ逃げても、最後には、必ず、その中心へと引き戻される、惑星のように。

 全ての始まりであり、全ての終わりである、その扉の前で。私は、静かに息を吸い込んだ。

 その空気は、まだ、雨の匂いがした。

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楽曲としての「一本の髪」は

YouTube music等で視聴可能です(無料視聴含む)

https://music.youtube.com/watch?v=iPxtUj7g0PQ&si=8VXOn-UtNJxBTq6E

その他ストリーミング配信先

linkco.re/UGTBNMav

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