なろう系が人をアカンようにするのではなくその人が元々アカン人だということをなろう系が暴く
タイトルも含め、こういう話題書いたら荒れるだろうな……という不安を抱きつつ、それでも言いたいことがあったので発表を決めました。
あるサイトを読み漁っていたら、なろう系にまつわる話題を見つけた。
サイトの詳細は伏せるが、なろう系の小説を書いていたら、実生活での行動も自分の小説の主人公と同じようになったというものだ。
例えば、自分はどんなことをしても許されると思い込んでいるとか、普段から横柄に振る舞い、注意されたらカッとなって暴力を振るったり、女は自分の言うことを聞いて当たり前と思っているなど……。
いわば、現実でもなろう系の主人公のような自己愛になったというものだった。
なにこれ? 新手のなろう叩き?
別に、こういう「なろう系を読んでいる奴はみんなキ◯◯イ」みたいな意見は決して珍しくない。なんならこの『小説家になろう』に投稿されたエッセイやコメントでも散々見てきた。
とはいっても、このコピペが書き込まれた時期は、なろう発の小説や異世界転生作品が人気と知名度を上げてきて、有名な作品……特にアニメ化されたものであれば、バラエティ番組でも紹介される程になっていた。
そんな中「なろう小説を読んでいるような奴はみんなヒキニートだ」なんて感想を飛ばすようでは、感覚が十年ぐらい前に取り残されているのではないだろうか?
ともかく、この記事がきっかけで、ある場所で見たなろう叩きの話題を思い出した。
その内容は、京アニ放火事件(ちょうどあの犯人の死刑判決が出たばかり)の記事を引用して、何の脈絡もなくあの犯人となろう作家と読者を同一視し、自己愛というレッテルを貼るものだった。
うん、完全に人格攻撃ですね。
元の発言はフワッとしているので『なろう系』という単語が異世界転生を指しているのか、悪役令嬢を指しているのか、婚約破棄を指しているのか、追放ものを指しているのか、それともジャンルではなくチーレムや無双やざまぁなどの要素を指しているのかはわからない。
ただ、そもそも言うほどなろう作品の登場人物は、主人公が自己愛だったり、周囲が主人公に都合のいいように動いてくれたり、ヒロインが従順なお人形だったりするだろうか?
無論、この手の人間が思う『なろう系』まんまの作品があること自体は否定しないが。
具体名を挙げると作者に迷惑がかかりそうなので伏せるが、そうでない作品に限って大ヒットを飛ばしているとは思わないだろうか?
現在、高い知名度を誇るなろう原作のアニメは、大抵主人公が正義感に溢れていたり、努力と自己研鑽を怠らなかったり、仲間を大事にしていたり、鬱展開や重いストーリーが描かれたり、普通なら心が折れているような苦境に立ち向かう作品だったりしないだろうか?
もし小説家になろう内では受けるが外では不快感を抱かれるような主人公だったら、現在の人気は説明がつかない。
(あくまで個人の感想です)
さて、そろそろ本題に入ろうと思う。
この手の人間が主張する「なろう系を書いていたら自己愛になる」「なろうは作者も読者も自己愛だ」という言説は本当だろうか?
結論としては、自分はそうは思わない。
というより、この手の言説を聞いていると『ゲーム脳』というものを思い出す。
平成の中期には「ゲームばっかりやっているとキレやすくなる、現実と空想の区別がつかなくなる」という論説が、教育機関やマスコミで大真面目に語られていた時期もあった。
思うに、この件はそれと同じことをしてしまっている。
ここでひとつ、ある異世界転生作品を描いている漫画家先生のお話をさせてもらう。
その先生は自身の漫画について、流行を研究しようといろんな漫画を読み漁った結果、異世界転生に出会い、自分も異世界転生にハマって「自分が読みたい異世界転生」を描くようになった……と紹介しておられた。
(一部ぼかしたところもありますが、ここまで聞いて何の作品、どの先生かわかった人もいるかもしれませんね)
その先生は本当に楽しそうにその漫画を描いているし、流行を研究して糧にするなど自己研鑽を怠らないお方で、間違っても自己愛ではない。
もしそのようなレッテルを貼る人がいたら、何を根拠に言っているのか教えてほしいぐらいだ。
n=1の話に過ぎないと言われるかもしれないが、それでもその先生のような素晴らしい漫画家や、それに匹敵する立派な作家を何人も知っている。
そもそも自己愛は最初に出てきた記事のようになろう系を罵ったり、自己研鑽を怠っている人が多いのではないだろうか?
もしなろう作家に自己愛がいるとしたら、それはもともと自己愛だったのだと思う。
なろう系を書いているせいでおかしくなったのではなく、もともとおかしい人がなろう系というジャンルに入ってきただけだろう。
ジャンル自体が悪という論調は、戦前の頃からある。
今でこそ国語や歴史の教科書に載るような文豪の小説も、当時は「小説ばかり読んでると空想と現実の区別がつかなくなる」など、漫画やゲームのような扱いだった。
そのような後ろ指さされる社会の中で、それでも小説を捨てずに書き続けてきた文豪が、今の出版業界を築き上げてきたのではないだろうか。
それは、現在のラノベとWeb小説も同じだ。
一方で、純文学や昔の本を意味なく高尚だと持ち上げるのも違う。
そのような人は、大抵その作家や本に詳しいということはなく、ただ権威を根拠に有り難がっていることが多い。
昔のものだからとかこのジャンルだからとかは関係なしに、面白いものや人の心を打つものが語り継がれるのはどこでも同じだ。
元の話題で言われていたような『なろう系』しか(=自己愛なものしか)書けない人は「なろう系を書いてりゃ俺でもやれるぜ」という、世の中をナメくさった思考の持ち主がよく見られる。
そういう人の書くものは「どうせ読者はこういうのが好きなんだろ?」という姿勢が丸見えだ。
反面、上手くいかないとすぐ読者ガー編集者ガー出版社ガー小説家になろうガーと誰かのせいにしたり、お世話になっているこのサイトにまで八つ当たりする……。
何年も前に読んだ小説の中に、仕事で悩んでいることを相談したら「惰性で誰にでもできることをやるだけではなく、自分に何ができるかを考えろ」とアドバイスされる場面がある。
自分も異世界転生ものや追放もの、復讐ものの小説を書いているが、その中で自分の書きたいものや、どうすればよりよい作品を書けるかなど「自分ならこうする」という要素を盛り込むのは忘れないようにしているつもりだ。
長々と駄文を書き連ねてしまったが、とにかく純文学もラノベもなろうも……他にも色々なジャンル分けができると思うけれど、どれも面白いものは面白い。
嫌いな作品を攻撃するぐらいなら、面白い作品を広めたり、自分の書きたいものを書く方が建設的ではないだろうか?
要は「何が好きかで自分を語れよ」ってやつですね。
あと冒頭で書いた二つの記事については、特定されないよう部分的にフェイクをはさんでいますのでご了承ください。