1.金の棘
この物語は、私たちの楽曲『一本の髪』(3部作3週連続リリースの1作目 2025/07/25リリース)から生まれた、無数の解釈の一つ。
私たちの万華鏡が、一度だけ映し出した、儚い紋様です。
部屋の空気は、静止している。午後十時の、濾過された静けさ。ローテーブルに置かれた手吹きガラスのオブジェは、私が一時間前に磨き上げた時と寸分違わず、夜の街の遠い光をその内に閉じ込めて歪ませている。生活感という、無秩序で、粘性を伴う熱の一切を拒絶したこの空間では、物が移動することを許されない。リネンで覆われたソファのクッションは、その稜線を保ち、壁際に並ぶアートブックは、その背表紙の彩度まで計算され、グラデーションの秩序を保っている。この部屋は、私の砦であり、祈りそのものだった。
壁の時計の、秒針が時を滑る音だけが、許しを得たように空間に張り付いている。その微かな音が、逆に部屋の静寂をより濃いものにしていた。奏の不在は、もはや日常のテクスチャの一部と化している。そして問題は、彼の不在そのものではない。彼が持ち帰る、私のものでも、奏のものでもない
「何か」
だ。
ここ数週間、彼のジャケットからは、断続的に、ある香りがした。パウダリックな甘さを含んだ、白い花の匂い。私の知らない、柔らかな輪郭を持つその香りは、彼が私の知らない場所で呼吸した、空気の記憶そのものだった。私の心は、その香りの正体について、すでに一つの仮説を構築し終えている。彼の新しいプロジェクトに、女性のパートナーがいるのだろう、と。朝から晩まで、同じスタジオに籠っていれば、香水の匂いくらい移る。それは不可抗力で、仕事上のことで、だから、何も問題はない。その理路整然とした物語を、私はお守りのように、毎日、心の中で繰り返し再生していた。
けれど、その物語が、夜ごと、少しずつ説得力を失っていくのを、私は知っていた。思考がその甘い香りに囚われ、秩序が乱される前に、私はソファから音もなく立ち上がった。
向かったのは、ドレッサーではない。脱衣所の、ランドリーボックスだった。蓋を開けると、昨日、彼が脱ぎ捨てたシャツが、くたりと横たわっている。私はそれを、誰に見咎められるわけでもないのに、共犯者のように、素早く手に取った。リビングに戻り、ソファの影に隠れるようにして、そのシャツに顔を埋める。
最初に鼻をつくのは、やはり、あの微かで甘い花の香り。胸が、ちくりと痛む。でも、それは表面的なものだ。私はその奥へ、もっと奥へと、深く息を吸い込む。中毒者のように、彼の残り香を探す。あった。襟元に、微かに残っている。奏自身の肌の匂いと、彼が愛用するサンダルウッドのコロン、そしてスタジオの乾いた埃の匂いが混じり合った、私だけが知っている彼の「味」。それを肺の奥まで満たした時、ほんの一瞬だけ、私は救われた。仮説の正しさを信じられた。この愛しい味がする限り、私たちの世界はまだ安泰なのだ、と。
その儀式を終え、寝室のドレッサーへと向かう。鏡の前に座り、自分と向き合う。照明に照らされた私の髪は、光を吸い込むと蜂蜜の色に、光を弾くと白金の色に変わる。奏は、この髪を愛してくれた。
「君の髪は、物語そのものだ」
と、初めてこの部屋で結ばれた夜、彼はうっとりとため息をつきながら、私の髪を指で梳いた。彼のその指の感触、声の温度、美しさにだけ向けられる、純粋な眼差し。それら全てが、私の価値の証明であり、私がこの世界に存在することを許された、唯一の許可証だった。
だから、この髪は完璧でなければならない。
柘植の櫛を手に取り、毛先から、そっと梳かしていく。しゃ、しゃ、という、絹を裂くような、しかしどこまでも優しい音。その規則正しい往復運動だけが、今の私が制御できる、唯一の現実だった。一本、また一本と、思考の絡まりまでもが解けていくような、静かな錯覚に、私は自らを浸した。
昔、二人で美術館に行った時のことを思い出す。事物の本質だけを抽出し、それ以外の全てを削ぎ落とすことを試みた、ある種の暴力性すら感じさせる企画展で、ほとんどの客が素通りしていく展示室の隅に、一枚だけ、黒い正方形が描かれたリトグラフがあった。
その額縁が、壁に対してコンマ数ミリ、傾いていた。それに気づいたのは、おそらく、この美術館の中で彼だけだっただろう。
「気持ちが悪い」
と、彼は子供のように眉をひそめ、私が止めるのも聞かず、学芸員を呼んで真っ直ぐに直させた。あの時の、僅かなズレさえも許さない、僅かな瑕疵も許さず、光そのもので対象を焼き切ってしまうかのような、彼の硝子の審美眼。その瞳が、今も、この鏡の向こうから、私を評価している気がした。完璧でなければ、愛される資格はないのだと、静かに告げている。
ブラッシングを終え、鏡の中の私は、寸分の隙もなく完璧な偶像として仕上がっていた。私は、その偶像に向かって、訓練された女優のように、小さく口角を上げた。
