2.肖像画
バスルームから聞こえるシャワーの音が、遠い。
私は、あの金の棘を指先に乗せたまま、まるで操り人形のように、ゆっくりとリビングのソファに腰を下ろした。冷たい革の感触が、スカート越しにじわりと伝わってくる。部屋は、私が完璧に作り上げた静謐を保っていたが、その意味は、ほんの数分前とは決定的に変わってしまっていた。以前の静けさは秩序だったが、今のそれは、ただの空虚だ。
指先の、それを見つめる。
世界の全てが、この一点へと収斂していく。これまで意識することもなかった、冷蔵庫の低周波のモーター音が、耳の奥で鳴り響いている。完璧な静寂だと思っていたこの部屋の、本当の基底を成していたのは、この不気味な通奏低音だったのだと、初めて知った。シャワーの音は、もはや生活音ではない。それは、私が無知でいられた幸福な時間の終わりと、避けられない対峙の始まりを告げる、カウントダウンの音に変貌している。
私の心は、「彼が浮気をした」という単純で、ありふれた結論には至らなかった。それよりももっと根源的な、そして残酷な事実が、そこにはあった。
「私が信じていた物語は、間違っていた」
私の築き上げた、緻密で、論理的で、美しいはずだった認識世界が、この一本の髪によって、その存在基盤を否定されている。指先のそれは、単なる証拠ではない。私の物語を過去にする、事実の結晶だった。
私は、科学者が未知の鉱物でも鑑定するかのように、その異物を、冷静に、客観的に観察した。自分の髪を一本、抜き取り、隣に並べてみる。私の髪は、光を吸い込むと蜂蜜の色に、光を弾くと白金の色に変わる。色素を抜き、高価なトリートメントを重ねて、ようやく手に入れた、人工の輝き。
けれど、指先のそれは違った。もっと強く、しなやかで、生命そのものが持つ、冷徹なまでの光沢を宿している。それは、生まれながらにして「金」であることを、何の努力もなしに許された存在の証だった。
この一本が、私の積み上げてきた全てを嘲笑っていた。
バスルームのドアの向こうで、奏がシャワーを浴びている。彼は、やがてここへ戻ってくる。そして、私と、この金の棘を見つけるだろう。その時、私は、どんな物語を提示すればいいのだろう。どんな顔をして、どんな声で、彼を迎えればいいのだろう。
いや、違う。
考えるべきは、そんなことではなかった。
***
指先の、それを見つめる。
金の棘。
その冷徹な光沢が、私の意識を、現在から引き剥がし、過去へと飛ばした。
この部屋で、初めて二人で夜を明かした、あの夜へ。
まだ、この部屋の全てが新しく、私たちの未来と同じくらい、無限の可能性を秘めていた夜。シーツの、糊のきいた清潔な匂い。窓の外で、遠く、救急車のサイレンが通り過ぎていった。私は、彼の腕の中にいた。彼の心臓が、私の背中で、規則正しく、穏やかなリズムを刻んでいる。それが、私の世界の、確かな基準だった。
彼は、私の髪を、指で梳いていた。
一本一本、その感触を確かめるように、慈しむように。指先が、うなじの、柔らかな産毛に触れた時、私の肌は、歓喜に粟立った。彼は、その小さな反応に気づいて、愛おしそうに、小さく笑った。
部屋の照明は、蜂蜜のような、甘い温度を帯びていた。その光の中で、彼は、私の瞳を、まっすぐに見つめた。その眼差しには、何の混じり気もなかった。ただ、純粋な、うっとりとした熱だけが、そこにあった。
そして、彼は、囁いた。
「君の髪は、物語そのものだ」
その声は、私の鼓膜を震わせ、そのまま、私の魂にまで溶け込んだ。
ああ、私は、この瞬間のために生まれてきたのだ。
この人に、こうして見つめられ、愛されるために。
私の価値は、ここに在る。この腕の中に、この眼差しの中に、この声の中に。生まれて初めて、私は、自分の存在を、絶対的に肯定することができた。それは、私の人生における、完璧な、唯一の楽園だった。
その、幸福の絶頂で。
ふと、私の意識は、現在のソファの上へと、引き戻される。
目の前には、指先に乗った、一本の金の棘。
部屋の空気は冷え切り、あの夜の蜂蜜色の照明は、今はただ、無機質に、私の絶望を照らしている。
再び、あの夜の記憶が、脳裏をよぎる。
けれど、今度は、何かが、決定的に違っていた。