その時、玄関のドアが、重い音を立てて開いた。続いて、鍵が金属製のトレイに置かれる、聞き慣れた高い音。その二つの響きが、私の完璧な静寂を破る合図だった。
「おかえりなさい」
キッチンから顔を出し、できるだけ明るい声を作って彼を迎える。振り返った奏の顔は、ひどく疲れているように見えた。目の下には隈が張り付き、彼の美貌を曇らせている。
「……ただいま」
絞り出すような声だった。彼は、重たい体を引きずるようにしてリビングに入ってくると、ジャケットを脱ぎ捨て、ソファに深く沈み込んだ。その一連の動作には、私への配慮も、この部屋への愛着も、もう感じられなかった。
「夜食、温めてあるけど、食べる?」
「ん……もらう」
テーブルに、きのこのポタージュと温野菜のプレートを並べる。彼が好きな、胃に優しいメニューだ。スプーンを手にした奏は、一口、二口と、義務のようにスープを口に運んでいく。カチャリ、とスプーンが皿に当たる音が、静かな部屋に不自然に響く。
「おいしい?」
「うん。うまいよ」
短い肯定の言葉。けれど、彼の視線はテーブルの木目の一点を彷徨うだけで、私と交わろうとはしない。私たちの間には、透明で分厚い壁が存在しているかのようだった。その壁の向こう側で、彼は何を思い、誰のことを考えているのだろう。
「シャワー、浴びてくる」
彼はそう言って立ち上がり、バスルームへと消えていった。再び、リビングに静寂が戻る。一人残された空間で、私の視線は、テーブルの上に置かれた一つの物体に吸い寄せられた。彼がヘッドホンを外して、そこに置いたのだ。
艶消しの黒いボディを持つ、プロ仕様のヘッドホン。
それは彼の仕事道具であり、彼の頭脳であり、私が決して立ち入ることのできない、彼の内面世界そのものだった。
頭では、そう理解していた。
けれど、その黒い円盤は、まるでブラックホールのように、私の視線を、意識を、すべてを吸い込んでいく。知りたい。知りたくない。知ってしまえば、この完璧な日常は、終わるかもしれない。でも、知らなければ、私は、この得体の知れない不安の中で、ゆっくりと窒息していく。
私の足は、意思とは無関係に、ゆっくりとテーブルへと向かっていた。その一歩一歩が、後戻りのできない道を進んでいることを、私はもう、気づいていた。
ヘッドホンに、そっと指を伸ばす。ひやりとした感触が、指先から伝わってきた。
「汚れているから」
誰にともなく、声に出して言い訳をする。そう、これは愛情だ。私はただ、その役割を演じているだけ。
ヘッドホンを、ゆっくりと持ち上げる。ずしりとした重みが、私の罪悪感の重さのようだった。イヤーパッドの部分を顔に近づけた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
匂いがした。
私の知らない、甘い香水の匂い。
それは、私が本来好んで使う、シンプルなシトラス系の香りとは全く違う。奏に贈られて以来、私が「彼のため」にだけ纏うようになった、あの香りとも違う、もっと露骨で、パウダリックな甘さ。もっと濃厚で、官能的で、一度嗅いだら忘れられないような、強い主張を持った香りだった。奏のジャケットから時折漂っていた、あの匂いだ。それが今、このヘッドホンから、彼の内側から、はっきりと香っている。
息が、できない。
それでも、私の指は止まらなかった。もう、引き返せなかったから。私は、柔らかい布で、イヤーパッドの合皮を拭き始めた。この忌まわしい香りを、一刻も早く消し去りたかった。
その時だった。
拭っていた指先に、ほんの僅かな、しかし確かな感触が伝わった。布を離し、目を凝らす。
イヤーパッドの、縫い目の部分。そこに、細いものが絡みついていた。
一本の、髪の毛だった。
明るい色をしていた。私と同じ、金色の髪。
けれど、それは、私の髪ではなかった。
部屋のダウンライトの光を受けて、その一本の髪は、まるで昆虫の翅のように、無機質で、ぬらりとした光沢を放っていた。私の髪が持つ、柔らかく、どこか儚い輝きではない。もっと強く、硬質で、絶対的な存在感を主張する輝き。
それは、まるで、純金から引き伸ばした一本の糸のようだった。
美しく、完璧で、そして、私の心を貫くには十分すぎるほどに、鋭利な棘だった。
私は、その金の棘を、ただ、見つめていた。
バスルームから聞こえるシャワーの音が、やけに遠くに聞こえていた。
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楽曲としての「一本の髪」は
YouTube music等で視聴可能です(無料視聴含む)
https://music.youtube.com/watch?v=iPxtUj7g0PQ&si=8VXOn-UtNJxBTq6E
その他ストリーミング配信先
linkco.re/UGTBNMav