奏の眼差し。うっとりと、私を見つめていたはずのその瞳の奥に、品定めをするような、冷徹な光が混じっている。彼の指先は、私の髪を慈しんでいるのではない。その価値を、鑑定しているかのようだ。
「君の髪は、物語そのものだ」
あの、甘く響いたはずの声が、今は、どこか空虚に、上滑りして聞こえる。
違う。
あの夜は、完璧だったはずだ。
あれは、真実だったはずだ。
けれど、指先の、この冷たい「事実」が、私の必死の抵抗を、無慈悲に嘲笑う。
...彼の指先は、私の髪を慈しんでいるのではない。その価値を、鑑定しているかのようだ。
「君の髪は、物語そのものだ」
あの、甘く響いたはずの声が、今は、どこか空虚に、上滑りして聞こえる。
あの夜の蜂蜜色の照明は、今はただ、薄い金箔を貼った鉛のように、その肌触りだけが冷たく記憶に残っている。
私が、生まれて初めて絶対的に肯定されたと思ったあの瞬間は、もしかしたら、初めから、価値などなかったのかもしれない。
その、耐え難い疑念が、私の内側で、静かに、そして確実に、根を張り始めていた。
***
その時、バスルームのドアが開く音がした。
私の思考は、汚された楽園の記憶から、強制的に、現在へと引き戻される。
奏が、ここへ来る。
私は、ソファの背に、深く、身を沈めた。指先に絡ませていた「金の棘」を、咄嗟に、スカートの生地の下に隠す。まるで、禁じられた遊びを見つかった子供のように。
彼は、バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、リビングに入ってきた。そして、ソファに座る私を見て、少しだけ、眉をひそめた。
「どうした? まだ起きてたのか」
その声は、平坦だった。私が、ほんの数分前に、この部屋で、どんな地獄を経験したのか、彼は知る由もない。
「……うん。なんとなく」
声が、掠れた。私は、俯いたまま、自分の膝の上の一点を見つめていた。彼の顔を、見ることができなかった。
彼が、私の正面に立った。
その気配だけで、部屋の空気が、ずしりと重くなる。
「詩織」
彼は、私の名前を呼んだ。
「顔、上げて」
命令だった。私は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。
彼の瞳と、目が合った。
その瞬間、私は、悟った。
ああ、もう、駄目だ、と。
彼の瞳の中に、私は、あの夜の、うっとりとした熱を探していた。けれど、そこに在ったのは、私が知らない、冷たい光だった。それは、興味でも、愛情でも、憎しみでさえない。もっと空虚な、ガラス玉のような、何も映さない光。
その光が、私に、最後の真実を告げていた。
私が必死に築き上げてきた、未来への希望の城。来年の秋の京都旅行。来月、一緒に買いに行くはずだった、新しいソファ。それら全てが、もはや、彼の世界には、存在すらしていないのだ、と。
私の内側で、かろうじて形を保っていた、最後の城壁が、音もなく、崩れ落ちた。それは、凍てついた呼気が、陽光に触れて、その形を失うように。あるいは、完璧な均衡だけで成り立っていた、塩の結晶が、一滴の涙で融解するように。さらさらと、像を失い、消えていく。
私の内側は、もう、何もない。ただ、風が吹き抜けるだけの、広大な、空虚な砂漠が、広がっているだけだった。
私は、その砂漠の中から、目の前の男を見つめ返した。
そして、自分でも、信じられないほど、穏やかな声で、こう、言った。
「なんでもない。少し、眠れないだけ」
嘘だった。
けれど、その嘘は、もはや、彼のためでも、自分のためでもない。
ただ、この、あまりにも空っぽな現実を、やり過ごすためだけに、私の唇から、滑り落ちた。
***
私のその、あまりにも平坦な声に、奏は、何かを言いかけた。しかし、彼の唇は、言葉を結ぶ前に、固く閉じられた。彼は、探るような目で、私を見ている。私の内側が、今や、空っぽの砂漠と化していることなど、知る由もなく。
沈黙が、部屋に落ちた。
それは、ただの静けさではなかった。全ての音が死に絶えた、真空のような沈黙だった。その中で、彼の存在そのものが、耐え難い圧迫感となって、私にのしかかってくる。彼の呼吸が、この部屋の空気を汚染していく。彼の視線が、私の皮膚を、薄皮一枚、ひりひりと焼いていく。
息が、詰まる。
ここにいては、いけない。
思考ではなかった。それは、私の身体が発した、生存本能の命令だった。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
奏が、驚いたように、私の名前を呼ぶ。
私は、彼の方を見なかった。私の視界には、ただ、玄関のドアだけが映っていた。あのドアだけが、この息苦しい水槽の中から、私を解放してくれる、唯一の出口だった。
一歩、踏み出す。
無垢材の廊下が、裸足の裏に、氷のように冷たい。その痛みが、むしろ、心地よかった。私がまだ、ここに存在しているという、唯一の証のようだったから。
奏が、私の腕を掴もうと、手を伸ばす気配がした。
私は、その手が触れるよりも速く、玄関のドアノブに手をかけていた。
ドアのラッチが外れる、金属的なクリック音が、この無音の部屋に、やけに大きく響き渡った。
私は、振り返らなかった。
ただ、夜の、冷たい雨の中へと、自らの体を、滑り込ませた。
***
外は、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。
あてもなく、光の滲む夜の街をさまよう。雨に打たれ、薄いブラウスは肌に張り付いて体温を奪っていく。寒いはずなのに、不思議と身体の芯は燃えるように熱く、感覚がちぐはぐだった。「私に似た少女が、雨の中を歩いている」と、まるで他人事を語るように、頭の片隅で誰かが囁いていた。
車のヘッドライトが水たまりを照らし、クラクションが遠くで鳴っている。その全てが、意味を剥奪された、ただの光と周波数に過ぎなかった。
無意識のうちに、足は華やかな大通りへと向かっていた。高級ブランドのロゴが、雨に濡れて鈍い光を放っている。そのうちの一つの、ひときわ大きなショーウィンドウの前で、私は磁石に引き寄せられたかのように、ぴたりと足を止めた。
磨き上げられた巨大なガラス面を、雨粒が幾筋も伝い落ちていた。背景にある店のロゴや、道向かいのネオンサインの光が、その水の軌跡に滲んで、まるで印象派の絵画のように、輪郭の曖昧な光の集合体を作っている。
その、滲んだ光の中心に。
ふと、人の顔が浮かび上がった。
それは、私ではなかった。
奏のSNSで何度も見た、モデルの「レイナ」の顔。いや、彼女本人というよりも、もっと神格化された、人間的な生々しさを一切削ぎ落とされた、完璧な美しさを持つ偶像。憂いを帯びた瞳で、こちらを見つめている。全てを知っているかのように、そして、その上で私を赦すかのように、唇の端に、ほんの僅かな笑みを浮かべて。
まるで、美術館の薄暗い照明の中に飾られた、古典的な貴婦人の肖像画だった。
額縁も、キャプションもない。ただ、雨の夜の街そのものを背景にして、彼女の姿だけが、絶対的な事実として、そこにあった。
その完璧な美を前に、私の内で渦巻いていたはずの、闘うための、ありふれた感情が、すうっと、霧のように蒸発していくのを感じた。抵抗も、諦めも、何もない。
私の世界が、私の知らないところで、とっくの昔に、この美しい人によって静かに侵食され、塗り替えられていた。その絶対的な事実に、私は静かに降伏した。美の前にひれ伏すように、私は、その肖像画に、吸い込まれるように見惚れていた。
その時、私の背後で、現実の音がした。
雨に濡れたアスファルトを叩く、乱れた足音。息を切らした、荒い呼吸。そして、私の名前を呼ぶ、悲痛な声。
「詩織!」
奏だった。
けれど、私は振り返ることができなかった。振り返っては、いけない気がした。私の目は、ガラスの向こう側、雨に濡れて微笑む、あの美しい肖像画に、縫い付けられていたから。
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楽曲としての「一本の髪」は
YouTube music等で視聴可能です(無料視聴含む)
https://music.youtube.com/watch?v=iPxtUj7g0PQ&si=8VXOn-UtNJxBTq6E
その他ストリーミング配信先
linkco.re/UGTBNMav